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わたしはこんな顔ではない。

※しばらくブログの更新をゆっくりにします。次回は12日に更新予定です。


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国立歴史民俗博物館に行ってきました。
かなり前に一度来たことがあって、その時は常設展示だけ見たんだっけな…。
もう記憶の彼方なので、博物館の前にものすごい登り坂があることもすっかり忘れていたよね…。
(歴博は過去に佐倉城のあった高台に建っています)

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感染症対策としては入館時にサーモグラフィの検温があり、消毒液で手指の消毒をして入館。
入館者確認票という紙を渡されて氏名と連絡先を記入して提出します。
館内はマスク必須で、距離を取って会話を控えるようにとのこと。
館内の各所に消毒液が置いてありました。
総合展示(常設展)は自由に入れますが、混雑緩和のための入館制限を行う場合があるそうです。

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企画展「性差(ジェンダー)の日本史」を鑑賞します。(日時指定の予約制です)
過去の資史料や美術の中で性がどのように記録・表現されてきたかを紹介しています。


展示は古代から現代までの歴史を全7章に分けて紹介しています。
まずは「古代社会の男女」。
古代社会の政治について、あると思ったけど、やっぱりありました魏志倭人伝(16世紀版本)。
三国志魏書東夷伝倭人条(3世紀)にある「共立一女子為名曰卑弥呼」の部分や
男女が参加する政治集会の「会同坐起父子男女無別」などのパネルが展示されていました。
熊本県宇土市にある向野田古墳(4世紀)では30歳代の女性の遺骨が見つかっていて
副葬品から首長であると考えられていますが、
骨に妊娠痕があることから妊娠or出産経験があることがわかっているそうです。
鏡・玉類・農耕具類などの副葬品は男性首長と同じですが甲冑が副葬されていないとか。
また京都の大谷古墳からは古墳時代中期頃の女性小首長(40代?)の骨が見つかっていて
(女性が埋葬される古墳の大きさは30mかそれ以下)、
古墳から出土した青銅鏡や勾玉、鉄剣が展示されていました。
奈良の宇陀・丹切古墳群からも青年期の女性首長の骨が見つかっているそうです。
5世紀になると棺内に武器が置かれるようになるらしく、
熊本県マロ塚遺跡(5世紀後半)からは横矧板鋲留短甲という甲冑が出土していて
他にも大きな武器や武具が副葬されていたことから被葬者は男性?と考えられているそうです。

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展示室内は撮影禁止ですがこちらは可。復元された古代の原初腰機。
足と腰を使って布を織る古代の機織り技術の様子です。
この織り機を使って機織りをする女性坐像埴輪の3D画像が展示されていて、
その埴輪を含む栃木県甲塚古墳(6世紀)から出土した埴輪の群像が9体、
展示室の真ん中に並べられていました。
馬を引く男性・柄杓を持った女性・盾を持つ男性・腰に手を当てた女性・機織りをする女性などの埴輪があって
性別は髪型から推定されているとか。(男性はみづら、女性はまとめ髪など)
沖ノ島の神への奉納物と考えられる、島から出土した紡績具の雛型(10世紀)からは
それらが女神に捧げられるものとされたことから昔から機織りが女性の仕事だったということがわかりますが、
後々は税として徴収される錦は男性が織り、女性は麻などを織るといった分業制になっていったとか。

古代の地域社会であるムラやサトの様子について、
島根県の青木遺跡から当時の様子を再現したジオラマ展示がありましたが
令集解(17世紀写)の儀制令春時祭田条に「男女悉く集まり」「則ち歯(年齢)を以て坐に居し」とあるので
8世紀のムラの祭祀は男女がともに参加して直会などでは年齢順に座っていた事例があったということだな。
出土した捧げ物の木簡には「〇〇丸」や「〇〇女」など男女の名前がみられるそうです。
鳥取県で見つかった般若多心経(845年)は奉納した中心人物数名のうち女性は1人のみで、
この経典を奉納する行事で中心になったのは男性だったのかな?
福島県の荒田目条里遺跡(奈良~平安時代)には農業のひとつとして田植えをした人々の記録があり、
ある郡司の田植えで参加した36人のうち男性33人、女性3人という日があったそうな。
一方、栄花物語(平安時代中期)によると50~60人の女性たちが田植えをするという記述がみられるので
この辺りから田植えが女性たちの仕事になり、早乙女のイメージに繋がっていったのかもしれない。
鳥取県の青谷横木遺跡から出土した田植木簡(10世紀後半)にも
女性8人、男3人、子ども1人と書かれたものがあるそうです。
(記録を追っていくと田植えに女性が増えるのは9世紀以降だそうな)

律令国家の時代。
『古事記』敏達天皇の項では、天皇の子どもは出生順に記録され、名前も「〇〇王」と書かれますが
律令制の時代になると皇子や皇女、親王や内親王となっていきますね。
702年の御野国加毛郡半布里戸籍(正倉院宝物)では戸ごとに男女を分けて記載していて
女性の名前はすべて「〇〇売」という風に売(メ)をつけて書かれています。
当時の働く女性の姿として、青谷横木遺跡で見つかった7世紀の女子群像の板絵が紹介されていて
これらは高松塚古墳の女性群像との共通点が指摘されているというのは過去にニュースになりましたね~。
伊福吉部徳足比売臣骨蔵器は、因幡から飛鳥にやってきて働いていた女官の骨蔵器で
蓋に放射状に16行の銘文が108字で彫られていました。
竹波命婦木簡からは、常陸国筑波郡出身の竹波命婦(称德天皇に仕えた女官)が
御所の食料として小豆、醤(ひしお)、酢などを請求したことがわかります。
他にも、『続日本紀』721年の年末の大祓には官人およびその家族(女性や子ども)も呼ばれていたり
707年に大極殿で110人に位が授けられた際には男女が同じ日・同じ場所で授けられていたことがわかるとか。


続いて、「中世の政治と男女」。
奈良時代まで顔をさらして働いていた官人女性たちが顔を隠すようになっていく様子が
駒競行幸絵詞(藤原頼通の時代を描いた絵巻)や枕草子からわかります。
高山寺文書群は八条院(鳥羽法皇の娘)の院庁にあった文書を貼りつけて屏風に仕立てていて
彼女の所領だった荘園の運営や日々の事務などが記録されています。
トラブルがあったときの「女院の仰せのとおりに」と答えたらしい人の記録とか、生々しいやら微笑ましいやら。
八条院に仕えていた健御前(藤原定家の姉)の日記には
「侍所の人は朝来るのが遅くて夜には帰ってしまう」などという記述が見られるそうです。
定家の日記『明月記』1226年12月18日の項には長女が禁色勅許を許されたことが書いてあり、
前年に息子の為家が蔵人頭になったことと合わせて「男女の栄」としています。
(ちなみに定家の父俊成の娘たちは11人が禁色を許されています)
また、女院号を冠した美福門院庁下文(1160年11月2日付)は公文書のためか漢文で書かれていますが
後土御門天皇の書状(室町時代)は一位御局(日野富子)に宛てたもので
仮名ちらし書きになっていました。
男性も私的なものなら仮名まじり文で書いていますね。

次に「中世の家と宗教」。
源頼朝の妻北条政子について、『新編吾妻鏡』の関東将軍次第には「平政子治8年」とありまして
編者は政子の治世があったという認識みたいですね。
承久の乱に際し御家人たちを呼んで御簾の中から「頼朝の恩は山より高く海より深い」と檄を飛ばしたのは有名な話ですが
尼将軍と呼ばれるようになったのはいつ頃からだろうな…。
(あと「源頼朝」と「平政子」の夫妻なので夫婦別姓なのだよね)
今川氏親朱印状(1526年6月12日)および寿桂尼朱印状(1528年10月18日)は
どちらも寿桂尼が出した安堵状とされていて、仮名まじり文で書かれています。
像内納入品から1334年製とわかっている木造の地蔵菩薩立像は胎内に印仏や毛髪が納められていて
願文や印仏には僧俗男女の名前が規則性なく書かれており、女性の名前も多いという事例。
関東下知状(1302年12月23日付)は田代基綱の子どもたちへの相続について書かれていて
その中に「姫夜叉」という名前があり、息子だけではなく娘にも分別相続がされていたことがわかります。
尼しやうせう領地売券は仮名交じりで書かれた土地売券で
売主の尼しやうせう、連署の嫡女藤原氏女、買い主の清原氏女は全員女性なので
女性による土地の売買が行われていたことがわかるもの。
中世の女性が自分で土地、というか財産管理をしていたのはもうだいぶ知られるようになったけど
こうして資料で裏付けられているのを見るとワクワクします。

「仕事と暮らしのジェンダー:中世から近世へ」。
洛中洛外図屏風(歴博甲本)には、魚屋の女性や価格交渉する遊女や早乙女など様々な女性が描かれていて
歴博の人物データベースで検索すると283人の女性がヒットするとか。
清水寺の周辺を描いた東山名所図屏風(16世紀後半)にも茶屋や扇屋などで働く女性が描かれていて
青屋で働く女性は子どもをイズメに入れてあやしていました。
清水の舞台の中央には後家尼とその家族が参拝する様子や男女の神子の姿が描かれていました。
東寺鎮守八幡宮供僧評定引付(1422年9月)は、八幡宮に巫女による神楽が奉納されたときに
とても安い給料で行わせたため問題になったことが書かれている文書。
春日若宮拝殿巫女等申状案(1353年4月)には巫女たちが負担の減免を上層部に訴えて
最初は半分免除になりましたが、勝手に1/3にされそうになったので再度訴えたという文書。
当時は民主的な仕組みや保証がないから必死にそういうことをやっていたんだよなあ…。
職人風俗絵巻の扇屋のところに女性職人が描かれているように
中世では女性が経営者や職人として仕事をしているのですが
(室町時代後期には布袋屋玄了尼という人が洛中扇売りの営業権を独占し養女の鹿子女房に相続させたりしてる)、
官刻孝義録や近世職人尽絵詞(鍬形蕙斎画・19世紀)を見ると女性は「〇〇妻」「〇〇女」などと書かれたり
女性の職人の絵姿がまったく描かれなくなっています。
花容女職人鑑は、初版(1818年)には仕事や家事をする女性たちに狂歌や詞書が添えられていましたが
後刷り(1830年)になると文章が全部削られて、女性の絵のみになっています。
版元にお金がなかった可能性もあるし、女性が「花容」として眺め消費する対象とされていく流れでもありそう。
写真家のフェリーチェ・ベアトが1863年にスタジオ撮影した髪結(男性)と女髪結の写真がありまして
男性の髪結は客を訪ねて髪を結っていましたが(宇江佐真理さんの『髪結い伊佐次』で知った)、
女髪結も同じように営業していましたが非合法だったのよね(天保の改革時には手鎖・罰金の対象)。
「女は自分で髪を結って一人前」が江戸時代だったからね…。
また田植えをする早乙女を描いた版本やすごろくや教材の展示もありまして
これによって田植えは女性の仕事というイメージが世の中に広がりつつあったようですが
幕末や近代に撮影された写真では男女ともに田植えをする姿が写っていたりするそうです。あれ。
(何だか活版印刷の発明後に印刷で魔女の絵が流通して魔女狩りが広まった中世の西洋みたいな流れだ…)
(ちなみに中国の佩文耕織図(19世紀前半)には男性が田植えをする絵、女性が機織りをする絵がある)
東北地方やアイヌの女性たちの生活の様子もあって、
「どんじゃ」(19~20世紀)は青森県南部で使用されていた、麻布や木綿を縫いあわせた夜着で
使っていたのは家長、重さは14~15kgくらいあるらしい。
「ぼどこ」も同じく麻布や木綿ををつぎはぎした敷布で、出産にも使われたそうです。
こうした手仕事は主に女性たちの仕事だったと。
菅江真澄による百臼之図にはアイヌ女性の脱穀風景や紫臼をつく東北女性やブリコ採取をする女性、
箱館松前地志(19世紀)には和人とアイヌの農耕が描かれていて、女性たちも働いていました。


「分離から排除へ:近世・近代の政治空間とジェンダーの変容」。
主に将軍と大奥、武家の女性についての展示です。
松蔦獅子流水模様小袖(江戸時代後期)は将軍家伝来とされる礼装用の小袖で
大奥の女性たちもこういう着物を着たんだろうか。
幕末の大奥には32の職階があり1,000人ほどの女性が働いていたといわれます。
(大奥の男子禁制を定めたのは徳川秀忠ですが、
大奥の女中たちは表(将軍付)と奥(御台所付)に分かれていて
秀忠の子どもの乳母を務めた春日局も最初は「表の局」と呼ばれたとか)
西丸向惣絵図(1852年)は江戸城西ノ丸(大奥)の図で、家定が養育されていた頃のものですね。
お鈴の廊下の先(表)は描かれていませんでした。
本丸一二三四側大奥長局惣絵図(1860年)を見ると大奥は閉鎖的な設計になっていることがわかり、
広屋敷向の詰所を通らないと外に出られないため火事があると犠牲者が多く出たそうです。
伊達家の御老女中浜野他二名連署起請文(1741年)は
伊達家の江戸上屋敷にて当主の吉村と冬姫に仕えた老女たちの名前が末尾にあって
形式は男性たちと同じ書き方ですが、署名と血判は男性たちより小さかったです。
幕府の女中帳(1805年)は大奥の人事について書かれていて
伊達家が藩主の御城使に増野という女性を増員する伺いを出したところ
将軍付御年寄の浦尾を介して留守居から許可する指示があったことがわかります。
伊達重村の妻観心院の肖像もあって、彼女は夫の死後に財産を相続して家中を指揮するとともに
幼い後継ぎの後見をつとめていたそう。
生麦村に住んでいた関口家の当主が代々つけていた日記には
1828年3月に当主の娘の千恵が江戸城に勤めることになった頃の記録があって
彼女は32歳から11年ほど大奥に出仕して御中臈の部屋子として働いていたそうです。
奥奉公出世双六(1844年)は地域の女性が大奥をめざし昇進していく様子が
振り出しから上がりまで描かれていて、出世コースのモデルだったんだなと。

静寛院宮(和宮)による日記の1868年3月7日の項には「立退ぬ心得」と書かれ、
一人称に「予」が使われていたりと、当時の彼女の矜持が見え隠れしています。
1892年の皇居御造営下調図によると、女官の居住スペースは
旧西丸奥の外部(大奥より外側)に設置されたことがわかります。
1889年1月27日の枢密院決議(第三審会議)は、大日本帝国憲法が発布される前の記録で
第2条に「皇子孫之ヲ継承ス」とあったのを直前で「皇男子孫之ヲ継承ス」と修正したものでした。
さらに1888年4月に発行された官報1443号の市制町村制理由の項においても
外国人や女性に公民権がないことは「通例トス」と書かれています。


「性の売買と社会」。
白拍子や傀儡など芸能を売る女性たちから、幕府公認の遊郭について。
かつて芸能のプロだった遊女たちは、中世の頃は自分で職場をもち価格も決めていて
13世紀成立とされる「今様之濫觴」の傀儡女について書かれた項では
今様の大曲は母から娘へ伝えられる女系の相続だったといわれるそうです。
東大寺八幡宮神人解案(土代)(1332年8月)は遊君たちが幕府に訴えを起こしたときの文書で
兵庫の海辺で仕事をしていたところ海での不法行為が多発し船が来なくなったために
生活が成り立たなくなったという内容だとか。(この頃兵庫の遊女は1700名以上いたとされる)
信長公記の1579年5月の項では都での人身売買の噂を聞いた京都所司代が調べたところ、
80人の女性が売られたことが判明したとの記述があるそうです。
個人が経営していた遊女歌舞伎が「風紀を乱すから」と禁止されたり
戦国時代から江戸時代初期にかけて各地で次々に遊女町が置かれた流れも関係あるだろうなあ。

近世職人尽絵詞には新吉原の仲の町通り、お客や遊女や芸者らが描かれていますが
これらはお客さん目線の遊郭ですよね。
氷室御宮・仏光寺門跡貸付所の反古証文貼継ぎはいわゆる寺社名目金貸付についての資料で
新吉原のとある楼主が仏光寺門跡役人に借金の担保として遊女を提出したことが書かれていたり
受け人が新吉原の同業者だったりすることがわかるとか。
新吉原町浅草町御貸付金調帳は、信濃の豪農だった坂本源之助が
吉原の遊女屋58軒に貸し付けた4207両の未回収金の記録で
(寺社名目金なので「御」がついてる)、新吉原で働く遊女を搾取して得た収益は
見世・寺院・豪農・江戸町奉行所が山分けするなど
体制に深く組み込まれていたためにあちこちで黙認されていたらしい。
実際、信濃の豪農たちは公用人馬の負担の免除を歎願するために
吉原で幕府の役人を接待していたそうで、
稲本屋の遊女3代目小稲の書状(1863年)には接待の不備を詫びる内容のことが書いてあるそうな。
高橋由一「美人(花魁)」(1872年)は4代目小稲の肖像画ですが
モデルになった小稲はこの絵を見て「自分はこんな顔ではない」と怒ったと伝わります。
そんな小稲の揚げ代を記録した遊興費領収書(1863年)もありました。
木綿問屋だった長谷川家の「定」(1852年)には手代の遊女屋での遊ばせ方について書かれています。
長谷川家は主に引手茶屋の近江屋を利用して遊ばせていたらしく、
近江屋からは定を守るかわりにこれまで通り利用されることに感謝する一札之事(1853年)が出ています。
万字屋の手引札は現金掛け値なしで引手茶屋を通さずマージンを減らして価格を引き下げる引き札で
江戸時代後期に多く発行されたそうです。
蔦屋重三郎などが出した吉原細見では遊女の紹介のほかに大中小の見世など遊郭の家格も書かれていて、
小見世の梅本屋で働いていた小雛という遊女は毎日の食事を記録していて
だいたい茶漬けや香々、あさりのおしい汁がほとんどですが、食べなかった日もあるみたいで
引手茶屋だったら客と食事とかするだろうけど梅本は小見世だから介さないし出前を取る客もいなかったのかな。
梅本記は1849年に梅本屋の遊女16人が起こした火つけ事件の証言を記録したもので
彼女たちは2年以上かけて計画をたてて実行したのちに名主へ自首をしまして
(大火事にならないように火鉢で木を燃やして煙を出すとか考えたらしい)(吉原は火事が多かった)、
楼主の佐吉による折檻や経済的虐待などの非道を訴えています。
当時北町奉行だった遠山景元は佐吉と3人の遊女に遠島を、
12人の遊女に押込と屹度叱を命じています。(江戸では火つけは大罪です)
江戸時代後期の吉原では非道に耐えかねた遊女たちによる放火が多発しているし、
梅本屋の事件も有名ですが、資料の実物を見たのは初めてでとても実感がわいたな…。
日記に挟まれたおぼへ帳(証拠書類の綴り)には遊女・桜木による覚書きが仮名文字で記録されていて
彼女らが残したものの大きさと重さを考えました。

太政官布告第295号・司法省達第22号(1872年)を合わせて芸娼妓解放令と呼ぶんですね。
東京府の「芸娼妓解放人名」(1872年)には遊女たちの名前が記録されていますが(ものすごい分厚かった)、
親元や女衒のもとに戻っても再び強制的に働かされる事例が多かったようです。
近代は外国人居留地や宿場町、軍事基地などに遊廓が設置されて
滋賀県の八日市新地もそのひとつで鉄道や飛行場、航空第三隊などができた後に設置されたと。(1958年に解体)
八日市遊廓清定楼の娼妓の生活用具がいくつか展示されていまして
着物や鏡台や火鉢のほかにオトコサマ、しゃもじ、洗浄器、香炉や簾など。
見世では客が来るとお香を焚いて時間を計り料金を決めていた事例もあると初めて知りました。
また、新潟から長野へ遊女として売られていったイキという女性について
借金の借用書・遊女稼業の同意書・体の診断書・遊女の名簿登録申請書・父親による委任状が並んでいて
なんだか桂歌丸さんの自伝を思い出しましたね…。(歌丸さんのご実家は横浜の遊女屋です)
喜連川病院「検按書診断書控綴」(1913年)には遊女の診断書がまとめられていて
多くは子宮内膜炎と書かれているそうですが梅毒の可能性が高かったのではないかと。
楳毒検査場の看板や米沢市福田遊廓の娼妓健康診断簿(1915年)などもありました。
北新地五番町遊廓遊客帳(1934年)には客として見世を訪れた男性の個人情報や使った金額や
相手をした遊女の名前などが記録されています。(警察が名簿の作成を義務付けていたらしい)
1931年に松島遊郭で遊女たちがストライキを起こしたときの朝日新聞の記事や
吉原から逃げて柳原白蓮に助けを求めた森光子の記事なども紹介されていました。
(彼女が書いた春駒日記はだいぶ前に一度読もうとしてあまりの重さに半分も読めなかった覚えがあります)


「仕事と暮らしのジェンダー:近代から現代へ」。
雑誌「婦人画報」(1909年)には家庭の掃除をしたり、ピアノなどの楽器で合奏する女性たちの絵があって
女性たちのたしなみは屋外ではなく室内というイメージがあったことがわかります。
『文芸倶楽部』13巻1号(1907年)には鏑木清方「新案双六当世二筋道」という双六が付録でついていて
振り出しは女学生で、その後労働者(下級官吏など)として働き、結婚で上がりになるというもので
男性とは違った立身の道筋を可視化しています。
戦前の官僚試験は女性に受験資格がなかったので、女性たちは資格を必要としない一般職で採用されていて
そのひとりとして三木(清水)を美喜の事例を紹介。
彼女は逓信省で働き、珠算競技会で暗算の一等賞をとり、貯金局の静岡一班長にも任命されますが
女性の判任官は班長以上は出世できなかったそうです。
女性たちはいつの時代も働いていましたが社会的にはほとんど評価されることがなくて
職種にも待遇にも男性とは明確な差があったんですよね。今もありますが。
日清紡績女工応募者心得(1907年)は女工の求人情報で
職業教育や寄宿舎があることなどの福利厚生を推し出しています。
女工たちが使っていた月経帯(エンゼルバンド)の使用説明書やポスターもあり、
ミスコロナの月経帯はバンドではなくズロースの形をしていました。
山本作兵衛の炭坑記録画(1899年頃)では筑豊の女性坑夫の姿が描かれていて
展示されていたのは10歳未満の息子に赤ん坊を背負わせて坑道に入る母親の絵でした。
(坑道の天井が低いので、母親では赤ん坊の頭がぶつかるので背の低い子どもに背負わせたそうです)
子守りのために仕事をする子どもは学校を長期欠席したそうですが
その子たちその後どうなったんだろう、学習機会は…?

戦後に設置された労働省婦人少年局は女性の職員が多い職場で
初代局長の山川菊栄や局員の谷野せつらが婦人週間を開催したり賃金格差の調査をしたり生理休暇を導入したり
ポスター「男女同一労働同一賃金になれば」(1948年)などを制作して性差別の廃止につとめています。
マリア・ミード・カラス宛て谷野せつ書簡(1949年)には
紙芝居「おときさんと組合」やパンフレット「発言の手帳」を送付したことなどが書かれていて、
GHQのSCAP経済科学局にて婦人少年局の業務推進したカラスと婦人少年局職員たちとの交流が見られます。
同じくカラス宛て山川菊栄ら6名による書簡(1950年)にも
カラスからのクリスマスプレゼントへのお礼と婦人少年局の当時の活動の様子が書かれていました。
(婦人少年局の仕事は現在の厚生労働省雇用環境・均等局や子ども家庭局に繋がっています)
『学習コンピュータ』2巻6号(1971年)には情報処理技術者の国家試験の合格書を受け取る
木伏恵子さんの写真が掲載されていて、
大戦期の官庁や戦後の気象庁などで計算を担当する職員として女性が働いていたことも写真で紹介されています。
確か同時代のNASAでも、宇宙にロケットを飛ばす計画において表計算をしていた職員の多くは
女性でしたよね…そういう本とか映画とかありますよね。


企画展示室自体はそんなに広くなくて、展示されている点数もそんなに多くはなかったけど
文字資料が多くて色々読み込みながら鑑賞していたので気づいたら3時間近く経っていました。。
基本的には知っていることがほとんどでしたが初めて見る資料もあったのでちゃんと見たかったし。
あと性的マイノリティの人々に関する展示がなかったのが気になりました。
ジェンダーを研究するなら必ず出てくるトピックだと思うのですが
企画された横山百合子さんによると今回の展示はミュージアムにおけるジェンダー展示に関する
3年間の研究成果の発表ということらしいけど、セクマイの歴史や資史料はまだ研究されてないんだろうか。
(あと、わたしが遊郭の展示を鑑賞していたときに
お連れの方に熱心に展示物について説明していた方がいらっしゃったのだけど
後から考えるとあれたぶん横山さんだったと思う。
時間もなかったし、盗み聞きしてるみたいで申し訳なくて早々に離れてしまいましたが
かなり裏話的な会話をされていたのでもうちょっと聞いていたかったな)


そんなわけで時間がなくなってしまったので、総合展示(常設展)はとばして鑑賞。
歴博は今回の企画展と研究を機に総合展示の構成を多様性とジェンダーの視点で見直し始めていて
少しずつリニューアルしている途中だそうです。
(2019年3月に第1展示室「先史・古代」をリニューアルオープンしています)
歴史上の多様性を紹介するのはミュージアムの仕事のひとつだと思うし
現在の展示の形が正解とは限らないので、今後も研究を続けていってほしいな。

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常設展示にいたゴジラ。東宝映像美術にいらした小林知己氏の遺作です。
1984年公開の映画「ゴジラ」をモデルに造られています。

ゴジラの映画制作に関わる女性キャストや女性スタッフは
1954年の第1作から最新作をざっと見比べると増えてはいるんですが、
登場人物に女性の研究者や博士はいるけど政府やGフォースの幹部には女性がいないし
スタッフも監督やプロデューサー、脚本、特技、音楽などのメインは男性で占められていて
まだまだ特撮は男性の世界だなァと思いました。
特撮というかテレビや映画業界が男性社会なので、
そこを何とかしない限りゴジラ映画を女性監督が撮る日は来ないと思う。


クリックで拍手お返事。↓
皆様いつもありがとうございます(^-^)/☆
 
 
>幽村芳春様

拍手ありがとうございました☆
お菓子、どれも本当にかわいくて最っ高でした…!
見た目も味も素敵な和菓子はいつも楽しませてくれます。大好きです☆
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2020/12/08 (Tue) 12:47 | # | | 編集
田植えの始まる時代

>一方、栄花物語(平安時代中期)によると50~60人の女性たちが田植えをするという記述がみられるので、

〇たいへん参考になりました。
 小生は田植えの開始時期について検討してきましたが、栄花物語に出てくるとは参考になります。おそらく、田植えが始まり、稲作が安定し、豊かになっていく時期が平安中期、それから武家社会へと変わっていく、そんな感じを持ちました。
 草々

2020/12/09 (Wed) 07:51 | レインボー #- | URL | 編集
Re: 田植えの始まる時代

> レインボー様

記事内では端折ってしまいましたが、
栄花物語の記述は女性たちが化粧をして着飾っていたという記述もあるので
早乙女のイメージが形成されていく初期の頃ではないかという考察が
展示ではされていました。
ご参考までに。

コメント、ありがとうございました☆

2020/12/12 (Sat) 22:56 | ゆさ #- | URL | 編集

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