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サンシャインシティで開催中の「あきづき空太デビュー20周年記念 赤髪の白雪姫原画展」に行ってきました。
最近は漫画家さんの展覧会が増えていてあきづきさんもそろそろやってくれないかな…と思っていたら
20周年という節目の年だったのですね。おめでとうございます☆
シティ入口のエスカレーター前にあったサイネージのCMをパチリ。

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エスカレーターに乗ったところにも大きな広告が下がっていました。

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展示ホールAに到着。
原画展の期間中には出張スタンドカフェも併設されていまして、
会場に行く前に覗いてみたら全然混んでなかったので先にこっちへ行くことにしました。

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メニューはこちら。
ドリンクが中心でお菓子はアップルパイとプリントコロコロボーロが買えます。

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ゲット。
数量限定のりんごジュースがどうしても欲しかったので買えてよかったです!!
すごいよりんごジュースなだけに容器もりんごだよ!
持ち帰って帰宅してから飲んだら甘すぎなくてさっぱりしておいしかったです。
容器は洗って保存しておこうと思います。原画展のロゴも入ってるから記念になるし。
アップルパイも買いました~2個入りで個包装されてたから持ち帰りやすくて有難かった^^

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スタンドカフェの待機列の壁には原作にちなむマークと壁紙が3種類あって
専用のアプリをダウンロードして読み込むと
赤髪の白雪姫に登場するちびキャラたちがARで現れて一緒に写真が撮れたりします。
それぞれ曜日ごとに登場するキャラが変わるそうですよ~。

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そんなわけで今度は原画展の待機列に並んで順番に入場。
入口では原作者あきづきさん描きおろしキービジュアルの5人のビッグアクスタと
原画展のCMが迎えてくれます☆
会場にはアニメで使われたBGMが流れていてクラリネス王国感がすごい。

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アクスタ大きい~~~すご~~い!!
これ等身大とかだったりするんだろうか…ミツヒデさんとオビが一番身長高いからそんな感じします。

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原画展オープンの前日の内覧会にあきづきさんがいらっしゃってたみたいで
白雪の足元にサインがありました。
あきづきさんのサインと自画像まじでかわいくて大好き☆

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原画展開催にあたってのあきづきさんからのメッセージ。なんかコミックスの柱部分みたい(笑)。
「灯りの花の灯る道へとお進みください」ってすごくかわいい字で書かれててフフってなった。

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原画展は白雪とゼンの出会いから始まり、クラリネス王城ウィスタル、薬室、セイラン領、
タンバルン王国、セレグ騎士団基地、リリアス、ルギリア領に分かれていて
それぞれのテーマごとにカラー原稿とマンガ原稿が展示されていました。
作者のペンタッチやトーン指示や絵の具のにじみやホワイト修正のあとを間近で見られる原画最高かよ…!!
あきづきさんのカラー原稿は途中からデジタルになりますが連載初期はアナログでいらっしゃったので
色の乗せ方とかペンのタッチからやさしさが感じられてじーんときてしまった。
印刷には出ない微妙~~~~なグラデーションとかかすれ具合とかたまんなくて
ものっそい至近距離で見てしまった…原画展の良さはこういうところですよ。
デジタルのカラー原稿は雑誌サイズに引き伸ばして展示してありました。メイキングとか見たかったな。
(とか思ってたら原画集にデジタルのメイキングが載ってました。ありがとうございます)
マンガ原稿は今でもアナログだそうで、各テーマごとにたくさんの生原稿が見られて幸せでした。
背景指示やトーン指示が青鉛筆で書いてあって(印刷に出ないのよね)原稿制作の雰囲気が垣間見えたり
大ゴマに原稿半分くらいのトーンを貼っててうおおでけぇ大胆…!って戦慄したりしました。
作家の生原稿を見ると作業したくなりますね…あああペン入れしたいゴムかけたいベタ入れたいトーン貼りたい!
わたしあきづきさんの描く線が本当に好きでして…繊細でさほどメリハリがあるわけではなくて
整ってはいなくてざっくりしていて、でもそこに色気とあたたかさと味わい深さがあるんですよね。
あとね、なんかこう、シャッシャッとペンを走らせる音が原稿から聞こえてくる感じがするんですよ!(耳鼻科へ行け)
フリーハンドからこんなに手触り感が伝わってくることがあるものなのかと、初めて見たときは感動したのでした。
確か書店に面出しされていた赤髪1巻の表紙の絵に惹かれてコミックス買って読んで
次の日に既刊だった3巻まで買って以来ず~~~~っとファンだし短編集なども買っています。
どうか健康に気を付けてずっとお元気で描き続けてほしい。

出口には原画展へのお祝いとして緑川ゆきさん、響ワタルさん、麻生みことさん、可歌まとさん、
暁さん、弓きいろさんといった白泉社の漫画家さんたちと
(あきづきさんは麻生さんのアシスタントをやられていて一番うまい新人さんだったって書いてあった)
(可歌さんは今回の内覧会にもいらっしゃったらしい)
アニメの監督の安藤真裕さん、キャラデザの高橋久美子さん、白雪役の早見沙織さん、ゼン役の逢坂良太さんからの
色紙が飾ってありました。(撮影禁止)
漫画家さんたちが描かれた白雪とゼンとかめちゃくちゃ貴重だし
早見さんの色紙にめっちゃ長文メッセージ書いてあって愛を感じました。
アニメの続き作ってほしいけど難しいのかな~~リリアス編をアニメで見たい。
あとコミックスの柱の原稿とか最近のコミックスの巻末に載っている設定画のラフなどもあって
すげ~~こういうのも見せてくださるのかと感動しました。あきづきさんの鉛筆の…筆跡…!!(かわいい)

以下は会場で撮影可だったものの写真たちです。
多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ☆ 続きを読む
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ふくろうの本のちばかおり・川島隆『図説アルプスの少女ハイジ-ハイジでよみとく19世紀スイス』に
増補改訂版が出たとの情報をいただきましたので読みました。
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リンともの八少女さんのブログで知ったのですが、八少女さんがこの本にご協力されていたことも知って
「わ~~読もう読もう!」ということで^^
八少女さん記事を書いてくださってありがとうございました。
あと浜松市美術館で開催中の「ハイジ展-あの子の足音がきこえる」の情報もいただきまして、
今回の増補改訂もその関連で行われたのでしょうか。
浜松はちょっと遠いな…いま遠出しにくいからなあ、巡回しないかな…。
TVアニメの資料は過去の高畑勲展をはじめもう何度も見たので(何度見ても良いものですが)
そろそろ原作についての資料をちゃんと見てみたい。

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左が改定前、右が改定後。
16ページ増えて紙も少し厚くなったのかな?1.5倍くらいになったような。

改定前の本を過去に読んだのですが、9年前なので内容をほとんど忘れていて
今回の改定版は復習と学びなおしのつもりで読みました。
(わたしのハイジ歴は小学生のときに原作2冊を読んで大人になってからDVDで高畑勲氏演出のアニメを見て
ふくろうの本を読んで時代背景を知ったという流れです)
スイスの作家ヨハンナ・シュピーリ作『ハイジの修業時代と遍歴時代』と
『ハイジは習ったことを使うことができる』に描かれる19世紀スイスとドイツの時代背景について
当時の歴史や暮らしを中心に政治、経済、宗教、文化、教育、自然など細かく紹介されています。
ふくろうの本は特集する内容について、可能な限りの写真や図版を
カラーでどーんと掲載してくれるのが本当にすばらしくて大好きなシリーズなんですが
(その割におねだん全然張らないのでそれもすごい)、
今回の本も図版を多数載せてくれていてすごく有難いです。
19世紀はカメラが発明され写真が記録として残りますので
歴史もぐっと伝わりやすくなってくる時代だと思う。

原作やアニメから想像していたアルムの山の自然について
色々解説されていたのが本当に有難くて、
アルムが森林限界を超えた草地とか山に咲いている草花(リンドウやツリガネソウやシスト)とか
ハイジがざわつく風の音を聞いたモミの木(ドイツトウヒ)なども解説されていて
ハイジたちが見ていたものがどういうものかというのが実感をともなって感じ取れて
風とか空気感を昔よりぐっと想像ついたのがよかったな…。
(全然関係ない話ですが、わたしがトウヒの木を初めて知ったのがホッツェンプロッツの本なんですけど
ハイジにも登場していたと確認できてちょっと楽しくなりました。
あとホッテントット(コイコイ民族の蔑称)についても
カスパールとゼッペルがホッツェンプロッツに対して一芝居打つときに出てくるセリフにあるのですが
その名前が出てくるドイツの数え歌を使ってハイジがペーターにABCを教えている解説を見て
当時のヨーロッパ人からのアフリカ人へのまなざしも知ることができたし、
ホッツェンプロッツの作者プロイスラーの視点についても考えることができて、本当に有難かったです)
アルムの夕焼けについても、ヨーロッパの氷河期時代の土地形成の話から始まり
アルプスの山や谷は気温の上昇で融けた氷河が岩を削ったことで生まれたもので
スイスには標高3000m以上の山が多いこと、
ハイジが見たシェザプラーナ(大斜面の意)も標高2964mの険しさで一部に氷河も残っていると。
また日暮れや日の出に山が赤く染まる現象をドイツ語でAlpenglühenといい実際に見ることもできると。
ハイジの「山が燃えている」というたったひとつのセリフの背景に
これだけの土地の歴史が詰まっているというのが本当に興奮してしまったし、
そんな山から吹くフェーンの強風の影響で体調を崩す人(気象病というやつでしょうか)がいる一方で
フェーンのもたらす暖かい風でマイエンフェルトはブドウがとれるのでワインの産地になっているとか
自然の一面では語れない人々の暮らしもわかって
ハイジたちはそういう環境の中で暮らしているんだなあと。
民族衣装と食生活の解説も楽しくて、女性たちのブラウスやスカートやエプロンは
形は同じでもレースや刺繍のデザインが異なるというのおもしろかったし
マイエンフェルトのあるグラウビュンデン州の家庭料理もおいしそうでした。
ビュンドナーゲルステンスッペとカブンツ食べてみたい。
チーズフォンデュがTVアニメのみの演出で原作にないのは気づいてたけど
スイスでは地域によってチーズの種類が違うことも紹介されていて、やっぱり食べてみたくなりました。
アニメにしかいないといえばセントバーナードのヨーゼフもそうですね。
スイスとイタリアの国境のサン・ベルナール教会で飼われていた犬種で
スイスの人々にとってはその犬がアルムにいるのはちょっと違和感があるようです。

ハイジのモデルがゲーテのヴィルヘルムマイスターに出てくるミニョンとされていることも
言われてみればなるほどなあと思ったし、
ペーターのおばあさんに讃美歌を読んだりアルムおんじに放蕩息子の話を紹介したりすることで
彼らの救済につながるという流れや、
ペーターも救済されるべき子というキャラクターになっているのは、
中世~近世に作られる物語や説話というのは宗教を底とする教訓話であることが大前提になっていて
それは世界中で共通していることだったりしますね。
物語というのは昔は大人のための物だったわけで、19世紀くらいから近代化と同時に「子ども」の時代がようやく始まり
それまで労働者だった子どもに対して義務教育を行う国が増えてきて
子ども服とか子ども部屋とか児童文学とか、子どものための文化が少しずつ出てくるわけですが…。
(TVアニメをDVDで見たときに小原乃梨子さん演じるペーターがヤギ飼いとしてすごくしっかりした子で
「この子がクララの車いす壊しちゃうのか…やだな…」って思いながら見てたんですけど
その場面がカットされているどころか人物像が(特に後半で)かなり改変されているのを見て
えっえっペーターよかったね!ってなったんですよね。
あとで高畑さんが何かのインタビューで「僕らのペーターはそういうんじゃ困ります」と
答えていらっしゃったのを読んですごく痛快だったのを覚えてます)
クララが車いすを使っていることや病気がちであるというのも
ハイジと交流することで自立し救済されていく子というストーリーの装置として設定されたものというのも
(だからクララの病名は具体的に書かれていない)、ものすごくしっくりきて
とてつもなく計算された物語なんだなあと思いました。
(秘密の花園のコリンの事例も紹介されててあ、それ~~~!ってなりました)
ゼーゼマンさんがクララを放置して仕事ばかりしている姿は昔から頭にきていたし
(クララこんなに寂しそうなのに!って小学生のわたしは地団駄を踏んでいました)、
クララのおばあさまがクララやハイジのために動いてくれる人であっても
状況がほとんど変わらないのは「なんで?」って思ってたけど
当時の時代背景を考えると難しかったんだろうな…と思う。
デーテおばさんやロッテンマイヤーさんについても子どもの頃はおっかないイメージしかなかったけど
当時の女性の労働環境を考えるととんでもなくがんばってる人たちなんだよな…。
女性が働くことに対する差別的なまなざしもあるし、保育所もないから子どもの預け先を探さないとだし
働けたとしても男性より待遇は悪いしそもそも就職そのものが難しかったりする。
なりふり構わず生きるしかなかった人たちなんですよね。
(小公女に出てくるミンチン先生とかも、最近はエンパワメントな視点から研究されてたりしますね)
(とはいえ、彼女たちの子どもに対する態度には問題があります)
(女性たちが物語の中でそういう風に描写されることが多かった当時の社会についても考える必要があります)

原作者ヨハンナ・シュピーリについてもハイジしか読んだことがなかったこともあって
彼女の人生についてもこの本で詳しく知ることができました。
祖父が牧師で父親が医師で母親が宗教詩人、
寄宿学校を卒業後に実家で妹たちの教育をしながらレッシングやゲーテを読んで
母のネットワークで声をかけられた教会新聞に短編を発表したのがきっかけで作家デビュー、
以後亡くなるまで精力的に作品を発表していたようです。
スピリ少年少女文学全集として、日本語に翻訳されて読める作品も多数あり
ほぼスイスが舞台になっているようです。
ハイジ以外はだいたい絶版になっているようなので図書館とかで読むしかないのかな。

改訂版には日本におけるハイジの受容史の追加と世界各地で制作されたハイジのアニメについて、
日本のアニメでキャラクターデザインを担当された小田部羊一さん、プロデューサーの中島順三さん、
仕上げ担当の高畑かよ子さん(勲氏の妻)の座談会が掲載されていました。
ハイジを日本に初めて紹介したのが野上弥生子で、初めて原典から全訳したのは竹山道雄で
挿絵も松本かづち、蕗谷虹児、高橋真琴、いわさきちひろ等様々な画家が描いていたり
いがらしゆみこによる漫画もあったり。
わたしが過去に読んだのは福音館書店刊の矢川澄子訳・パウル・ハイ挿絵の『ハイジ』ですが
あれから何度か新訳も出てるんですよね。今はどんな風に訳されてるんだろう。
座談会はスイスで開催された日本のハイジ展の関連企画で行われたもので、
小田部さんと中島さんのお話は知っていることばかりで特に目新しいことはなかったけど
高畑さんが「本人(勲氏)も来たかったと思う」「何年か前の旅行のときより街が大きく綺麗になっている」とお話されていて
(この対談のとき既に勲氏は亡くなられていた)胸がぎゅーーっとなってしまった。。
高畑勲さんおよび当時のスタッフの皆さん、アニメを作ってくださってありがとうございました。

ちばかおり氏は世界名作劇場などの研究をされている方だったと思いますが
(過去に関連書籍を何冊か読んでます)海外児童文学も研究対象なんですね。
川島氏もドイツ文学の研究者で主にカフカが専門なのかな、他の著書も読んでみたい。

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世田谷文学館の「ヨシタケシンスケ展かもしれない」に行ってきました。
絵本作家ヨシタケシンスケさんの初めての大規模展覧会です。
キービジュアル、今までヨシタケさんが出した絵本のキャラクターがいっぱい歩いていますね。
りんごかもしれないの人もころべばいいのにの生き物も
かみがくちゃくちゃの子もあるかしら書店の人もいる!

ヨシタケさんとの出会いは忘れもしない、ふらりと寄った西荻窪駅近くの書店で
たまたま新刊として発売されていたデビュー作『りんごかもしれない』をパラ読みして
なんじゃこりゃ…!と思ったのが最初。
わたし忘れっぽいのでこんなこと滅多にないんですけど
そのときはあまりにびっくりしたんでしょうね、場所や時間帯やその日の予定まで覚えてます。
以来、新刊が出たら追っかけさせてもらってます。

チケットは日時指定の予約制で、平日と休日夕方がすいているとのことで
平日のお昼に行ってきました。
ランチ時だと午前中のお客さんが抜けて、割とすいていますのでね。
それを過ぎると午後のお客さんが入ってきてまたざわざわするんですよね。
手指の消毒とマスク必須、会話は控えめに。人との距離を取ること。
京王線も芦花公園駅も平日昼間はガラガラで快適でした。

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展示室は2階です。階段の前にもこちらにもタペストリーがありました。

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あっちこっちにこんな看板があって案内してくれます。
「こっちかもしれない」って言われても。自信がないのね。
あとこの子『もうぬげない』に出てきた子ですね。

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階段の踊り場にありました。ちょっと、わかる。そうかもしれない。

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お手洗いの前にあった。確かに、行っておいた方がいいのかもしれない。
展示室の中にはお手洗いがないからね。
(これもしかしたらお手洗いの中にも看板とかあるのかな、
あったらおもしろいなと思って入ってみましたが、特に何もなかったです)

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展示室入口にあったもの。今はちょっとお話はしにくいですね。
ただまあ、ここにはファンの人たちが多く来ていると思うので
その人たちが展示品の前でふと漏らす感想などが聞こえてきて
同意したり共感したりすることはあるかもしれない。

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受付にあったもの。それはちょっと困るな。

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会場内の写真撮影OK、SNSアップもOK!!(フラッシュと動画撮影は禁止)
太っ腹です。

以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ。 続きを読む

富安陽子さんの『博物館の少女-怪異研究事始め』を読みました。
大阪生まれの女の子が文明開化初期の東京へやって来て
上野博物館(現在の東博)を訪れたのをきっかけに、
様々な人と出会いながら古美術にまつわる怪異を調べていくことになるミステリーです。
かつて上野の寛永寺の奥では怪異学の研究が行われていたという設定で
その研究のための品々が収められている博物館で主人公が働くことになるという展開だけでわくわく、
もう何も言うことはありませんでした。
近代化が進み始めたとはいえそこかしこに江戸時代の名残が残る文明開化と、博物館と、怪異。
何ですかこのわたしの好きなものばかりを詰め込んだ、わたしのために書かれたような物語は!
わたしはこの物語をただただ楽しめばいいんだ!と思えてしあわせでしたし、
実際、読み終えて期待通りの部分と期待以上の部分がものすごくあって本当に充実した読書時間でした。
(いや、富安さんの本は何を読んでもそうなんですけど)

300ページ以上あるけど例によってあっという間に読んでしまったし
何しろ富安さんなので下地になっている歴史の調査ががっつりされていることがわかるし
主人公の行動範囲が広がると同時に世界が広がっていくのもわかるし
近代化と博物学と宗教と戦争と古美術と黒手匣にまつわる怪異など、エピソードと伏線のバランスがとてもよくて
相変わらず見事なストーリーテラーだなあと感心してしまいます。
富安さんの物語って書かれたものに何ひとつ無駄なものがなくてすごいんですよねいつも…
すべての登場人物、登場する物、起こる事象が最終的に全部活かされて終わる。
怪異が怪異としてすべて解明されずにふわっとしたままなのも、消化不良なままにはしなくて
ああ、怪異ってこれくらいわかっててこの先はわからない方がちょうどいいよね…ていう
落としどころを見事に見つけてくる。
どんどん力をつけていくし大好きになる作家さんです。ずっと書き続けてほしい。(シノダの続きも待ってるよ!)

物語は1882年、大阪で古物商を営んでいた親を亡くした花岡イカルが
母の遠縁を頼って神戸から船で東京へやって来るところから始まります。
横浜港で船を降りて、その年に開通したばかりの汽車で新橋へ行って
そこから馬車鉄道に乗り換えて上野停車場へ向かう主人公☆(まだ東京駅は存在していません)
この時代は大阪もかなり賑やかだったはずですが、横浜~新橋や上野界隈の賑やかさも
伝わってきておもしろかったし、
イカルの遠縁の大澤家のひとびとは幕府側だったため戊辰戦争後はかなり苦労して
それをイカルの母親が援助していた縁でイカルを引き取ってくれることになったとか、
上野博物館はこの時代は東博と科博に分かれていなかったから
仏像や武具と骨格標本や剥製が同じ館内に展示されていたりとか
(イカルが見たキリン(キャプションに麒麟と書いてある)の剥製はあれですよね、
今は壊れてしまったために科博の収蔵庫に仕舞われているあのキリンですよね??
そうだよねえあのキリンも展示されている時期があったはずなんだよな…)
そんな風に上野のお山の歴史というか、
寛永寺が上野戦争で半分以上焼け落ちたところに博物館と上野動物園がオープンした話とか
博物館や図書館の役割や当時の人々にどう捉えられていたかとか
キリスト教をイカルの親世代は非難めいて語るけどイカルは興味津々とか政府の神道国教化政策とか
ふとしたところで書かれる”人物や出来事のバックボーン”にわくわくドキドキ。
物語の底辺に史実があって、作者がそれをおろそかにするつもりがないと感じられるだけで
テンションあがってしまうのでわたくし…色んな意味で。

タイトルに博物館とあるだけあって、ちょこちょこ出てくる古物や古美術に関する描写がおもしろいです。
今では当たり前にある博物館ですが、当時、ようやく、少しずつ少しずつ、各地に建設されるようになって
一般市民に解放され始めた公立の博物館がどんなに珍妙で未来的でわくわくするものだったことか。
主人公のイカルが古美術商の家の生まれで父親の仕事を見ていたので古物の知識が身についていて
博物館で五重塔の模型を見てまず出てくる感想が「よくできた模型」なのすごいと思う。
仏像の立像・坐像の区別もつくし阿弥陀や薬師などの見わけもつけられるし
(「お寺でもないのに仏さんだらけや」っていう感想、言われてみればそうだなあと思っちゃった)、
田中芳男に鑑定してみろと出された花瓶がフランス陶工が伊万里の土で作ったものだと一発で見抜くし
(これ町田久成が井上馨にやられたエピソードですよね)、
博物館の裏の古蔵で織田信愛(通称トノサマ)の助手をすることになって
アキラくんと一緒に品物と台帳の突き合わせの仕事をやるときも
「それはイラタカの数珠」「摩利支天像です」「青面金剛像」と、一目見ただけでズバズバ言い当てていく。
ミイラの作り方について聞かれて長々と話し始めちゃうところは専門家あるあるだし
湯島の河鍋家へ行った帰りにちょっとお散歩してたまたま道具屋を見つけたときに
「なつかしい知人と再会したような気分」になったりする。
(そしてその道具屋で見た1枚の伊万里が博物館の蔵にある伊万里と対であることを見抜くのが
ミステリの王道をいく展開になっていてますますドキドキした)
古物や古美術に対してのリスペクトもあって、暁斎の百円の鴉についても知ってるし
トヨが絵描きの娘で彼女も絵を描く人だと聞いて「自分の腕一本で食べていけるなんてすごい」と素直に感心したり
トヨの家にお使いを頼まれたときに「河鍋暁斎の家に行ける!」ってなったりする。
でもその割には大澤家でお花のお稽古をするのは嫌いなんですね^^;
(後見人になってくれた大澤家の登勢さんが「しかるべきお家に嫁げるよう」にと
立ち振る舞いのマナーやお花や裁縫の稽古をつけてくれているのです)
たぶんこの子あれだ、華道について研究するのは好きだけどやらされるのは嫌いなタイプだ…!
まあでも華道や裁縫が好きな子ならともかく、
13歳の子が何もかもきちんとしなさいとか言われ続けるのはしんどいよね。
そんな大澤家で息が詰まりそうになっているときに、登勢さんの娘の近さんが訪ねてきて
(しんどい描写が必要以上に長続きしないのも富安文学の特徴です)、
まだ東京見物もしていないというイカルのために、近さんの娘のトヨ(15)と一緒に
「上野の博物館へ行って帰りにお団子でも食べていらっしゃい」とおこづかいをくれて
ここから物語が動き始めた感じがしましたね。
久し振りに外出できて、大阪と東京は空の色が一緒だ、と気づくイカルの解放感がとてもよかった☆

あとこの物語のもうひとつの魅力は、実在の人物が富安ナイズされて登場することです。
60ページくらい読むだけで大澤近と河鍋豊と田中芳男と町田久成と織田信愛(賢司)の名前が出てくる!!
もうどうしようかと思いました。読みながらこの人知ってる!この人も!!みたいになっていた。。
(別に顔見知りというわけではなくても、知ってる歴史上の人物というだけでテンションあがっt(以下略))
大澤近は河鍋暁斎の3番目の妻ですがサバサバした素敵なキャラクターになっているし
彼女の娘であるトヨ(のちの河鍋暁翠)はいつもニコニコしているやさしい子だし
(この本ではまだ暁翠と名乗ってはいないし父親の暁斎は名前しか出てきません)、
田中芳男は学者らしい落ち着いた見識と頼もしさのあるおじさんだし
町田久成は田中さんの語りの中にしかいませんが相当変わったおじさんだし。
(主人公が子どもの頃に実は重要人物と出会っていたというのはミステリあるあるですが、
この物語の町田さんは塩を使ったおまじないを知っているあたり、かなり詳しい人だと思われる)
織田信愛は元高家で榎本武揚と一緒に戊辰戦争で戦っていたおじさんですが
この物語では気難しく、古美術に詳しく、矍鑠とした気骨のある老人として描かれています。
んん~~富安さんの書く物語だなあ(*´︶`*)☆
強い人と弱い人とやさしい人と気難しい人と清濁併せ呑む人のバランスがとてもよいです。
ここに主人公のイカルと、アキラくんという織田家の奉公人と
神田天主堂の大人たちと子どもたちという、この物語だけの人々が関わってきて
上野博物館の古蔵から盗まれた黒手匣をめぐって長崎の隠れキリシタンにまで話題がおよんで
司法省のお雇い外国人だったロッシュの死をきっかけに物語は一気に加速して
黒手匣の本当の使い道が明かされていくのですが、
もう後半はずっとどうなるのどうなるの…ってドキドキしながら読んでいました。
黒手匣にまつわる事件そのものはフィクションなので富安さんの創作ですが
その事件がなぜ起きたか…なぜその黒手匣が存在しなければならなかったのかという理由のベースには
人類が太古から慣れ親しんできた宗教観や古典の存在が感じられる結末になっていて
それもまたお見事と拍手するしかありませんでしたなあ…。
理由についても黒手匣の持ち主本人ではなく、
トノサマが研究者としての知識を総動員して推測するという形で語るのみで
真実は誰にもわからないまま…というのもとても良き。
何より怪異というものに対してわたしたちは本当に無力だというのを
改めて思い知らされてしまったなあという気がしています。
神様や妖怪などにカテゴライズをされていない、まだ人類が存在そのものに気づいていない、
人の形をした人ではない、人類とはまったく異なる理のなかに生きているものたち…。
黒手匣の持ち主に対してイカルが抱いてしまった感慨は、13歳の子どもにはあまりに壮大で
これはちょっと誰かがケアしないと考えすぎてしまうぞ…と思っていたら
今回の事件に一切関わっていないトヨがイカルから話を聞いて肯定も否定もせずに
古典を引用しながら「過去にこういう事例があるからもしかしたらあるかもしれないね」と語ってくれたことで
イカルの心が少しケアされたのとてもよかったです。
トヨは本当にやさしくて賢い子だなあと思ったし、
たぶんこんな風に怪異に向き合って考えて整理することで人類は不思議な物事と一緒に生きてきたんだろうし
現代人もきっとこんな風に怪異と付き合っていくのかなあ…などと思いました。
必要なのは知識と想像力。これに尽きるなあ、とも。

(だってイカルが仕事を得たのは成り行きと人の縁があったからですけど
彼女自身に古美術を鑑定できる目利きの能力があったというのは絶対に大きくて、
それは子どもの頃に家で自然と身に付けた知識の力なんですよね…。
あの時代に女の子がひとりで生きていくのはとても大変なことで、大澤家という後見はあるけど
彼女が自分の知識と能力を活かして働ける場所に辿り着けたのは本当に幸運なことだと思うのです。
トノサマと一緒に働くことが彼女にとっての幸いになるかは、今後に期待というところだと思いますが…。
富安さんの過去作には「気難しいキャラクターと付き合う主人公」というパターンがとても多くて
たぶん全部が幸いにはならないだろうなあ、という想像もついてしまうので^^;
でも絶対に不幸にならないこともまたわかっているので、そこは安心しています)

あとこう、何て言えばいいか、富安さんの物語の登場人物って
本当に色んな意味で”その人らしく”生きているのがとてもいいんですよね…。
物語のために動かされたりしない、その人がその人自身の心によって行動した結果、
物語が展開して結末を迎える…という流れになるっていうのはとても大好きです。
キャラクターは決して都合よく動かず、みんな好き勝手に行動していて
えっえっこんなに風呂敷広がってどうなるの大丈夫なの??というところから
さっきも書いたように見事なまでに収束していく構成は富安文学の真骨頂。


装画が禅之助さんで、ジョサイア・コンドル(作中ではトヨがコンデールさんと呼んでいる)の
設計した上野博物館も細かく描かれていてすばらしい。

こちら、シリーズ1作目ということらしくてまだ序章なんですね…続きが読めるんですね!
イカルの博物館助手としての仕事も怪異の研究も始まったばかりだし、
彼女が子どもの頃に経験した怪異や町田さんによるおまじないなど明かされていないこともあるし
次巻も期待しています。
河鍋暁斎とか出てきたら絶対トノサマに負けないレベルの変なおじさんキャラだと思う…!
あと本編で田中さんが教えてくれたイカルという名前の由来。
彼女の母親の故郷の斑鳩にちなんでつけられたもので鵤という鳥、美しい声で鳴く強い鳥だという
エピソードをイカル本人が聞くシーンがとてもよかったです。
町田さんが出張前に田中さんに言った「西から飛んできた鳥が一羽、博物館に迷い込んでくるかもしれない」
という言葉を受けて田中さんが「君は、西から飛んできた鳥だ」と確信するシーン、
イカルは怖かったかもしれないけどわたしはドキドキしたよー!こういうの弱いです。

次に上野や東博に行ったら…状況を考えるといつ行けるかわかりませんが…
イカルのことを考えてしまうかもしれないです^^

穂村弘『図書館の外は嵐』を読みました。
書評集なので没頭するとかはなかったんだけど、
穂村さんが要所要所で書き連ねる言葉にうんうんってなったりあれこれ考えたり思い出したりしたことがあって
そういう読書もおもしろいなと思ったので今日はそんな感じで書いてみます。

p.8
「「最近、何かいい本あった?」と会う人ごとに尋ねている。
「えーと」という反応が返ってくることが多いけど、先日、珍しく即答された」
難しい質問。
好きな本はその日の気分や体調とかでコロコロ変わるのでな…。
最近の本でなくてもいいのかな。久し振りに読み返した昔の本とか。

p.18
「『プレイボール』の新作を読める日がくるなんて、
『ポーの一族』の四十年ぶりの新作『春の夢』の刊行と並ぶ、いや、それ以上の驚きだ。
何故なら今も現役で活躍する萩尾望都とちがって、
『プレイボール』の作者であるちばあきおは三十年以上も前に亡くなっているからだ。
その志を継いで「2」を描いてくれたコージィ塩倉に感謝しているのは私だけではないだろう」
こういうのありますねー!
公式アンソロジーとか同人誌とかではいくらでも事例がありますが、
商業作家が書いた作品の続きを別の商業作家が書くというやつ。
エレナ・ポーターが書いた『少女ポリアンナ』の続きを
ポーター亡き後に50冊以上も出している作家たちがアメリカにいますけど
わたしはどれも読んでないんだよな…翻訳されてないっていう理由もありますが。
(そしてポーの一族新作ありがとうございますモー様!!)

p.24 
「解説によると山口誓子の「スケートの紐むすぶ間もはやりつつ」のパロディとのこと」
水鉄砲水入れる間も撃たれつつ(小川春休)の句についての一文ですが
山口誓子だ!小学校の教科書に載ってた俳句だー!ってなった。
それまで俳句というと松尾芭蕉や小林一茶など江戸時代の人ばかり学んでいたので
漢字やひらがなだけを使ってやるものだと思い込んでいたわたしに
「スケート」という言葉を入れていいんだって教えてくれた句でもあるのでよく覚えてます。

p.30
「出会った人に「好きな作家は誰?」と尋ねることがある」
これも難しい質問。
やっぱり、その日の気分や体調、経てきた年月とかでコロコロ変わるので…。

p.36
「現実世界を生きる我々もまたホームズではあり得ず、全員がワトソンではないだろうか。
ホームズがいなければワトソンの人生は平凡なまま完結してしまう。
だから、我々は皆、心のどこかで危険な名探偵との運命的な出逢いを待っている」
これ、わかるようなわからないような。
ワトソンくんがホームズくんと出会わなければどんな人生だったかと思うことはあって
それはそれで良い人生を送ったかもしれなくて。
ホームズくんが一緒にいるとまあ、退屈はしないと思いますが
なかなか経験できないようなことを経験することになって、それもそれでまた人生で。
ワトソンくんが果たして平凡な人生を送りたかったのかどうかは…
たぶんホームズくんと出会ってからの彼はそうは思ってないような気がする。
危険な名探偵と出会ってしまった一般人が振り回されていく物語は確かに楽しいし
それとは別に平凡なまま完結する人生を送ることも、また楽しい。

p.38
「一行目に惹かれた人は、その瞬間に、
物語の世界観を受け入れる心の書類にサインをしたことになるんじゃないか」
本の書き出し部分を読むのはすごく好きだしドキドキする瞬間でもあるし
それを「サイン」とする穂村さんの表現がすばらしい。

p.43
「代表作の直前の輝きというものがあるんじゃないか。(中略)
一人の作家の誰もが認める代表作が魅力的なのは当然として、その直前に生み出された作品には、
それとはまたちがう、完全なピークにはない、別のオーラがあるように思うのだ」
わかる。
デビュー作には作家のエネルギーがものすごく詰まっているといいますが
代表作の前に刊行された本は飛び立つ前というか助走のようなエネルギーを感じる。
あとね、作家の代表作を読むのもいいんですが、気になる作家に既にいくつか作品があった場合は
発表順に読んでいくというのをやると結構おもしろかったりします。
たとえば十二国記を時系列順とかより発表順というか刊行順に読んだ方がこう、
小野主上とかそれをずっと追ってたファンの視点とかを追体験できるのですっと頭に入ってくるんですよね。
前の本でこれが書かれてるから次の本で時代設定がいきなり数百年前とかに戻っても
ああ影響が出てるなーみたいなのも見えてくるし。

p.48
「その人に関するすべてが「いい感じ」に思える作家がいる。
それは好きな作家というのとも微妙に違っている。(中略)
読まなくてもいいからその魂に触れたい、という奇妙な欲望がある」
物語より作家さんの方がおもしろい場合、ありますね(笑)。
その人の本が自宅の本棚にあるだけで安心してしまうというか。
わたしはこれは、小説の作家さんより研究者による歴史書や論文集の方が多いかも。
信用している研究者の本はとりあえず買って、後日読んで「ああ~やっぱり正解だった!」てなる。

p.58
「日本とシリアでは表現の自由度が違う。作者の置かれた環境では、
書きたい内容をそのまま表現することが許されない。そんなことをしたら「痛烈な平手打ち」を浴びてしまう。
だから、さまざまなメタファーや寓意を駆使して表現することになる」
シリアの作家の小説に対して書かれたものですが、
紛争などの厳しい情勢の中にあって何とか記録や表現を続けようとする人々は昔も今もいて
政治体制に従わざるを得なかった人やギリギリまで表現を試みた人もいて
その中で生み出される表現はそのときにしかできないものですが、
でも紛争なんてない方が絶対によくて
それを学ぶためにも当時どんな表現がされていたかを知る必要があるよね。
そういえばシリアのパルミラ遺跡は暴力で破壊されてしまったし、それは絶対にあってはならなかったことですが
「暴力によって破壊されたということ」もあの遺跡の歴史でもあって。
物事というのは存在し続けている間だけでなく破壊された直後にも記録が始まるのだなと思ったな…。

p.62
「駒込の「BOOKS青いカバ」の棚を眺めていたら」
青いカバだ!穂村さん行ったんだ!!と思ってウッヒャーてなってしまった。
店長さんは池袋リブロで働いていた人で、同店が2017年に閉店した後このお店を開いていて
行こう行こうと思っていつつまだ行けてなかったりします。
三軒茶屋のCat's Meow Booksと同じくらい行きたいお店。

p.72
「ひと夏の物語が好きだ。子どもたちが、大人には見えない不思議な世界をくぐり抜ける冒険をする。
そして、季節の終わりとともに、少しだけ、けれども決定的に以前とは変わった自分に気づく。
そんな物語の系譜がある。どうしてか、その魔法の季節は夏と決まっているようだ」
好き!!
『銀河鉄道の夜』とか『霧のむこうのふしぎな町』とか『帰命寺横丁の夏』とか
『ふるさとは、夏』とか『夏の庭』とか『盆まねき』とか「盆の国」とか「あの花」とか
「ぼくらのウォーゲーム」とか「蛍火の杜へ」とか、シンカリオン31話とかね!!(落ち着いて)
夏には何か冒険できる魔法があると思う。

p.79 
「ほっとする。夏の終わりには、いつも焦りと切なさに囚われてしまう。
でも、置き去りにされるのは私だけじゃないんだ」
フジコ・ヘミングの8月30日の日記「今年の夏は、しやうと思った事が何一つ出來なかった」という記述への感想で
わかるなあ~~と思いました。
夏の終わりになるとああ、もっと何かできたんじゃないか…という気持ちになります。
たぶん「今年がもう残り少ない」ことに気付くからじゃないかな…。
別に何かを始めるのに、夏も秋も冬も春も関係ないけど。

p.82
「作者の行きつけの店の、しかもお気に入りだった席で、その人の作品を読みたい」
これはやってみたいですねえ…。
近代の文豪がよく通っていたお店とかで、店長さんやその跡取りさんとかが
「あの先生はいつもカウンターでこの飲み物を飲んでいた」とか
「この席に座っていたという話を先代から聞いた」とか教えてくれたりするよね。
芥川龍之介とか宮沢賢治とか平塚らいてうが座ってた席とか座りたいじゃないすか…。
(穂村さんは西荻窪のお蕎麦屋さんで杉浦日向子氏の本を読んだらしい。いいなあ)
現代の作家さんも、インタビューとかで行きつけのお店を教えてくれる人はいますが
どこの席に座っているかまではおっしゃらないもんなあ。

p.84
「『攻殻機動隊』を見ていたら、二〇三〇年あたりの荻窪駅前に焼鳥屋の「鳥もと」が出てきて興奮した。
(中略)その店は2009年にその場所から移転している。アニメの製作時にはまだあったんだろう」
焼鳥屋のシーンなんてあったっけ!??(笑)
攻殻もずいぶん前に見たきりなので覚えてないけど、そうかあ今はそこにないのかそのお店。
アニメに限らず現代を舞台にしたドラマや映画などでも、そういうことはよくあるよね。
撮影されたロケ地にはもうない、とかね…作品ってその当時を記録したアーカイブになるんだよな…。

p.88
「すごく面白い作品に出会うと、その本の世界からいったん顔を上げてきょろきょろする癖があるんだけど、
あれって一体なんなんだろう。わざと寸止めして感動を引き延ばすためか、
それとも本の衝撃によって現実世界の側に何か変化がないか確認しているのだろうか」
あります。
穂村さんもあるんだな~~わたしだけじゃなくて何だか安心しました。
ストーリーへののめり込み度が深ければ深いほど、途中の展開やラストシーンでうわあってなったときとか
その衝撃を受け止めきれなくて「待って待ってNow loading...」ってなったときとか。
最近はあまりないけど、やばかったのはアガサ・クリスティの『カーテン』のラストと
銀英伝8巻のヤン・ウェンリーの例のシーンを読んだときですね…。
リアルにはああぁぁって深呼吸して本を閉じて、キョロキョロどころかしばらく動けなかったです。

p.96
「値段を見ると9000円。うーんと迷いながら、帯に記された文字などを眺める。と云いつつ、本当はもう買う気なのだ。
誰が見ているわけでもないのに、迷っているふうを装いながら、
購入意思を決定的に後押しする「何か」を探している。(中略)…よし買おう。どうせいつかは買うのだ」
これもあります。
ずっと探していた本に出会えたときによくこうなるんですけど、
待って待って今のわたしに本当に必要?他の本で代用できない?高くない?
ヨコレやヤケなどの状態は?転売とかじゃない?とか色々考えますけど、
心のどこかではもう買うことがわかっているというか…。
で、その場にしろ1日後にしろ1週間後にしろ、結局買うんですよね。
わたしは最大で1週間待つ場合があって、それだけ経っても気持ちが持続していたら本当に欲しいんだと思って買います。
(この前、生まれて初めてプラモデルを買いまして、わたしにとっては割と高額だったのですが
その商品を見た瞬間にはポチらなかったんですが自分は絶対これ買うってわかってる感覚あったもんな…。
実際買ったしね)

p.135
「そんなトーアロードを歩いてみたくて神戸に行ったことがある。でも、痕跡は見つけられなかった。
私が憧れたのは鬼才三鬼の魔性の筆が生み出した幻の街だったのだろう」
聖地巡礼ですね穂村さん!(笑)
小説やアニメの舞台を訪ねるとき、わたしは割と「来た!ついに辿り着いたぞ!!」ってなって
痕跡があるかどうかはあまり考えないんですけど、
それを感じさせてしまうほどの筆力は気になるな…西東三鬼…。
(ちょっと違うかもですが、よく旅行とかで「がっかりスポット」と紹介されているところは
旅行者の期待が高くてそうなってしまうのかなあ)

p.136 
「一度も書かれたことのない悪って、どんなものだろう。想像してみようするけど難しい。
では、今までに読んだ小説や見た映画の中で出会った最高の悪ってどれだろう。
うーん、悪人はたくさん出てきたけど(後略)」
川上未映子と永井均の対談にあった「書かれたことのない悪」について穂村さんが考えたことですが
わたしもちょっと思い浮かばないですね。
物語においておもしろい悪役はたくさんいるけど、こいつ最低だなっていうのとはまた別な気がする…。
そういえばるろ剣の作者が「京都編が敵キャラばかりだったので人誅編は全員最低な奴にしたかったけど
うまくいったかわからない」みたいなことをインタビューでおっしゃっていた覚えがあって
(鳥山明や尾田栄一郎は悪を描くのがうまい、とも)、
志々雄真実でさえ悪ではなく敵だったから悪人を描いてみたかったみたいな感じだったと思うんだけど
悪の表現てやっぱり悩むよな…。

p.159
「何度も予想が覆されて先が読めない。心の遠近感を狂わされる楽しさがある。
こういう話は最後の着地が難しいんだけど、本書のラストシーンはとてもいい。
単にめでたしめでたしというのではない。それを超えた何かに繋がっている。
この世界に生身で生きてあること、それ自体の不思議さを甦らせてくれるのだ」
先が読めない読書をしていると、
ハラハラドキドキしたりうわって声が出たり終わりのページに辿り着いたときえっもう終わり?ってなったり
読後に深呼吸したりまだドキドキしてたりすると生きてるって思うことありますね。
自分の呼吸や心臓の鼓動は普段あまり意識しませんけど
とてつもない読書の後は心音がものすごく耳に響いて、ああわたし生きてる…てなる。

p.166 
「極限の現実に圧倒されながらも、一つ一つの声に引きつけられる。
ぎりぎりの言葉の中に説話や詩歌を思わせる力があることを不思議に感じつつ、
それらが本来的には想像を超えた世界を描くものだったことを想起する」
ひめゆり学徒隊のガイドブックを読んだ穂村さんの感想ですが
彼女たちが用いた言葉が現実を表現するために使われると思っていなかった、というのは
これ逆ではないかなという気もする。
現実はすごい力を持っていて想像力など軽々と超えていくもので、
おそらくそういう現実の中から人々は想像上の世界を作り上げていくのだと思う。
だから説話や詩歌の優れた語り手は現実を見つめている人たちなんじゃないかな。

p.173
「『疫神』(川崎草志 角川文庫)を再読した。単行本が2013年に刊行された作品だが、
新種の感染症との架空の戦いが描かれているのだ。
新型コロナウィルスに脅かされている今読まなくてもと思ったが、吸い寄せられるように手に取ってしまった。
やはり初読の時とは臨場感がまったく違う」
これと同じ感覚を、去年、ドラマ「アンナチュラル」第1話に感じたんですよね。
感染症の話だったというのを見返して初めて気づきました…
放送当時はSARSの流行もあったのに、実感がないと都合よく忘れてしまっているものです。
あと槇えびし『魔女をまもる』もそうだなあ…。
2017年に連載が始まったマンガで、当初から読んでいましたが
去年単行本が3冊一気に発売されたので最初から読み返してみたらものすごい臨場感でした。
16世紀のドイツに実在した精神医学の先駆者ヨーハン・ヴァイヤーの物語で
当時地球を覆っていた小氷河期と流行したペストの恐怖が魔女や人狼を生み出す環境に繋がっていて
魔女の存在や魔女狩りの正当性を信じて疑わない当時の趨勢を変えようとする主人公という構図が
まさに現代社会を想起させるし、物語として完成度がとても高いです。
無知から来る怖れが生む迫害と差別は女性史の講義で魔女狩りの勉強をしたときにも出てきたな…。
とはいえ主人公のヴァイヤーも当時の人間なので魔術も悪魔も否定はしていないけど。
(原因は血の巡りや閉経からくるメランコリーや精神病で、そこに悪魔が入り込むと考えていた)
「無知は恐れを呼ぶ、だから知れ、つらくても知るんだよ」
ゲルハルトー!彼にもどうか救いを…。

p.178
「読みたい読まなきゃと思いながら、ずっと手が出せないままの作家が何人かいる。
内田百閒はその一人だ。理由の一つには、どれから読んだらいいのかわからないということがある」
わたしも百閒はどこから読んだらいいのかわからなかったけど
わたしと彼には猫好きという共通点があったので『ノラや』から読んだな…。
多作な作家は本当にどこから読んだらいいか迷いますよね~。
そういうときに「代表作」や作家との共通点があると、そこが良い取っ掛かりになるのかもしれない。

p.182
「意味のわからない言葉の中で、もっとも強力かつ印象的なのは、私の知る限りでは「クラムボン」だ」
で、ででで出た~~!!クラムボンが出たぞ~~~((((((゚Д゚))))))
クラムボンと並んでわたしが意味わからんと思っているのはジャバウォックです。
ルイス・キャロルは意味のわからない言葉を生み出すのがうまい…スナーク狩りとか全然わからんし…。

p.186
「図書館の外は嵐。嘘。いや本当だ。いつの間に。本に夢中でぜんぜん気づかなかった。どうしよう。怖い。(中略)
でも、平気。だって、私はここにいる。体は暖かい図書館に。心は本の世界の中に。ここからはもう出られないんだ」
あとがきにしてはメリバっぽい締めくくりですが、
穂村さんが必ずしもそう思ってないところにロマンを感じました。
出られないと言いながら何だか楽しそうなので。


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ヒグチユウコさんの装画がとてもいい。
じっと見ていると、彼女の居るこの部屋の外はものすごい嵐なんじゃないかという気がしてきます。
激しい雨と風と雷で家中の窓がガタガタ鳴ってカーテンが揺れて…。
でも読書に没頭している彼女にとってはきっとどうでもいいことなのだろうな。

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シンカリオンについて書かれた本や論文をちょこちょこ読んでいます。
プロジェクトが5年を超すと歴史もできるわけで、シンカリオンも例外ではありません。
アニメは放送中から研究対象になるんだぜ。どんどん研究されていってほしい。

栗原景『アニメと鉄道ビジネス』。
第2章「大人をもとりこにした「新幹線変形ロボシンカリオン」の衝撃」で20ページほどにわたり、
プロジェクトE5に始まった5年間のシンカリオンの流れが細かく解説されています。
新幹線が変形するロボットを子ども向けキャラクターコンテンツとして展開することになり、
制作されたE5はやぶさがロボットに変形する動画が好評だったことから
TVアニメ化を急がずにプラレールのおもちゃでコンテンツをゆっくり育てていき、
JR各社の許可をとりアニメ化された作品は取材や各種コラボを丁寧に行い1年半のロングラン放送に。
JR東日本企画(jeki)の鈴木氏(やっくんのモデルになった方)の証言が随所に織り込まれていて
それがいちいちかっこいいんですよね。
特に「シンカリオンを、一過性の作品に終わらせたくなかった」が猛烈にかっこよかった!
他にもこの本ではディズニーのダンボからエイトマン、999、パトレイバー、ジブリ映画や京アニ作品、
西武鉄道やコンテンツツーリズムやラッピング列車、鉄道むすめやSL鬼滅の刃まで
あらゆる角度からアニメーションと鉄道の歴史について取り上げられています。
第5章では山陽新幹線の500 type EVAのアツイ誕生秘話が読めますぞー!

河出書房新社編『人生を変えるアニメ』。
様々な著者によるアニメーションについての文集で、
シンカリオンについては前アニメディア編集長の馬渕悠氏が6pほど書いています。
2018年8月刊なのでシンカリオンのTVアニメが始まってから半年ちょっとの頃の内容ですね。
(8月にはエヴァ新幹線回がありましたが編集された時期はもっと前だと思う)
ディアはいつも好意的な特集を毎回組んでくれますが、
この文章も最初から最後までものすごく愛にあふれていて
シンカリオンに関して前向きな内容しか書かれてなくて泣きそうになりました。
キャラクターの多様性についての部分で、具体的に誰、との名前はなかったけど
「寡黙に運転士としての仕事をこなす者もいれば、熱血系のセリフをかましてくれる者、
クールだけど負けず嫌いで"一番"を目指している者、
責任感が強すぎるがゆえに他を寄せつけずに孤高に生きる者などがおり、
彼らはこれまでのロボットアニメ史に名を刻んできた各年代のロボットアニメの主人公像を
想起させるようなキャラクターたちなのだ」(p.65)のところもどれが誰のことかすぐわかるし
そうだよねーそうだよね!って同意しながら読みました。

石岡良治『現代アニメ「超」講義』。
著者が配信している動画番組を文章で再録したもので、
シンカリオンについてもさらっと触れられていました。
往年のロボアニメとの類似性、ボカロやエヴァとのコラボ、新幹線による鉄道ファンへのリーチ、
少年たちの友情を描くことで王道的な成功ルートを邁進していると。
このタイプのロボアニメが今後も続くかは未知数とも語っていらっしゃいました。

藤津亮太「アニメもんのSF散歩(連載第26回)新幹線変形ロボ シンカリオン」。
『SFマガジン』60巻1号に著者が連載しているコラムの26回目のテーマがシンカリオン。
TVシリーズについて書かれていますが、タイトルのとおりSFがテーマの雑誌なので
このコラムでもあらすじと鉄道方面の背景について触れられている程度。
TVアニメは半世紀にも及ぶ新幹線の実績によるヒーロー性の説得力と
ハヤトくんが新幹線をよく使っているなど日常性に立脚している点が大事なポイントとのこと。

はーーーーーっシンカリオンが専門家のまなざしで分析されるのよき…!
Zも始まったし、これからも歴史が刻まれるので研究が進むといいなと思うし
いつかはまるっと1冊シンカリオンの論考でまとまった本とか出るといいな!

shinkabon2.jpg
Zの放送が始まりますので、各種雑誌でもシンカリオンの特集を組んでくれてます。
左からアニメージュ4月号、アニメディア4月号、旅と鉄道の「アニメと鉄道」特集号の表紙の一部。
3誌とも先月の発売でしたのでZの初回についての情報がメインで、
内容は過去の日々に書きましたので詳細は割愛しますが、
雑誌でどういう特集が組まれたかも研究対象になりますので大事なんだよ。読者投稿欄とかもな。

shinkatsuri1.jpg
先日、東博に行った帰りに山手線内でシンカリオンの中吊り広告見つけました!
ぬおお手前に吊り革が…なぜこちら側に設置されたのか…(反対側だったら綺麗に撮れた)

shinkatsuri2.jpg
1枚ずつ。こちらは放送のお知らせ。

shinkatsuri3.jpg
こちらはてっぱくのシンカリオン展のお知らせ。

広告も研究やアーカイブの対象になるものですがそのへんどう保存されてるんだろ、
というかjekiのプロジェクトの企画関係資料やアニメ制作の資料、宣伝に使われた広報物、
動画におもちゃにグッズに関係者への取材資料まで全部収集対象ですぞ。
シンカリオンアーカイブつくって、こういう作品があったことを未来永劫伝えていってくれー!
(ていうか作られてないならわたしやるよ?ハコと予算くれれば誰でも見られるように整理する自信ありますよ)

yamanotesen2.jpg
信じられるか…この車両が新幹線と合体して巨大ロボになるんだぜ…!
最近は在来線を見てもテンションの高まりがノンストップです。
やばいよただでさえ金のかかる推しを追いかけてるのに在来線までハマったら大変なことになりますよ。
(しかしもう山手線に乗ると「Z合体!」とか考えてるから時すでに遅しかもしれない)

shinkashinkokoku.png
昨日、朝日新聞と朝日小学生新聞にシンカリオンZ放送の広告が載ったのですが
朝刊を取っている友人が譲ってくれました!やったー。
(1年振りくらいに会ったのですがマスクつけて消毒して、屋外で距離とって風向きまで注意して
「元気だよ!また会おうね!京都行きたいね!」って会話だけしてバイバイしました。
次に会えるのはいつかなあ)


そうだ新聞といえば!
先月14日の流れ星新幹線について書いた記事の終わりに、特別な新聞を注文したことを書きましたが
先日無事に届きましたよ☆
nagareshinka1.jpg
同封されていた挨拶紙に写真をアップしていい、と書いてあってマジかー!ってなりました、
JR九州さん太っ腹すぎる。

nagareshinka2.jpg
というわけで「#エール九州新幹線」のタグとともに一部お見せします。

nagareshinka3.jpg
広げましたが横長すぎてとても画面に収まらない!(通常の新聞を広げた大きさのさらに2倍ある)
アーーーーッ夜を駆ける流れ星新幹線の写真まじかっこいい☆

nagareshinka4.jpg
上が10年前の全線開通時の七色新幹線で、下が流れ星新幹線。
九州新幹線10周年、改めておめでとうございます。
見に行けなかったのが本当に残念ですけど、5月まで流れ星さん安全運転で走りきってほしい。
(車体に「シンカリオンのパイロットになりたい」という願い事がプリントされていると聞きました。最高)
そして20年目はどんな企画が生まれるのかな。(気が早いよ)

…で。
追記にシンカリオンZの1話感想です。
異様に長くなりましたので仕舞いました…クリックで開きます。↓ 続きを読む

石田美紀『アニメと声優のメディア史-なぜ女性が少年を演じるのか』を読みました。
女性の役者が男の子を演じてきた事例を軸にアニメと声の文化の歴史をたどる本です。
現在も続くTVアニメ「サザエさん」(1969年~)のキャラクターである男子小学生の磯野カツオ役は
代々女性の声優さんが務めていますが、
そんな風に女性の声優が男の子のキャラクターを演じるようになった背景と歴史が細かく紹介されていて
とても勉強になりました。
男の子の子役が変声期を迎えるだけが理由ではなかったと初めて知りました。
(子役の声変わりで有名というかわたしが知ってる事例はガッチャマンだなあ、
塩屋翼さんがちょうど声変わりの時期だったので初回と最終話で声が変わったというあれ)

(というか、これも初めて知ったんですが声優という職業の黎明については
森川友義氏と辻谷耕史氏が「声優の誕生とその発展」「声優のプロ誕生」という論文を書いてるんですね…!
辻谷さんて本業や音響だけでなく論文も書ける人だったのか。
リポジトリ等の公開がないので探して読んでみたい)

日本におけるアニメや吹き替えの現場では女性の声優が少年の声を演じていますが
ディズニーをはじめアメリカのアニメでは女性が少年を演じることは慣習ではないそうです。
たとえばディズニーが1940年に公開した映画「ピノキオ」では
キャストとして最初に集められたのは大人の役者たちだったそうですが、
ウォルト・ディズニーが「成人じゃだめ、わたしは本当の少年がほしい」と言って
子どもを集めてオーディションが行われ、ピノキオ役は子どものディッキー・ジョーンズに決まったとか。
また映画「バンビ」(1942年)ではバンビの成長にあわせて役者を交代していて
バンビの子ども時代を演じたドゥニー・ドゥナガン(当時6歳)への演出は
「自分自身であること、自然な子どものままでいいと言われた」だったそうな。
対して、戦後ですが1963年放送開始の「鉄腕アトム」でアトムを演じたのは当時26歳の清水マリさんで
「5年生くらいの男の子のつもりで演じてください」と手塚さんに指示されて演じたけれど
「(アトムの声を)誰がやっているのかわからないことが大事だったらしくて
今はアトムでしたと言うけど、当時はできるだけ隠しておこうと思っていた」と考えてらっしゃったそうな。
アトムのTVアニメの放送は約3年続きましたが
男の子の声を女性が出していると知られるのはまずいという雰囲気が
少なくとも彼女の周囲ではあったのだそうです。これどういうわけなのかな…。

日本における声の役者の歴史について。
太平洋戦争後、日本ではGHQのCIEによるラジオ放送局の再建が行われたのですが
(1946年の文部省とNHKの共同調査によれば空襲や部品不足などのために
各教育機関の半数以上のラジオが放送を受信できない状態にあったらしい)
彼らはラジオ技術の提供と物理的支援と番組制作にも関わっていて(15分を基本単位としたのもこの頃)
日本社会の民主化を推進するメディアとして放送劇の企画をたてていったそうです。
そのときキーにされたのが「より緩やかな手法」で制作すること。
戦後、ある日本のアナウンサーが戦時中の大本営発表などの雄叫び調による放送が
聴取者を受け身にしてしまったことを反省している言説があって、
どうにかしてアナウンサーたちが一方的にならずに聴取者との距離を縮めようと試行錯誤で進んで
その中で出てきたのがラジオドラマだったと。

戦時中もラジオドラマはありましたが主に単発ドラマで、
戦後は制作できる環境が整ってきたのか、連続放送劇が増えていったようです。
1947年に始まった、菊田一夫と東京放送劇団による「鐘の鳴る丘」は戦災孤児の物語で
主人公を中学生が演じたり、他にも小学生など多数の子どもの出演がありましたが
彼らはお芝居を専門にやる子役ではなく、昼は学校へ行き、夕方に放送に出るという生活だったそうです。
(鐘の鳴る丘は放送開始時は生放送で1948年4月以降に録音放送となりました)
制作者の大人たちは「放送劇に出たために成績が落ちては何にもならない」という意識を持ち、
子どもたちの修学を妨げないように土日の夕方など慎重に収録日を選んだり
「鐘の鳴る丘」以外には出演させない、写真記事などでスター扱いしないことも決めていたとのこと。
これには1947年に制定された労働基準法にて
15歳未満の児童の仕事は午後8時までと法律で決められたことが影響したようです。
戦前には、14歳でデビューした田中絹代や5歳で映画に出た高峰秀子など
子どもの頃から俳優としてのキャリアを積んでいた人たちはいるのですが
法律やルールがはっきりしていないせいもあってか、子役たちは大人たちに翻弄され
子役の生活は子どもの保護や権利とは著しく相反するものでした。
そこへ労基法と、同年に制定された児童福祉法の影響もあって
子どもを保護し、権利を守る社会への一歩が踏み出されたということらしい。なるほどなあ。

しかし子役の起用が難しくなっても、番組には「子ども」が登場します。
「鐘の鳴る丘」では途中から登場した大阪の女の子・とき子を演じたのが
男の子も女の子も演じる子役専門の声優としてキャリアを積んでいくようになる
木下喜久子さん(当時19歳)だったそうです。
(同じ頃、彼女は芥川比呂志と共演した「捨吉」(1958年)では少年・捨吉を演じている)
戦後の「ヤン坊ニン坊トン坊」では木下喜久子、黒柳徹子、横山道代が男の子の子ザルを演じています。
子ども役の増加と子役起用の困難さは、女性の役者たちに活躍の場を増やしていったのですね。
木下さんは子どもの声を出すために出勤時には自分を無にして
スタジオに入るときはもう子どもの気持ちになっていることに集中したり、
収録の休憩中は「大人の自分が出るから」とスタジオの外に出て他の役者とは話をしない、
近所の小学校や電車の中で子どもを観察するなど、徹底した役作りを行ったそうです。
「男の子を演じるときはご飯を食べてすぐに演じる。おなかがいっぱいになると声がずっと落ちて重くなる。
女の子の場合はおなかがすいても食べない。声が軽く出る」という発見もしたそうです。へえぇ。

そして、ラジオの次はテレビ放送の時代がやってきます。
テレビの黎明期に海外ドラマの吹き替えが放送されるようになったのですが
最初は字幕だったのが吹き替えの方が音声がつくので視聴者の関心をひきやすいということで
吹き替えの仕事が増えていったのだとか。
(理由は他にも、テレビが小さくて字幕が見にくいことや
当時はテロップが広告枠だったのであまり使用できなかったことなどが挙げられるとか)
この頃、舞台で俳優をしていた野沢雅子さんが洋画の少年役で声優デビューを果たしています。
当時の吹き替えは生放送だったので子役は使いにくく、
安心して任せられる年齢の男性役者では声が太いので女性の野沢さんが呼ばれたそうです。
これどっかで聞いた話だなあ、どんな作品の仕事だったか覚えていないと野沢さんおっしゃっていたような。
他にも子役ではできなかった事例としてフジテレビの「進め!ラビット」(1959年)の紹介があり、
この番組では収録の際に録音スタジオがもっとも安く使える午後9時~午前4時に録音したので
子役は使えなかったとのこと。要するに経費削減で大人が起用されたということですね。
(それにしても芸能界の時間感覚どうなってるんだろう。深夜業とかいうレベルじゃないと思う)
法律の制定と現場の運営方法など様々な事情が続いたために
大人、そして女性の役者の起用はラジオとテレビに適しているということで
占領期が終了しても女性が子どもを演じる文化は残り、定石になっていったわけですね。
なるほどなあ!(^O^)

ちなみに例外もありました。東映動画。
1958年公開の映画「白蛇伝」では森繁久弥さんと宮城まり子さんがすべてのキャラクターを演じていて
宮城さんが少年時代の許仙を演じていることでも有名です。
森繁さんも宮城さんも当時から顔を知られたスター役者だったので
アトム役の清水さんが「誰がやっているのかわからない方がいい」状況は、ここでは存在していません。
1959年の「こねこのスタジオ」でも子役から俳優になった中村メイコさんが出演したりしているので
東映動画の作品に出演した俳優たちはキャラクターの黒子だったわけではないようです。
東映動画は映画会社「東映」の傘下にありましたので児童演劇の研修所を持っていて
そこでは毎週土日に子役の育成と訓練を行っており、
さらに独自の録音スタジオも持っていたので子役のマネジメントが円滑に行えたのだそう。
アニメ「猿飛佐助」や「狼少年ケン」も子役が演じていますし
映画「安寿と厨子王丸」(1961年)では少年時代の厨子王は当時12歳の住田知仁(現・風間杜夫)さん、
青年時代は北大路欣也さん(当時18歳)が演じていて、安寿は佐久間良子さん(当時22歳)です。
ほか山田五十鈴さん、平幹次郎さん、東野英治郎さん、松島トモ子さんなどが出演していて
映画ポスターなどでも堂々と宣伝されていたみたいなので、
役者さんの声を聞きたくて映画館に足を運んだお客さんもいるのではないだろうか…。
ちなみに東映動画の録音作業はプレスコが基本で、作画は録音の後に行っていたそうですが
(俳優は声のほかにライブアクションなど作画に協力もしたと大塚康生さんの証言があるね)、
連続TVアニメシリーズの制作が増えると今度はアフレコへと移行し、
子役の変声期の問題もあって「狼少年ケン」以降は子役がほぼ起用されなくなっていきます。
「鉄腕アトム」以降に連続TVアニメシリーズが制作される状況が続かなければ
大人が子どもを演じる文化が定石になったかどうかもわからなかったってことなのだなあ。

1970年代後半にはアニメ雑誌の創刊が相次ぎまして
アニメージュ創刊号(1979年)は宇宙戦艦ヤマトを特集し、
アンコールアニメで「太陽の王子ホルスの大冒険」を取り上げるなどしています。
(当時編集部員だった鈴木敏夫氏がホルスのコメントをもらおうとして高畑勲氏に電話をかけて
宮崎駿氏とも運命的な出会いを果たすのは有名な話ですが、それはまた別の話)
その創刊号で「声優訪問 神谷明」というコーナーがありまして
当時から売れっ子だった神谷氏を特集しています。
この頃から雑誌に声優の記事や顔写真が掲載されるようになってキャラクター人気投票なども行われ、
現代でも続く声優のスター化が始まっていくのですが
1987年に発売されたOVA「風と木の詩」の話が耳が痛かった…。
小原乃梨子さんがセルジュ、佐々木優子さんがジルベール、
榊原良子さんがロスマリネを演じているのですが(女性が少年を演じる文化の継承ですね)、
小原さんはドラえもんののび太くんの声優として有名になっていたので
女性ファンから「のび太くんの人がセルジュ(16歳以上)を演じるのはどうなのか」という意見が出ていたとか…あわ、あわ。
これはもう個人の好みの問題というか、制作側の都合もあるのでどうにもならない部分というか
わたしも経験があることなので何とも言えない気持ちになりました。
声優がスター化してきたことでイメージが定着してしまうという。。
しかし著者は「男性声優がセルジュを演じていたらファンは納得したのか?」という問いもたてていて
さらに「女性ファンは何を期待していたか?」ということで
BLに特化した雑誌「JUNE」(1978年創刊)の作品の音声ドラマ化の事例をあげています。
この音声ドラマ化シリーズで演じているのは主に男性声優だったので、
BL作品は男性に演じてほしいファンがいたということかな。
ほか、1990年代のBLドラマCDや2000年以降のシチュエーションCDなどの影響もあって
最近、少年漫画がアニメ化される際には主演に女性ではなく
男性の声優が選ばれやすくなってきた理由のひとつではないかとのこと。

他にもマクロス以降の歌を歌う声優の登場、新人女性声優の起用ブーム、
女性声優が演じるキャラクターへ萌えや緒方恵美さんの演技、ファンとの交流についての章もおもしろかったです。
蔵馬に始まり天王はるかやスターライツなど性規範を攪乱するキャラクターについて、
BLと百合、女性声優はどこまで性を越境できるかなどのテーマがありましたが
この辺りは過去に読んだことがある声優論のような感じだったかな。
歌手デビューやアイドル化だけではなく2.5次元などますますコンテンツが千差万別していくなかで
女性の声優はどこまで行けるだろう。
あと個人的におもしろかったのがアフレコ台本にある「、」「…」の演技についてや
1960年代に発生したアテレコ論争について。
1962年2月の東京新聞に東野英治郎が「声の役者に危険手当を出してほしい、
俳優の演技は十人十色で他人がつくったものへ声だけを合わせるのは納得がゆかない」と意見を出していて
その後声優の永井一郎さんが考察を発表しているもの。
永井さんは「自分自身が画面の人物の行動をやっているとイメージすると
意識的に細胞に何かが起こる感じを作り出せるようになり、仕事はうまくいく」と考えたようです。
声優さんの演技論はいつ聞いてもおもしろくて楽しいですが
永井さんのインタビューや論文はいつも平易なことばでスッとのみこめる印象があります。
伝える力のある人でしたね。

seiyubon.jpg
p.29より、第1章の扉部分。
フォントがトーキー映画の字幕みたいだなと思いました。シネキャプションとかニューシネマとか。
8ミリフィルムの回る音が聞こえてきそうな、レトロな雰囲気。

※しばらくブログの更新をゆっくりにします。次回は19日に更新予定です。


『じりじりの移動図書館』を読みました。
ぐるぐるの図書室ぎりぎりの本屋さんに続く5人の作家さんたちによる短編小説集です。
ぎりぎりの~が発表された時点で3冊目があるという情報があったので楽しみにしていました。
\4冊目も楽しみにしています!/(気が早い)

お話は全部で5つ、ある日どこからかやって来る移動図書館ミネルヴァ号を狂言回しに
登場人物たちは本の貸し借りをしたり誰かと出会ったり大冒険をしたりします。
前2作はどちらかというと日常ファンタジーっぽい雰囲気だったのが
今回は図書館が過去にも未来にも行くので物語の幅がぐっと広がっているような気がする。
ミネルヴァ号には知恵の象徴であるフクロウの紋章がついていて、
車体の上にある目覚まし時計(!)が車の発着時にじりじりじり!と鳴ります。(タイトル回収)
現代に来るときはキャンピングカーやマイクロバスのような形をした車とのことですが
訪れる土地や時代に合わせて馬車やボンネットバスなどに形を変えるので
いつどこへ行ってもその場所にするりと溶け込んでしまう便利な機能つき。ワクワク。
乗っている職員は男性の館長さんと、運転手も兼ねる女性の司書さんのコンビ。
移動図書館に館長がいるのは日本ではあまり例がないですが
世界には移動図書館しかない地域もありますから、そういう意味でもワールドワイドな感じ。
司書さんの正体の可能性には言及されますが(馬に変身するとか知恵の神ミネルヴァを彷彿とさせるとか)
館長さんが最後まで謎なので色々想像してしまいます。白髭のおじいちゃん☆
知恵の神様というとオーディンやトト、文殊菩薩、思金神などが思い浮かびますが、さて、さて。


目次の順番は毎回違うのですが、
今作は廣嶋玲子さん・まはら三桃さん・濱野京子さん・工藤純子さん・菅野雪虫さんの順番。
移動図書館の物語なので世界の移動やタイムトラベルなどSFちっくな内容が多めですね。
館長さんと司書さんは各地を訪れて本の貸し借りを行うのが仕事ですが
まれに急用があったり、誰かに呼ばれたりして世界を渡らなくてはならないこともあります。
(そのせいで巻き込まれる主人公多数)
主人公たちはだいたい小学校5~6年生で、前2作と同じような年齢の子どもたちです。
本を焼こうとする人が国王になっている国で本狩りから逃げたり
奄美大島の伝説を島の言葉で語るおじいさんから話を聞いて謎を解いたり
戦争の時代にタイムスリップして画家になりたかった青年にスケッチブックを見せてもらったり
タイムトラベルして政治も芸術も本もAIに検閲される未来世界で本の疎開をする人たちに会ったり
小説を書くと発禁になる世界から逃げてきた人たちと出会って
自由になるために本を読んで勉強する、と決意したりします。
トップバッターの廣島さんがポポポポ~~ンと大きな冒険を書いているので
後に続く人たちも自由に物語を展開しています。
そもそもミネルヴァ号のバイタリティがすごいので内容が壮大になるのもさもありなん。
前作までの主人公たちは何かにぐるぐる悩んでいたり、状況がぎりぎりだったりする場合に
図書室や書店を利用するパターンが多かったけど、今作は悩める主人公はそんなにいなくて
いきなり大変な状況に放り込まれてじりじり追い詰められたりするパターンですね。
うっかりミネルヴァ号の中で本を読みふけっていたら知らない世界に連れていかれたり
過去や未来に行ったりしたらそりゃびっくりしますな…おちおち本の世界に夢中になっていられない。。
でも冒険や出会いを経た主人公たちは前よりも世の中の奥行きを感じられるようになったりするので
彼らは豊かな経験をしたと思います。
子どもはあっという間に成長しますよね…。
ただ菅野さんの短編の主人公みたいにえげつない成長する子もいるので時と場合によりますが…。
(ああいう子は本当に多いと思うので大人として無力さを感じて申し訳なくなるんだけど
頼むよ誰かこの子助けてって思いながら読んでたら最後の最後に救いが来て、
いや救いかというとわからないんだけどあの子があれからどういう大人になっていったのかはとても気になる)

あと今作はいつになく、図書館の役割について組み込まれていたなと。
焼かれそうになった本を救い出すとか、消滅しそうな書物や伝説を探して収集・保管するとか
離島やディストピアに住む人々に本を届けるとか、歴史について学べるとか
家に居場所のない子のためのシェルターになることもあるとか。
基本中の基本である収集・保存・提供のほかに焚書、アウトリーチサービス、郷土史の収集、
検閲や発禁の反対、自由を守ることなど普段の仕事中に考えている様々なことを思い出しました。
(あと始皇帝の焚書や華氏451度、図書館の自由に関する宣言、鎌倉市図書館のツイートについても)
この本を読んでくれた人たちが、図書館が収集するのは販売されている本だけじゃなく
地元の人が地元の言葉で語る物語も収集対象になるとか(むちゃ加那が出てくるとは思わなかった)
(ミネルヴァ号さん今回収集したデータをぜひ主人公くんの住む自治体の図書館へも寄贈してくださらんか)
戦地などで本の疎開をした人たち・今この時代もしている人たちがいることとか
図書館や学校図書室を避難場所にしている人がいることとか
(図書館の自由に関する宣言には「資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする」という一文がある)
図書館には色んな役割があるのだと思ってくれたらいいな…。
あと濱野さんの短編に、ミネルヴァ号を見た過去の人々が貸本屋と勘違いするシーンがありますが
あのリアクションは、移動図書館が珍しい時代だった頃を描いているのでああいう描写になるのですが
その描写を書くためには当時の図書館の歴史について調査をする必要があるので
そういう調べ物にも書店や図書館が一役かうことがあるから
資料の保存や自由に読める環境は大切なのだということを…想像してくれたら…いいな…(小声)。
(いやこれは物語なんだ!小難しいことなど考えずに楽しめばいいんだ!という自分と
あわよくば図書館てこういう仕事をしてるんだって知ってもらえたら…という自分が大喧嘩をしている)


今日もどこかでミネルヴァ号が誰かに本を届けたり本を守ったりしているのかと思うとワクワクするし、
これは続きというか、もうちょっと別のお話も読んでみたいと思いました。
たとえば移動図書館黎明期の時代の話とか、自分の本が保存されているのを知る作家さんとか
館長さんと司書さんはいつからこの仕事をしているのかとか…。
あとミネルヴァ号が所属している図書館とかないんですか…じりじりの図書館的な…。


今回も巻末に5人の作家さんへの質問と回答が掲載されていました☆
「子ども時代の自分と、今の自分の状況」について、擬態語を交えて語ってくださっているのですが
廣嶋さんの、「子どもの頃は真冬でも半袖Tシャツ短パンで寒さなんかへっちゃら、ぴんぴん」だったのに
今は「セーターの上に半纏」「タイツの上に暖パン」「ルームシューズでもこもこ」「ヒーターとホットドリンク」というの、
わたしはそこまで極端ではないけどわかる気がしました。
子どもの頃は真冬でも外にいるのは平気だったし、学生時代は冷たいドリンクめっちゃ飲んでたのに
今は冬になると半纏とこたつが欠かせないし温かい飲み物じゃないと飲めない。
まはらさんの、「さまざまな感情に目まぐるしく見舞われるせいでいつも胸がどきどきしていた」は
わたしには経験がないのですが、そのせいで授業中もお手洗いに行きたくなってしまうのは大変だな…。
濱野さんの、「授業中に答えがわかっても手を上げられない子どもだった」とか
今は「面倒なことは先延ばし。ぐずぐず」もすごくわかる…!
やらなかったら気になってしまうくせに、やり始めるまでが長いんですよね^^;
工藤さんの、子どもの頃は「本当に大変だった。周りの目が気になったり他人と自分を比べたり、いじいじ」も
今は「開き直るワザを身につけました」というのわかる…!
そう、ワザなんですよね…生き抜くために身につけるんだよね。
菅野さんの、「ぺらぺらよくしゃべる子で、読んだ本の内容を友達に語るときに
飽きられないように省略と盛り上げる箇所を考えてしゃべっていた」みたいなこと、
確か前にどこかでもおっしゃっていたような…。そしてこれもすっごくわかるんだよなあ…。
楽しかったことやおもしろかったものを誰かに話すとき、無意識に盛ってしまうことわたしもあるので。

わたしは…。
授業中に手をあげられなくて、指名されたらどぎまぎしてしどろもどろになって
人前で何かパフォーマンスしなきゃならないときは完璧にできたためしがなくて
放課後は学校の図書室や部室で好きな本読むか友達と絵を描いている…みたいな生徒だったので
先生たちにとって決して扱いやすい子ではなかったと思います。
今は「別に完璧じゃなくても適度にやれればいいや」という風に、ようやく思えるようになってきたので
子どもの頃よりはいくらか肩の力を抜いて過ごせているかなあ。
そんな風になれたのも昔から好きな物語とか友人の言葉とかSNSの集合知のお蔭だったりするので
この世に言葉が、文字が存在することに感謝しています。
今日もわたしは本を読む。( ・ω・cl⌒l⌒b

※しばらくブログの更新をゆっくりにします。次回は11日に更新予定です。


沢村凛『黄金の王 白銀の王』を読みました。
一族同士の争いを終わらせようと共闘する2人の主人公の物語です。
フォロワーさんのおすすめで読み始めたのですが、あらすじがとてもツボな感じだったので
どんな王国物語かとページをめくったら書きだしが淡々としていてちょっと戸惑ったのですが
19歳の穭にまみえた15歳の薫衣が「会いたいというから、来た。何の用だ」って言ったとたんに
あ、なんかわかった!ってなって、そこからぐっと熱量が上がってワーーーッと一気に読んでしまった。
キャラクターがはっきり見えてきたのもあの辺りだったなあ…。
ストーリーはわかりやすくて、ときどき作者都合っぽさを感じさせる雰囲気ではありましたが
(ファンタジーノベル大賞はキャラクターより物語の構成が優先される作品が多い印象があるので
後でプロフィール見てなるほど、とは思ったんですけど)
主人公2人の関係を細かく書くっていうところに重点が置かれているので先がすごく気になったし
登場人物の立ち位置の作り方とか感情がぐわっと爆発するシーンへのもっていき方がすさまじくて
やばいやばいやばい!って引き込まれてしまった。
あと読んでて色んな物語を思い出しましたね…歴史の流れは『獣の奏者』とか『雲のように風のように』とか
稲積と初めて会ったときの薫衣は『アースシーの風』のレバンネンとか
ラストの穭と薫衣は『おんな城主直虎』のおとわと鶴とか…。
章末に思わせぶりなト書きが多いのは『図書館の魔女』を思い出しました。
急にネタバレぶっこんできたりね…453ページのあれはずるいでしょ…。
このての物語ってだいたい2人とも生き延びるかどちらかが退場するか、2人とも退場するかのどれかだから
どこへ転がっていくのかなあと思って読んでいたので、
いきなりはっきり書かれてしまったことにびっくりして心臓がどきーん!となりました。
そういうところが何というか、歴史書を読んでいるような気持ちにもなりましたね…。
「たった今起こっていること」が書かれているのではなく「1年前か5年前か、300年前にあったこと」みたいな感じ。
お話の雰囲気や価値観が中世~近世っぽくもあるので、特に違和感はなかったけど。

かつてひとりの傑物が平定し、その子孫が玉座を代々継いでいたところ
四代目の子である双子の王子たちが世継ぎの座をめぐり争ったのを機に
その子孫たちも分裂し穐と厦の派閥をつくり互いに自分たちが嫡流であると主張し、
憎み合い殺し合いながら玉座を乗っ取ったり奪い返したりすること数百年の国・翠。
主人公はそんな二派である鳳穐と旺厦の頭領・穭と薫衣で
彼らの少年時代から壮年期までの出来事が書かれます。
現在の翠の国王は穭がつとめているので時代は鳳穐の天下であり、
薫衣をいずれ殺すつもりで人里離れた森の中に幽閉していたのですが
数百年におよぶ鳳穐と旺厦の玉座の奪い合いにより翠の国力はじわじわと弱っていて
このままでは海外の大国との戦争で飲み込まれてしまうと危惧した穭は
薫衣を城に呼び寄せて争いを終わらせよう…と提案をします。
両親に鳳穐を滅ぼすように遺言されていた薫衣は最初は断りますが
穭との対話を通して恨みを晴らすより成すべきことをなす方を優先させ共闘すると決めて、
でもいきなり和平宣言をしたら一族が混乱するのでまずは穭の妹と薫衣の結婚から始めることになります。
ここの描写が最初の盛り上がりというか、2人の葛藤がびしびし伝わってきて心が痛かった…。
お互いに「相手は過去に一族を多く殺してきた一族の頭領」なわけで
お互いに「ぶっ殺してやる」と強く思って機会をうかがってきたわけで、
でもその気持ちを抑えて手を組み同じ方向を見つめなければならないというのは生皮を剥がされるような痛みがありそう。
(同時に教育の力と恐ろしさをものすごく感じた…。
幼い頃から怒りや恨みとともに正しいと教えられてきたことを断念するって相当メンタル強くないとできないのでは…。
鶲が食事の席で荻之原の話をしたときも迪師おまえ…ってなった)
穭も言ってましたが2人に身内がほとんどいなかったのも幸いというか…これで親とかいたら地獄絵図だよな…。
妹の稲積も兄の考え方に異を唱える人ではなかったしね。(たぶんそう教育されてきたんだろうけど)

どっちかというとワクワクドキドキしたり「あーおもしろかった」という読後感はなくて、
銀英伝を読み終えたときのような、「はあ~終わった…」と、ゆっくり本を閉じるような読み終わり方でした。
長期に渡る二派の争いに過去や現代の戦争を重ねて考えてみたりもしました。
幼い頃から頭領としての生き方や指導者としての心構えを徹底的に教え込まれていたにも関わらず
その道をあきらめて別の理想を掲げて歩き出した2人は
隙あらば薫衣と旺厦を滅ぼそうとする城内の勢力や、薫衣に立ち上がれと迫る旺厦の勢力、
海の向こうから攻めてくる敵など想像を絶する困難をひとつひとつクリアしていくのですが
いっときの感情や周囲の影響で生じたズレを必死に軌道修正して被害を最小限に食い止めようと
思考と行動を尽くす2人の姿があまりにシビアで痛々しくてつらい…。
孤高を気取らず、衝動に身を任せず、英雄視されるまなざしに酔わず、
百年先を見据えていることを周囲に漏らさずに自分たちの行動の意味を説明することのなんと難しいことか。
だいたいの物事はしっかり根回しして説明したことはうまくいって
予定外だったり突発的だったり説明を怠った際に生じたほんの少しのズレが積み重なって
やがて致命的な、取り返しのつかない事態につながっていくのすごくリアルでしたね…。
薫衣が駒牽を斬り殺したときは正直、なんでここまでしなくちゃいけないの…!ってなったし
薫衣の長期的視点とそのために押し殺された彼の感情を思うと吐きそうになってくる。
十二国記とかもですが国王が今生きている人やこれから生まれてくる人たちのために行動しようとすると
国民に犠牲が出てしまうのほんとつらい…。
そしてそういう気持ちを理解できるのも2人だけだから
薫衣にかける言葉を慎重に慎重に考える穭の気持ちも伝わってくる。
お互いに殺したい感情を抑え込みながら、でもお互いの気持ちが一番わかるのもお互いだけで
誰もわかってくれなくても貴殿は知っていてくれる…みたいな関係めちゃくちゃしんどいです。
小さい頃から教え込まれてきた方向に身と心を委ねてしまうほうが
2人にとっては楽だしそう思ってるだろうけど、それは思考の停止だというのもわかってるからな彼らは…。
彼らの周囲にいる人たちは思考停止してる人たちが多いけど、それは彼らの親世代の教育や境遇のせいだけど
2人のように考える人たちは過去にはいなかったのか、いたとしても出る杭として打たれたのか…。
(そういう記録は往々にして残されなかったりするので辿れなかったりもするんですよな)
穭と薫衣があまりにも2人きりすぎてほかに理解者はいなかったのかな、いてほしかったなとも思いますけど
もしそういう人がいたら彼らの孤高さはこんなにも際立たなかったろうな…。
お互いに相手の才能をうらやましいと思ったり尊敬したり、悩んで迷って自分の行動や指針に不安を覚えたり
両者とも少し隙があるのが人間らしくて好ましいけれど、
おそらく2人はそれを善しとしなかったろうな…とも思いました。

薫衣の最後の決断はわたしには納得がいきませんでした。わたしは政治家に向いてないな…。
物語としてあの結末はあり得るし薫衣の尊厳が守られたのはわかるけど、やっぱり受け入れ難くもある。
わたしが彼ほどの覚悟を持つことができないから感情で納得できないのか、
何となくですが彼が選んだことなのか作者がやりたかったことなのか、
いまいちはっきり落とし込めてない気もしてしまっているというか…うまく言えない…。
生きていてほしかったから色々考えてしまうのかもしれないけど。
ただ「死者の言葉が生者を縛ってはならない」からと遺言を残さなかったのはよかった、
たぶん穭もそうするだろうな…2人とも大変な思いをしましたからね。
稲積や鶲との家族関係もうまくいっていない部分があったけれど
一挙一動を見張られている薫衣にとって、家族と接する時間さえもそういうことだったから
「会えば揺らぐから」の言葉で鶲に薫衣の気持ちが少しでも伝わったなら、よかった。
次世代の様子などもう少し読みたかった気もするので外伝とか出される予定はないのかしら。

「四隣蓋城様」「頭領様」「穭様」って、立場とかTPOによって呼び方が変わるのが
時代ものって感じがしてよかったです。
穭と薫衣が名前で呼び合ったり「鳳穐殿」「旺厦殿」って呼び合うのとかね。
海の民に話しかける薫衣が完全に変わり者扱いだったり
その海の民と薫衣たちでは言葉遣いが異なったりする部分も
薫衣の前で舞う河鹿を見た稲積が文化の違いを認識してしまうのも歴史ものっぽいなと。
(そういえば翠は女性が国王になることは想定されていないんですかね)
あとこれは職業病なので言っていいかわからないんですが、
薫衣が働いていた文書所の仕事で、紙が劣化するから新しい紙に記録を書き写すのはいいんですが
人の手でそういうことをやると写し間違いというリスクがありましてな…。
(現実は古代史あたりから既にそういう事例がいくつも見つかってる)
人員も増やしてるみたいだし、穭のことだからトリプルチェックくらいはさせてると思うけど
下手したら記録を書き換えられかねない職場に薫衣を入れた穭がほんとにすごい。
書き換えられるリスクより薫衣が知識をつけることを優先させたってことよな…百年先の未来のために。
薫衣が不正をするような人物ではないと確信していたからできたことでもあると思う。

タイトルですけど、最初は太陽と月なのかなと思ったんですけど
歴代国王の遺体を包む布の色のことだったんですね。
鳳穐の王は黄金、旺厦の王は白銀の布で体を包まれて城の地下室に保管されている。
鳳穐の家紋がススキ(黄色)で旺厦の家紋が雷鳥(冬毛が白)というのにも関係しているのかな…。
四代目の王の子どもたち、穐・厦の双子の王子の名前は
穐は秋の旧字で(千穐楽の穐だよね)長い年月のこと、厦は大きな家の意味だそうで
国が長く続くことを願ってつけられた名前だったんだろうか。
ちなみに穭は刈った株から再生した稲の意で、稲積は刈り取られ積まれた稲のことだそうですが
薫衣はラベンダー(薫衣草)なんですね。
家紋が雷鳥だし子どもに鶲や雪加とつけているので旺厦は鳥の名前をつける一族なのかと思ってたけど
薫衣がそうならなかったのは…いやでも孫は松藻だから植物の名前もつけるのか…ふーむ。

表紙の皇なつきさんの絵がとてもかっこいい!
薫衣が持っているのは初代の王の剣かな。
ラストで穭が鶲に「そなたに渡したい」と言うシーンがよかったです。あれは薫衣のものだものね。

※しばらくブログの更新をゆっくりにします。次回は6月6日に更新予定です。


久保田香里『きつねの橋』を読みました。
平(碓井)貞道が源頼光の郎党になった頃の、平安時代のお話です。
この貞道と、渡辺綱・坂田金時・卜部季武の4人が頼光四天王ですが
物語はまだそうなる前の時間を描いていますね。
若武者たちが様々な人々と出会いながらバタバタと過ごす、色々ありつつも充実した日々。

15歳で元服を済ませたばかりの貞道くんは頼光の邸に来てまだ日が浅く、
馬の世話や薪割りなどの仕事をしていますが
頼光に近い仕事ができるときは手柄をたてようと転がるように走っていくのかわいい。
そんな貞道とは対照的に飄々としているのが平(卜部)季武で、
気がよくておしゃべりな人ですが、弓がうまくて矢を射れば的を外さない達人でもあります。
(彼の弓の腕前は古今著聞集の逸話にありますね)
高陽川の一件で気に入られて、セットで仕事を言いつけられるようになった貞道くんが
最初のうちはそっけないのおもしろいし、
「たいへんだ、貞道」「たいへんそうだな」のやり取り好きです。かわいい。
公友は金時の父親でしょうか。体が大きくて2人よりも力があり、季武が相撲で勝てないとのことなので…。
(坂田金時のモデルになったという下毛野金時の父親の名前が確か公友だったと思う)
公友邸で3人で飲み食いするシーンが楽しくて好き~☆
公友の留守中に2人がやってきて、勝手に竈の火を起こして麦縄を茹でて
帰宅した公友に「醤はないの?」とか聞いたりして、
家主も怒ったりせず「あんたたち他人の家でくつろぎすぎでしょ」ってニコニコ入ってきて唐菓子を出して
貞道が干し魚を出して、季武が草餅を出して3人で朝までだべってるのが
信頼関係が透けて見えて素敵です。
綱はまだいないのかな~5回くらい読み返したけどそれらしい人の描写はなかった。

狐の葉月が現れたのが高陽川だったのは今昔物語集27巻にある
「高陽川の狐、女と変じて馬の尻に乗りし語」の引用でしょうか。
夕暮れの高陽川に女童がいて、通りかかる人に馬に乗せてほしいと言ってはからかっていた狐を
滝口の武士たちが捕まえようとする話です。
今回は貞道が捕まえに行きましたけど
1回目は物語集の滝口の武士みたいに化かされて一晩寝込んでしまって、
2回目でつかまえて邸に連れ帰りますが同僚たちが狐をいじめるので放してやって
以来腐れ縁みたいな付き合いが始まっていく流れになっていますね。
「困ったときは呼ぶように」とお互いに約束を交わしている仲ですが
よほどのピンチにならなければ頑として呼ばなくて、呼んだ後もちょっとくやしがってる貞道は
まじめで誠実で若いなあと思います。
はっきり呼んだのも、帝の椅子の影から五の君を守るためだったしねえ、
太刀のような自分の武器だけではどうにもならなかったときでした。
同行人に「こいつは狐だ」と知らせないでいる、葉月の正体がバレなくてほっとする自分に戸惑いを覚える貞道は
つくづくやさしいな…。
でも葉月はあっさり貞道を頼ってきましたね、
自分が仕えている斎院が、祖父を亡くして賀茂祭の準備が行き届かないので頼光に頼んでほしいと。
信頼されてますなあ貞道(*´︶`*)☆
もともと紫野の斎院の庭が遊び場だった葉月は
3歳で親元を離れて紫野にやってきた斎院が気の毒で、悲しませたくないんですよね。
小さな斎院も、大人しかいない御所で話し相手になってくれる人がいたらそれはなついてしまうよね。
「わたしがお願いしてここにいてもらっているの」「きれいな白いしっぽの、わたしのたいせつなきつね」が
もう最強すぎる…この物語のセリフ堂々のMVPはこれだ…!!
斎院の母親が病気なので、何とかして彼女たちを会わせようと
賀茂祭の真っ最中に季武も公友も巻き込んで斎院のためにこっそり行動する貞道とても良き。
「病気の親がいれば会わせてやりたいと人なら思う」「人なら…」「きつねでも」のやりとりも良き。

袴垂は挿絵を見るとおじさんなので保輔ではなさそう…?
初瀬もうでの峠で部下が貞道たちにひどい目に遭わされたので、
頼光の弟の頼信を多田の里へ送って馬を借りて帰路についた貞道たちを待ち伏せして
商人の格好で巧みに言いくるめて身ぐるみ剥がして逃げおおせるの、お見事でした。
貞道たちが仕掛けたからとはいえ、斎院のもとに届ける扇を乗せた牛車に颯爽と現れる姿もかっこいいし
自分をおとりに、仲間たちを頼光邸に向かわせて髭切をまんまと奪ってしまう手際もかっこいい。
袴垂はこうでなくっちゃね~!(盗賊大好き)
(女装して牛車に乗っていた貞道が車酔いしてしまうの気の毒でした)
牛車に乗りながら「こちらはおとりか。ぬかったな」と漏らしているけど
ト書きに「それほどくやしそうでもなく」と書いてあったので
たぶん、こういうことをしょっちゅうやってて慣れてるのだろうなと想像させる余裕が見えましたね。
頼光さんも頼光さんで、髭切がとられたからといって特に郎党をとがめず、自分の手抜かりだと言って
怪我をした貞道に医師をよこしてくれるやさしさ…頼光さんちで働きたいなあ…!
貞道のところにこっそり薬草と食べ物を持ってきてくれる葉月にごんぎつねを見た。こういうの弱いです…!
あ。あと頼光の弟の頼信が何だかんだで好きかも^^
体裁があるからお供をつけてるけど、強いので一人でどこへでも行けちゃう怖いものなしの暴れん坊くん。
でも得体の知れない商人(袴垂)を見かけると「用心が足らぬな」と貞道たちに諭す冷静さも持っているし
葉月のために馬を借りに来た貞道を最初はからかうんだけど、貞道が真剣とわかるとからかうのをやめて
「どれでも乗って行け」と言われた貞道が頼信の馬に乗ってしまっても「どれでもいいと言った」って行かせてくれる。
むっとした顔が見えるようなシーンでしたなー!言葉に責任を取る人は好きです。
これはなかなかめんどくさそうな人物に成長しそうな予感がいたしますぞ。

袴垂のことで公友に相談に行ったのに
なぜか公友が仕える五の君のために巻き込まれる形で大内裏へ行くはめになる貞道たちですが
このことがきっかけで思いがけず斎院のための賀茂祭の準備の援助をたのめることになる流れが見事でした!
一の人をのぞむ五の君(藤原道長)が姉姫想いのよい少年ですね。
(姉上はたぶん詮子だと思う)
宴の松原で藤原道隆が何かの声を聞いて逃げ帰ったという話が大鏡にあるそうですが、
同じように松原を歩く五の君と貞道たちが、肝試しみたいで何だかほのぼの。(本人たちはドキドキしてるけど)
大極殿の暗がりに集まってくるものの例として安和の変(969年)の話が出てくるので
この物語がだいたいいつ頃の時代を背景にしているかがわかりますね。
(道長が10歳くらいということなので970~980年代だと思われる)
大極殿で出くわしたあやかしに貞道が「弓をひくんです。矢はいらない」と鳴弦を頼むシーンがクライマックス、
音の魔除けキターーーーー!!!ヽ(゚∀゚)ノ(ヽ ゚∀)(ヽ ゚)(  )(゚ ノ )ヽ(∀゚ノ )ヽ(゚∀゚)ノ クルクルクルクル
貞道が葉月と初めて会ったときも「おおお~~」って先走りの声を出して葉月の術を払ってましたよね、
音は魔除けになるんだよね!平安ファンタジーはこうでなくっちゃね~!!(大喜び)
音といえば大極殿で貞道が葉月の名を叫ぶシーンもものすごく印象に残りました。
声を出すことは魔除けになりますが、それが誰かの名前である場合は
その人を身近に呼び寄せるまじないのような意味をもつと言ったのは『陰陽師』の晴明氏でしたっけ、
呼び声に応えて現れて手を貸してくれる葉月がとてもかっこよかったです。
貞道も何だかんだで頼りにしているんだよね。
祭の帰りに袴垂に襲撃された葉月が貞道を呼んだ声も(耳の奥に高くうちつける声)強烈でした、
貞道だけに聞こえる声…こういうの大っっっっっ好きです…!
あやかしと交わした約束は破らない方がいいのは古典のセオリーですけども
(その代わりあやかしは約束を必ず守る)、
貞道が頼信の馬を借りてでも駆けつけようとするのはそういう理由じゃないよね。
まじめでやさしい貞道…はあ~~何できみは頼光四天王なんだよう。(ゆさは酒呑童子派)

母親が亡くなってから斎院は一条の邸に戻るのですが、
賀茂保憲に都に入れない術をかけられてしまった葉月とはお別れ…なのかもしれませんが、
貞道だったら何とかしてしまいそうな気がしなくもない。
葉月をひょいと馬に乗せて、一条に入れるかどうか試してみようとする貞道はかっこいいです。


「嵯峨の狐は牛車に化ける。高陽川の狐は女の童に化ける。
桃薗の狐は大池に化け――狐の事なぞはどうでも好い」
By 芥川龍之介『好色』

※しばらくブログの更新をゆっくりにします。次回は9日に更新予定です。


原田マハ『風神雷神』上下巻を読みました。
俵屋宗達の少年時代を描いた小説…なのですが、たぶんそれだけだったら読まなかったと思うのですが
「宗達少年が1582年の遣欧使節の少年たちと出会い彼らと一緒にイタリアまで旅をして
同じく少年時代のカラヴァッジョに会う」的なあらすじを単行本の帯で見て
なん…だと…!!??ってなって読書決定。
特に下巻の衝撃が色々とすごい、宗達くんほんとにヨーロッパ着いちゃったよ、イタリア行っちゃったよ!とか。
宗達が主人公の小説で「ピサの斜塔」って出てくるのすごいよね…!
宗達の前半生がほぼ不明だからこそ書ける物語だと思いますが
原田さんは遣欧使節の行程はもちろん、当時の日本とイタリアの時代背景もしっかり書かれて
そのうえで想像の翼を思い切りはばたかせているのが素敵でした。
存分に楽しませてもらいました。よいおうち時間を過ごせた。

1580年の肥前。準備中の遣欧使節団のもとへやってきて
長旅で絵筆が持てなくてくさくさしていたので紙と筆を要求して
巨大な紙いっぱいにつがいの鷺を描いてみせた野々村伊三郎(宗達)くん、自称14歳☆
「よっしゃ、ほな、いきまっせ」京ことばしゃべる宗達、最高!!(≧∀≦)
もうこのときの宗達は信長や永徳とも出会っていて
12歳で狩野永徳の洛中洛外図屏風の制作に参加したあげく永徳に「養子にしたい」とまで乞われるくらい
(その場でノブ様にダメって言われちゃうんだけど)実力のある少年として書かれていて、
でも全然偉ぶることなく(バカにされたら怒るけど)白い紙が目の前にあれば何かしら描いちゃったり
美術を見ればすぐ心動いたり感動して泣いたりしちゃうような、
とにかく「絵が好き」「絵が描きたい」気持ちが強い子だったりします。
小さい頃に家の近所にできた南蛮寺の聖母子像に衝撃を受けて以来、
「いつかたくさんの南蛮の絵を見る」「それらを模した絵ではなく超える己の絵を描く」と決めて
色々がんばっていたら洛中洛外図作りに巻き込まれたあげく
ノブ様に「おまえパードレたちと一緒にキリストの王の国へ行け、ローマを見てこい」と言われてしまい。。
キリスト教関係者は現地の信仰を、それ以外の者は活版印刷を学んでくるという壮大なプロジェクトだと聞いて
宗達くん顎が外れるくらいびっくりしちゃうんですけど、
ノブ様が宗達に行けといった本当の理由が「活版印刷は表向き。ローマの洛中洛外図を描いて持ってこい」
てなことだったのでさらにびっくり。。
宗達だけでなくアゴスティーノっていう名前までいただいちゃったし(宗達の名前もノブ様が与えたことになってます)
「俺様が推挙したんだから辞退はダメ」って言われて、行くしかなくなるっていう。
あわわ。この小説のノブ様もかなり強引な人だな…。
でもって使節団が長崎を出発したのは1582年2月中旬なので、本能寺の変の3か月半前なのだな…。
この物語の宗達くんは晩年のノブ様に出会ったことになるのだね。
(あとこのとき、永徳の子の孝信(探幽の父)がすでに生まれていて10代ですが
出てくるかなと思ってたけどあまり描かれてはいなかったな…。
あと永徳のもとにいた菅次郎少年は山楽だったりするんだろうか)

原マルティノくんは信心深くて常識人といいますか、
ラテン語やイタリア語がわかるので、宗達が現地で外出するときはだいたいマルティノくんがついてきてくれて
外国やキリスト教圏で過ごすコツをまったくわかっていない宗達くんに
「そういうこと言っちゃダメだよ」「これはこうするんだよ」ってひとつひとつ全部教えてくれて優しい。
みんながアゴスティーノって呼ぶ中マルティノだけは宗達って呼んでるんですよね、
宗達が洗礼を受けていないせいもあるけど、絵師の名前で呼んだ方がいいからって呼んでくれるんだよね。
「西洋の絵師は見事な絵を描くから少年ではないはず」と笑う宗達に
「日本には天賦の才を持った少年絵師がいる。そいつの名は俵屋宗達だ。だから西洋にもいるかも」って
言ってくれるマルティノかっこよすーー!!!素敵だ(*´ `*)☆
千々石ミゲルも中浦ジュリアンも伊東マンショもみんなかわいい、
彼らは生まれた年がはっきりしているわけではないけど、10代前半であったことは確かで
宗達くんも1580年の時点で14歳(自称)だからたぶん実際は12~13歳くらいですよね。
同年代として設定されているのでみんな仲がいいし、にらめっこや取っ組み合いのケンカもするし
見得を張って大口たたいたりもするし将来の不安も語り合ったりする。
遣欧使節の旅は遣隋使や遣唐使がそうだったようにとても過酷で
距離がアジアからヨーロッパまで伸びたぶん危険も増しているわけで、
少年たちは、海を渡ることが社会的にどういうことかはまだ小さいから背伸びしてわかろうとしている感じで
本質的には悟ってそうだなと思いました。
語学ができて信心深くて知識だけとはいえ外国のことも知ってて、自立してるなあ…と思うけど
ヴァリニャーノさんがゴアに残ると言い出したときに「自分がキリシタンじゃないから」だと思ってしまう宗達は
とても子どもに見えて…いや子どもだけど…なんというか、年相応に見えたのでした。
京都を出る前、宗達はお父さんから風神雷神を描いた金色の扇をもらうのですが
(この扇が色々と大活躍で、嵐の海で宗達が扇を振ってその金色で近くの船に合図したりしてる)
それは「形見のつもりで」もらっていて、以後はヴァリニャーノさんを親だと思ってきた宗達にとって
ヴァリニャーノさんがインドのイエズス会のためにローマに行かないとなったらそりゃしょんぼりしちゃうよな…。
(アレッサンドロ・ヴァリアーノはこのとき実際にローマへは行かずゴアに残っています)
宗達に日本語で話しかけてくれて、マリアやキリストではなく神の愛について教えてくれて
やさしかったヴァリニャーノさんとのお別れのシーンは泣けました。
このエピソード以降の宗達くんはちょっと精神的に強くなったように見える。

西洋史上の人物たちも次々に出てきます。
1584年10月に使節団がマドリードでフェリペ2世に謁見したとき、
なりゆきで宗達が父の扇を2世に見せる流れになるのですが
このとき2世が扇に描かれた風神雷神を「ディアブロ(diablo)」と表現したのがちょっとおもしろかったです。
空を飛んでて角が生えてたらそりゃ悪魔に見えてもおかしくはないか…。
(ただ、話はちょっとずれますが、この視点は大切だなと思ったことも確かでした。
宗達の風神雷神は、現代では「おもしろみ」「ユーモラス」「かわいい」などと言われていますが
当時もそう言われたかどうかはわからないので…。
あの絵が果たしてユーモラスかどうかは、見た人の主観でしかないのだよね)
ピサに到着してトスカーナ大公フランチェスコ1世が開いた舞踏会でコジモ1世の幽霊に会うシーンでは
ブロンズィーノの描いたエレオノーラ(妻)とジョヴァンニ(息子その2)の肖像画を見せながら
家族自慢を始めるコジモさんがかわいかったです。
(このエレオノーラとジョヴァンニの肖像画はウフィツィ美術館にあるやつかな→こちら
メディチ家の礼拝堂でダ・ヴィンチの聖母子を見つけた宗達くんが感動のあまり動けなくなってしまうのですが
ダ・ヴィンチ見ただけでこんなになってしまうならミケランジェロとか見たらどうなってしまうのこの子…
とか思いながら読んでいたら。
最後の審判の前で声もなくして泣いたよこの子。。。゚(゚´Д`゚)゚。
すごいよヴァチカンまで行ってしまったよ宗達くん…。
システィーナの美術に圧倒されてボーっと立ち止まり見とれてしまっているのをマルティノくんに注意されますが
ヴァチカンのパオロ神父が「みなさん立ち止まりますから」って言ってくれて思う存分見られてよかったね…。
ノブ様からローマ教皇への献上品の中に例の洛中洛外図屏風があって
それを見たグレゴリウス13世が「余は今、旅をした」と感想を伝えてくれるのが素敵でした。

1585年6月から一行はイタリアの諸都市を訪問していて、ミラノにも滞在しているのですが
宗達とマルティノが散歩していて街の教会を訪れて、そこがまさかのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会で
2人で最後の晩餐を見ていたらミケランジェロ・メリージという少年がドアを開けて入ってきまして…。
待ってえええぇ宗達とカラヴァッジョが出会ってしまったよ!!(゚Д゚;≡;゚Д゚)
シャツにベスト着てるってことは果物の皮をむく少年みたいなファッションてことだろうか、
あの絵の子はシャツだけですけど…。
「おれは17歳だがおまえ年下だろ」とかマウント取る宗達くんに
「おまえらが使節団?冗談だろ」みたいな感じで信じてくれないメリージくん、
でもダ・ヴィンチの絵の話になったとたんに意気投合しちゃうのおもしろい(笑)。
「祈るより先に絵として見てしまう」「マジで??実はおれも」から始まって
ダ・ヴィンチもミケランジェロもめっちゃリスペクトしているので宗達たちがこれまで見てきた絵について話すと
「聖母子見たの!?えっ、ヴァチカンも行ったの!!?いーなー!!」って
めっちゃ羨ましがるの本当にかわいかったです(*´︶`*)。
殴り合って握手するのは少年漫画ですけど、絵を語り合って分かり合うのは何漫画というんだろう(笑)。
まだ14歳だから工房では親方や兄弟子たちの仕事の準備をやらされるだけで絵を描かせてもらえなくて
仕方なく夜になって部屋に引きこもって自主練習してたら
「おまえの部屋のろうそくの減り方が早い」って兄弟子に注意されてケンカになって
教会に懺悔しに来たけどヴェロネーゼを見たらどうでもよくなっちゃったミケランジェロ・メリージくん!
「ヴェロネーゼを見たとき、ほんものの何かを見たと思った」「それがほんものだとわかった」の感慨は
わたしにも経験があるのでよくわかりました。
子どもの頃に見る美術は、技法はわからなくてもその作品がすごいってことはわかったりするんですよね…。
さらに宗達が「ミケランジェロと名前がかぶるならダ・ヴィンチみたいに出身地の名前を名乗ったら」と提案してくれて
カラヴァッジョと名乗ることを決めるメリージくん!!
「おまえの絵を見せろ」と頼まれてスケッチを持ってきていなかった宗達くんが父の扇をわたして
「ユピテルとアイオロスだよ」って説明するのすごく素敵だし
「この先どこへ行こうとこれを連れてゆくよ」と返したカラヴァッジョくんも素敵だし
扇のお礼にと後日カラヴァッジョくんが風神雷神の絵を描いて持って来てくれるの最高にエモい。
やまと絵の風神雷神と油彩画の風神雷神の交換とか!

宗達くん、ミケランジェロにも会えるとよかったけどね…史実でもギリギリ重ならないんですよね。(1564年没)
そこも上手い。

カラヴァッジョは1584年からミラノのシモーネ・ペテルツァーノのもとで修業を始めていて
1585年6月に遣欧使節団がミラノに滞在しているのですが、
「原マルティノとカラヴァッジョが9日間だけ同じ街にいた」という史実をもとに
ここまで想像を膨らませる原田さんはすごいな…。
あとこの小説、実は上巻のプロローグと下巻のエピローグに
現代の京博に勤める学芸員の望月彩という宗達研究者が
マカオで風神雷神の絵とマルティノが残した古文書を見つけるまでのエピソードが書かれるのですが
その絵は木板に描かれた油彩画なのでたぶん少年カラヴァッジョの絵だろうと思う。
マルティノは追放先のマカオで亡くなっているのでこれも史実にあわせたフィクションですね。
史実ですと宗達くんは日本で活躍したことになっているので
カラヴァッジョの絵とともに帰国しているはずですが、絵はマルティノにあげちゃったのかな…。
学芸員さんはなぜその絵がマカオにあったかというところまでたどり着くことはできるだろうか。
(物語は古文書の研究を始めたところで終わります)
現代パートはたぶん原田さんのご経験が反映されているのだと思う。
あとわたし、原田さんて、書かれる小説のラインナップからてっきり西洋美術がご専門なのかと思っていたので
今回、宗達を書かれたと知ってびっくりしたんですよね…。
それも、この本を読んでみたいと思った理由のひとつだったりします。
『ジヴェルニーの食卓』も『モネのあしあと』も『常設展示室』も静かな物語でしたけど、
『風神雷神』は冒険譚なので迫力が違いました。いやはや。
あ、あと『たゆたえども沈まず』も読んでみたいなあ。


あと原田さんは巻末やインタビューで、この本を書くにあたり
若桑みどり氏の『クアトロ・ラガッツィ:天正少年使節と世界帝国』を読まれたと書いていらっしゃいましたな…。
わたしも後で読んでみよう。

※しばらくブログの更新をゆっくりにします。次回は25日に更新予定です。


小谷野敦『歌舞伎に女優がいた時代』を読みました。
出雲の阿国以降の、歌舞伎に出演してきた女性の役者たちについて書かれた本です。
書店でタイトルを見て「こういう本を待ってた!」と感激して即購入決定。
女性の歌舞伎役者というとわたしは市川九女八や三代目玉三郎くらいしか知らなくて
女性と歌舞伎の歴史についても江戸三座ほか各地の芝居小屋に出演していた女性たちが少なからずいたとか
漠然とした知識しかなかったので、
資料をもとにかつて実在した女性たちについて丁寧な記述を読んでやっと流れがつかめてきました。
名古屋で育った坪内逍遥が「少年時に見た歌舞伎の追想」で名古屋は東西演芸の貯水槽であると述べていて
東から西から役者が集まって劇場も賑やかで、愛知県出身の女性の役者がたくさんいたというのも
この本を読まないとわからなかったと思う。
(あと愛知は歴代の尾張のお殿様たちが文化好きだったのもあってそういう記録が残りやすく、
だから愛知県出身役者がほかと比べて多いように見える、ともいえる)

ていうかそもそも出雲の阿国が歌舞伎の始祖か?と突っ込むところから始まっていて
ああ、はい、言いたいことは何となくわかります…て気持ちになりました。
もともとこの国には中世以降、白拍子や傀儡女など様々な女性による芸能があって
阿国かぶきをその流れのひとつとして見るとさほど珍しいものではなく、
いわゆる社会の底辺にいた女性たちによるひとつの踊りのかたちというものだったと思う。
彼女たちが奇抜なファッションで踊る「かぶき踊り」と呼ばれた芸能は
たぶん漢字で書くと「傾き踊り」になるんですけど、
現在でいう「歌舞伎」(そもそもこれも後世の当て字だ)とはまったく別の物なんだよね。
かぶき踊りは歌舞伎が現在の形になるまでに存在したひとつのきっかけ、影響したものであって
阿国さんが今の歌舞伎を始めたわけじゃないよ…というのは確かにわかる気もします。
わたしも素人なのでどうにもうまく説明できませんが…うーん。

御狂言師と呼ばれた人々のことは初めて知りました。
大奥や大名屋敷の奥に参上して歌舞伎を見せていた女性たちのことだそうです。
そういう人たちがいつからいたのかはよくわかっていないようですが
幕末の役者の番付なども残っているので少なくとも江戸時代後期には各地にいたと考えられているみたい。
その頃に活躍していた坂東三津江という狂言師の事例が紹介されていまして、
彼女が出入りしていたのは加賀前田家、讃岐高松松平家、安芸浅野家だそうで
おもに「先代萩」「鏡山」「忠臣蔵」など武家がモデルの演目を上演したそうで
浪速鑑や四谷怪談みたいなものはやらなかったらしい。
お芝居をするのはお屋敷の能舞台、あるいはそれに準じた拵えをした場所で
(女性の芝居は幕府が禁止していたのでバレたときに能をやっていましたと言い訳するためとか)、
様々な演目を用意して1日かけて上演したのだそうな。
すごいのはお殿様がときどき衣装を用意してくれることで
当時、三津江の一座にいた市川九女八の証言によると
「師匠は道成寺の衣装だけで7組くらい持っていた」とのこと。ヒョエ~。
とにかくどこまでも上品に遊ぶということなので、女中さんの前で役者の話をしてはいけないとか
食事が提供されてもその場では食べられなくて持ち物に入れて持って帰ったとか
特別贔屓のおうちに呼ばれるときはお屋敷中の部屋を夜通し回って踊りを披露したとか
色んなことがあったみたい。
あとこれは坂東三津江という人の事例なので、
各地のお屋敷に訪問していた他の御狂言師の人々にも様々な事例があったのだろうと思う。
(ちなみに三津江さんの衣装は東博に9点所蔵されていたりします。→こちらなど。
娘の高木鏡さんが寄贈したのだそうです。わたしも過去に何点か見たことがあります)

三代目坂東玉三郎が女性だったというのはあまり知られていない気もする、
わたしも数年前に何かの折にふと知って「そうだったんだー!」ってなりました。
十二代目守田勘弥の子で6歳の時に玉三郎を襲名、
勘弥が亡くなったあとは九代目團十郎に引き取られて九女八らとともに活躍して
九代目の死後に姉とともにニューヨークに渡り踊りの修行をしていたけれど
22歳の若さで病気になり客死しています。
お墓は多磨霊園にあるそうですが、多磨霊園、いつだったか行きましたが見つけそびれてしまったなあ。
九代目團十郎には息子がいなくて、娘2人は役者になっていて歌舞伎座の舞台にも立っています。
九代目は長女の実子さんに團十郎を継がせるつもりもあったと書いてあってびっくりした、
えええーーーーーっそれじゃもしかしたら女性の團十郎がいたかもしれないのか…!
結局のところ十代目團十郎は実子の夫・稲庭福三郎に追贈されるので
彼女はなりそびれてしまったわけですが…そうかあ…九代目…!
(実子さんはのちに翠扇と改名して明治座でヴェニスの商人に出演したりしています)
他にも、十一代目片岡仁左衛門の娘は片岡峰子と名乗り歌舞伎座に出ていたり
二代目坂東秀調の娘ののしほが本郷座で鶴亀や鏡獅子に出演したり
市川権十郎の弟子の市川笑燕という人が三崎座の専属として女芝居(歌舞伎)に出ていたりと
近代社会にも女性の歌舞伎役者は一定数いて、男性とともに舞台に立っていたのだよね。
各地にも○○座という芝居小屋がまだまだあって、そこで活躍していた女性たちの記録もあって
男性よりは少ないけど女性たちは確かにそこにいたわけで。

市川九女八は歌舞伎の歴史にうといわたしでも知っているくらい有名ですな。
九代目團十郎の弟子であり最初は芸風も似ていたことから「女團洲」と呼ばれたらしくて
(岡本綺堂が『ランプの下にて』の「男女合併興行の許可」の項でそのことを書いてる→こちら
ああやっぱり世間は男性役者を基準に見るのだなと思ったし、
同時代の女性役者に彼女と比べる対象がいなかったことも当時の女性の地位の低さを物語っているなと。
当時の役者には等級制度があって、九代目團十郎は一等、九女八は五等俳優だったらしい。
(九女八は各地の舞台に立ったけど歌舞伎座の芝居に出たのは九代目の三回忌の一度きりで
序幕の「岩戸のだんまり」のみに出ているのですが
長谷川時雨はそれについてちょっと嘆くような文章を書いてます→こちら
赤坂牛込に生まれて、御狂言師だった二代目坂東三津江のもとで修業しながら演技を磨いて
岩井粂治の名前から粂八と名乗り、やがて團十郎門下に入り各地の芝居小屋で大活躍。
大薩摩吉右衛門の薩摩座にいた頃は川越に来たこともあるそうですよ~知らなかった。そうだったのか。
(ドサ廻りだったので疲れと冷えで舞台で腰が抜けたりして大変だったみたいですが)
守随憲治の記録によると二代目三津江さんは晩年に九女八の舞台を見にきたことがあるそうで
そのとき九女八はしばられ弁慶と女鳴神を出していたようですが
「うまくなったね」「私の目に狂いはなかった」「油断は禁物、精進しなさい」と言われたそうです。
当時、三津江さんは90歳くらいで九女八は65歳。うれしかったろうなあ。
あと、1890年に依田学海が九女八に「月華」という名前と漢詩を贈っていまして
(九女八が新派に出るとき本名とあわせて守住月華と名乗ったそうな)、
今回の記事タイトルにはその一部を使わせてもらいました。
絶えて藝女流天下に無し
声名は早くも三都を動かす
結城宰相今いずくに在る
誰か当年の玉念珠を贈らむ

あと、九女八の弟子の佐藤濱子が
「ある画家がフランスでサラ・ベルナールに川上貞奴が日本一の女優であると紹介すると
サラは「自分の聞いた話では九女八という人が一番の女優だそうですが、違うのか」と聞き返された」
という話を伝聞として聴いたと証言しているらしくて、ものすごくびっくりした。
サラ・ベルナールといえば!ベル・エポックやアールヌーヴォーの真っただ中に活躍して
あのアルフォンス・ミュシャにポスターを描かせていたフランスの大女優さんではないですか。
いやそりゃ、河鍋暁斎が亡くなったときはパリの新聞にまで訃報が載るような時代ですから
フランスの演劇人が日本の役者を知っていても何らおかしくはないんだけど、
それでもまったく接点を想像すらしていなかった人同士に思わぬ繋がりがあったりすると
やっぱりテンションがあがってしまう^^
九女八は三代目玉三郎や中村仲吉みたいな海外公演の経験はなく、日本の舞台だけに立っていた人ですが
彼女の活躍と努力、彼女の演技を評価した人々、
また近代社会のグローバル化の進展に思いを馳せてしまうわけです。楽しいね。
というか貞奴と同時代を生きた人だったのか…。
他にも九代目團十郎、五代目菊五郎、八代目幸四郎、初代猿之助、岡本綺堂、長谷川時雨などがいた時代を
九女八は生きたのだなあと思うと体中がむずむずしてきます。
歴史上の人なのだよなあ…。
(あと松貫四の子孫である初代吉右衛門の娘が八代目幸四郎と結婚して松正子を名乗ったので
松たか子さんの芸名の松はそこからきているとか、
猿之助の屋号が澤瀉屋なのは初代の妻が吉原で「澤瀉屋」という見世を経営していたからというのも
この本を読んで初めて知りました。そうだったのかあ。
澤瀉屋の人々の名字が喜熨斗なのも初代の妻の名字からっぽい)


同時代人といえば。
先頃、講談社学術文庫から出た『市川團十郎代々』(服部幸雄)も読んだのですが
代々の團十郎たちのそばにいた人々がすごすぎて。。
二代目團十郎は生島新五郎(絵島生島事件で処罰された人)に芝居を習っているし
名古屋山三郎と競演しているし、英一蝶と晋其角に手を引かれて吉原に行っている。
五代目は大田南畝と狂歌を楽しんでいるし、山東京山は楽屋に訪ねてくることもあったらしいし
烏亭焉馬は五代目を気に入って彼に関する本を次々に出版している。
七代目は荒事にこだわらず鶴屋南北の四谷怪談もやっているし
九代目は演劇改良運動の中で文化人だけでなく井上馨、松方正義、伊藤博文とも交流しています。
歴史上の人々なのだなあ…。
あと彼らの名字が堀越なのは初代團十郎の父親が堀越重蔵という名前だったことからきているそうですね。
屋号の成田屋は新勝寺との関わりからつけられているのは知ってたけど…。
堀越の名字の歴史も古そうですね。

福田里香『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』を読みました。
映画や小説、マンガやドラマ、あるいは古典など
数多ある物語の中で描かれる食べ物や食事シーンの表現について50章にまとめた本です。
ちょっと前にブロともさんが紹介していて、おもしろそうだなあと思って読んでみたら
予想以上におもしろかった!
テーマと提示される事例がとても想像つくんですよ…チョイスと編集がうまいのだな。

作品の中に登場する食べ物や食事シーンを分析していくと、その食べ物の表現が
登場人物の性格や感情、あるいはそのシーンの状況説明などに一役買っているというのが
著者の考える「フード理論」というものだそうです。
ちなみに著者が考えたフード三原則というものがあるそうで、
1.善人は、フードをおいしそうに食べる
2.正体不明者は、フードを食べない
3.悪人は、フードを粗末に扱う
なるほど…!と思ってしまいました。思い当たるシーンや表現が色々浮かんできますなあ…。

目次を開くと、タイトルにもなっている「ゴロツキはいつも食卓を襲う」とか「仲間はいつも同じ釜の飯を食う」
「失恋のヤケ食いはいつも好物」「絶世の美女は何も食べない」
「食いしん坊の寝言はいつも「う~ん、もう食べられない」」などなど、
映画や小説における「食べ物あるある」について章タイトルを一瞥しただけで
わかるー!って頷いてしまう章立てになっていて、どこから読んでも楽しいです。
著者の文章が軽快でわかりやすくて、読みながら何度「わかる~!」って言ったか覚えてない。。
一番わかるわ…!ってなったのは、「お茶を飲むのは、ちょっとひと息のサイン」。
物語世界に登場するお茶のシーンはだいたい「ちょっとひと休み」なシーンが多いという分析。
たとえば映像作品などでコポコポ…と注がれるお茶と、カップから立ちのぼる湯気が映って
次のシーンでは「それで、相談事ってなに?」ってセリフが入って物語が進むとか、
主人公が疲れてお茶をしながらその日1日を振り返るとか、
事件を整理しようとしてこれまでの出来事を書きだしたら糸口を見つけるとか、
大団円のシーンでお茶会が開かれていたら「すべて終わりました」という一件落着感が出るとか。
わたしは紅茶党なので物語におけるお茶のシーンは大好きなのですが
そのどれもがだいたい、ホッとできる時間として描かれているから好きなのかなァとこの本を読んで思いました。
マリラが支度する3時のお茶とか、ロミオがカセラ教授の家でいただいたお茶とか
ミス・マープルや杉下右京さんが事件解決後に飲む紅茶とか
さめない街の喫茶店でお料理と一緒に出てくる紅茶がおいしそうだったりとか。
食卓に紅茶があるというのはわたしにとって落ち着くシーンであることが多いですね。
あ、でもアリスのマッドティーパーティーは、落ち着いているシーンとは程遠いな…。
あ、でもPandoraHeartsの“素晴らしきなんでもない日”のティーパーティはマッドティーパーティーが元ネタですが
とてもすばらしかったですね…オスカー叔父さん…!(泣)

飲み物については他にも、「マグカップを真顔で抱えたら、心に不安があるか打ち明け話が始まる」とか
「少女まんがの世界では温かいココアには傷ついた心を癒す特別な力があると信じられている」とか
「驚きは、液体をプッと吹きだすことで表現される」などの章がありました。
カップを抱えて黙ってしまった人は何かを語り出す心構えをしていることが多いし
ショックを受けた人に誰かが「あったまるよ」って言ってココアを出したり
何かに驚いたり誰かに驚かされたりしてカップのお茶をブーっと吹くシーンは確かによくあるアイコンだ。
「お茶吹いたw」っていうネットスラングもありますしね。
「動揺は、お茶の入ったカップ&ソーサーをカタカタ震わせることで表現される」も、
確かに手に持ったカップをカタカタ震わせてしまう人は何か不安なことがあるか、隠しごとをしている場合が多いような。
カップ&ソーサーは見た目の美しさやデザイン性が高い食器なのでパーティや面談のシーンに使われやすく、
「対人関係で緊張を強いられる場面に出てくるのが定番」とのこと。
推理小説だったら証拠を見つけたか、犯人がわかったか、犯人に脅されているか、
次に狙われるのは自分だ!なんて怯えてひとりで部屋に閉じこもってしまうとか、かなあ。(それ死亡フラグ)
推理小説といえば、「事件で悶絶死が起こる場合、それは青酸カリの仕業」という章があったけど
(わたしもアガサ・クリスティの小説でさんざん見かけた毒物の名前です)、
倒れた人からアーモンド臭がするとか探偵がよく言ったりしますが
匂いがわかる距離まで近づいてしまうと嗅いだ人も危険だと聞いたことがあります…あれガスの匂いらしいので…。
でも確かに「匂い」があった方が物語のリアリティが増すよなあ…
リアルを取るかリアリティを取るか、クリエイターが表現に悩むところですな。

「仲間は同じ釜の飯を食う」とかも、具体的なシーンは浮かびませんが
数人でひとつのお皿からチャーハンとか餃子とかスパゲティとかドーナツとかを取り分けていたら
何となく集団っぽいイメージがあるような。
あと「同じ釜の飯を食った仲じゃねえか」みたいなセリフもよく聞きますね。
名バイプレイヤーとかが演じる、気のいいあんちゃんあたりが言いそうなセリフ。
あと、同じ釜じゃなくても、同じものをそれぞれ食べていたら仲間っぽいイメージもあります。
本にも書かれていたけど、アン・シャーリーとダイアナ・バリーのお菓子作りのシーンとか。
わたしが思いつくのは映像研の主人公3人がよく一緒にラーメン食べにいったりするとか、あんな感じ。
「焚火を囲んで酒を回し飲みしたら仲間」とか「食べ物を分け合ったら親友の証」とかも
わかるわかる!ってなりました。
焚火を囲む酒盛野郎どもの話も、少年がポケットから食べ物を出して「ほら、食えよ」って相手に差し出すのとかも
エモくて好きです。
いいシーンでは食べ物が粗末にされないし、おいしそうに描かれますね。
そういえばこの本の挿絵はオノ・ナツメ氏によるものですが、
氏の作品である『ACCA13区監察課』は食べ物のシーンがとても幸せそうで好きだ…。
特にロッタちゃんやモーヴさんが好んで行くパン屋さんとか監察課のおやつシーンが好き~。

初出がどこかという分析がなされていた、
「遅刻遅刻~!と言いながらパンをくわえて走っていると曲がり角で誰かにぶつかって恋が芽生える」と
「バナナの皮ですべって転ぶ」。
遅刻遅刻~!の初出がどこかという話題は定期的にネット上で湧いては消えていってますけど
まだ特定には至っていなかったはず…。
バナナに関しては『バナナの皮はなぜすべるのか?』という本まで出ているそうですが
この本でも初出がどこかははっきりとはわかっていないらしい。
確かどちらもここ100年以内のことではないかという解釈がどこかにあった気がしますが…どうなんだろう…。
「スーパーの棚の前で2人が同じ食品に手を伸ばすと恋が芽生える」あたりも
特に書いてなかったけど初出はどこなんでしょうね…。
(ちなみにわたしはこのシチュエーションについては、スーパーの食品棚よりも
書店や図書館で2人の人間が同時に同じ本に手を伸ばすシーンが浮かびます)
「マスターが放ったグラスはカウンターをすべり、必ず男の掌にぴたりと収まる」とか
「あちらのお客様からです」とかも、何度も見た記憶はあるけど
初めてこの表現を使ったのはどんな物語だったんだろう。
こういうのってAIとかで探したりできないのかな、
ありとあらゆる文章や映像作品をインプットして検索するAIとか…できないんだろうか…。
(素人なので勝手なことを言っています)

食べ物が粗末に扱われるシーンも確かにある。
ゴロツキはいつも家族の食卓を荒らすし、コメディではパイが投げられるし(そして人に当たる)、
ガムは噛んで吐き捨てられるためにあるし、映画館ではポップコーンが食べ散らかされる。
悪党がよく、食事中のお皿に煙草をジュッて押し付けるシーンがありますけど
それで極悪非道さを表現したりもしますけど
あれどんな作品でいつ見ても心がヒヤッとします…だってもう食べられないじゃん…。
逃走劇やカーチェイスなどで、厨房が大混乱になったりシャンパンタワーがガッシャーン!と倒されたり
果物屋やスーパーの品物がはね飛ばされて散らばることで
アクションの大きさを表現する手法もよくありますけど、あれも本当に心臓に悪い…。
絵的な派手さはありますが、やっぱり食べ物がもったいないと思ってしまうんだよね。食いしん坊なのでね←
あと、粗末にするとはちょっと違うけど「賄賂は菓子折りの中に忍ばせる」で山吹色のお菓子が紹介されていまして
これも時代劇でさんざん見る演出ですね。
(一番最近に見たのは大岡越前か必殺仕事人あたりの、コテコテの時代劇だった気がする)
余談ですがこのお菓子、朝霞市にあるお菓子会社が実際に売っていまして→こちら
うちの弟くんがお土産品のお店で売られているのを見つけて買ってきてくれたことがあります(笑)。
弟くん曰く「見たとたん笑いが止まらなくなってレジに持って行った」とのこと。
このてのパロディ商品は理解して買ってくれる人がいるだけで大成功なのではないかな。


さらに余談ですが、「孤独なひとはひとりでご飯を食べる」の章を読んでいて
真っ先にシンカリオン68話でしょんぼりカレーを食べていた先輩を思い出してしまって、
でもあの後アズサちゃんに呼ばれてみんなで写真撮って、たぶんだけどご飯も一緒に食べたろうから
大丈夫大丈夫…などと気持ちを落ち着かせておりました。
というかシンカリオンは食べ物のシーン多いよな…。
1話から速杉家の食事シーンがあるし、伝説の手巻きパーティや新麺会もあるし
アキタくんがスイーツマスターだしセイリュウくんはケーキをきっかけにアズサちゃんと仲良くなったし。
ミクさんが作ってくれた卵酒(大沼指令長レシピ)とか、アキタくんが紹介した黒蜜のどら焼きとか
門司でレイくんが紹介した焼きカレーとか、タツミくんが食べまくる名古屋めしとか
ハヤトくんが買ってきた名古屋土産とか、鹿児島でみんなで食べたタカトラくんお手製のさつま揚げとか
ご当地にまつわる食べ物も結構出てきました。
屈指の名シーンはゲンブさんへのケーキと名もなきお鍋ですね…もう色んな意味で泣けてくる。。
「鍋は料理界の新幹線」とか「おいしいものを食べたとき、それを食べさせたい相手が家族」なんてセリフもありますね。
(あとで聞いた話ですが脚本の下山さんがグルメな人らしいです。
だから枕崎の鰹節とか利尻昆布とかしれっと出てくるのかな)

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そんなわけでカレーを作ったら彼をひとりにはしません…。
みんなで一緒にパチリして食べるよ。

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先月末のことですが、昭島市民図書館つつじが丘分室、通称「新幹線電車図書館」に行ってきました。
昭島市のつつじが丘公園内にある、0系新幹線の先頭車両を転用した図書館です。
この車両は1973年に製造され1991年まで「ひかり」「こだま」として東海道を走っていたもので、
1992年から図書館としてこの場所で働いています。
知ったのは先月で、知るなり「行きたい!」ってなってすっ飛んでいきましたよ。
新幹線+図書館とか、何てわたし得な施設なんだ。もっと早く知っておけばよかった。

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道路側の行先表示は「こだま・三島」。現役時代の表示かな。

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先頭部分。
すっご~い、住宅街の公園の中に新幹線!不思議な光景。

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公園内から見た先頭部分。

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線路の上に乗っているんですよ。こうして見ると今にも動き出しそうな感じがします。
(車両は定期的にメンテナンスを行っているそうな)

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下を覗くと車輪もちゃんとついていて、本当に本物をそのまま転用しているんだなと。

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みんなで記念撮影☆

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では、中に入ってみます。
車両の後ろ側に階段があるのでそこから入れます。

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こちらの行先表示は「ひかり・博多」。

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ドアは引き戸になっていて、取っ手を持つと横に開きます。
中は土足禁止のため、入口で靴を脱いで下駄箱に入れます。

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図書館の内部。
手前にある0系新幹線のシートが閲覧席になっていて、奥に本棚があって図書が並べられています。
ラインナップは絵本や児童書が中心。
床には絨毯とカーペットが敷かれているので床に座ってもお尻が痛くなるとかはなさそう。
上を見上げたら網棚にも本が置かれていて、そちらには一般向けの図書が並んでいました。

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1号車自由席の表示。
車内には他にも、座席番号やポスターのスペース、「禁煙車」「自動ドア」など
現役時代を思わせる表示がそのまま残されていました。

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閲覧席の窓にE5・E6がいたのでハヤトくんを置いてみた☆

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鉄道の本コーナー。
新幹線や在来線、国内や海外の鉄道図鑑、駅や鉄道員のお仕事についての本、
図書だけではなく雑誌、写真集、時刻表、紙芝居、トーマスの絵本などもありました。

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ドクターイエローの本もありました☆

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運転席に行ってみます!
司書さんに声をかければ誰でも入れるとのことでした。

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うおっ結構狭い。

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階段はなく、でっぱりというか踏み場がついていますので
そこに足を乗っけてよいしょと運転席に上がります。

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みんなで座ってみたよ☆
椅子が結構、ちっちゃいですね。

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運転席の窓からは外の景色が見えます。
運転台の機器は基本的にお触りOKだそうで、スイッチ入れていいし受話器もとっていいし
レバーもマスコンも動かせるし窓も開け閉めできました。
というか図書館資料として「運転台マニュアル」が置いてあって、
それによると前照灯をつけることも可能らしいですが
操作を間違えると図書館が停電する場合があるとのことで「こわ…」ってなってやめました。。
蛍光灯が消えるだけならともかく、お仕事中の職員さんのPCとか落ちたらシャレになりませんのでね。

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車両の前に設置されている鏡にお顔が映って見えました。
団子鼻かわいい。

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「あと1日」の表示。

実はこの図書館、今年の3月27日までで閉館すると決まっていたのですが
(わたしがこの図書館を知ったのも閉館のニュースを見たからです)、
折からの新型ウィルスの影響からの政府要請により
昭島市が3月いっぱいの市内の社会教育施設の臨時休館を発表したため、
この図書館も2日からは休館することになりましたので
3月1日で事実上の閉館となってしまっています。。
図書館の本については、教育総合福祉センターに新しくオープンする図書館に引き取られるそうですが
車両の今後については未定だそうです。

図書館としてのラストランがちょっと気の毒なことになってしまったけど、お仕事本当にお疲れさまでした。
現役時代もお客さんを乗せてがんばったし、その後は28年も図書館としてがんばった車両なので
何とか残してもらえるといいな。
図書館機能の移転作業もあるので、急にいなくなったりはしないでまだ当分いるとは思うので
外見はしばらく見学できるんじゃないかと…。
ここにいることになっても、いられなくなっても、いつか来るその日まで静かに過ごせますように。 続きを読む

北川チハル『だれもしらない図書館のひみつ』(汐文社)を読みました。
夜長森図書館という架空の学校図書館を舞台に、そこで働く司書さんと
夜になると動き出す本たちと、本が好きなとある読者たちのお話です。
職業柄、図書館とか博物館がテーマになっている物語は見つけるとチェックするので
この本も例外ではなかったのですが、
図書館から本が消えていく展開が怖すぎて途中で読めなくなってしまって
1週間くらい伏せて置いていまして、
でもやっぱり続きが気になったので思い切って再度ページを開いたら
そこからワーーーーーッと幸せな世界になってあっという間に読んでしまった。
わたしが読めなくなった辺りが怖さのピークだったみたいです^^;

いや棚から本がなくなるっておっかないんですって!図書館員にとってはホラーでしかありません。
蔵書検索で「貸出可」となっている図書が、請求記号に沿って並べているはずの図書が
該当の棚に行っても置かれてない!
こちらは仕事にならないし、利用者さんは読みたい本が読めないしでダブルパンチなわけです。
そういうときはだいたい、他の人が閲覧席で読んでいるとか貸出手続前に持ち歩いているとか
「新着図書」や「きょう返却された本」の棚に置かれているとか、破損して修理中のため事務室にあるとか
理由は様々考えられるのですけども、
一番多いのはやっぱり請求記号とは別の棚に置かれてしまっている場合かな…。
読んだ人が、戻す場所がわからなくてヒョイっと置いてしまうとか
職員がうっかり(本当にうっかり!)返却ミスをしてしまうとか。。
職員のミスはちゃんと仕事しろ!って感じですけど
もし利用者さんで、読んだ本をどこに戻したらいいかわからなくなってしまったら職員に声をかけてほしい…
別に怒らないから…職員が責任をもって元の場所に戻しますから…!
とまあ、そういうわけで年1回の蔵書点検がとても大切になってくるわけです…。
図書館によく行かれる方は図書館が年に1度、1週間ほどの休館日を設けているのをご存知だと思いますが
あれは図書館にある資料を全部チェックするための作業を行っているからだったりします。
(なので、建物はお休みだけど職員は出勤しているんですよ~)
どの本が図書館にあって、どの本が貸出中で、きちんと請求記号順に並んでいるかを
1冊1冊すべて確認するわけです。
最近はバーコード化してだいぶ作業も楽になりましたが、ベテランの先輩のお話を聞くと
貸出カード時代は本当に大変だったといいますから…技術は進歩しています。

ええと、本の話に戻ろうね。。
夜長森図書館にはマザー・ブックというオルゴール人形が置かれているのですが
夜になり館内に誰もいなくなると、そのマザー・ブックがひとりでに鳴り出して
図書館にいる本という本に魔法をかけて動けるようにしてくれます。
人間が見ていないところでおもちゃや博物史料が動く、という映画をいくつか知っていますが
本が動き出すというのもワクワクします☆
中でも絵本コーナーの本たちは賑やかで、自分は子どもたちに人気があるとか
誰それさんの家にお泊りにいって帰ってきたばかりだとかおしゃべりしていて楽しそう。
そんな中、あまり子どもたちに読まれない『ひかげのきりかぶ』という絵本がいまして、
こちらがこの物語の主人公くんです。
ひかげには文章がなく、絵だけの絵本なので
手に取ってもらっても「つまらない」と言われて棚に戻されてしまうことが多かったりして、
他の絵本がお泊りに行って帰ってきたというのを聞いて羨ましく思ったり
今日こそ誰かが読んでくれるかなあ…と、その時間を心待ちにしていたり
「地味」などと言われて心がどしゃぶりになってしまう毎日を過ごしています。
そもそも自分がどんなお話か、ひかげは知らないらしいのでした。
(この物語の本たちは、誰かに読んでもらって初めて、自分がどんなお話か知るという設定です)

そんなひかげが、あるときから図書館に起こった事件の真っただ中に放り込まれます。
絵本コーナーから絵本が1冊、2冊…と消え始めるのです。(こわい)
司書さんが探しても見つからず、子どもたちは「読みたい本が今日もないよ~」と残念そうで
絵本たちも心配になって、図書館から絵本を連れていく「絵本さらい」の仕業ではないかと騒ぎ始めます。
しかも最初にいなくなった絵本『ヒマワリとはつこい』のバーコードが館内から見つかって
「人気者をねたんだのでは」とひかげが疑われる事態になってしまい、
ひかげはぶるぶる震えるばかりでしたが
『ヒーローマン』の絵本が庇ってくれて事なきを得ます。
ヒーローは子どもたちに大人気の絵本で、ひかげのことも知らずに「新入り?」と聞いてしまうような本ですが
ひかげがヒーローよりずっと前から図書館にいることを知ると「すまなかった」と謝って
握手をしてくれる素敵な本です☆
「あの握手は、ぼくをハッピーにしてくれたんだ」というのが、ひかげを庇った理由でした。かっこいー!

そんなヒーローマンもある日行方不明になってしまいます。。(こわい)
絵本たちは夜に館内のパトロールを始めますが、『火の玉オニ』と一緒に行動していたひかげは
お手洗いで『火の玉オニ』が目の前で絵本さらいに攫われるのを見てしまって
気絶してしまったりするのですけど、
絵本たちや子どもたちと過ごした時間を思い出して、その時間を守りたい、取り戻したいと勇気をだして
見知らぬ本にみんなの目覚めタイムをもらって絵本さらいに攫ってもらうことにするくだりが
もはや怖さのピーク。。
この辺りで読めなくなっちゃったんですよね…ひかげが健気すぎて、絵本さらいが怖すぎて。

ひかげの冒険が始まります。
お手洗いに隠れて、ワンピースにバッグを持った姿の絵本さらいがやってきたときに
そのバッグに飛び込んでみんなを探しにゆきます。すごいな…!
図書館の外に出たのが感覚でわかったのもつかの間、ヒュルヒュルっと大きな風にさらわれて
図書館の屋上に連れて行かれて出会ったのが森の木っこたちで、
彼らが人間に化けて絵本を攫ってきていたことを知ります。
「わたしたち、本、すき」「もっと、近くで、みたい」「もって、かえりたい」ということで
バーコードを切り取って絵本を図書館から持ち出していたらしい。
木っこたち、屋上に落ち葉を敷いて小枝でテーブルを作って図書館みたいなレイアウトを作っているのが
とても微笑ましくて^^
そこでひかげは、攫われた絵本たちが丁寧に飾ってあるのを見つけます。
その理由が「人間は、よごす」「人間は、やぶる」「わたしたち、やさしくする」というもので
色んな意味でグサッときてしまった。。
(この物語には子どもたちが絵本を楽しんで読む描写のほかに
興奮のあまり床に落としたり踏んだりする様子もごまかさずに書かれていまして
この作者はよくご存知だ…!と思ったのでした。
著者略歴を拝読したら元保育士さんということだったので、そういう場面をご覧になっていたのかな)
ひかげが読み聞かせをすると木っこたちはキャッキャと喜んで拍手をしてくれたので
思い切って「ぼくを読んでくれる?ぼく、字がないんだけど」って言ったときのドキドキが
ものすごく伝わってきて泣きそうになりました。
こんな切ない願い事ってありますか??ないよ(T_T)。
今までずっと地味だとか言われてきて、拒否されるかもしれないって思いながらお願いを言うのって
ものすごく勇気の要ることだと思うので
木っこたちが「読みたい!」って飛び跳ねてくれたときもやっぱり涙が出そうになったし
ひかげがどんな絵本か気づいてくれて「すき」「こんな本、はじめて」って言ってくれたの、もう号泣。。
よかったなーひかげーー!!。゚(゚´ω`゚)゚。
木っこたちがまた図書館から絵本を連れてくると言い出したときに
「本当に絵本が好きなら攫わないで」って胸を痛めながら懸命に対話を試みるところも
ひかげの話を聞いてわかってくれて一緒に図書館へ帰る協力をしてくれる木っこたちもみんな素敵だ!
ひかげほんとに…がんばったな…!

木っこたちが残した手紙で、屋上で司書さんの読み聞かせが始まることになるラストシーンは本当に幸せ。
(お互いが見えない者同士が手紙を介して繋がるっていう展開にめちゃくちゃ弱いのです)
見えない読者がいるロマン…!
そこでやっと、ひかげが司書さんにページをめくってもらえるのですけど
同じ絵ばかりでつまんない、という子どもたちの前で司書さんが何度も繰り返してページをめくっていると
ゴウくんという子が「わかった!」と気づいてくれるシーンも本当に幸せ。
ゴウくん本当にありがとうな~。


あと、読み終えたときにごくごく短い感想をTwitterに呟いたのですが
作者の北川さんから直々にメッセージをいただいてしまいました!→こちら
さらに主人公の『ひかげのきりかぶ』からもいただいてしまいました→こちら
SNSをやっていらっしゃる作家さんはたくさんいるので
今までにもRTいただいたり直接メッセージくさだったり、わたしからお伝えしたりすることはありましたけど
作家さんとしてではなく主人公さんとして送ってくださった方は初めてで
素敵だー!!って動揺してしまって
かなり大慌てな返信を送ってしまいました…北川さんすみませんその節は…。
誰とでも気軽にコミュニケーション取れるのがSNSのいいところですな。

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ブロとものあやのさんと一緒に池袋の梟書茶房に行ってきました。
駅直結のエソラ池袋の4Fなのでアクセス最高!

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お店の雰囲気も最高☆
満席だったし、結構、おしゃべりの声も聞こえてきましたが
黙々と読書する人もテーブルで作業してる人もいました。
思い思いの時間をほどよい賑やかさの空間で過ごせる感じでしたね。

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メニューのひとつ、「本とコーヒーのセット」。
このお店を開いた店員さんがセレクトした本と、その本に合わせてブレンドしたコーヒーを楽しめるそうです。
わたしはコーヒーが飲めないので注文しませんでしたが、コンセプトがとても素敵だなあと思う。

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隣にあったBOOKシフォンケーキの食品サンプル。これが食べたくて来ました☆
以前に某作家さんがこのお店でトークショーをなさった際に
このケーキの画像をあげていて、これは食べたい!と思ったのです。

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ボックス席に案内していただいて、メニューも本の形でおもしろかったし
真ん中にちょこんと置かれたキーが伝票の代わりと聞いてもっとおもしろくなった^^
本好きにはたまりません。

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手前がわたしが注文したキッシュ、奥はあやのさんが注文したパスタ。
キッシュは小さく見えたけどボリュームがあって結構、お腹いっぱいになりました。

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お皿に梟がいる。

食べながらわたしが勝手にしゃべり出して止まらなくなってしまったシンカリオンの話を
ニコニコと頷きながら聞いてくださったり、東北新幹線の話もしてくださったりして
本当にあやのさんは天使です…いや神です…!!
あと久し振りに過去の人物たちとか正倉院とか、ディープな歴史の話もできて楽しかった!
生み出されてから現代まで様々な人の手と奇跡が重なって残り伝えられてきた物から立ちのぼる物語は
何時間しゃべっていても尽きることがありませんなあ…。
その人がかつて過去に存在したことを証明する品々の雄弁なことよ。
わたしたちとその人を繋いでくれる貴重な品々を、これからも守ってゆかねばです。
あと、LINEの使い方を教えていただきました…。(←インターネット老人)
普段全然使ってないので(家族グループしか作ってない)動画を交換し合ったのも初めてです。。
スノークのおじょうさんのスタンプめっちゃかわいかったので後で買ってみようかぬ。

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デザートにBOOKシフォンケーキ☆
本の形をイメージしたケーキです。うっひゃ~かわいい、かわいい!

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わたしがどっちを食べるか迷っていたショコラとストロベリーを「両方頼んでシェアしていいですか」と言ったら
快諾してくださったあやのさんに大感謝…!
お蔭で2つの味を楽しめました。本当にありがとうございました。
あと2種類のメニュー、プレーンとトリオdeショコラも次に来たときに食べたい。

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レジのところにあったふくろう文庫。
「かもめブックス」代表の柳下恭平さんが選んだ本が1000冊ほど並んでいて、それぞれに通し番号が振ってあります。
本はすべて、お店オリジナルデザインのカバーで袋とじになっていて
本のタイトルが非公開のシークレットブックになっています。
タイトルや著者を知りたかったら買ってカバーを外すしかありません!(笑)
カバーには紹介文が挟まっているのでそれが手掛かりになりますので
タイトルがわかった本を買ってもいいし、インスピレーションで買ってもいい感じです。
なんという本ガチャ!
お店の人が1冊1冊に寄せた紹介文は独特の表現が多くておもしろかったし
読んでみたいと思わせてくれる力に満ちていて文章力を感じました。
想像ですが小説だけでなくエッセイや実用書、写真集や画集、絵本なども混じっている感じで
たぶんこのタイトルだろうなと確信できたのは「有頂天家族2」「すずしろ日記」「晴れときどきぶた」あたりだけで
他はまったく思いつきませんでした。
これどこかに一覧が公表されたりしてないのかな。答え合わせがしたいよ…!
あと紹介文の下に「次に読むならこれがオススメ」的な、他の本の番号が書いてあったりして
これはネットサーフィンならぬブックサーフィンができるのでは?とか考えた。店員さん頭良すぎる。

3年ほど前、盛岡の書店員さんが始めてその後全国の書店に広まった「文庫X」という企画がありましたが
あれを思い出しますね、ふくろう文庫。
あとたまに各地の図書館でやってる、カバーをかけてタイトルを隠してある本を借りてみる企画とか
年末年始によくやる「本の福袋」とかも本ガチャになるのかもしれない。
本は基本的にタイトルから買ったり借りたりして読むことが多いですが
たまにはブラインドから始まる出会いもいいかもですね。

あとこの日、あやのさんは本当にわたしに付きっ切りでつき合ってくださったんですよ。
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ええと、つまりそういうことなわけで(速杉ハルカさん風に)。

追記にシンカリオンな日々です。↓ 続きを読む

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今年も図書館総合展に行ってきました。
図書館界の過去と現状と進化について本気出して考える3日間ですよ。

今年は出展側だったのでブース巡りはバタバタでしたけど、
例年どおりキハラさんやとしょけっとのブースをまず最初に見てから
ポスターセッションのブースを覗きに行きましたらば。
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びっくりした…!顔じゃなくて鼻から顔を出す顔はめパネル。
これ人の顔が入ったらたいへんカオスな画像ができあがるぞ…。(入れている人は見ませんでした)

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びっくりしたものその2。本のヒーロー「ダクシオン」。
貸出冊数と利用者数を増やし、予算減・職員減から図書館を救う「本のヒーロー」。(公式サイトの説明文まんま)
目は開いた本、ボディは本棚、読み聞かせもする、武器は図書券ソード!!(懐かしい)
依頼するとその図書館のために宣伝とかしてくれるらしいです。
職場に帰ってこんなヒーローいたんですよ~って報告したら
先輩の職員さんに「わたし中の人と仲良しだよ」って言われました。
い、行く前に知りたかった…!ヒーローの中の人と知り合いってすごいな。。

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びっくりしたものその3。イトーキがエヴァンゲリオンとコラボした椅子。
もともとは白い椅子として販売していたものをエヴァカラーにしたみたいです。
展示されていたのは初号機と弐号機の2台ですが綾波スーツ仕様とネルフ仕様の椅子もあるそうです。→こちら
座ってみたら体にフィットしてうっかり寝そうになった。

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ナカバヤシのミニチュア図書館がグレードアップしてた☆
去年は一部屋だったけど今年は二部屋になりました。かわいいよー!
本やテーブルが増えたり新聞のデジタル版が見られるPCが置かれていたり
小物がちょこちょこ増えていて工夫が感じられます。

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司書さん、今年もお元気そうですね。来年もお会い出来たらいいですね。

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児童室が広くなった!
分厚い辞書が置かれたり(ブックエンドまである)英字新聞があったり、椅子も増えましたね。
来年はもっと広くなるのかな。楽しみです。

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偕成社ブースのノンタン今年もいました☆

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おや、この背中は…!

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ミーちゃんだ!
猫ピッチャーは背番号も222なのですね。

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帝京大学の共読ライブラリーは年々毒々しくなっている。(誉め言葉です)
今年は目玉のおやじさんの他にアトムも立っていました。

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アートミュージアム ・ アンヌアーレにあった工芸ピクニックの展示。
お気に入りの工芸品(陶磁器、漆器、銅器、ガラスなど)とお料理と飲み物を持ち寄って
野点のようなピクニックを楽しむ企画だそうです。
ピクニックというとどうしても壊れないようにと持ち運びやすさからプラスチックや紙コップを持っていきがちですが
あえて自分好みの器でジュースとか麦茶とか飲んでみるのもいいかもしれない。
お茶道具を持って行けば野点もできますしね。
工芸ピクニックの心得」によるとホストはいなくて全員が参加者、とあって
なんだかコミケみたいだなと思った。

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今年から始まった図書館川柳コンテスト。
「家よりもなぜか落ち着く本の中」「読み切れず目指せ読破とまた借りる」など
図書館や本にまつわる川柳を一般公募したものです。
めっちゃわかるわ~と思ったのが「わあショック真犯人を囲う丸」。わかるわ~!

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今回は災害アーカイブのフォーラムに参加したので
企画した防災科学技術研究所のブースにも行きました。
全国の災害図書館・図書室・情報センターの概要やパンフレットが並んでいました。
東京の防災専門図書館、神戸の震災文庫、名古屋の伊勢湾台風資料室、長岡の災害復興文庫、
岩手・宮城・福島の東日本大震災文庫などなど。
日本は災害の国だから色んな専門図書館がありますね。
フォーラムの登壇者から今年の台風の話題も出て水害アーカイブを充実させなきゃって意見も出たから
今後も増えていくのだろうと思います。

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防災リュック「ももちゃん」。
子ども用の防災グッズと非常食が詰まったクマのリュックで、
普通のリュックではだだをこねるお子さんに親御さんが「ももちゃんと一緒に逃げよう」と言いやすくなるとか
普段からももちゃんと一緒に過ごすことで「避難には何が必要かな」という話もしやすくなるのではないか、と
企画されたそうです。

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フォーラムでもらったクリップライト。鞄や持ち物につけておけそうです。
LEDなので小さくても明るいからいざというとき頼りになりそう。

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地域資料のデジタルアーカイブについてのフォーラムで
ブラタモリ京都回に出演した梅林さんが「図書館にスキャナ置いてほしい!ネットで画像公開してほしい!
高精細画像でダウンロードしたい!活用して地域に活かしたい!SNSと相性がいいと思う!」とひたすら叫んで
元京都の図書館員で現東大准教授の福島さんが「やりたい職員はいっぱいいる。しかし手段がない。予算もない。
そんな中こんな風に工夫してがんばっている図書館があります」とひたすらフォローする90分。
個人としてのわたしは梅林さんの気持ちがとてもわかるし
司書としてのわたしは福島さんの気持ちがとてもわかるし
おふたりのセッションの間ずっと自分の中で矛盾と葛藤がせめぎあって胸が破裂しそうでした。
わたしたちは資料をちゃんと提供できているんだろうか、活用してもらえてるんだろうか。ぐるぐるぐるぐる。
この仕事に携わる限り考えていかねばです。

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帰りにみなとみらい駅のクリスマスツリーをパチリ。毎年楽しみなんですよね。
今年はツリー中央のパイプオルガンを適当に弾くとメロディが流れて
ツリーのイルミネーションがそれに合わせて変化する仕掛けになっていました。

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星の王子様クリスマスツリーもあった!

小野不由美『白銀の墟 玄の月』全4巻を読み終えました。
十二国記シリーズの最新刊で、番外編が中心の短編集を除くと18年ぶりの本編新作で
18年も待ったので期待しすぎかなと思いつつ読んだらとんでもありませんでした。
1・2巻が先月に発売されて、3・4巻が今日発売だったのですけど
先月に1・2巻を読んだら長い長い状況説明ばかりで何も話が進まないまま終わってしまって
待って待ってこんな状態であと1ヶ月待つの、マジで??ってなりまして
でも発売日まで待つしかなくてあまりの苦行に耐えきれなくて今日手に入れて一気に読みました。
1・2巻と同じくまったく話が進まなくて、ページが残り少なくなっていくのに解決の兆しがまるで見えなくて
残りのページ量を何度も確認しながら大丈夫だろうか一区切りするだろうかと不安になって
何度も最後のページをめくりそうになってそのたびに必死に耐えて
でも残り100ページくらいからそんなことも気にならないくらい一気に話が進んで
「わー!」「わー!!」「うわーー!!!」とか叫びそうになりながら読んでました。
これは18年かかるわ…1・2巻の伏線も過去シリーズに繰り返し描かれてきた設定も
全部全部活かされ回収されていく様が鮮やかすぎて見事でした。
小野主上お疲れさまでした。本当にありがとうございました。

とにかく胸がいっぱいなので以下、ネタバレを含む感想を遠慮なく書いています。
未読の方はご注意ください。
(あと、近いうちにまた読み返す予定なので加筆するかもしれません)



これでもかというくらい多くの人があっけなく去っていくし、何度も何度も絶望にたたき落とされるし
もうダメかも、という底から一転、ラストまで一気になだれ込む怒濤のような展開。
読み終えてしばらくはボーっとしてしまって、これまでのシリーズのこととか思い出してしまったし
さみしいけどこれからやっと戴の歴史が始まるのだという期待と
おそらくまだ全部描かれてはいないだろう摂理のあれこれが気になってしまう感。
小野主上は波のインタビューで「すべての王と麒麟を書くつもりはない」とおっしゃっていたので
世界観についても同じかもなあ、とは思っています。
(というかあのインタビューすごかったな…小野主上が自作を語るの久々に見たし
相変わらずこれでもかとストイックな物語作りをなさっているのがビシバシ伝わってきました。
泰麒が川端訳のセドリックというのは初めて聞いた気がします!
ナルニアの影響というのは楽俊のモデルがリーピチープであるとの話だろうか、
荻原規子氏がどこかのインタビューでおっしゃっていたやつ)

18年も時間があったのと、既刊における世界観の説明と、十二国記における人物の描かれ方から考えて
阿選が謀反を起こした理由は想像できたし、3巻で気持ちを吐露する描写を見ても想像の範囲を超えていなくて
「やっぱりね」と思いましたけど、でもだからこその地獄感がありました。
驍宗と姓がおなじで、年も地位も近くて、馴れあうつもりはなくてライバルとして見ていて
一緒に戴のために働くはずだったのにいつの間にか驍宗より先に手柄をたてることを考えてしまって
驍宗がそうじゃないとわかったときの、自分の独り相撲だったのかと思ってしまう気持ち。
昇山で選ばれなかったとき自分がどうなってしまうかわかるから行かなかったけど
でも選ばれたのは驍宗で、それでも驍宗のことは嫌いになれなくて
代わりに泰麒を憎んでしまったりする気持ち。
驍宗の生死が不明なうちは国をほったらかしてボーっとしてたのに
生きているとわかったとたんにああまたこれで競い合えるって排除しようとする気持ち。
めちゃくちゃ人間味のある人でした。でもだからって国民を巻き込むな。そういうところが「王」ではないんだな…。
同じ姓の王が二代続くことはない問題も、琅燦に言われなくても知っていて
(これ前に楽俊も言ってたけどあまり知られていない慣例でしたっけ?)、
だから泰麒に王だと指名されても信じずに、むしろそれを利用して
泰麒が絶望する顔が見たいって思ってしまう気持ちもなあ…。
鈴が『風の万里~』で言ってた「本人について考えてもみないで勝手に絶望していく」のセリフとか
思い出してしまったし、
かつてアニメ化で昇紘や斡由がめちゃくちゃ手ごわい悪役になったみたいに
阿選もアニメ化したらそんな風になりそうな気がします。脚本次第ではあるけど。

個人的に一番気になっていた琅燦が生きていてくれてホッとしたのと、
彼女の好奇心が阿選に謀反を起こさせるきっかけのひとつであることもわかって
戴の混乱の原因は彼女にもあるよなあ、と思いました。
阿選が謀反を起こしたのは小さなきっかけの積み重ねだったと思うけど
彼女のひとことも確実にそのうちのひとつではあると思う。口調もいちいち挑発的だし。
クライマックスで泰麒を「やっぱり化物だ」と評したのは武者震いというか、
事例採取のために典型やセオリーを集めていたら例外を目にしてしまった研究者の目線であって
驍宗と泰麒が戻ってきたことを喜んでるばかりじゃないよね。
あのセリフを聞いて思ったのは琅燦は観察する人だということでした。自分の興味だけで動く人。
泰麒は、琅燦は敵ではないと最後まで思っていたけど、確かにその通りですけど
たぶん彼女は自分の知識欲を満たすために必要な人物の側にいようとしているだけなんだな。
冬官長の地位もそのために必要だったんだろうし。マッドな学者め!好き。
耶利の主人が琅燦かどうかは今後明かされることはあるのかな…?
泰麒が問いかけても耶利は答えなかったからわかりませんけど、琅燦じゃなくても黄朱の誰かとか
あとさらにバックに更夜の影を見た気がしました。
想像の余地を残して明言しないのがこのシリーズの良さでもある。

泰麒強くなったねー!
まさか18年ぶりに帰ってきた彼が不屈の精神と知略と政治力と名言と大人びた雰囲気と
人々をあざむく知恵と王のために暴力をふるう決断力を引っさげて登場するとは思わなかったよ。
いや、『黄昏~』の後半で李斎と話してるときの口ぶりから聡明なのは伝わってきてたけど
今回、自分の状況と戴のトップを利用して国民を救おうとするえげつない成長の仕方してたじゃないですか、
1巻から知略がフルスロットルですごかったよ。
特に後半、驍宗が生きていると判明してからの泰麒は陽子が覚醒したときのような凄みがあって
元々そういう素質があったかはわからないけど、確実に育った環境と逆境が影響していて
しかもそれらが「今の」泰麒にとっての武器になっているのがもう、しんどい。
泰麒が3巻で「先生」と呟くのたまらなかったし、
阿選にむりやり叩頭しようとしたときはやめてやめてダメだよ~~って泣きそうになった。。
額に杭を打ち込まれるような苦痛とか…おま…おまえ…頭割れたらどうするつもりだったんや…。
4巻クライマックスは『風の海~』のクライマックスを彷彿とさせるのでぜひ映像で見たいな!
黒麒麟であることが移動手段としては他の麒麟よりも簡単だけど
政治の場においては金髪でないことで不利になってしまう状況を考えて
だったら王と麒麟がいなくなるほか戴が前に進む方法がないという考えに至ってしまって
そのために人を殺してまで処刑台の驍宗のもとへ駆けつける泰麒の姿はとても衝撃的でした。
「何が起こったんだ」ほんとこのセリフのまんまですよ。
あれは前例ないよな…「使令を使うのではなく自ら手を下」した麒麟は彼が初めてじゃないのかな。
「すべての麒麟は人を殺した経験がある。本人の代わりに使令がやるから自覚がないだけ」も
確かにそうだなあと思うし、
思えば泰麒は蓬莱でずっと彼らに守られながら殺戮を繰り返していて、そのことも深く受け止めていて
すべてを引き受けていくと決めたんですな…。
傲濫も汕子もいない中で(結局最後まで出てこなかったよね)自分で剣を取って走って
王と麒麟を守るために饕餮が敵を蹴散らすような展開にはならず最後まで彼らがいない状態で戦った。
牢に閉じ込められている正頼に会うために夜中に忍び込んで牢屋番を殴ったりしましたけど
(項梁がとどめ刺したけど)(「甘い。ためらうな」めっちゃしびれました)、
あれも躊躇しながらの行動で、その後の処刑台での行動ももちろんものすごい苦しみの中だったろうけど
驍宗も動揺するどころか「耐え忍ぶに不屈、行動するに果敢」であっさり片付けちゃってて、そういうとこだよこの主従。。
なぜ血を流してまでその人でなければだめなのか、というのはもはや仁ではなく感情だと思うので
泰麒は獣としての性より人としての感情を優先することができたということでしょうか。
転変して国民の前で驍宗とともにある姿を見せるシーンは本当にドラマチックだし
背に驍宗を乗せるという、『風の万里~』の陽子と景麒のようなこともしてくれて
もうこっち(読者)は頭がいっぱい。
すごいところまで来たなあ泰麒…回復して角も元に戻ったようでよかったです。

驍宗さま函養山にいたんですね。
恩を覚えていて食糧や鈴や玉を流す轍囲の民と、それと知らずに受け取る驍宗の構図が奇跡のようでした。
落盤ってことは今も山から出られてない?仙とはいえ7年も飲まず食わずとか無理じゃね??って思ったけど
瀕死の状況から数々の出来事が重なった結果命をつなぐことができて本当によかったです。
『風の海~』で驍宗が昇山に失敗したから将軍もやめて戴にも戻らないみたいなことを言い出したとき、
意地っ張りな人だなあと思ったのですが、今回、阿選も同じ気持ちだったと知って
そうか驍宗がそうしようとしたのは国民のためだったんだなって思いました。
自分は恥をかくことに慣れていないとわかっているから、このまま戴に戻ったら自分が何をするか想像つくから、
国民を傷つけないために、暴走した自分から国民を守るために戻らないという選択をしようとした。
驍宗は阿選とライバルでいるのも楽しかったろうけど、何より自分が戴の将軍であることをわきまえていて
阿選は驍宗を見つめるあまりそれができなくなった人だった。
轍囲の話でも思いましたが、その道を選べるか選べないかが驍宗と阿選の違いなんだろうなと。
驕王の命令に背いて出奔しても、あてもなくさまよっていたわけではなくて
黄海で才国の昇山を見かけたり朱旌の人々から騶虞の捕まえ方を教わったりと
どこに行っても経験を積むことを忘れない人ですなあ。
暗闇で黒い騶虞を捕まえて麒麟を思い出すの『風の海~』のときみたいで素敵でした。
饕餮の傲濫が赤犬くんなら騶虞の羅睺は黒猫ちゃんだ!
李斎と驍宗が再会するまでの数ページが心臓バクバクで早く、早くあと少しじゃん…!てページめっちゃめくって
「…驚いた。李斎か」ってなったときいよっしゃあああ!!!ってなったよね☆
思いっきり膝ついた霜元も、7年間生きていると信じて探し続けた李斎も本当にお疲れ様でした…。
そして泰麒との再会の「蒿里か」「大きくなったな」にも泣いた…。
子どもの姿の記憶しかなくてもあの状況で自分のもとへ来てくれたのが誰なのかすぐわかるんだなあ。

王旗と麒麟旗の並びで泣きそうに。
とりあえず希望の持てる結末ではありましたが、たくさんの仲間が…あまりにも多くの人が…。
虎嘯や夕暉がそうなれたように朽桟も癸魯も余沢も夕麗もこれからの戴のために必要な人だったのに…。
(いつだったか小野主上が言ってた「書かれていないところでたくさんの人が死んでいる」がこんな形で出てくるとは)
項梁と去思が生きててよかったです…項梁ほんと大変だったな泰麒のそばにいても、離れていても…!
去思もよくがんばりました。よく無事で雁にたどり着いた。
機会があるならたくさんのものを失ってしまった戴がこれから復興していく物語も読みたいです。
泰麒や戴のその後、陽子たちのその後、天の摂理。気になることは山積み。
最後の戴史乍書の「十月鴻基において阿選を討つ」一文ですませているところがいいですね。
十二国記の史書は相変わらずいい仕事をします。
『月の影~』でも「偽王舒栄を討たしむ」で終わってて、直接の描写はないですしね。
(アニメ版ドラマCDではやったけどね)

延主従が来てくれたときの安心感がすごい!毎回いいところで登場しますなあ。
ト書きに「延国からの使者」ってあったけどこれ絶対本人たち来ちゃってるでしょってなったら当たったもんね、
あの2人は本当に本当にほんっっっとうに、部下を遣わさないで自分たちで行っちゃうよね!好き!!
(海を挟んですぐのご近所さん同士なので行きやすくはあるんだろうけど
王様と麒麟がお出かけするって結構なハードルなのに
それをヒョイッとやっちゃうのがあの2人らしさだなあと思います)
尚隆の「引き受けた」のひとことでああもう大丈夫だって心の底から思えたし
『黄昏~』で六太が李斎と泰麒にとらを貸して見送ってくれたこととかも思い出しちゃったし
それを頼んだのは陽子だし、もうもう、みんなで支えてがんばってここまで来た感がありましたわ…。
泰麒も元気になったら姿を見せてあげてほしい。六太に。陽子と景麒に。

李斎で思い出した!飛燕~~初登場からずっと好きでしたしこれからもずっと好きですよ飛燕…。
せめて、せめてあと一度でいいから泰麒に撫でられてからお別れしてほしかった。。

落穂拾いのような短編集が来年に出るということですが、
今回の4冊で出てこなかった人たちが数人、登場する予定とのことで楽しみです。
今度はどんな人々が見た戴が描かれるのかな。
十二国記は群像劇なので視点がコロコロ変わりながら物語が進むのが少し読みにくい時もあるのですけど
今回は戴国の様々な立場の人々の視点で描かれていて、様々な思考や計略や思い込みや勘違いがわかって
そりゃこれだけ多くの人がいたらこうなるよねって思いました。
みんな色々考えて行動するからこじれるんだよね…。
よかれと思ってやったこと、熟慮の末にやったこと、動転してふとやってしまったこと、自分の身かわいさにやること。
あらゆる人々の行動が物事を複雑化し、そしてあっけなく結末を迎えたりするんだな。

山田画伯の絵もすばらしく冴えわたっていて、ページをめくって挿絵が現れるたびにドキドキしていました。
2巻で琅燦がピンで描かれたのすごくうれしかったし、
4巻最初の、驍宗が羅睺を調伏するときの挿絵は国芳の水滸伝を思い出すような大迫力だったし
驍宗のもとへ駆けつける泰麒と耶利の冷徹なまでの凄まじい表情と動きには凍りつきました。
小野主上の原稿を読んで画伯が筆をふるい、主上もまた画伯の描くキャラを見て別のお話に登場させたりするそうで
おふたりあっての十二国記だなあと、改めて。
そういえば十二国記画集は第二弾も計画中という話はどうなったのかな…。
過去に開催された原画展で確かそんな噂を聞いたのですが。
本編同様、いつまでも待ちますので発売してくだされ新潮社さん~。

小野不由美さんの『営繕かるかや怪異譚 その弐』を読みました。
5年前に出た短編集の続編です。

今回も短編集で、様々な事情で古民家や古い実家に住むようになった人々が
その家や周辺で怪異に出逢い、それを若い大工さんが修繕しに来るというパターン。
怪異は相変わらず「そういうふうに縛られているからそういうふうにしか行動できない」ものが多くて
人間側が観察して理解して対処するしかないというものになっています。
1作目もゾーッとする描写とホッとする描写の連続でドキドキしましたけど、今回もその雰囲気は健在で
その短編ごとの主人公が営繕屋の尾端さんと出会うまで
「大丈夫?この人生きて結末迎えられる?大丈夫??」ってハラハラしていました。
毎回こんなにも登場がゆっくりで、待たれる狂言回しもなかなかいないと思う…。
そして登場してから去るまでの時間はウルトラマン並みの短さ。
ちゃちゃっと来てちゃちゃっといなくなります。仕事人みたいで潔い。

表紙絵に鳥居と梅の花が描いてあって、しかも紅梅だったのでおや…と思って読んでいたら
2編目の「関守」が通りゃんせ、もとい、川越の三芳野神社が元ネタになってるお話でテンション↑↑↑
三芳野神社はもともと単体の神社だったけど、後から川越城ができて神社の敷地ごと取り込まれて
一般の人はお参りできなくなってしまったけどお正月などは出入りできた説とかも書いてくださっている。
ちゃんと調べてくださったんだなあ…有難いなあ…じーん(*´Д`)。
他にも小田原にもそういう話がありますとか、諸説ありますみたいにしてくれてるのもポイント高し。
主人公の女の子が通りゃんせの歌に良いイメージを持っていなくて、なぜだろうと一生懸命思い出そうとして
子どもの頃に遊んでいた神社から帰ろうとして鬼に会ったというエピソードが出てくるんですが
最後の最後にその鬼の正体が猿田彦だったとわかったときは「エエ~~ッ!」と叫んでしまいました。
そうかあ…猿田彦の顔が鬼に見えたのかあ…。
女の子の回想で角についての言及がない時点でこりゃ鬼とは限らねえなあとは思ったけど猿田彦か…!
わたしは読んでいても通りゃんせ=鬼=猿田彦がまったく繋がらなかったので
鬼から猿田彦を連想することがどうしてもできなくて、
そういう意味では最後まで気づけずに読んでましたね。
猿田彦は鬼というより天狗に近いイメージなので…わたしの中で…。
鼻の高い低いはともかく、紅い顔で頭襟かぶって狩衣着てたっつけ袴で草鞋というのは鬼じゃないよな…天狗だよな…。
と、ここまで考えてわたしのこの天狗のイメージはどこから来ているんだろうと考えてみたんですが
たぶんあれだ。かこさとしさんの『だるまちゃんとてんぐちゃん』だと思います。
あのてんぐちゃんも、赤い顔に狩衣を着ている子なので。
それにしても2編目の主人公さん、猿田彦に道案内された過去をお持ちとはとってもうらやましいぞー!
(ご本人は不審者みたいに見えたってことですけど)(そりゃそうだよね)
あと尾端さんが、神様は祟るものでもあるというところに言及してくれたのもよかったです。
「そういうふうにしか行動できない」というのはこの世に強い思いを残している人間の霊だけではなく
神々や妖怪たちもそうだったりするんだよね。
オールマイティな神様もいますが、基本的に神様というのは豊穣とか学問とか縁切りといった風な専門家であり、
人々は歴史上、目的に応じてどこにお祀りするか、どのようにお参りするかを決めるなどしてお付き合いしてきているので
神様は存外、柔軟性に乏しかったりする場合が多いように思います。神話や民話を見てると。
あと人間側が約束を破ったときの反動がハンパない。

猿田彦は今も川越氷川神社の神幸祭行列にいますぞ~。→こちら
4年前に例大祭を見学したときに手を振ってもらった覚えがあります。素敵な神様だった。
三芳野神社も春になると梅の花が綺麗に咲くので、何度か見に行っています。
過去に訪れた場所がこうして小説に出てくると、楽しくなってテンションめっちゃ上がります。やたーっ☆

他のお話も、三味線とか猫とかこぎんの着物とか個人的萌えキーワードが多い。
三味線の音色をたどっていくと自分だけに見える女性を見つけたりとか
飼い主の帰りをずっと待っている猫たちとか、切り刻まれて踏まれたお着物とか
床下からずっと助けを求めている幼なじみとか、体をボロボロにしながら家の危機を訴える男性とか
今回は切ない系のオバケや霊が多かったように思います。
実際に会話やコミュニケーションがとれるわけではないので、彼らの想いは
目の当たりにした人間たちがひとつひとつ探っていくしかないんだけど。
正邦さんのお話が切なくてなあ…。
過去に正邦さんを見た人は何人かいて、今は主人公とおばあちゃんだけが「屋根裏にいる」と知っているというのが
かえってリアリティがあってドキドキしました。
家を建て替える際に正邦さんの欅の全部は使えないけど一部は別の何かに使えるという尾端さんの話を聞いて
「会ったら怖いけど、いなくなるのは寂しい、いてくれた方がいい」と主人公が思えるようになったのは
とても素敵なことだなと思いました。
形が変わったらどんな姿になるのかな。小さくなった正邦さん、ちょっと見てみたい気もしますね。

尾端さんも相変わらずプライベートが想像できない人ですな…。
普段はどこに所属して仕事しているのか、同僚はどんな人たちなのか、ご家族や友人はいるのか、
いつから、なぜ、営繕の仕事に関わるようになったのか。
ご本人の口からまったく語られないので気になっています。
クライアントと職人って、顔を合わせると多少は身内話もしそうなイメージがありますけど
尾端さんはいつも一切何も言わなくて、仕事の話だけして黙々と作業して帰っていくよね…。
その作業も地味っちゃ地味で、木戸や猫ドアを直すとか、壁をふさぐとか、抽斗に枠をつけるとか、
大黒柱をかじっていたシロアリを見つけるとか、床板を外して地面を掘って大きなトランクを見つけるとか。
でも時々、「この棚、手作りですね。本当にお好きなんだなあ」とか
そのお宅の過去の持ち主に対して心を寄せたりもする。
古い建物や昔話や民俗に詳しくて、現代的な建築の知識を持ち、噛み砕いて話せる技術屋さん。
尾端さんが今後もどういう仕事をしていくのか気になるので、また続きが出てくれたらうれしいです。

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>>>そんな空気を吹き飛ばす猫様<<<

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わたしが本を読んでいる間ずっと隣で寝ていてくださったので
ドキッとする描写のところで背筋が凍っても引きずることなく読み切ることができました。
怖くなったら猫さまの寝顔見ればいいんだもんね!
頭とかお背中とかナデナデさせてもらえればさらに気持ちが落ち着きます。
もふもふはメンタルにとても効く。怪談に猫。オススメです。


そして先月のビッグニュースですよ。
\\\十二国記新刊ついにきたっ!!!///
待ってた。待ってた!「黄昏の月 暁の天」から18年越しの戴国の物語!!ホギャーッ(゚∀゚)☆
「白銀の墟 玄の月」というタイトルがかっこよすぎてひれ伏しました。十二国記の副題まじ美しい。
はあぁ泰麒…李斎…驍宗様…琅燦…どうなったんだみんな生きていてくれ…!
10月~11月の4冊連続刊行が待ちきれません。早く読みたい。待ってます。楽しみです。

菅野雪虫さんの『アトリと五人の王』を読みました。
9歳~19歳までの、ひとりの女の子の人生を記した物語です。
タイトルにある通り、五人の王様と出会ってお別れするお話ですし彼らと結婚も離婚もするのですが
(誰かと別れるたびにアトリの指に黒い指輪が増えていくのがしんどい)、
アトリの人生の中で彼らはアトリに大きな影響を与えては通り過ぎていくだけで
ただただ目まぐるしく変化する環境に対しアトリがどう考え立ち向かうかに比重が置かれ延々と描かれていて
ページをめくる手が止まりませんでした。
電車に乗りながら読んでたんですけど乗り換えの時間さえ惜しくて早く次の電車乗らなきゃ…ってなってた、
久し振りによい読書の時間でした。

アトリの行動力がとにかく凄まじい。。
両親である国王と王妃から知識も常識も愛情も与えられなかったアトリが、結婚という形で城の外に出て
最初の夫になった月王と、彼に仕えるサヤとエンジから知識・常識・愛情を与えられながら半年を過ごし、
学習の喜びを知り、無知の歯がゆさを悔しがり、地域の人々の力になりたいと思うようになり、
自分は変われるかもしれないと自己肯定していく過程がものすごく胸にくる。
月王が亡くなって実家のお城に戻った後は貪欲に本を読んで知識をつけ、お城の人々の仕事を見て回り、
こっそり城下に出かけては人々の暮らしや国の物流・経済について観察し考えています。
アトリのこの姿勢はどの王と一緒にいるときでも変わらなくて、トナムと一緒に歴史を学ぶし
ザオに法律の知識を与えるし、イムの即位に湧く人々を冷めた目で見るし
投獄されてもエンジとロルモからもたらされる情報を頼りに牢獄の人々の力になったりする。
目の前の出来事を冷静に見つめ、知識と経験を頼りに、時事と最新情報をたぐりよせアップデートしつつ
常に最善を尽くそうとするアトリはかっこいいです。
ザオを殺したイムに軟禁されたときも「情報があれば交渉できるのに」とか考えられるのすごい、メンタルゴリラすぎ。
知識と情報は生きるために、あざむかれないために、肝心な瞬間を自分で判断するために、
誰かに手を貸すために不可欠なものだなぁ…と改めて思いました。
あと、逐一描写される知識や記録へのリスペクトがとても素敵。
月王の持っていた基礎的で古くて学習の土台になる知識、
トナムの教師が言った「国の歴史は異国の人々から見れば解釈が違うと感じられる場合もある」の言葉、
前政権の記録を破棄しなかったザオと、彼の統治した2年間を正史として認めず破棄させたイムの対比。
国の年表や歴史書に何も書かれない空白ができてしまうことをアトリはとても憂えていて
逆にザオの治世が続いていたら歴史も記録も彼のもので、前王は「滅んだもの」として記録されただろう…ということも
わかってしまっている。
歴史は常に勝者が記してきたもので、そのことにアトリが気づいた描写は本当にすばらしくて
そうなんだよなあ、きみも気づいちゃったね…と肩ポンしたくなりました。
国の歴史に人々がどう記されていくか、過去にどう記されてきたかを知るのはとても大切なことです。

五人の王(うち2人は同一人物)たちもそれぞれの人生を生きています。
アトリが最初に結婚した月王は壮年であり病人ですが、彼には知識があったので
アトリは彼のもとで学ぶことの楽しさと難しさを知ります。
でもいかんせん時間が足りなかった…アトリとは半年で死別してしまいます。
次に結婚したひとつ年下のトナムは11歳という少年で王になっていて
アトリを素直に見つめて妻にと選び、学習をおこたらず、公平に物事を見ることができる人です。
兄を政治的な事件で失っているので精神的に大人にならざるをえず、
自分が国の駒のひとつであると知っている。
しかしいかんせん経験が足りなかった…城内の裏切りに気づかず反乱軍に追われて国から追い出されます。
盗賊であり反乱軍のリーダーから国王になったザオは、粗暴ですが人望があり
人々のために精一杯学ぼうとしていて、人をよく見てきたから直感で不正を暴くことができ、
手切れ金に金銀を渡すことでしかコミュニケーションが取れない人。
しかしいかんせん知識が足りなかった…力をつけて戻ってきたイムに王位を簒奪されます。
トナムの兄イムは「弟の仇を討って王位についた兄」という英雄として国に戻ってきて
かつての国を取り戻そうとするかのように完璧に政務をこなし、力で政治を推し進めていくタイプ。
しかしいかんせん愛情が足りなかった…アトリに庇われるまでアトリを見ようともしなかったけど
温泉地で療養するアトリの元へ通うのは楽しかったんだろうな。
そして、闇落ちトナム。。
もう堕ちるべくして堕ちたというか、そりゃそうだよねっていう感じしかないですね。
五人目はこうくるかよ。すごいよ菅野雪虫。
イムを刺してアトリを抱きしめるシーンはめちゃくちゃドラマチックですが
18歳にして目が真っ暗というのがもう、壮絶な日々を物語るようでむちゃくちゃしんどい。
何もかもに信頼をなくしてすべてが信じられなくなっているトナムは自分の決めたことしか通さなくて、
かつて月王と柚記の人々にかわいらしい嫉妬をしていた少年が
兄に好かれるアトリに対して憎しみのような疑いと憎悪を向けるようになってしまって、
でもエンジとアトリが一緒にいるところではそうは思わなかったというところに
本人が救いを感じていたのが、本当に救いだなあ。
ザオのお墓を作ったり、流刑にしたイムを呼び戻すかどうかの議論を始めたのも
少しずついい方向に向かっているからだといいなあ。
これからも色んなことが起こるだろうし波風だらけの人生でしょうけど国王としてがんばってくれトナム、
あと彼は「アトリならどうするだろう」という思考にしばしば陥りそうな気がします。

アトリと国王たちよりアトリとカティンの関係が好き(笑)。
カティンのすごさはまず、親に洗脳されなかったところですよ…!
あんなに毎日毎日、自分の母親が異母姉を貶める言葉を聞かされていたのに
カティンは母を信じるどころか、「そんな言葉を使えばお母様の品格を貶めるだけ」で
「姉は馬鹿でも愚かでも頭がおかしいわけでもない」と、自分で気づいたかしこい人です。
王の娘という自分の立場を哀しいくらいにわかっていて、それでもその立場を最大限利用してアトリを助けるカティンは
親の権力の正しい使い方を知っていると思う。
びっくりしたのが史姫のペンネームで本を書いたり書評やキャッチコピーも書いてお金をもらい始めたこと!
しかもそのお金を牢のアトリを助けるために惜しみなく使ってしまう潔さ、
ペンで稼ぎ異母姉を援助する異母妹!強い。強すぎる(;´∀`)。
もうカティンがアトリを守ればいいじゃん~~おまえら結婚しよ~~~!!って読みながら何度思ったかわかりません。
だからこそ「わたしだって男だったらアトリと結婚したいもの」のセリフが惜しいんだ…。
同性が結婚することに考えが及ばない世界。女性が王位を継ぐことも想定されない世界だしなあ…さもありなん。
(これで菅野さんの次回作に同性婚の描写が出てきたら「お、菅野雪虫が一歩進んだ」と思えるかもしれない)
アトリの側近のエンジとロルモも好きです。
脳筋と理性というか、精一杯アトリを好いてくれるエンジと事務的な能力で助けてくれるロルモは
いいコンビだなと思います。
エンジは戦法を、ロルモは知識をお互いに与え合い補い合っていてすごく仲が良いし。
アトリにとって頼もしい騎士であり頼れる友人であり、とにかくただただ良心!
どんなときもアトリを信じて支えていく2人はかっこいいです。

「女の子が幸せになるために必要なものは、知識と、常識と、愛情。仕事と友人があったら申し分ない」
月王のことばですが、最終的にアトリはすべてを手にできていたと思いますね。
アトリが幸せになれるかどうかは、まだわからなそうなところで物語は終わりますが
アトリはまだ若いので終わりではなく始まりでしょうね。
そしてオチがカティン著の新刊『アトリと五人の王』だったことに笑った(笑)。
月王が実は龍神だったり、トナムが天馬の化身だったり、ザオが天狼の化身だったりする物語おもしろそう、
カティンはファンタジーを書くのが得意なのかな?
主人公のモデルになったアトリの人生はまだ続いていきますから、カティンの書く物語も続いていくでしょうね。
どんな結末を迎えるのかとても気になります。アトリの人生も、カティンの物語も。
どちらも、それぞれが納得のいく生き方を全うできますように。

最初は誰とも遊んだことがなくて、誰かと遊ぶってどうやるの?とか言っていたアトリは
なんとなく『天山の巫女ソニン』のソニンに見えたのですが、
やがて『女神のデパート』の結羽になり、『羽州ものがたり』のムメになり、どんどん行動力が出てきて
終いには『天山~』のイェラのような思考力を身につけたと思うし、
一方で『チポロ』のイレシュのように自分の置かれた状況や立場に対してものすごく冷静なまなざしで見ている。
離婚してお城に戻った自分のための予算が削られていることをわかっていたり
カティンが王妃とはまったく違う子であることをすぐに見抜いて仲良くなったり
よく物事を見ているというか、大切なものを見過ごさない目を持っているなあと。
菅野ヒロインの行動力すべてを凝縮したような子だなと思いました。集大成のような子だと。
でも菅野さんのことだから次の主人公もきっとアトリをアップデートしたような子かもしれないなあ…
同時代を生きて新作を追いかけられるしあわせ。次回作も楽しみにしています。

そういえば女神のデパート終わっちゃうんだった~おもしろかったのに。。
5巻の発売は来年かな…お待ちしております。