fc2ブログ
2022_08
21
(Sun)13:37

あの子が笑顔で駆けてくる。

ふくろうの本のちばかおり・川島隆『図説アルプスの少女ハイジ-ハイジでよみとく19世紀スイス』に
増補改訂版が出たとの情報をいただきましたので読みました。
heidibook1.jpg
リンともの八少女さんのブログで知ったのですが、八少女さんがこの本にご協力されていたことも知って
「わ~~読もう読もう!」ということで^^
八少女さん記事を書いてくださってありがとうございました。
あと浜松市美術館で開催中の「ハイジ展-あの子の足音がきこえる」の情報もいただきまして、
今回の増補改訂もその関連で行われたのでしょうか。
浜松はちょっと遠いな…いま遠出しにくいからなあ、巡回しないかな…。
TVアニメの資料は過去の高畑勲展をはじめもう何度も見たので(何度見ても良いものですが)
そろそろ原作についての資料をちゃんと見てみたい。

heidibook2.jpg
左が改定前、右が改定後。
16ページ増えて紙も少し厚くなったのかな?1.5倍くらいになったような。

改定前の本を過去に読んだのですが、9年前なので内容をほとんど忘れていて
今回の改定版は復習と学びなおしのつもりで読みました。
(わたしのハイジ歴は小学生のときに原作2冊を読んで大人になってからDVDで高畑勲氏演出のアニメを見て
ふくろうの本を読んで時代背景を知ったという流れです)
スイスの作家ヨハンナ・シュピーリ作『ハイジの修業時代と遍歴時代』と
『ハイジは習ったことを使うことができる』に描かれる19世紀スイスとドイツの時代背景について
当時の歴史や暮らしを中心に政治、経済、宗教、文化、教育、自然など細かく紹介されています。
ふくろうの本は特集する内容について、可能な限りの写真や図版を
カラーでどーんと掲載してくれるのが本当にすばらしくて大好きなシリーズなんですが
(その割におねだん全然張らないのでそれもすごい)、
今回の本も図版を多数載せてくれていてすごく有難いです。
19世紀はカメラが発明され写真が記録として残りますので
歴史もぐっと伝わりやすくなってくる時代だと思う。

原作やアニメから想像していたアルムの山の自然について
色々解説されていたのが本当に有難くて、
アルムが森林限界を超えた草地とか山に咲いている草花(リンドウやツリガネソウやシスト)とか
ハイジがざわつく風の音を聞いたモミの木(ドイツトウヒ)なども解説されていて
ハイジたちが見ていたものがどういうものかというのが実感をともなって感じ取れて
風とか空気感を昔よりぐっと想像ついたのがよかったな…。
(全然関係ない話ですが、わたしがトウヒの木を初めて知ったのがホッツェンプロッツの本なんですけど
ハイジにも登場していたと確認できてちょっと楽しくなりました。
あとホッテントット(コイコイ民族の蔑称)についても
カスパールとゼッペルがホッツェンプロッツに対して一芝居打つときに出てくるセリフにあるのですが
その名前が出てくるドイツの数え歌を使ってハイジがペーターにABCを教えている解説を見て
当時のヨーロッパ人からのアフリカ人へのまなざしも知ることができたし、
ホッツェンプロッツの作者プロイスラーの視点についても考えることができて、本当に有難かったです)
アルムの夕焼けについても、ヨーロッパの氷河期時代の土地形成の話から始まり
アルプスの山や谷は気温の上昇で融けた氷河が岩を削ったことで生まれたもので
スイスには標高3000m以上の山が多いこと、
ハイジが見たシェザプラーナ(大斜面の意)も標高2964mの険しさで一部に氷河も残っていると。
また日暮れや日の出に山が赤く染まる現象をドイツ語でAlpenglühenといい実際に見ることもできると。
ハイジの「山が燃えている」というたったひとつのセリフの背景に
これだけの土地の歴史が詰まっているというのが本当に興奮してしまったし、
そんな山から吹くフェーンの強風の影響で体調を崩す人(気象病というやつでしょうか)がいる一方で
フェーンのもたらす暖かい風でマイエンフェルトはブドウがとれるのでワインの産地になっているとか
自然の一面では語れない人々の暮らしもわかって
ハイジたちはそういう環境の中で暮らしているんだなあと。
民族衣装と食生活の解説も楽しくて、女性たちのブラウスやスカートやエプロンは
形は同じでもレースや刺繍のデザインが異なるというのおもしろかったし
マイエンフェルトのあるグラウビュンデン州の家庭料理もおいしそうでした。
ビュンドナーゲルステンスッペとカブンツ食べてみたい。
チーズフォンデュがTVアニメのみの演出で原作にないのは気づいてたけど
スイスでは地域によってチーズの種類が違うことも紹介されていて、やっぱり食べてみたくなりました。
アニメにしかいないといえばセントバーナードのヨーゼフもそうですね。
スイスとイタリアの国境のサン・ベルナール教会で飼われていた犬種で
スイスの人々にとってはその犬がアルムにいるのはちょっと違和感があるようです。

ハイジのモデルがゲーテのヴィルヘルムマイスターに出てくるミニョンとされていることも
言われてみればなるほどなあと思ったし、
ペーターのおばあさんに讃美歌を読んだりアルムおんじに放蕩息子の話を紹介したりすることで
彼らの救済につながるという流れや、
ペーターも救済されるべき子というキャラクターになっているのは、
中世~近世に作られる物語や説話というのは宗教を底とする教訓話であることが大前提になっていて
それは世界中で共通していることだったりしますね。
物語というのは昔は大人のための物だったわけで、19世紀くらいから近代化と同時に「子ども」の時代がようやく始まり
それまで労働者だった子どもに対して義務教育を行う国が増えてきて
子ども服とか子ども部屋とか児童文学とか、子どものための文化が少しずつ出てくるわけですが…。
(TVアニメをDVDで見たときに小原乃梨子さん演じるペーターがヤギ飼いとしてすごくしっかりした子で
「この子がクララの車いす壊しちゃうのか…やだな…」って思いながら見てたんですけど
その場面がカットされているどころか人物像が(特に後半で)かなり改変されているのを見て
えっえっペーターよかったね!ってなったんですよね。
あとで高畑さんが何かのインタビューで「僕らのペーターはそういうんじゃ困ります」と
答えていらっしゃったのを読んですごく痛快だったのを覚えてます)
クララが車いすを使っていることや病気がちであるというのも
ハイジと交流することで自立し救済されていく子というストーリーの装置として設定されたものというのも
(だからクララの病名は具体的に書かれていない)、ものすごくしっくりきて
とてつもなく計算された物語なんだなあと思いました。
(秘密の花園のコリンの事例も紹介されててあ、それ~~~!ってなりました)
ゼーゼマンさんがクララを放置して仕事ばかりしている姿は昔から頭にきていたし
(クララこんなに寂しそうなのに!って小学生のわたしは地団駄を踏んでいました)、
クララのおばあさまがクララやハイジのために動いてくれる人であっても
状況がほとんど変わらないのは「なんで?」って思ってたけど
当時の時代背景を考えると難しかったんだろうな…と思う。
デーテおばさんやロッテンマイヤーさんについても子どもの頃はおっかないイメージしかなかったけど
当時の女性の労働環境を考えるととんでもなくがんばってる人たちなんだよな…。
女性が働くことに対する差別的なまなざしもあるし、保育所もないから子どもの預け先を探さないとだし
働けたとしても男性より待遇は悪いしそもそも就職そのものが難しかったりする。
なりふり構わず生きるしかなかった人たちなんですよね。
(小公女に出てくるミンチン先生とかも、最近はエンパワメントな視点から研究されてたりしますね)
(とはいえ、彼女たちの子どもに対する態度には問題があります)
(女性たちが物語の中でそういう風に描写されることが多かった当時の社会についても考える必要があります)

原作者ヨハンナ・シュピーリについてもハイジしか読んだことがなかったこともあって
彼女の人生についてもこの本で詳しく知ることができました。
祖父が牧師で父親が医師で母親が宗教詩人、
寄宿学校を卒業後に実家で妹たちの教育をしながらレッシングやゲーテを読んで
母のネットワークで声をかけられた教会新聞に短編を発表したのがきっかけで作家デビュー、
以後亡くなるまで精力的に作品を発表していたようです。
スピリ少年少女文学全集として、日本語に翻訳されて読める作品も多数あり
ほぼスイスが舞台になっているようです。
ハイジ以外はだいたい絶版になっているようなので図書館とかで読むしかないのかな。

改訂版には日本におけるハイジの受容史の追加と世界各地で制作されたハイジのアニメについて、
日本のアニメでキャラクターデザインを担当された小田部羊一さん、プロデューサーの中島順三さん、
仕上げ担当の高畑かよ子さん(勲氏の妻)の座談会が掲載されていました。
ハイジを日本に初めて紹介したのが野上弥生子で、初めて原典から全訳したのは竹山道雄で
挿絵も松本かづち、蕗谷虹児、高橋真琴、いわさきちひろ等様々な画家が描いていたり
いがらしゆみこによる漫画もあったり。
わたしが過去に読んだのは福音館書店刊の矢川澄子訳・パウル・ハイ挿絵の『ハイジ』ですが
あれから何度か新訳も出てるんですよね。今はどんな風に訳されてるんだろう。
座談会はスイスで開催された日本のハイジ展の関連企画で行われたもので、
小田部さんと中島さんのお話は知っていることばかりで特に目新しいことはなかったけど
高畑さんが「本人(勲氏)も来たかったと思う」「何年か前の旅行のときより街が大きく綺麗になっている」とお話されていて
(この対談のとき既に勲氏は亡くなられていた)胸がぎゅーーっとなってしまった。。
高畑勲さんおよび当時のスタッフの皆さん、アニメを作ってくださってありがとうございました。

ちばかおり氏は世界名作劇場などの研究をされている方だったと思いますが
(過去に関連書籍を何冊か読んでます)海外児童文学も研究対象なんですね。
川島氏もドイツ文学の研究者で主にカフカが専門なのかな、他の著書も読んでみたい。
スポンサーサイト



2021_05
22
(Sat)23:55

本を読みながら思い出したこと。

穂村弘『図書館の外は嵐』を読みました。
書評集なので没頭するとかはなかったんだけど、
穂村さんが要所要所で書き連ねる言葉にうんうんってなったりあれこれ考えたり思い出したりしたことがあって
そういう読書もおもしろいなと思ったので今日はそんな感じで書いてみます。

p.8
「「最近、何かいい本あった?」と会う人ごとに尋ねている。
「えーと」という反応が返ってくることが多いけど、先日、珍しく即答された」
難しい質問。
好きな本はその日の気分や体調とかでコロコロ変わるのでな…。
最近の本でなくてもいいのかな。久し振りに読み返した昔の本とか。

p.18
「『プレイボール』の新作を読める日がくるなんて、
『ポーの一族』の四十年ぶりの新作『春の夢』の刊行と並ぶ、いや、それ以上の驚きだ。
何故なら今も現役で活躍する萩尾望都とちがって、
『プレイボール』の作者であるちばあきおは三十年以上も前に亡くなっているからだ。
その志を継いで「2」を描いてくれたコージィ塩倉に感謝しているのは私だけではないだろう」
こういうのありますねー!
公式アンソロジーとか同人誌とかではいくらでも事例がありますが、
商業作家が書いた作品の続きを別の商業作家が書くというやつ。
エレナ・ポーターが書いた『少女ポリアンナ』の続きを
ポーター亡き後に50冊以上も出している作家たちがアメリカにいますけど
わたしはどれも読んでないんだよな…翻訳されてないっていう理由もありますが。
(そしてポーの一族新作ありがとうございますモー様!!)

p.24 
「解説によると山口誓子の「スケートの紐むすぶ間もはやりつつ」のパロディとのこと」
水鉄砲水入れる間も撃たれつつ(小川春休)の句についての一文ですが
山口誓子だ!小学校の教科書に載ってた俳句だー!ってなった。
それまで俳句というと松尾芭蕉や小林一茶など江戸時代の人ばかり学んでいたので
漢字やひらがなだけを使ってやるものだと思い込んでいたわたしに
「スケート」という言葉を入れていいんだって教えてくれた句でもあるのでよく覚えてます。

p.30
「出会った人に「好きな作家は誰?」と尋ねることがある」
これも難しい質問。
やっぱり、その日の気分や体調、経てきた年月とかでコロコロ変わるので…。

p.36
「現実世界を生きる我々もまたホームズではあり得ず、全員がワトソンではないだろうか。
ホームズがいなければワトソンの人生は平凡なまま完結してしまう。
だから、我々は皆、心のどこかで危険な名探偵との運命的な出逢いを待っている」
これ、わかるようなわからないような。
ワトソンくんがホームズくんと出会わなければどんな人生だったかと思うことはあって
それはそれで良い人生を送ったかもしれなくて。
ホームズくんが一緒にいるとまあ、退屈はしないと思いますが
なかなか経験できないようなことを経験することになって、それもそれでまた人生で。
ワトソンくんが果たして平凡な人生を送りたかったのかどうかは…
たぶんホームズくんと出会ってからの彼はそうは思ってないような気がする。
危険な名探偵と出会ってしまった一般人が振り回されていく物語は確かに楽しいし
それとは別に平凡なまま完結する人生を送ることも、また楽しい。

p.38
「一行目に惹かれた人は、その瞬間に、
物語の世界観を受け入れる心の書類にサインをしたことになるんじゃないか」
本の書き出し部分を読むのはすごく好きだしドキドキする瞬間でもあるし
それを「サイン」とする穂村さんの表現がすばらしい。

p.43
「代表作の直前の輝きというものがあるんじゃないか。(中略)
一人の作家の誰もが認める代表作が魅力的なのは当然として、その直前に生み出された作品には、
それとはまたちがう、完全なピークにはない、別のオーラがあるように思うのだ」
わかる。
デビュー作には作家のエネルギーがものすごく詰まっているといいますが
代表作の前に刊行された本は飛び立つ前というか助走のようなエネルギーを感じる。
あとね、作家の代表作を読むのもいいんですが、気になる作家に既にいくつか作品があった場合は
発表順に読んでいくというのをやると結構おもしろかったりします。
たとえば十二国記を時系列順とかより発表順というか刊行順に読んだ方がこう、
小野主上とかそれをずっと追ってたファンの視点とかを追体験できるのですっと頭に入ってくるんですよね。
前の本でこれが書かれてるから次の本で時代設定がいきなり数百年前とかに戻っても
ああ影響が出てるなーみたいなのも見えてくるし。

p.48
「その人に関するすべてが「いい感じ」に思える作家がいる。
それは好きな作家というのとも微妙に違っている。(中略)
読まなくてもいいからその魂に触れたい、という奇妙な欲望がある」
物語より作家さんの方がおもしろい場合、ありますね(笑)。
その人の本が自宅の本棚にあるだけで安心してしまうというか。
わたしはこれは、小説の作家さんより研究者による歴史書や論文集の方が多いかも。
信用している研究者の本はとりあえず買って、後日読んで「ああ~やっぱり正解だった!」てなる。

p.58
「日本とシリアでは表現の自由度が違う。作者の置かれた環境では、
書きたい内容をそのまま表現することが許されない。そんなことをしたら「痛烈な平手打ち」を浴びてしまう。
だから、さまざまなメタファーや寓意を駆使して表現することになる」
シリアの作家の小説に対して書かれたものですが、
紛争などの厳しい情勢の中にあって何とか記録や表現を続けようとする人々は昔も今もいて
政治体制に従わざるを得なかった人やギリギリまで表現を試みた人もいて
その中で生み出される表現はそのときにしかできないものですが、
でも紛争なんてない方が絶対によくて
それを学ぶためにも当時どんな表現がされていたかを知る必要があるよね。
そういえばシリアのパルミラ遺跡は暴力で破壊されてしまったし、それは絶対にあってはならなかったことですが
「暴力によって破壊されたということ」もあの遺跡の歴史でもあって。
物事というのは存在し続けている間だけでなく破壊された直後にも記録が始まるのだなと思ったな…。

p.62
「駒込の「BOOKS青いカバ」の棚を眺めていたら」
青いカバだ!穂村さん行ったんだ!!と思ってウッヒャーてなってしまった。
店長さんは池袋リブロで働いていた人で、同店が2017年に閉店した後このお店を開いていて
行こう行こうと思っていつつまだ行けてなかったりします。
三軒茶屋のCat's Meow Booksと同じくらい行きたいお店。

p.72
「ひと夏の物語が好きだ。子どもたちが、大人には見えない不思議な世界をくぐり抜ける冒険をする。
そして、季節の終わりとともに、少しだけ、けれども決定的に以前とは変わった自分に気づく。
そんな物語の系譜がある。どうしてか、その魔法の季節は夏と決まっているようだ」
好き!!
『銀河鉄道の夜』とか『霧のむこうのふしぎな町』とか『帰命寺横丁の夏』とか
『ふるさとは、夏』とか『夏の庭』とか『盆まねき』とか「盆の国」とか「あの花」とか
「ぼくらのウォーゲーム」とか「蛍火の杜へ」とか、シンカリオン31話とかね!!(落ち着いて)
夏には何か冒険できる魔法があると思う。

p.79 
「ほっとする。夏の終わりには、いつも焦りと切なさに囚われてしまう。
でも、置き去りにされるのは私だけじゃないんだ」
フジコ・ヘミングの8月30日の日記「今年の夏は、しやうと思った事が何一つ出來なかった」という記述への感想で
わかるなあ~~と思いました。
夏の終わりになるとああ、もっと何かできたんじゃないか…という気持ちになります。
たぶん「今年がもう残り少ない」ことに気付くからじゃないかな…。
別に何かを始めるのに、夏も秋も冬も春も関係ないけど。

p.82
「作者の行きつけの店の、しかもお気に入りだった席で、その人の作品を読みたい」
これはやってみたいですねえ…。
近代の文豪がよく通っていたお店とかで、店長さんやその跡取りさんとかが
「あの先生はいつもカウンターでこの飲み物を飲んでいた」とか
「この席に座っていたという話を先代から聞いた」とか教えてくれたりするよね。
芥川龍之介とか宮沢賢治とか平塚らいてうが座ってた席とか座りたいじゃないすか…。
(穂村さんは西荻窪のお蕎麦屋さんで杉浦日向子氏の本を読んだらしい。いいなあ)
現代の作家さんも、インタビューとかで行きつけのお店を教えてくれる人はいますが
どこの席に座っているかまではおっしゃらないもんなあ。

p.84
「『攻殻機動隊』を見ていたら、二〇三〇年あたりの荻窪駅前に焼鳥屋の「鳥もと」が出てきて興奮した。
(中略)その店は2009年にその場所から移転している。アニメの製作時にはまだあったんだろう」
焼鳥屋のシーンなんてあったっけ!??(笑)
攻殻もずいぶん前に見たきりなので覚えてないけど、そうかあ今はそこにないのかそのお店。
アニメに限らず現代を舞台にしたドラマや映画などでも、そういうことはよくあるよね。
撮影されたロケ地にはもうない、とかね…作品ってその当時を記録したアーカイブになるんだよな…。

p.88
「すごく面白い作品に出会うと、その本の世界からいったん顔を上げてきょろきょろする癖があるんだけど、
あれって一体なんなんだろう。わざと寸止めして感動を引き延ばすためか、
それとも本の衝撃によって現実世界の側に何か変化がないか確認しているのだろうか」
あります。
穂村さんもあるんだな~~わたしだけじゃなくて何だか安心しました。
ストーリーへののめり込み度が深ければ深いほど、途中の展開やラストシーンでうわあってなったときとか
その衝撃を受け止めきれなくて「待って待ってNow loading...」ってなったときとか。
最近はあまりないけど、やばかったのはアガサ・クリスティの『カーテン』のラストと
銀英伝8巻のヤン・ウェンリーの例のシーンを読んだときですね…。
リアルにはああぁぁって深呼吸して本を閉じて、キョロキョロどころかしばらく動けなかったです。

p.96
「値段を見ると9000円。うーんと迷いながら、帯に記された文字などを眺める。と云いつつ、本当はもう買う気なのだ。
誰が見ているわけでもないのに、迷っているふうを装いながら、
購入意思を決定的に後押しする「何か」を探している。(中略)…よし買おう。どうせいつかは買うのだ」
これもあります。
ずっと探していた本に出会えたときによくこうなるんですけど、
待って待って今のわたしに本当に必要?他の本で代用できない?高くない?
ヨコレやヤケなどの状態は?転売とかじゃない?とか色々考えますけど、
心のどこかではもう買うことがわかっているというか…。
で、その場にしろ1日後にしろ1週間後にしろ、結局買うんですよね。
わたしは最大で1週間待つ場合があって、それだけ経っても気持ちが持続していたら本当に欲しいんだと思って買います。
(この前、生まれて初めてプラモデルを買いまして、わたしにとっては割と高額だったのですが
その商品を見た瞬間にはポチらなかったんですが自分は絶対これ買うってわかってる感覚あったもんな…。
実際買ったしね)

p.135
「そんなトーアロードを歩いてみたくて神戸に行ったことがある。でも、痕跡は見つけられなかった。
私が憧れたのは鬼才三鬼の魔性の筆が生み出した幻の街だったのだろう」
聖地巡礼ですね穂村さん!(笑)
小説やアニメの舞台を訪ねるとき、わたしは割と「来た!ついに辿り着いたぞ!!」ってなって
痕跡があるかどうかはあまり考えないんですけど、
それを感じさせてしまうほどの筆力は気になるな…西東三鬼…。
(ちょっと違うかもですが、よく旅行とかで「がっかりスポット」と紹介されているところは
旅行者の期待が高くてそうなってしまうのかなあ)

p.136 
「一度も書かれたことのない悪って、どんなものだろう。想像してみようするけど難しい。
では、今までに読んだ小説や見た映画の中で出会った最高の悪ってどれだろう。
うーん、悪人はたくさん出てきたけど(後略)」
川上未映子と永井均の対談にあった「書かれたことのない悪」について穂村さんが考えたことですが
わたしもちょっと思い浮かばないですね。
物語においておもしろい悪役はたくさんいるけど、こいつ最低だなっていうのとはまた別な気がする…。
そういえばるろ剣の作者が「京都編が敵キャラばかりだったので人誅編は全員最低な奴にしたかったけど
うまくいったかわからない」みたいなことをインタビューでおっしゃっていた覚えがあって
(鳥山明や尾田栄一郎は悪を描くのがうまい、とも)、
志々雄真実でさえ悪ではなく敵だったから悪人を描いてみたかったみたいな感じだったと思うんだけど
悪の表現てやっぱり悩むよな…。

p.159
「何度も予想が覆されて先が読めない。心の遠近感を狂わされる楽しさがある。
こういう話は最後の着地が難しいんだけど、本書のラストシーンはとてもいい。
単にめでたしめでたしというのではない。それを超えた何かに繋がっている。
この世界に生身で生きてあること、それ自体の不思議さを甦らせてくれるのだ」
先が読めない読書をしていると、
ハラハラドキドキしたりうわって声が出たり終わりのページに辿り着いたときえっもう終わり?ってなったり
読後に深呼吸したりまだドキドキしてたりすると生きてるって思うことありますね。
自分の呼吸や心臓の鼓動は普段あまり意識しませんけど
とてつもない読書の後は心音がものすごく耳に響いて、ああわたし生きてる…てなる。

p.166 
「極限の現実に圧倒されながらも、一つ一つの声に引きつけられる。
ぎりぎりの言葉の中に説話や詩歌を思わせる力があることを不思議に感じつつ、
それらが本来的には想像を超えた世界を描くものだったことを想起する」
ひめゆり学徒隊のガイドブックを読んだ穂村さんの感想ですが
彼女たちが用いた言葉が現実を表現するために使われると思っていなかった、というのは
これ逆ではないかなという気もする。
現実はすごい力を持っていて想像力など軽々と超えていくもので、
おそらくそういう現実の中から人々は想像上の世界を作り上げていくのだと思う。
だから説話や詩歌の優れた語り手は現実を見つめている人たちなんじゃないかな。

p.173
「『疫神』(川崎草志 角川文庫)を再読した。単行本が2013年に刊行された作品だが、
新種の感染症との架空の戦いが描かれているのだ。
新型コロナウィルスに脅かされている今読まなくてもと思ったが、吸い寄せられるように手に取ってしまった。
やはり初読の時とは臨場感がまったく違う」
これと同じ感覚を、去年、ドラマ「アンナチュラル」第1話に感じたんですよね。
感染症の話だったというのを見返して初めて気づきました…
放送当時はSARSの流行もあったのに、実感がないと都合よく忘れてしまっているものです。
あと槇えびし『魔女をまもる』もそうだなあ…。
2017年に連載が始まったマンガで、当初から読んでいましたが
去年単行本が3冊一気に発売されたので最初から読み返してみたらものすごい臨場感でした。
16世紀のドイツに実在した精神医学の先駆者ヨーハン・ヴァイヤーの物語で
当時地球を覆っていた小氷河期と流行したペストの恐怖が魔女や人狼を生み出す環境に繋がっていて
魔女の存在や魔女狩りの正当性を信じて疑わない当時の趨勢を変えようとする主人公という構図が
まさに現代社会を想起させるし、物語として完成度がとても高いです。
無知から来る怖れが生む迫害と差別は女性史の講義で魔女狩りの勉強をしたときにも出てきたな…。
とはいえ主人公のヴァイヤーも当時の人間なので魔術も悪魔も否定はしていないけど。
(原因は血の巡りや閉経からくるメランコリーや精神病で、そこに悪魔が入り込むと考えていた)
「無知は恐れを呼ぶ、だから知れ、つらくても知るんだよ」
ゲルハルトー!彼にもどうか救いを…。

p.178
「読みたい読まなきゃと思いながら、ずっと手が出せないままの作家が何人かいる。
内田百閒はその一人だ。理由の一つには、どれから読んだらいいのかわからないということがある」
わたしも百閒はどこから読んだらいいのかわからなかったけど
わたしと彼には猫好きという共通点があったので『ノラや』から読んだな…。
多作な作家は本当にどこから読んだらいいか迷いますよね~。
そういうときに「代表作」や作家との共通点があると、そこが良い取っ掛かりになるのかもしれない。

p.182
「意味のわからない言葉の中で、もっとも強力かつ印象的なのは、私の知る限りでは「クラムボン」だ」
で、ででで出た~~!!クラムボンが出たぞ~~~((((((゚Д゚))))))
クラムボンと並んでわたしが意味わからんと思っているのはジャバウォックです。
ルイス・キャロルは意味のわからない言葉を生み出すのがうまい…スナーク狩りとか全然わからんし…。

p.186
「図書館の外は嵐。嘘。いや本当だ。いつの間に。本に夢中でぜんぜん気づかなかった。どうしよう。怖い。(中略)
でも、平気。だって、私はここにいる。体は暖かい図書館に。心は本の世界の中に。ここからはもう出られないんだ」
あとがきにしてはメリバっぽい締めくくりですが、
穂村さんが必ずしもそう思ってないところにロマンを感じました。
出られないと言いながら何だか楽しそうなので。


toshokannosoto.jpg
ヒグチユウコさんの装画がとてもいい。
じっと見ていると、彼女の居るこの部屋の外はものすごい嵐なんじゃないかという気がしてきます。
激しい雨と風と雷で家中の窓がガタガタ鳴ってカーテンが揺れて…。
でも読書に没頭している彼女にとってはきっとどうでもいいことなのだろうな。
2021_04
10
(Sat)23:51

どこまでも続いてく線路の向こうに。

shinkabon1.jpg
シンカリオンについて書かれた本や論文をちょこちょこ読んでいます。
プロジェクトが5年を超すと歴史もできるわけで、シンカリオンも例外ではありません。
アニメは放送中から研究対象になるんだぜ。どんどん研究されていってほしい。

栗原景『アニメと鉄道ビジネス』。
第2章「大人をもとりこにした「新幹線変形ロボシンカリオン」の衝撃」で20ページほどにわたり、
プロジェクトE5に始まった5年間のシンカリオンの流れが細かく解説されています。
新幹線が変形するロボットを子ども向けキャラクターコンテンツとして展開することになり、
制作されたE5はやぶさがロボットに変形する動画が好評だったことから
TVアニメ化を急がずにプラレールのおもちゃでコンテンツをゆっくり育てていき、
JR各社の許可をとりアニメ化された作品は取材や各種コラボを丁寧に行い1年半のロングラン放送に。
JR東日本企画(jeki)の鈴木氏(やっくんのモデルになった方)の証言が随所に織り込まれていて
それがいちいちかっこいいんですよね。
特に「シンカリオンを、一過性の作品に終わらせたくなかった」が猛烈にかっこよかった!
他にもこの本ではディズニーのダンボからエイトマン、999、パトレイバー、ジブリ映画や京アニ作品、
西武鉄道やコンテンツツーリズムやラッピング列車、鉄道むすめやSL鬼滅の刃まで
あらゆる角度からアニメーションと鉄道の歴史について取り上げられています。
第5章では山陽新幹線の500 type EVAのアツイ誕生秘話が読めますぞー!

河出書房新社編『人生を変えるアニメ』。
様々な著者によるアニメーションについての文集で、
シンカリオンについては前アニメディア編集長の馬渕悠氏が6pほど書いています。
2018年8月刊なのでシンカリオンのTVアニメが始まってから半年ちょっとの頃の内容ですね。
(8月にはエヴァ新幹線回がありましたが編集された時期はもっと前だと思う)
ディアはいつも好意的な特集を毎回組んでくれますが、
この文章も最初から最後までものすごく愛にあふれていて
シンカリオンに関して前向きな内容しか書かれてなくて泣きそうになりました。
キャラクターの多様性についての部分で、具体的に誰、との名前はなかったけど
「寡黙に運転士としての仕事をこなす者もいれば、熱血系のセリフをかましてくれる者、
クールだけど負けず嫌いで"一番"を目指している者、
責任感が強すぎるがゆえに他を寄せつけずに孤高に生きる者などがおり、
彼らはこれまでのロボットアニメ史に名を刻んできた各年代のロボットアニメの主人公像を
想起させるようなキャラクターたちなのだ」(p.65)のところもどれが誰のことかすぐわかるし
そうだよねーそうだよね!って同意しながら読みました。

石岡良治『現代アニメ「超」講義』。
著者が配信している動画番組を文章で再録したもので、
シンカリオンについてもさらっと触れられていました。
往年のロボアニメとの類似性、ボカロやエヴァとのコラボ、新幹線による鉄道ファンへのリーチ、
少年たちの友情を描くことで王道的な成功ルートを邁進していると。
このタイプのロボアニメが今後も続くかは未知数とも語っていらっしゃいました。

藤津亮太「アニメもんのSF散歩(連載第26回)新幹線変形ロボ シンカリオン」。
『SFマガジン』60巻1号に著者が連載しているコラムの26回目のテーマがシンカリオン。
TVシリーズについて書かれていますが、タイトルのとおりSFがテーマの雑誌なので
このコラムでもあらすじと鉄道方面の背景について触れられている程度。
TVアニメは半世紀にも及ぶ新幹線の実績によるヒーロー性の説得力と
ハヤトくんが新幹線をよく使っているなど日常性に立脚している点が大事なポイントとのこと。

はーーーーーっシンカリオンが専門家のまなざしで分析されるのよき…!
Zも始まったし、これからも歴史が刻まれるので研究が進むといいなと思うし
いつかはまるっと1冊シンカリオンの論考でまとまった本とか出るといいな!

shinkabon2.jpg
Zの放送が始まりますので、各種雑誌でもシンカリオンの特集を組んでくれてます。
左からアニメージュ4月号、アニメディア4月号、旅と鉄道の「アニメと鉄道」特集号の表紙の一部。
3誌とも先月の発売でしたのでZの初回についての情報がメインで、
内容は過去の日々に書きましたので詳細は割愛しますが、
雑誌でどういう特集が組まれたかも研究対象になりますので大事なんだよ。読者投稿欄とかもな。

shinkatsuri1.jpg
先日、東博に行った帰りに山手線内でシンカリオンの中吊り広告見つけました!
ぬおお手前に吊り革が…なぜこちら側に設置されたのか…(反対側だったら綺麗に撮れた)

shinkatsuri2.jpg
1枚ずつ。こちらは放送のお知らせ。

shinkatsuri3.jpg
こちらはてっぱくのシンカリオン展のお知らせ。

広告も研究やアーカイブの対象になるものですがそのへんどう保存されてるんだろ、
というかjekiのプロジェクトの企画関係資料やアニメ制作の資料、宣伝に使われた広報物、
動画におもちゃにグッズに関係者への取材資料まで全部収集対象ですぞ。
シンカリオンアーカイブつくって、こういう作品があったことを未来永劫伝えていってくれー!
(ていうか作られてないならわたしやるよ?ハコと予算くれれば誰でも見られるように整理する自信ありますよ)

yamanotesen2.jpg
信じられるか…この車両が新幹線と合体して巨大ロボになるんだぜ…!
最近は在来線を見てもテンションの高まりがノンストップです。
やばいよただでさえ金のかかる推しを追いかけてるのに在来線までハマったら大変なことになりますよ。
(しかしもう山手線に乗ると「Z合体!」とか考えてるから時すでに遅しかもしれない)

shinkashinkokoku.png
昨日、朝日新聞と朝日小学生新聞にシンカリオンZ放送の広告が載ったのですが
朝刊を取っている友人が譲ってくれました!やったー。
(1年振りくらいに会ったのですがマスクつけて消毒して、屋外で距離とって風向きまで注意して
「元気だよ!また会おうね!京都行きたいね!」って会話だけしてバイバイしました。
次に会えるのはいつかなあ)


そうだ新聞といえば!
先月14日の流れ星新幹線について書いた記事の終わりに、特別な新聞を注文したことを書きましたが
先日無事に届きましたよ☆
nagareshinka1.jpg
同封されていた挨拶紙に写真をアップしていい、と書いてあってマジかー!ってなりました、
JR九州さん太っ腹すぎる。

nagareshinka2.jpg
というわけで「#エール九州新幹線」のタグとともに一部お見せします。

nagareshinka3.jpg
広げましたが横長すぎてとても画面に収まらない!(通常の新聞を広げた大きさのさらに2倍ある)
アーーーーッ夜を駆ける流れ星新幹線の写真まじかっこいい☆

nagareshinka4.jpg
上が10年前の全線開通時の七色新幹線で、下が流れ星新幹線。
九州新幹線10周年、改めておめでとうございます。
見に行けなかったのが本当に残念ですけど、5月まで流れ星さん安全運転で走りきってほしい。
(車体に「シンカリオンのパイロットになりたい」という願い事がプリントされていると聞きました。最高)
そして20年目はどんな企画が生まれるのかな。(気が早いよ)

…で。
追記にシンカリオンZの1話感想です。
異様に長くなりましたので仕舞いました…クリックで開きます。↓

続きを読む »

2021_02
07
(Sun)23:44

メタモルフォーゼの人びと。

石田美紀『アニメと声優のメディア史-なぜ女性が少年を演じるのか』を読みました。
女性の役者が男の子を演じてきた事例を軸にアニメと声の文化の歴史をたどる本です。
現在も続くTVアニメ「サザエさん」(1969年~)のキャラクターである男子小学生の磯野カツオ役は
代々女性の声優さんが務めていますが、
そんな風に女性の声優が男の子のキャラクターを演じるようになった背景と歴史が細かく紹介されていて
とても勉強になりました。
男の子の子役が変声期を迎えるだけが理由ではなかったと初めて知りました。
(子役の声変わりで有名というかわたしが知ってる事例はガッチャマンだなあ、
塩屋翼さんがちょうど声変わりの時期だったので初回と最終話で声が変わったというあれ)

(というか、これも初めて知ったんですが声優という職業の黎明については
森川友義氏と辻谷耕史氏が「声優の誕生とその発展」「声優のプロ誕生」という論文を書いてるんですね…!
辻谷さんて本業や音響だけでなく論文も書ける人だったのか。
リポジトリ等の公開がないので探して読んでみたい)

日本におけるアニメや吹き替えの現場では女性の声優が少年の声を演じていますが
ディズニーをはじめアメリカのアニメでは女性が少年を演じることは慣習ではないそうです。
たとえばディズニーが1940年に公開した映画「ピノキオ」では
キャストとして最初に集められたのは大人の役者たちだったそうですが、
ウォルト・ディズニーが「成人じゃだめ、わたしは本当の少年がほしい」と言って
子どもを集めてオーディションが行われ、ピノキオ役は子どものディッキー・ジョーンズに決まったとか。
また映画「バンビ」(1942年)ではバンビの成長にあわせて役者を交代していて
バンビの子ども時代を演じたドゥニー・ドゥナガン(当時6歳)への演出は
「自分自身であること、自然な子どものままでいいと言われた」だったそうな。
対して、戦後ですが1963年放送開始の「鉄腕アトム」でアトムを演じたのは当時26歳の清水マリさんで
「5年生くらいの男の子のつもりで演じてください」と手塚さんに指示されて演じたけれど
「(アトムの声を)誰がやっているのかわからないことが大事だったらしくて
今はアトムでしたと言うけど、当時はできるだけ隠しておこうと思っていた」と考えてらっしゃったそうな。
アトムのTVアニメの放送は約3年続きましたが
男の子の声を女性が出していると知られるのはまずいという雰囲気が
少なくとも彼女の周囲ではあったのだそうです。これどういうわけなのかな…。

日本における声の役者の歴史について。
太平洋戦争後、日本ではGHQのCIEによるラジオ放送局の再建が行われたのですが
(1946年の文部省とNHKの共同調査によれば空襲や部品不足などのために
各教育機関の半数以上のラジオが放送を受信できない状態にあったらしい)
彼らはラジオ技術の提供と物理的支援と番組制作にも関わっていて(15分を基本単位としたのもこの頃)
日本社会の民主化を推進するメディアとして放送劇の企画をたてていったそうです。
そのときキーにされたのが「より緩やかな手法」で制作すること。
戦後、ある日本のアナウンサーが戦時中の大本営発表などの雄叫び調による放送が
聴取者を受け身にしてしまったことを反省している言説があって、
どうにかしてアナウンサーたちが一方的にならずに聴取者との距離を縮めようと試行錯誤で進んで
その中で出てきたのがラジオドラマだったと。

戦時中もラジオドラマはありましたが主に単発ドラマで、
戦後は制作できる環境が整ってきたのか、連続放送劇が増えていったようです。
1947年に始まった、菊田一夫と東京放送劇団による「鐘の鳴る丘」は戦災孤児の物語で
主人公を中学生が演じたり、他にも小学生など多数の子どもの出演がありましたが
彼らはお芝居を専門にやる子役ではなく、昼は学校へ行き、夕方に放送に出るという生活だったそうです。
(鐘の鳴る丘は放送開始時は生放送で1948年4月以降に録音放送となりました)
制作者の大人たちは「放送劇に出たために成績が落ちては何にもならない」という意識を持ち、
子どもたちの修学を妨げないように土日の夕方など慎重に収録日を選んだり
「鐘の鳴る丘」以外には出演させない、写真記事などでスター扱いしないことも決めていたとのこと。
これには1947年に制定された労働基準法にて
15歳未満の児童の仕事は午後8時までと法律で決められたことが影響したようです。
戦前には、14歳でデビューした田中絹代や5歳で映画に出た高峰秀子など
子どもの頃から俳優としてのキャリアを積んでいた人たちはいるのですが
法律やルールがはっきりしていないせいもあってか、子役たちは大人たちに翻弄され
子役の生活は子どもの保護や権利とは著しく相反するものでした。
そこへ労基法と、同年に制定された児童福祉法の影響もあって
子どもを保護し、権利を守る社会への一歩が踏み出されたということらしい。なるほどなあ。

しかし子役の起用が難しくなっても、番組には「子ども」が登場します。
「鐘の鳴る丘」では途中から登場した大阪の女の子・とき子を演じたのが
男の子も女の子も演じる子役専門の声優としてキャリアを積んでいくようになる
木下喜久子さん(当時19歳)だったそうです。
(同じ頃、彼女は芥川比呂志と共演した「捨吉」(1958年)では少年・捨吉を演じている)
戦後の「ヤン坊ニン坊トン坊」では木下喜久子、黒柳徹子、横山道代が男の子の子ザルを演じています。
子ども役の増加と子役起用の困難さは、女性の役者たちに活躍の場を増やしていったのですね。
木下さんは子どもの声を出すために出勤時には自分を無にして
スタジオに入るときはもう子どもの気持ちになっていることに集中したり、
収録の休憩中は「大人の自分が出るから」とスタジオの外に出て他の役者とは話をしない、
近所の小学校や電車の中で子どもを観察するなど、徹底した役作りを行ったそうです。
「男の子を演じるときはご飯を食べてすぐに演じる。おなかがいっぱいになると声がずっと落ちて重くなる。
女の子の場合はおなかがすいても食べない。声が軽く出る」という発見もしたそうです。へえぇ。

そして、ラジオの次はテレビ放送の時代がやってきます。
テレビの黎明期に海外ドラマの吹き替えが放送されるようになったのですが
最初は字幕だったのが吹き替えの方が音声がつくので視聴者の関心をひきやすいということで
吹き替えの仕事が増えていったのだとか。
(理由は他にも、テレビが小さくて字幕が見にくいことや
当時はテロップが広告枠だったのであまり使用できなかったことなどが挙げられるとか)
この頃、舞台で俳優をしていた野沢雅子さんが洋画の少年役で声優デビューを果たしています。
当時の吹き替えは生放送だったので子役は使いにくく、
安心して任せられる年齢の男性役者では声が太いので女性の野沢さんが呼ばれたそうです。
これどっかで聞いた話だなあ、どんな作品の仕事だったか覚えていないと野沢さんおっしゃっていたような。
他にも子役ではできなかった事例としてフジテレビの「進め!ラビット」(1959年)の紹介があり、
この番組では収録の際に録音スタジオがもっとも安く使える午後9時~午前4時に録音したので
子役は使えなかったとのこと。要するに経費削減で大人が起用されたということですね。
(それにしても芸能界の時間感覚どうなってるんだろう。深夜業とかいうレベルじゃないと思う)
法律の制定と現場の運営方法など様々な事情が続いたために
大人、そして女性の役者の起用はラジオとテレビに適しているということで
占領期が終了しても女性が子どもを演じる文化は残り、定石になっていったわけですね。
なるほどなあ!(^O^)

ちなみに例外もありました。東映動画。
1958年公開の映画「白蛇伝」では森繁久弥さんと宮城まり子さんがすべてのキャラクターを演じていて
宮城さんが少年時代の許仙を演じていることでも有名です。
森繁さんも宮城さんも当時から顔を知られたスター役者だったので
アトム役の清水さんが「誰がやっているのかわからない方がいい」状況は、ここでは存在していません。
1959年の「こねこのスタジオ」でも子役から俳優になった中村メイコさんが出演したりしているので
東映動画の作品に出演した俳優たちはキャラクターの黒子だったわけではないようです。
東映動画は映画会社「東映」の傘下にありましたので児童演劇の研修所を持っていて
そこでは毎週土日に子役の育成と訓練を行っており、
さらに独自の録音スタジオも持っていたので子役のマネジメントが円滑に行えたのだそう。
アニメ「猿飛佐助」や「狼少年ケン」も子役が演じていますし
映画「安寿と厨子王丸」(1961年)では少年時代の厨子王は当時12歳の住田知仁(現・風間杜夫)さん、
青年時代は北大路欣也さん(当時18歳)が演じていて、安寿は佐久間良子さん(当時22歳)です。
ほか山田五十鈴さん、平幹次郎さん、東野英治郎さん、松島トモ子さんなどが出演していて
映画ポスターなどでも堂々と宣伝されていたみたいなので、
役者さんの声を聞きたくて映画館に足を運んだお客さんもいるのではないだろうか…。
ちなみに東映動画の録音作業はプレスコが基本で、作画は録音の後に行っていたそうですが
(俳優は声のほかにライブアクションなど作画に協力もしたと大塚康生さんの証言があるね)、
連続TVアニメシリーズの制作が増えると今度はアフレコへと移行し、
子役の変声期の問題もあって「狼少年ケン」以降は子役がほぼ起用されなくなっていきます。
「鉄腕アトム」以降に連続TVアニメシリーズが制作される状況が続かなければ
大人が子どもを演じる文化が定石になったかどうかもわからなかったってことなのだなあ。

1970年代後半にはアニメ雑誌の創刊が相次ぎまして
アニメージュ創刊号(1979年)は宇宙戦艦ヤマトを特集し、
アンコールアニメで「太陽の王子ホルスの大冒険」を取り上げるなどしています。
(当時編集部員だった鈴木敏夫氏がホルスのコメントをもらおうとして高畑勲氏に電話をかけて
宮崎駿氏とも運命的な出会いを果たすのは有名な話ですが、それはまた別の話)
その創刊号で「声優訪問 神谷明」というコーナーがありまして
当時から売れっ子だった神谷氏を特集しています。
この頃から雑誌に声優の記事や顔写真が掲載されるようになってキャラクター人気投票なども行われ、
現代でも続く声優のスター化が始まっていくのですが
1987年に発売されたOVA「風と木の詩」の話が耳が痛かった…。
小原乃梨子さんがセルジュ、佐々木優子さんがジルベール、
榊原良子さんがロスマリネを演じているのですが(女性が少年を演じる文化の継承ですね)、
小原さんはドラえもんののび太くんの声優として有名になっていたので
女性ファンから「のび太くんの人がセルジュ(16歳以上)を演じるのはどうなのか」という意見が出ていたとか…あわ、あわ。
これはもう個人の好みの問題というか、制作側の都合もあるのでどうにもならない部分というか
わたしも経験があることなので何とも言えない気持ちになりました。
声優がスター化してきたことでイメージが定着してしまうという。。
しかし著者は「男性声優がセルジュを演じていたらファンは納得したのか?」という問いもたてていて
さらに「女性ファンは何を期待していたか?」ということで
BLに特化した雑誌「JUNE」(1978年創刊)の作品の音声ドラマ化の事例をあげています。
この音声ドラマ化シリーズで演じているのは主に男性声優だったので、
BL作品は男性に演じてほしいファンがいたということかな。
ほか、1990年代のBLドラマCDや2000年以降のシチュエーションCDなどの影響もあって
最近、少年漫画がアニメ化される際には主演に女性ではなく
男性の声優が選ばれやすくなってきた理由のひとつではないかとのこと。

他にもマクロス以降の歌を歌う声優の登場、新人女性声優の起用ブーム、
女性声優が演じるキャラクターへ萌えや緒方恵美さんの演技、ファンとの交流についての章もおもしろかったです。
蔵馬に始まり天王はるかやスターライツなど性規範を攪乱するキャラクターについて、
BLと百合、女性声優はどこまで性を越境できるかなどのテーマがありましたが
この辺りは過去に読んだことがある声優論のような感じだったかな。
歌手デビューやアイドル化だけではなく2.5次元などますますコンテンツが千差万別していくなかで
女性の声優はどこまで行けるだろう。
あと個人的におもしろかったのがアフレコ台本にある「、」「…」の演技についてや
1960年代に発生したアテレコ論争について。
1962年2月の東京新聞に東野英治郎が「声の役者に危険手当を出してほしい、
俳優の演技は十人十色で他人がつくったものへ声だけを合わせるのは納得がゆかない」と意見を出していて
その後声優の永井一郎さんが考察を発表しているもの。
永井さんは「自分自身が画面の人物の行動をやっているとイメージすると
意識的に細胞に何かが起こる感じを作り出せるようになり、仕事はうまくいく」と考えたようです。
声優さんの演技論はいつ聞いてもおもしろくて楽しいですが
永井さんのインタビューや論文はいつも平易なことばでスッとのみこめる印象があります。
伝える力のある人でしたね。

seiyubon.jpg
p.29より、第1章の扉部分。
フォントがトーキー映画の字幕みたいだなと思いました。シネキャプションとかニューシネマとか。
8ミリフィルムの回る音が聞こえてきそうな、レトロな雰囲気。
2020_07
04
(Sat)23:51

知っている。

※しばらくブログの更新をゆっくりにします。次回は11日に更新予定です。


沢村凛『黄金の王 白銀の王』を読みました。
一族同士の争いを終わらせようと共闘する2人の主人公の物語です。
フォロワーさんのおすすめで読み始めたのですが、あらすじがとてもツボな感じだったので
どんな王国物語かとページをめくったら書きだしが淡々としていてちょっと戸惑ったのですが
19歳の穭にまみえた15歳の薫衣が「会いたいというから、来た。何の用だ」って言ったとたんに
あ、なんかわかった!ってなって、そこからぐっと熱量が上がってワーーーッと一気に読んでしまった。
キャラクターがはっきり見えてきたのもあの辺りだったなあ…。
ストーリーはわかりやすくて、ときどき作者都合っぽさを感じさせる雰囲気ではありましたが
(ファンタジーノベル大賞はキャラクターより物語の構成が優先される作品が多い印象があるので
後でプロフィール見てなるほど、とは思ったんですけど)
主人公2人の関係を細かく書くっていうところに重点が置かれているので先がすごく気になったし
登場人物の立ち位置の作り方とか感情がぐわっと爆発するシーンへのもっていき方がすさまじくて
やばいやばいやばい!って引き込まれてしまった。
あと読んでて色んな物語を思い出しましたね…歴史の流れは『獣の奏者』とか『雲のように風のように』とか
稲積と初めて会ったときの薫衣は『アースシーの風』のレバンネンとか
ラストの穭と薫衣は『おんな城主直虎』のおとわと鶴とか…。
章末に思わせぶりなト書きが多いのは『図書館の魔女』を思い出しました。
急にネタバレぶっこんできたりね…453ページのあれはずるいでしょ…。
このての物語ってだいたい2人とも生き延びるかどちらかが退場するか、2人とも退場するかのどれかだから
どこへ転がっていくのかなあと思って読んでいたので、
いきなりはっきり書かれてしまったことにびっくりして心臓がどきーん!となりました。
そういうところが何というか、歴史書を読んでいるような気持ちにもなりましたね…。
「たった今起こっていること」が書かれているのではなく「1年前か5年前か、300年前にあったこと」みたいな感じ。
お話の雰囲気や価値観が中世~近世っぽくもあるので、特に違和感はなかったけど。

かつてひとりの傑物が平定し、その子孫が玉座を代々継いでいたところ
四代目の子である双子の王子たちが世継ぎの座をめぐり争ったのを機に
その子孫たちも分裂し穐と厦の派閥をつくり互いに自分たちが嫡流であると主張し、
憎み合い殺し合いながら玉座を乗っ取ったり奪い返したりすること数百年の国・翠。
主人公はそんな二派である鳳穐と旺厦の頭領・穭と薫衣で
彼らの少年時代から壮年期までの出来事が書かれます。
現在の翠の国王は穭がつとめているので時代は鳳穐の天下であり、
薫衣をいずれ殺すつもりで人里離れた森の中に幽閉していたのですが
数百年におよぶ鳳穐と旺厦の玉座の奪い合いにより翠の国力はじわじわと弱っていて
このままでは海外の大国との戦争で飲み込まれてしまうと危惧した穭は
薫衣を城に呼び寄せて争いを終わらせよう…と提案をします。
両親に鳳穐を滅ぼすように遺言されていた薫衣は最初は断りますが
穭との対話を通して恨みを晴らすより成すべきことをなす方を優先させ共闘すると決めて、
でもいきなり和平宣言をしたら一族が混乱するのでまずは穭の妹と薫衣の結婚から始めることになります。
ここの描写が最初の盛り上がりというか、2人の葛藤がびしびし伝わってきて心が痛かった…。
お互いに「相手は過去に一族を多く殺してきた一族の頭領」なわけで
お互いに「ぶっ殺してやる」と強く思って機会をうかがってきたわけで、
でもその気持ちを抑えて手を組み同じ方向を見つめなければならないというのは生皮を剥がされるような痛みがありそう。
(同時に教育の力と恐ろしさをものすごく感じた…。
幼い頃から怒りや恨みとともに正しいと教えられてきたことを断念するって相当メンタル強くないとできないのでは…。
鶲が食事の席で荻之原の話をしたときも迪師おまえ…ってなった)
穭も言ってましたが2人に身内がほとんどいなかったのも幸いというか…これで親とかいたら地獄絵図だよな…。
妹の稲積も兄の考え方に異を唱える人ではなかったしね。(たぶんそう教育されてきたんだろうけど)

どっちかというとワクワクドキドキしたり「あーおもしろかった」という読後感はなくて、
銀英伝を読み終えたときのような、「はあ~終わった…」と、ゆっくり本を閉じるような読み終わり方でした。
長期に渡る二派の争いに過去や現代の戦争を重ねて考えてみたりもしました。
幼い頃から頭領としての生き方や指導者としての心構えを徹底的に教え込まれていたにも関わらず
その道をあきらめて別の理想を掲げて歩き出した2人は
隙あらば薫衣と旺厦を滅ぼそうとする城内の勢力や、薫衣に立ち上がれと迫る旺厦の勢力、
海の向こうから攻めてくる敵など想像を絶する困難をひとつひとつクリアしていくのですが
いっときの感情や周囲の影響で生じたズレを必死に軌道修正して被害を最小限に食い止めようと
思考と行動を尽くす2人の姿があまりにシビアで痛々しくてつらい…。
孤高を気取らず、衝動に身を任せず、英雄視されるまなざしに酔わず、
百年先を見据えていることを周囲に漏らさずに自分たちの行動の意味を説明することのなんと難しいことか。
だいたいの物事はしっかり根回しして説明したことはうまくいって
予定外だったり突発的だったり説明を怠った際に生じたほんの少しのズレが積み重なって
やがて致命的な、取り返しのつかない事態につながっていくのすごくリアルでしたね…。
薫衣が駒牽を斬り殺したときは正直、なんでここまでしなくちゃいけないの…!ってなったし
薫衣の長期的視点とそのために押し殺された彼の感情を思うと吐きそうになってくる。
十二国記とかもですが国王が今生きている人やこれから生まれてくる人たちのために行動しようとすると
国民に犠牲が出てしまうのほんとつらい…。
そしてそういう気持ちを理解できるのも2人だけだから
薫衣にかける言葉を慎重に慎重に考える穭の気持ちも伝わってくる。
お互いに殺したい感情を抑え込みながら、でもお互いの気持ちが一番わかるのもお互いだけで
誰もわかってくれなくても貴殿は知っていてくれる…みたいな関係めちゃくちゃしんどいです。
小さい頃から教え込まれてきた方向に身と心を委ねてしまうほうが
2人にとっては楽だしそう思ってるだろうけど、それは思考の停止だというのもわかってるからな彼らは…。
彼らの周囲にいる人たちは思考停止してる人たちが多いけど、それは彼らの親世代の教育や境遇のせいだけど
2人のように考える人たちは過去にはいなかったのか、いたとしても出る杭として打たれたのか…。
(そういう記録は往々にして残されなかったりするので辿れなかったりもするんですよな)
穭と薫衣があまりにも2人きりすぎてほかに理解者はいなかったのかな、いてほしかったなとも思いますけど
もしそういう人がいたら彼らの孤高さはこんなにも際立たなかったろうな…。
お互いに相手の才能をうらやましいと思ったり尊敬したり、悩んで迷って自分の行動や指針に不安を覚えたり
両者とも少し隙があるのが人間らしくて好ましいけれど、
おそらく2人はそれを善しとしなかったろうな…とも思いました。

薫衣の最後の決断はわたしには納得がいきませんでした。わたしは政治家に向いてないな…。
物語としてあの結末はあり得るし薫衣の尊厳が守られたのはわかるけど、やっぱり受け入れ難くもある。
わたしが彼ほどの覚悟を持つことができないから感情で納得できないのか、
何となくですが彼が選んだことなのか作者がやりたかったことなのか、
いまいちはっきり落とし込めてない気もしてしまっているというか…うまく言えない…。
生きていてほしかったから色々考えてしまうのかもしれないけど。
ただ「死者の言葉が生者を縛ってはならない」からと遺言を残さなかったのはよかった、
たぶん穭もそうするだろうな…2人とも大変な思いをしましたからね。
稲積や鶲との家族関係もうまくいっていない部分があったけれど
一挙一動を見張られている薫衣にとって、家族と接する時間さえもそういうことだったから
「会えば揺らぐから」の言葉で鶲に薫衣の気持ちが少しでも伝わったなら、よかった。
次世代の様子などもう少し読みたかった気もするので外伝とか出される予定はないのかしら。

「四隣蓋城様」「頭領様」「穭様」って、立場とかTPOによって呼び方が変わるのが
時代ものって感じがしてよかったです。
穭と薫衣が名前で呼び合ったり「鳳穐殿」「旺厦殿」って呼び合うのとかね。
海の民に話しかける薫衣が完全に変わり者扱いだったり
その海の民と薫衣たちでは言葉遣いが異なったりする部分も
薫衣の前で舞う河鹿を見た稲積が文化の違いを認識してしまうのも歴史ものっぽいなと。
(そういえば翠は女性が国王になることは想定されていないんですかね)
あとこれは職業病なので言っていいかわからないんですが、
薫衣が働いていた文書所の仕事で、紙が劣化するから新しい紙に記録を書き写すのはいいんですが
人の手でそういうことをやると写し間違いというリスクがありましてな…。
(現実は古代史あたりから既にそういう事例がいくつも見つかってる)
人員も増やしてるみたいだし、穭のことだからトリプルチェックくらいはさせてると思うけど
下手したら記録を書き換えられかねない職場に薫衣を入れた穭がほんとにすごい。
書き換えられるリスクより薫衣が知識をつけることを優先させたってことよな…百年先の未来のために。
薫衣が不正をするような人物ではないと確信していたからできたことでもあると思う。

タイトルですけど、最初は太陽と月なのかなと思ったんですけど
歴代国王の遺体を包む布の色のことだったんですね。
鳳穐の王は黄金、旺厦の王は白銀の布で体を包まれて城の地下室に保管されている。
鳳穐の家紋がススキ(黄色)で旺厦の家紋が雷鳥(冬毛が白)というのにも関係しているのかな…。
四代目の王の子どもたち、穐・厦の双子の王子の名前は
穐は秋の旧字で(千穐楽の穐だよね)長い年月のこと、厦は大きな家の意味だそうで
国が長く続くことを願ってつけられた名前だったんだろうか。
ちなみに穭は刈った株から再生した稲の意で、稲積は刈り取られ積まれた稲のことだそうですが
薫衣はラベンダー(薫衣草)なんですね。
家紋が雷鳥だし子どもに鶲や雪加とつけているので旺厦は鳥の名前をつける一族なのかと思ってたけど
薫衣がそうならなかったのは…いやでも孫は松藻だから植物の名前もつけるのか…ふーむ。

表紙の皇なつきさんの絵がとてもかっこいい!
薫衣が持っているのは初代の王の剣かな。
ラストで穭が鶲に「そなたに渡したい」と言うシーンがよかったです。あれは薫衣のものだものね。
2020_03
15
(Sun)23:52

「お客さん、何にします?」「いつものやつ。」

福田里香『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』を読みました。
映画や小説、マンガやドラマ、あるいは古典など
数多ある物語の中で描かれる食べ物や食事シーンの表現について50章にまとめた本です。
ちょっと前にブロともさんが紹介していて、おもしろそうだなあと思って読んでみたら
予想以上におもしろかった!
テーマと提示される事例がとても想像つくんですよ…チョイスと編集がうまいのだな。

作品の中に登場する食べ物や食事シーンを分析していくと、その食べ物の表現が
登場人物の性格や感情、あるいはそのシーンの状況説明などに一役買っているというのが
著者の考える「フード理論」というものだそうです。
ちなみに著者が考えたフード三原則というものがあるそうで、
1.善人は、フードをおいしそうに食べる
2.正体不明者は、フードを食べない
3.悪人は、フードを粗末に扱う
なるほど…!と思ってしまいました。思い当たるシーンや表現が色々浮かんできますなあ…。

目次を開くと、タイトルにもなっている「ゴロツキはいつも食卓を襲う」とか「仲間はいつも同じ釜の飯を食う」
「失恋のヤケ食いはいつも好物」「絶世の美女は何も食べない」
「食いしん坊の寝言はいつも「う~ん、もう食べられない」」などなど、
映画や小説における「食べ物あるある」について章タイトルを一瞥しただけで
わかるー!って頷いてしまう章立てになっていて、どこから読んでも楽しいです。
著者の文章が軽快でわかりやすくて、読みながら何度「わかる~!」って言ったか覚えてない。。
一番わかるわ…!ってなったのは、「お茶を飲むのは、ちょっとひと息のサイン」。
物語世界に登場するお茶のシーンはだいたい「ちょっとひと休み」なシーンが多いという分析。
たとえば映像作品などでコポコポ…と注がれるお茶と、カップから立ちのぼる湯気が映って
次のシーンでは「それで、相談事ってなに?」ってセリフが入って物語が進むとか、
主人公が疲れてお茶をしながらその日1日を振り返るとか、
事件を整理しようとしてこれまでの出来事を書きだしたら糸口を見つけるとか、
大団円のシーンでお茶会が開かれていたら「すべて終わりました」という一件落着感が出るとか。
わたしは紅茶党なので物語におけるお茶のシーンは大好きなのですが
そのどれもがだいたい、ホッとできる時間として描かれているから好きなのかなァとこの本を読んで思いました。
マリラが支度する3時のお茶とか、ロミオがカセラ教授の家でいただいたお茶とか
ミス・マープルや杉下右京さんが事件解決後に飲む紅茶とか
さめない街の喫茶店でお料理と一緒に出てくる紅茶がおいしそうだったりとか。
食卓に紅茶があるというのはわたしにとって落ち着くシーンであることが多いですね。
あ、でもアリスのマッドティーパーティーは、落ち着いているシーンとは程遠いな…。
あ、でもPandoraHeartsの“素晴らしきなんでもない日”のティーパーティはマッドティーパーティーが元ネタですが
とてもすばらしかったですね…オスカー叔父さん…!(泣)

飲み物については他にも、「マグカップを真顔で抱えたら、心に不安があるか打ち明け話が始まる」とか
「少女まんがの世界では温かいココアには傷ついた心を癒す特別な力があると信じられている」とか
「驚きは、液体をプッと吹きだすことで表現される」などの章がありました。
カップを抱えて黙ってしまった人は何かを語り出す心構えをしていることが多いし
ショックを受けた人に誰かが「あったまるよ」って言ってココアを出したり
何かに驚いたり誰かに驚かされたりしてカップのお茶をブーっと吹くシーンは確かによくあるアイコンだ。
「お茶吹いたw」っていうネットスラングもありますしね。
「動揺は、お茶の入ったカップ&ソーサーをカタカタ震わせることで表現される」も、
確かに手に持ったカップをカタカタ震わせてしまう人は何か不安なことがあるか、隠しごとをしている場合が多いような。
カップ&ソーサーは見た目の美しさやデザイン性が高い食器なのでパーティや面談のシーンに使われやすく、
「対人関係で緊張を強いられる場面に出てくるのが定番」とのこと。
推理小説だったら証拠を見つけたか、犯人がわかったか、犯人に脅されているか、
次に狙われるのは自分だ!なんて怯えてひとりで部屋に閉じこもってしまうとか、かなあ。(それ死亡フラグ)
推理小説といえば、「事件で悶絶死が起こる場合、それは青酸カリの仕業」という章があったけど
(わたしもアガサ・クリスティの小説でさんざん見かけた毒物の名前です)、
倒れた人からアーモンド臭がするとか探偵がよく言ったりしますが
匂いがわかる距離まで近づいてしまうと嗅いだ人も危険だと聞いたことがあります…あれガスの匂いらしいので…。
でも確かに「匂い」があった方が物語のリアリティが増すよなあ…
リアルを取るかリアリティを取るか、クリエイターが表現に悩むところですな。

「仲間は同じ釜の飯を食う」とかも、具体的なシーンは浮かびませんが
数人でひとつのお皿からチャーハンとか餃子とかスパゲティとかドーナツとかを取り分けていたら
何となく集団っぽいイメージがあるような。
あと「同じ釜の飯を食った仲じゃねえか」みたいなセリフもよく聞きますね。
名バイプレイヤーとかが演じる、気のいいあんちゃんあたりが言いそうなセリフ。
あと、同じ釜じゃなくても、同じものをそれぞれ食べていたら仲間っぽいイメージもあります。
本にも書かれていたけど、アン・シャーリーとダイアナ・バリーのお菓子作りのシーンとか。
わたしが思いつくのは映像研の主人公3人がよく一緒にラーメン食べにいったりするとか、あんな感じ。
「焚火を囲んで酒を回し飲みしたら仲間」とか「食べ物を分け合ったら親友の証」とかも
わかるわかる!ってなりました。
焚火を囲む酒盛野郎どもの話も、少年がポケットから食べ物を出して「ほら、食えよ」って相手に差し出すのとかも
エモくて好きです。
いいシーンでは食べ物が粗末にされないし、おいしそうに描かれますね。
そういえばこの本の挿絵はオノ・ナツメ氏によるものですが、
氏の作品である『ACCA13区監察課』は食べ物のシーンがとても幸せそうで好きだ…。
特にロッタちゃんやモーヴさんが好んで行くパン屋さんとか監察課のおやつシーンが好き~。

初出がどこかという分析がなされていた、
「遅刻遅刻~!と言いながらパンをくわえて走っていると曲がり角で誰かにぶつかって恋が芽生える」と
「バナナの皮ですべって転ぶ」。
遅刻遅刻~!の初出がどこかという話題は定期的にネット上で湧いては消えていってますけど
まだ特定には至っていなかったはず…。
バナナに関しては『バナナの皮はなぜすべるのか?』という本まで出ているそうですが
この本でも初出がどこかははっきりとはわかっていないらしい。
確かどちらもここ100年以内のことではないかという解釈がどこかにあった気がしますが…どうなんだろう…。
「スーパーの棚の前で2人が同じ食品に手を伸ばすと恋が芽生える」あたりも
特に書いてなかったけど初出はどこなんでしょうね…。
(ちなみにわたしはこのシチュエーションについては、スーパーの食品棚よりも
書店や図書館で2人の人間が同時に同じ本に手を伸ばすシーンが浮かびます)
「マスターが放ったグラスはカウンターをすべり、必ず男の掌にぴたりと収まる」とか
「あちらのお客様からです」とかも、何度も見た記憶はあるけど
初めてこの表現を使ったのはどんな物語だったんだろう。
こういうのってAIとかで探したりできないのかな、
ありとあらゆる文章や映像作品をインプットして検索するAIとか…できないんだろうか…。
(素人なので勝手なことを言っています)

食べ物が粗末に扱われるシーンも確かにある。
ゴロツキはいつも家族の食卓を荒らすし、コメディではパイが投げられるし(そして人に当たる)、
ガムは噛んで吐き捨てられるためにあるし、映画館ではポップコーンが食べ散らかされる。
悪党がよく、食事中のお皿に煙草をジュッて押し付けるシーンがありますけど
それで極悪非道さを表現したりもしますけど
あれどんな作品でいつ見ても心がヒヤッとします…だってもう食べられないじゃん…。
逃走劇やカーチェイスなどで、厨房が大混乱になったりシャンパンタワーがガッシャーン!と倒されたり
果物屋やスーパーの品物がはね飛ばされて散らばることで
アクションの大きさを表現する手法もよくありますけど、あれも本当に心臓に悪い…。
絵的な派手さはありますが、やっぱり食べ物がもったいないと思ってしまうんだよね。食いしん坊なのでね←
あと、粗末にするとはちょっと違うけど「賄賂は菓子折りの中に忍ばせる」で山吹色のお菓子が紹介されていまして
これも時代劇でさんざん見る演出ですね。
(一番最近に見たのは大岡越前か必殺仕事人あたりの、コテコテの時代劇だった気がする)
余談ですがこのお菓子、朝霞市にあるお菓子会社が実際に売っていまして→こちら
うちの弟くんがお土産品のお店で売られているのを見つけて買ってきてくれたことがあります(笑)。
弟くん曰く「見たとたん笑いが止まらなくなってレジに持って行った」とのこと。
このてのパロディ商品は理解して買ってくれる人がいるだけで大成功なのではないかな。


さらに余談ですが、「孤独なひとはひとりでご飯を食べる」の章を読んでいて
真っ先にシンカリオン68話でしょんぼりカレーを食べていた先輩を思い出してしまって、
でもあの後アズサちゃんに呼ばれてみんなで写真撮って、たぶんだけどご飯も一緒に食べたろうから
大丈夫大丈夫…などと気持ちを落ち着かせておりました。
というかシンカリオンは食べ物のシーン多いよな…。
1話から速杉家の食事シーンがあるし、伝説の手巻きパーティや新麺会もあるし
アキタくんがスイーツマスターだしセイリュウくんはケーキをきっかけにアズサちゃんと仲良くなったし。
ミクさんが作ってくれた卵酒(大沼指令長レシピ)とか、アキタくんが紹介した黒蜜のどら焼きとか
門司でレイくんが紹介した焼きカレーとか、タツミくんが食べまくる名古屋めしとか
ハヤトくんが買ってきた名古屋土産とか、鹿児島でみんなで食べたタカトラくんお手製のさつま揚げとか
ご当地にまつわる食べ物も結構出てきました。
屈指の名シーンはゲンブさんへのケーキと名もなきお鍋ですね…もう色んな意味で泣けてくる。。
「鍋は料理界の新幹線」とか「おいしいものを食べたとき、それを食べさせたい相手が家族」なんてセリフもありますね。
(あとで聞いた話ですが脚本の下山さんがグルメな人らしいです。
だから枕崎の鰹節とか利尻昆布とかしれっと出てくるのかな)

minnacurry.jpg
そんなわけでカレーを作ったら彼をひとりにはしません…。
みんなで一緒にパチリして食べるよ。
2019_11
09
(Sat)23:54

この世界の果ての誓い守りとおす。

小野不由美『白銀の墟 玄の月』全4巻を読み終えました。
十二国記シリーズの最新刊で、番外編が中心の短編集を除くと18年ぶりの本編新作で
18年も待ったので期待しすぎかなと思いつつ読んだらとんでもありませんでした。
1・2巻が先月に発売されて、3・4巻が今日発売だったのですけど
先月に1・2巻を読んだら長い長い状況説明ばかりで何も話が進まないまま終わってしまって
待って待ってこんな状態であと1ヶ月待つの、マジで??ってなりまして
でも発売日まで待つしかなくてあまりの苦行に耐えきれなくて今日手に入れて一気に読みました。
1・2巻と同じくまったく話が進まなくて、ページが残り少なくなっていくのに解決の兆しがまるで見えなくて
残りのページ量を何度も確認しながら大丈夫だろうか一区切りするだろうかと不安になって
何度も最後のページをめくりそうになってそのたびに必死に耐えて
でも残り100ページくらいからそんなことも気にならないくらい一気に話が進んで
「わー!」「わー!!」「うわーー!!!」とか叫びそうになりながら読んでました。
これは18年かかるわ…1・2巻の伏線も過去シリーズに繰り返し描かれてきた設定も
全部全部活かされ回収されていく様が鮮やかすぎて見事でした。
小野主上お疲れさまでした。本当にありがとうございました。

とにかく胸がいっぱいなので以下、ネタバレを含む感想を遠慮なく書いています。
未読の方はご注意ください。
(あと、近いうちにまた読み返す予定なので加筆するかもしれません)



これでもかというくらい多くの人があっけなく去っていくし、何度も何度も絶望にたたき落とされるし
もうダメかも、という底から一転、ラストまで一気になだれ込む怒濤のような展開。
読み終えてしばらくはボーっとしてしまって、これまでのシリーズのこととか思い出してしまったし
さみしいけどこれからやっと戴の歴史が始まるのだという期待と
おそらくまだ全部描かれてはいないだろう摂理のあれこれが気になってしまう感。
小野主上は波のインタビューで「すべての王と麒麟を書くつもりはない」とおっしゃっていたので
世界観についても同じかもなあ、とは思っています。
(というかあのインタビューすごかったな…小野主上が自作を語るの久々に見たし
相変わらずこれでもかとストイックな物語作りをなさっているのがビシバシ伝わってきました。
泰麒が川端訳のセドリックというのは初めて聞いた気がします!
ナルニアの影響というのは楽俊のモデルがリーピチープであるとの話だろうか、
荻原規子氏がどこかのインタビューでおっしゃっていたやつ)

18年も時間があったのと、既刊における世界観の説明と、十二国記における人物の描かれ方から考えて
阿選が謀反を起こした理由は想像できたし、3巻で気持ちを吐露する描写を見ても想像の範囲を超えていなくて
「やっぱりね」と思いましたけど、でもだからこその地獄感がありました。
驍宗と姓がおなじで、年も地位も近くて、馴れあうつもりはなくてライバルとして見ていて
一緒に戴のために働くはずだったのにいつの間にか驍宗より先に手柄をたてることを考えてしまって
驍宗がそうじゃないとわかったときの、自分の独り相撲だったのかと思ってしまう気持ち。
昇山で選ばれなかったとき自分がどうなってしまうかわかるから行かなかったけど
でも選ばれたのは驍宗で、それでも驍宗のことは嫌いになれなくて
代わりに泰麒を憎んでしまったりする気持ち。
驍宗の生死が不明なうちは国をほったらかしてボーっとしてたのに
生きているとわかったとたんにああまたこれで競い合えるって排除しようとする気持ち。
めちゃくちゃ人間味のある人でした。でもだからって国民を巻き込むな。そういうところが「王」ではないんだな…。
同じ姓の王が二代続くことはない問題も、琅燦に言われなくても知っていて
(これ前に楽俊も言ってたけどあまり知られていない慣例でしたっけ?)、
だから泰麒に王だと指名されても信じずに、むしろそれを利用して
泰麒が絶望する顔が見たいって思ってしまう気持ちもなあ…。
鈴が『風の万里~』で言ってた「本人について考えてもみないで勝手に絶望していく」のセリフとか
思い出してしまったし、
かつてアニメ化で昇紘や斡由がめちゃくちゃ手ごわい悪役になったみたいに
阿選もアニメ化したらそんな風になりそうな気がします。脚本次第ではあるけど。

個人的に一番気になっていた琅燦が生きていてくれてホッとしたのと、
彼女の好奇心が阿選に謀反を起こさせるきっかけのひとつであることもわかって
戴の混乱の原因は彼女にもあるよなあ、と思いました。
阿選が謀反を起こしたのは小さなきっかけの積み重ねだったと思うけど
彼女のひとことも確実にそのうちのひとつではあると思う。口調もいちいち挑発的だし。
クライマックスで泰麒を「やっぱり化物だ」と評したのは武者震いというか、
事例採取のために典型やセオリーを集めていたら例外を目にしてしまった研究者の目線であって
驍宗と泰麒が戻ってきたことを喜んでるばかりじゃないよね。
あのセリフを聞いて思ったのは琅燦は観察する人だということでした。自分の興味だけで動く人。
泰麒は、琅燦は敵ではないと最後まで思っていたけど、確かにその通りですけど
たぶん彼女は自分の知識欲を満たすために必要な人物の側にいようとしているだけなんだな。
冬官長の地位もそのために必要だったんだろうし。マッドな学者め!好き。
耶利の主人が琅燦かどうかは今後明かされることはあるのかな…?
泰麒が問いかけても耶利は答えなかったからわかりませんけど、琅燦じゃなくても黄朱の誰かとか
あとさらにバックに更夜の影を見た気がしました。
想像の余地を残して明言しないのがこのシリーズの良さでもある。

泰麒強くなったねー!
まさか18年ぶりに帰ってきた彼が不屈の精神と知略と政治力と名言と大人びた雰囲気と
人々をあざむく知恵と王のために暴力をふるう決断力を引っさげて登場するとは思わなかったよ。
いや、『黄昏~』の後半で李斎と話してるときの口ぶりから聡明なのは伝わってきてたけど
今回、自分の状況と戴のトップを利用して国民を救おうとするえげつない成長の仕方してたじゃないですか、
1巻から知略がフルスロットルですごかったよ。
特に後半、驍宗が生きていると判明してからの泰麒は陽子が覚醒したときのような凄みがあって
元々そういう素質があったかはわからないけど、確実に育った環境と逆境が影響していて
しかもそれらが「今の」泰麒にとっての武器になっているのがもう、しんどい。
泰麒が3巻で「先生」と呟くのたまらなかったし、
阿選にむりやり叩頭しようとしたときはやめてやめてダメだよ~~って泣きそうになった。。
額に杭を打ち込まれるような苦痛とか…おま…おまえ…頭割れたらどうするつもりだったんや…。
4巻クライマックスは『風の海~』のクライマックスを彷彿とさせるのでぜひ映像で見たいな!
黒麒麟であることが移動手段としては他の麒麟よりも簡単だけど
政治の場においては金髪でないことで不利になってしまう状況を考えて
だったら王と麒麟がいなくなるほか戴が前に進む方法がないという考えに至ってしまって
そのために人を殺してまで処刑台の驍宗のもとへ駆けつける泰麒の姿はとても衝撃的でした。
「何が起こったんだ」ほんとこのセリフのまんまですよ。
あれは前例ないよな…「使令を使うのではなく自ら手を下」した麒麟は彼が初めてじゃないのかな。
「すべての麒麟は人を殺した経験がある。本人の代わりに使令がやるから自覚がないだけ」も
確かにそうだなあと思うし、
思えば泰麒は蓬莱でずっと彼らに守られながら殺戮を繰り返していて、そのことも深く受け止めていて
すべてを引き受けていくと決めたんですな…。
傲濫も汕子もいない中で(結局最後まで出てこなかったよね)自分で剣を取って走って
王と麒麟を守るために饕餮が敵を蹴散らすような展開にはならず最後まで彼らがいない状態で戦った。
牢に閉じ込められている正頼に会うために夜中に忍び込んで牢屋番を殴ったりしましたけど
(項梁がとどめ刺したけど)(「甘い。ためらうな」めっちゃしびれました)、
あれも躊躇しながらの行動で、その後の処刑台での行動ももちろんものすごい苦しみの中だったろうけど
驍宗も動揺するどころか「耐え忍ぶに不屈、行動するに果敢」であっさり片付けちゃってて、そういうとこだよこの主従。。
なぜ血を流してまでその人でなければだめなのか、というのはもはや仁ではなく感情だと思うので
泰麒は獣としての性より人としての感情を優先することができたということでしょうか。
転変して国民の前で驍宗とともにある姿を見せるシーンは本当にドラマチックだし
背に驍宗を乗せるという、『風の万里~』の陽子と景麒のようなこともしてくれて
もうこっち(読者)は頭がいっぱい。
すごいところまで来たなあ泰麒…回復して角も元に戻ったようでよかったです。

驍宗さま函養山にいたんですね。
恩を覚えていて食糧や鈴や玉を流す轍囲の民と、それと知らずに受け取る驍宗の構図が奇跡のようでした。
落盤ってことは今も山から出られてない?仙とはいえ7年も飲まず食わずとか無理じゃね??って思ったけど
瀕死の状況から数々の出来事が重なった結果命をつなぐことができて本当によかったです。
『風の海~』で驍宗が昇山に失敗したから将軍もやめて戴にも戻らないみたいなことを言い出したとき、
意地っ張りな人だなあと思ったのですが、今回、阿選も同じ気持ちだったと知って
そうか驍宗がそうしようとしたのは国民のためだったんだなって思いました。
自分は恥をかくことに慣れていないとわかっているから、このまま戴に戻ったら自分が何をするか想像つくから、
国民を傷つけないために、暴走した自分から国民を守るために戻らないという選択をしようとした。
驍宗は阿選とライバルでいるのも楽しかったろうけど、何より自分が戴の将軍であることをわきまえていて
阿選は驍宗を見つめるあまりそれができなくなった人だった。
轍囲の話でも思いましたが、その道を選べるか選べないかが驍宗と阿選の違いなんだろうなと。
驕王の命令に背いて出奔しても、あてもなくさまよっていたわけではなくて
黄海で才国の昇山を見かけたり朱旌の人々から騶虞の捕まえ方を教わったりと
どこに行っても経験を積むことを忘れない人ですなあ。
暗闇で黒い騶虞を捕まえて麒麟を思い出すの『風の海~』のときみたいで素敵でした。
饕餮の傲濫が赤犬くんなら騶虞の羅睺は黒猫ちゃんだ!
李斎と驍宗が再会するまでの数ページが心臓バクバクで早く、早くあと少しじゃん…!てページめっちゃめくって
「…驚いた。李斎か」ってなったときいよっしゃあああ!!!ってなったよね☆
思いっきり膝ついた霜元も、7年間生きていると信じて探し続けた李斎も本当にお疲れ様でした…。
そして泰麒との再会の「蒿里か」「大きくなったな」にも泣いた…。
子どもの姿の記憶しかなくてもあの状況で自分のもとへ来てくれたのが誰なのかすぐわかるんだなあ。

王旗と麒麟旗の並びで泣きそうに。
とりあえず希望の持てる結末ではありましたが、たくさんの仲間が…あまりにも多くの人が…。
虎嘯や夕暉がそうなれたように朽桟も癸魯も余沢も夕麗もこれからの戴のために必要な人だったのに…。
(いつだったか小野主上が言ってた「書かれていないところでたくさんの人が死んでいる」がこんな形で出てくるとは)
項梁と去思が生きててよかったです…項梁ほんと大変だったな泰麒のそばにいても、離れていても…!
去思もよくがんばりました。よく無事で雁にたどり着いた。
機会があるならたくさんのものを失ってしまった戴がこれから復興していく物語も読みたいです。
泰麒や戴のその後、陽子たちのその後、天の摂理。気になることは山積み。
最後の戴史乍書の「十月鴻基において阿選を討つ」一文ですませているところがいいですね。
十二国記の史書は相変わらずいい仕事をします。
『月の影~』でも「偽王舒栄を討たしむ」で終わってて、直接の描写はないですしね。
(アニメ版ドラマCDではやったけどね)

延主従が来てくれたときの安心感がすごい!毎回いいところで登場しますなあ。
ト書きに「延国からの使者」ってあったけどこれ絶対本人たち来ちゃってるでしょってなったら当たったもんね、
あの2人は本当に本当にほんっっっとうに、部下を遣わさないで自分たちで行っちゃうよね!好き!!
(海を挟んですぐのご近所さん同士なので行きやすくはあるんだろうけど
王様と麒麟がお出かけするって結構なハードルなのに
それをヒョイッとやっちゃうのがあの2人らしさだなあと思います)
尚隆の「引き受けた」のひとことでああもう大丈夫だって心の底から思えたし
『黄昏~』で六太が李斎と泰麒にとらを貸して見送ってくれたこととかも思い出しちゃったし
それを頼んだのは陽子だし、もうもう、みんなで支えてがんばってここまで来た感がありましたわ…。
泰麒も元気になったら姿を見せてあげてほしい。六太に。陽子と景麒に。

李斎で思い出した!飛燕~~初登場からずっと好きでしたしこれからもずっと好きですよ飛燕…。
せめて、せめてあと一度でいいから泰麒に撫でられてからお別れしてほしかった。。

落穂拾いのような短編集が来年に出るということですが、
今回の4冊で出てこなかった人たちが数人、登場する予定とのことで楽しみです。
今度はどんな人々が見た戴が描かれるのかな。
十二国記は群像劇なので視点がコロコロ変わりながら物語が進むのが少し読みにくい時もあるのですけど
今回は戴国の様々な立場の人々の視点で描かれていて、様々な思考や計略や思い込みや勘違いがわかって
そりゃこれだけ多くの人がいたらこうなるよねって思いました。
みんな色々考えて行動するからこじれるんだよね…。
よかれと思ってやったこと、熟慮の末にやったこと、動転してふとやってしまったこと、自分の身かわいさにやること。
あらゆる人々の行動が物事を複雑化し、そしてあっけなく結末を迎えたりするんだな。

山田画伯の絵もすばらしく冴えわたっていて、ページをめくって挿絵が現れるたびにドキドキしていました。
2巻で琅燦がピンで描かれたのすごくうれしかったし、
4巻最初の、驍宗が羅睺を調伏するときの挿絵は国芳の水滸伝を思い出すような大迫力だったし
驍宗のもとへ駆けつける泰麒と耶利の冷徹なまでの凄まじい表情と動きには凍りつきました。
小野主上の原稿を読んで画伯が筆をふるい、主上もまた画伯の描くキャラを見て別のお話に登場させたりするそうで
おふたりあっての十二国記だなあと、改めて。
そういえば十二国記画集は第二弾も計画中という話はどうなったのかな…。
過去に開催された原画展で確かそんな噂を聞いたのですが。
本編同様、いつまでも待ちますので発売してくだされ新潮社さん~。
2019_09
11
(Wed)23:58

迷宮物件その2。

小野不由美さんの『営繕かるかや怪異譚 その弐』を読みました。
5年前に出た短編集の続編です。

今回も短編集で、様々な事情で古民家や古い実家に住むようになった人々が
その家や周辺で怪異に出逢い、それを若い大工さんが修繕しに来るというパターン。
怪異は相変わらず「そういうふうに縛られているからそういうふうにしか行動できない」ものが多くて
人間側が観察して理解して対処するしかないというものになっています。
1作目もゾーッとする描写とホッとする描写の連続でドキドキしましたけど、今回もその雰囲気は健在で
その短編ごとの主人公が営繕屋の尾端さんと出会うまで
「大丈夫?この人生きて結末迎えられる?大丈夫??」ってハラハラしていました。
毎回こんなにも登場がゆっくりで、待たれる狂言回しもなかなかいないと思う…。
そして登場してから去るまでの時間はウルトラマン並みの短さ。
ちゃちゃっと来てちゃちゃっといなくなります。仕事人みたいで潔い。

表紙絵に鳥居と梅の花が描いてあって、しかも紅梅だったのでおや…と思って読んでいたら
2編目の「関守」が通りゃんせ、もとい、川越の三芳野神社が元ネタになってるお話でテンション↑↑↑
三芳野神社はもともと単体の神社だったけど、後から川越城ができて神社の敷地ごと取り込まれて
一般の人はお参りできなくなってしまったけどお正月などは出入りできた説とかも書いてくださっている。
ちゃんと調べてくださったんだなあ…有難いなあ…じーん(*´Д`)。
他にも小田原にもそういう話がありますとか、諸説ありますみたいにしてくれてるのもポイント高し。
主人公の女の子が通りゃんせの歌に良いイメージを持っていなくて、なぜだろうと一生懸命思い出そうとして
子どもの頃に遊んでいた神社から帰ろうとして鬼に会ったというエピソードが出てくるんですが
最後の最後にその鬼の正体が猿田彦だったとわかったときは「エエ~~ッ!」と叫んでしまいました。
そうかあ…猿田彦の顔が鬼に見えたのかあ…。
女の子の回想で角についての言及がない時点でこりゃ鬼とは限らねえなあとは思ったけど猿田彦か…!
わたしは読んでいても通りゃんせ=鬼=猿田彦がまったく繋がらなかったので
鬼から猿田彦を連想することがどうしてもできなくて、
そういう意味では最後まで気づけずに読んでましたね。
猿田彦は鬼というより天狗に近いイメージなので…わたしの中で…。
鼻の高い低いはともかく、紅い顔で頭襟かぶって狩衣着てたっつけ袴で草鞋というのは鬼じゃないよな…天狗だよな…。
と、ここまで考えてわたしのこの天狗のイメージはどこから来ているんだろうと考えてみたんですが
たぶんあれだ。かこさとしさんの『だるまちゃんとてんぐちゃん』だと思います。
あのてんぐちゃんも、赤い顔に狩衣を着ている子なので。
それにしても2編目の主人公さん、猿田彦に道案内された過去をお持ちとはとってもうらやましいぞー!
(ご本人は不審者みたいに見えたってことですけど)(そりゃそうだよね)
あと尾端さんが、神様は祟るものでもあるというところに言及してくれたのもよかったです。
「そういうふうにしか行動できない」というのはこの世に強い思いを残している人間の霊だけではなく
神々や妖怪たちもそうだったりするんだよね。
オールマイティな神様もいますが、基本的に神様というのは豊穣とか学問とか縁切りといった風な専門家であり、
人々は歴史上、目的に応じてどこにお祀りするか、どのようにお参りするかを決めるなどしてお付き合いしてきているので
神様は存外、柔軟性に乏しかったりする場合が多いように思います。神話や民話を見てると。
あと人間側が約束を破ったときの反動がハンパない。

猿田彦は今も川越氷川神社の神幸祭行列にいますぞ~。→こちら
4年前に例大祭を見学したときに手を振ってもらった覚えがあります。素敵な神様だった。
三芳野神社も春になると梅の花が綺麗に咲くので、何度か見に行っています。
過去に訪れた場所がこうして小説に出てくると、楽しくなってテンションめっちゃ上がります。やたーっ☆

他のお話も、三味線とか猫とかこぎんの着物とか個人的萌えキーワードが多い。
三味線の音色をたどっていくと自分だけに見える女性を見つけたりとか
飼い主の帰りをずっと待っている猫たちとか、切り刻まれて踏まれたお着物とか
床下からずっと助けを求めている幼なじみとか、体をボロボロにしながら家の危機を訴える男性とか
今回は切ない系のオバケや霊が多かったように思います。
実際に会話やコミュニケーションがとれるわけではないので、彼らの想いは
目の当たりにした人間たちがひとつひとつ探っていくしかないんだけど。
正邦さんのお話が切なくてなあ…。
過去に正邦さんを見た人は何人かいて、今は主人公とおばあちゃんだけが「屋根裏にいる」と知っているというのが
かえってリアリティがあってドキドキしました。
家を建て替える際に正邦さんの欅の全部は使えないけど一部は別の何かに使えるという尾端さんの話を聞いて
「会ったら怖いけど、いなくなるのは寂しい、いてくれた方がいい」と主人公が思えるようになったのは
とても素敵なことだなと思いました。
形が変わったらどんな姿になるのかな。小さくなった正邦さん、ちょっと見てみたい気もしますね。

尾端さんも相変わらずプライベートが想像できない人ですな…。
普段はどこに所属して仕事しているのか、同僚はどんな人たちなのか、ご家族や友人はいるのか、
いつから、なぜ、営繕の仕事に関わるようになったのか。
ご本人の口からまったく語られないので気になっています。
クライアントと職人って、顔を合わせると多少は身内話もしそうなイメージがありますけど
尾端さんはいつも一切何も言わなくて、仕事の話だけして黙々と作業して帰っていくよね…。
その作業も地味っちゃ地味で、木戸や猫ドアを直すとか、壁をふさぐとか、抽斗に枠をつけるとか、
大黒柱をかじっていたシロアリを見つけるとか、床板を外して地面を掘って大きなトランクを見つけるとか。
でも時々、「この棚、手作りですね。本当にお好きなんだなあ」とか
そのお宅の過去の持ち主に対して心を寄せたりもする。
古い建物や昔話や民俗に詳しくて、現代的な建築の知識を持ち、噛み砕いて話せる技術屋さん。
尾端さんが今後もどういう仕事をしていくのか気になるので、また続きが出てくれたらうれしいです。

ezenneko1.jpg
>>>そんな空気を吹き飛ばす猫様<<<

ezenneko2.jpg
わたしが本を読んでいる間ずっと隣で寝ていてくださったので
ドキッとする描写のところで背筋が凍っても引きずることなく読み切ることができました。
怖くなったら猫さまの寝顔見ればいいんだもんね!
頭とかお背中とかナデナデさせてもらえればさらに気持ちが落ち着きます。
もふもふはメンタルにとても効く。怪談に猫。オススメです。


そして先月のビッグニュースですよ。
\\\十二国記新刊ついにきたっ!!!///
待ってた。待ってた!「黄昏の月 暁の天」から18年越しの戴国の物語!!ホギャーッ(゚∀゚)☆
「白銀の墟 玄の月」というタイトルがかっこよすぎてひれ伏しました。十二国記の副題まじ美しい。
はあぁ泰麒…李斎…驍宗様…琅燦…どうなったんだみんな生きていてくれ…!
10月~11月の4冊連続刊行が待ちきれません。早く読みたい。待ってます。楽しみです。
2019_05
23
(Thu)23:57

うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと。

ranpotei_1.jpg
旧江戸川乱歩邸に行ってきました。
かつて江戸川乱歩が暮らし、現在は立教大学の大衆文化研究センターになっている建物です。
毎週水曜日と金曜日に公開されていて、予約不要、入場料無料!有難いね☆
大学正門近くの道の角では池袋のシンボルふくろうが案内してくれています。

ranpotei_2.jpg
着いた…!門のあるおうち。
乱歩せんせいは生涯で26回ほど引っ越しているそうですが
池袋のこの家に移ってからは動くことなく住み続けたそうです。
住み始めたのは戦前で、その頃のこの周辺は住宅も少なく自然がのどかだったそうで
静かに小説を書くにはもってこいだったのかしら。

ranpotei_3.jpg
表札にはふたつのお名前。
平井太郎は乱歩の本名、平井隆太郎は乱歩の息子氏で立教大学名誉教授。
ちなみにこの乱歩邸を立教大学に帰属させたのは隆太郎氏だそうな。

ranpotei_4.jpg
アプローチをたどって玄関へ。ガラスがはめ込まれたモダンな雰囲気です。

ranpotei_5.jpg
入れるのは玄関先まで。
展示ケースには乱歩の著書や新聞記事などが展示されていました。
雑誌『探偵クラブ』はもうほとんど国内に残っていない貴重な雑誌だそうで
乱歩をはじめ横溝正史や夢野久作などが参加したリレー小説なども執筆されていたそうな。

ranpotei_6.jpg
壁に貼ってあった探偵小説トリック分類表。
「被害者が犯人」「被害者のひとりが犯人」「探偵が犯人」「双子トリック」「錯覚トリック」「時間トリック」など
現代の推理小説にもよくみられる手法がひとつひとつ記述されていました。
1950年9月に書いたらしいから戦争が終わって推理小説が書けるようになった頃のものですねえ…
乱歩せんせいの熱心な研究成果。

ranpotei_20.jpg
では、玄関を出てお庭へ向かいますよっと。

以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ☆

続きを読む »

2018_08
25
(Sat)23:59

あなたの読む本どんな本。

『スティーヴ・マッカリーの読む時間』がすごく素敵な写真集なので気に入って
折に触れて眺めております。
アンドレ・ケルテスの同名写真集『読む時間』(こちらも名作!)へのオマージュになっていて
世界各国の人々が本を読む姿をマッカリーが撮影しています。
カフェや道端、車の中、窓辺、店頭、公園、銅像や遺跡の上、教室や美術館や寺院ほか
「そうそう、こういう場所で読むよね」って同意できる場所から「そこで読むの!?」とびっくりする場所まで
人は色んな場所で読書するなあと改めて思いました。
自由気ままに思慮にふけったり夢中で読んだり勉強や仕事など必要にかられたりただ静かに座っていたり
被写体の人々は驚くほど静謐です。

草原の岩に寝転がる象の傍らで本を読んでいる青年が表紙写真なのですが
もうここから惹きこまれる。タイのチェンマイの人だそうです。
象が首輪しているから彼は象使いなのかな、象さんが起きたら本を閉じてまた移動するのかもしれない。
(映画『シービスケット』に似たようなシーンがあったの思い出しました…あれは馬の映画だけど)
表紙を開くと、扉にも写真があって
イタリアのローマのどこかにいるらしい、読書する天使の石像の写真と
インドのニューデリーのどこかの駅にて新聞を広げる男性の写真。
さっそく人以外の読書姿や、本以外の活字を読む姿が出てくる構成なのがニクイと思う。
この写真集にいる人たちの多くは小説を読んでいるように見えますが
ほかにも新聞、パンフレット、冊子、説明書き、教科書、経典、タブレットなど様々なもので読書しています。
過去記事にも似たようなこと書いたけど、読書は必ずしも物語である必要はなくて
活字を読むということならパピルスでも活版印刷物でもSNSでも同じだと思う。
あと、わたし読書はなるべくゆっくりやりたい派ですけど
この写真集にも何枚かそういう写真がありますけどゆったりできない読書の時間というのは存在するわけで
その日に学んだことを復習して書き留める、苦労してお金をためてやっと手に入れた本を夢中で読む、
歴史を次世代に伝えるために過去の情報を取捨選択し記憶・記録する、
緊急時に自分にとって必要な情報を得るためにマニュアルや注意書きや取説などを片っ端から斜め読みするなど。
目まぐるしく変化していく世界を生き抜くためにも読解力は大切ですよな…。

ローマの道端で絵を売りながら本を読んでいる店員さん。
ミャンマーで手相占いの合間に本を読むおじさん。
イタリアのフォリーニョにて博物館(?)の巨大ガイコツのそばの女性が開いているのはパンフレットかな。
アトランタにて書店?図書館?の床に寝転がって本を読む人。
カンボジアのバコン寺院の屋外で並んで本を読むお坊さんたち。
インドのゴアにて窓辺にだらしなく腰かけて本を開く男性。
セルビアの工場で背後が赤々と燃える中、新聞を広げる男性。
マニラにて新聞を読む男性のブロンズ像に乗っかる男の子。
ムンバイにて車のボンネットに乗りフロントガラスに背を預けて新聞を読む男性。
ニューヨーク公共図書館の屋外にあるベンチにて本を読む男性。
同じくニューヨーク公共図書館の館内メインリーディングルームの入口にある
読書や活版印刷がテーマの油絵の前でタブレットを持ち電子書籍を読む男性。
同じくニューヨークの電車の中で本を広げる男性。
同じくニューヨークの古書店前にて商品を物色する人々。
新宿ミラノボウル前の階段に腰かけて本を読む男性(そばを店員らしい女性が通り過ぎて行く)。
ハバナにてクラシックカーのトランクを開けたまま新聞を広げる男性。
アフガニスタンのカブールにて古着屋をいとなむおじさんが地べたに座りながら本を読んでいる。
イタリアのドロミテアルプスにて青空と雪をかぶった連峰をバックに本を読む男性は登山家でしょうか。
太平洋上空を飛ぶ飛行機の中でルームライトを使いながら本を読む男性。
フレヒティンゲンにて台所で椅子に座って絵本を読む女の子。(そばでお母さんらしき人が料理をしている)
エルミタージュ美術館にて聖母子像の前で何か読んでいる男性。
ローマにてバイクに腰掛けた男女がガイド本のような本を開いている。観光客かな。
バルセロナにて階段に腰かけて本を読む、全身にタトゥーを入れた女性。
インドのクンブ・メーラにて岩を積み上げ藁と布で覆った家にて冊子を読むターバンのおじいさん。
パキスタンのペシャワールにて車いすに座りながら男の子に読み聞かせをする男性。
レバノンのムクタラの学校にて絵本を開き勉強中の子どもたち。
チベットのリタンにて経典を読みふける修行僧たち。(一人だけこちらを向いている)
スイスのサンモリッツ、ホテルかどこかの一室で椅子に足まで乗せながら本を読む女性。
ロサンゼルスのコインランドリーにて片手に詩集を持ち朗々と詠じている男性。
韓国の法住寺(ポプジュサ)にて、室内で本を読むメガネの男性。
アンコールワットにて髪を剃ってもらいながら何かの冊子を読む修行僧。
スリランカのベントータのビーチにて水着姿で読書する男女。(そばを象が歩いていく)
フランスのルルドにて高齢女性がうつむいて読んでいるのは聖書でしょうか。(そばには十字架を持つ人物が刻まれた壁)
チェンマイのどこかの室内にて読書する首長族の女性。
ミャンマーのラングーンにて道端にダンボールを敷いてマンガを読む裸足の男の子。
北京にて路上に座り込み並んで文庫本を読む男の子たち。
バーミヤンにて本を大事そうに抱えながら真っすぐにこちらを見つめてくる女の子。
クウェートにて地面に物が散らばり、ひっくり返ったトラックや自動車の前で落ちていた本をめくる男性。
など、など、共感できるものから考えさせられるものまでたくさんの写真が載っています。
見ていると読まれている本のタイトルはおろか読んでる人のパーソナルまで気になってしまう。

写真集の扉の裏にはC・S・ルイスの言葉が書いてあります。
「何かを読むと、私たちは自分がひとりではないことを知る」。いいなあ。
この写真集を見ていると、本を愛する人は世界中にいて
みんな似たような姿勢で読んでいるのだなと思うし
写真の人々に親近感が湧いて何を読んでいるの?何を考えた?
その読書はあなたにとってどんな時間だった?などなど尋ねたくなります。
よく電車やバスの中で隣に座った人が本を読んでいると気になっちゃうみたいな、あの感じ。

わたしは…
椅子に座って、こたつテーブルにて、台所で、本棚の前で、カフェで、図書館で、電車や車の中で、布団の中で
本を読むことが多いですね。


本日のお絵かき↓
※クリックで大きくなります
読む時間を眺めていて描きたくなったのでらくがきしました、シンカリオン運転士の読む時間。
ハヤトくんは家でも通学路でも教室でも研究所でも出張先でも鉄道図鑑を読んでそうだし
ツラヌキくんは寮のお部屋で土木建築の本とかマンガ読んでそうだし
アキタくんは甘いもの片手にココア飲みながらライフル競技やスイーツ雑誌を開いてそうだし
シノブくんは家の囲炉裏を前に静かに和綴じ本を読んでそうだし
リュウジさんは本編で文庫本を読む姿が一瞬出たので新幹線の移動中とか読んでそうと思ったし
レイくんは門司支部や家中に宇宙工学に関する本を手当たり次第に置いてそうだし
ミクさんは摩周丸でお稽古する合間に教則本や小説読んでそうだし
アズサちゃんは「〇〇を朗読してみた」って動画をYoutubeに上げてそう。
…っていう妄想。
色を塗るかどうかは考え中です。

もうほんと寝ても覚めても頭がシンカリオンでどうしたらいいんだろう、
そろそろおとなしくしたいのに、前回前々回も色々書いたのに全然足りません。
33話観ましたけど研究所の人々の夏休みの過ごしかたが熱いとわたしの中で話題に。
行くべきグリーティングは全部コンプしたフタバさんに有明のイベントで推しの新刊ゲットしたヒビキさんに
心のアルコール消毒で夏が終わったミドリさん!(笑)
にしても日常回はあれだね、今後の布石をごそっと置いていくので
一瞬のワンカットやセリフひとつひとつまで油断できないね!
とりあえず出水さんが言ってた8年前の事故とそれが原因(?)で不在になった開発者と
研究所初期メンバーと一緒に写真に写っていたおじさんが気になる、イザさんかな…?
(もしあの写真のE2系が初代シンカリオンならブラックシンカリオンがE2に似てるのも納得がいく)
あとエージェントの皆さんキトラルザスっていう一族なんですね。元ネタはキトラ古墳ですかね。
新幹線とキトラ古墳が戦う!(語弊)
夏はそろそろ終わりますがまだまだシンカリオンは熱い展開が続きそうで楽しみです。
*ブログ内のイラスト記事一覧はこちらです*
2018_07
23
(Mon)23:55

ノーと言えるようになりたいその3。

Gorey1.jpg
八王子市夢美術館で開催中の「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密」展に行ってきました。
ゴーリーの死後から世界を回り、2年前に日本に上陸して伊丹市を出発した展覧会が
2年かけて関東へ巡回してきましたよ~やったあ、待ってた☆

過去にも何度かゴーリーの展覧会は行ってますけど
今回は原画がたくさん展示されるのが楽しみで行きました☆
展示室に入ったら目の前の大きな壁にゴーリーと飼い猫さんの写真が飾ってありましたよ~。
ゴーリーファンならよく知る窓辺のあの写真です^^
壁の後ろに回ったら猫に囲まれたゴーリーの後ろ姿の自画像があって
ああ、この展覧会の主催者はファンの心をよくわかってらっしゃると思った。
Gorey7.jpg
こんな自画像。
(ミュージアムショップでこの絵のクリアファイルが売られてたので買ってしまった)

とにかく原画がたくさんありまして、中でもやっぱり見どころは絵本の原画ですね。
ゴーリーは絵本を作る際に原画を引き延ばしたり縮めたりせずそのままの大きさで絵本に印刷しているので
ひとつひとつがとても小さいのですが
絵と鑑賞者の間にパーテーションやラインもなくて、ぎりぎりまで近づいて見られるしあわせ(*´︶`*)。
最初に展示されていたのが弦のないハープの表紙原画とのことでしたが
どうも見覚えがないなと思ったら未使用の絵だった!うおお!!
出版された絵本とは表情やしぐさが少し違っていたので気づいたんですが…試行錯誤の形跡ですね。
未発表原画を見られるしあわせ(*´︶`*)。
イアブラス氏が抱えているハープの中の紙がくりぬかれて切り貼りしたみたいで
これひょっとして出版したのもそうなのかしらと思って手持ちの絵本を観察してみましたけど
印刷だとよくわかりませんでした…やっぱり原画はナマで見るに限る。
具体例のある教訓も、実際に出版された絵本の表紙は
タイトル文字にウサちゃんぬいぐるみがぶら下がっているシンプルなものなんだけど
未使用の表紙絵は登場人物たちの集合で、しかもこれから何かが始まりそうな予感がする印象でした…どきどき。
(ゴーリーは「意味をもたない作品は他のほとんどの作品よりも難しい」的な言葉を残している)

アルファベットの絵本シリーズも、ゴーリーは迷ったらアルファベットをやると言っているくらい好んでよく作っていて
でも登場人物はだいたいろくな目に遭わないのですが、それをエロくもグロくもなく淡々と描くゴーリーは本当にすごい…
殺人や恐怖って感情抜きに描くのなかなか難しいテーマだと思うので。
鉄分強壮薬はグリーティング作家だった曽祖母ヘレン・ジョン・ガーベイに捧げられた絵本で
構成がグリーティングカード風になっているのはそのためだそうです。
ガーベイの作品てまとめて見ることはできるんだろうか~見てみたい。
折れたスポークはポストカード風の絵のどこかに必ず自転車を入れるというテーマの絵本で
原画のひとつに水墨画のような空の絵があって
おお、ゴーリーおじさんが線以外で空を描いている…!とちょっと意外でした。
ビネガー・ワークスはウェストウイング・蟲の神・ギャシュリークラムをセット販売したときのポスターですが
描かれている大人も子どもも動物たちもすがすがしいまでにガイコツばかりで一周回って笑えてくる。。
うろんな客はかわいいな~原画は印刷よりもインクが濃く見える気がします。
この絵本は、というかゴーリーは自分の作る絵本を大人向けとは全然思っていなくて
うろんな客も「どうして児童書にしないんだ」などと出版社に意見したことがあるらしい。
あと展示ケースにゴーリーが使っていたメモ帳やペン先(Hunt#204)やインク壺などがありましたが
ちょこんとうろんな客ぬいぐるみが座っていたのもかわいかった☆
出品一覧表に個人蔵とあったけどあれ濱中氏の所蔵品だろうか…とても見覚えがありました。

動物の絵もかわいい☆
子ども部屋の壁模様のカバみたいなキャラがむちゃくちゃかわいくてこんな壁紙ほしいって思いました。
(実際にカバがモデルらしくて、カバのスケッチとキャラ設定の走り書きが並んで展示されていた)
この絵本はゴーリーが自分の絵本を出版するために作ったファントッド・ブレス社から出しているので
割と自由な作りになっているそうです。
キャッテゴーリーのかわいさは相変わらずでした!
人間はバッドエンドにばかり描いてるのに猫はハッピーエンドにしかしないゴーリーおじさん、ぶれないね。
失われたライオンたちも、ライオンがネコ科であるためかゴーリーのタッチはやさしくて
主人公に抱っこされたり甘えたり隣で寝てしまっていたりしてかわいい。
あとゴーリーはイギリスのナンセンス詩集や小説の表紙・挿絵も手掛けていまして、
特にエドワード・リアが好きだったらしくジャンブリーズや輝ける鼻のどんぐなどに挿絵をつけているのですが
実はリアも猫好きな人だったとのことで、ジャンブリーズはリアの猫フォスに、
どんぐはゴーリーの猫たち(リヴィア・アグリッピナ・カンズケ)に捧げられています。
猫好き同士のケミストリー☆
ちなみにゴーリーの猫カンズケは源氏物語宿木に出てくる上野の親王からとられています。
(ゴーリーの愛読書はクリスティとアリスと源氏物語なんだよね)
キャッツポッサムおじさんの実用猫百科(ミュージカル『キャッツ』の原作)のどの原画も猫がかわいい、
作者のT・S・エリオットは猫になりたかった人なんだよね^^

出版物以外の原画もおもしろかったです。
母親宛てにゴーリーが出した手紙の封筒がいくつかあって、封筒の表に何かしらイラストが描かれていて
空中ブランコに乗る鳥たちとか、葡萄の木にワインをそそぐ天使たちとか
カノン砲に突っ込まれた男とか、雲の中のはしごを登っている人とか
いちいちユーモアにあふれていてかわいい!
こんな封筒もらったら捨てずにとっておきますよ…直筆ならなおさら。いいなあ。
プレゼント交換するドラゴンと人のイラストがもう、もう、最高にかわいくてかわいくて
何の目的で描かれた絵かはわからないけどこんなクリスマスカードほしい!って思った。
(ネッシーがモデルだそうで、ゴーリーはネス湖にも旅行に行っているけど
ネッシーを見られなかったことを残念がる言葉も残しています)
アイススケートをするワニはタイトル通り4本足にスケート靴つけて滑ってるワニがいるけど
別にワニが主人公の絵ってわけでもなくて構図は陸の人間たちが中心なのが、なんともゴーリーの味わい。
ドッグイヤー・ライド・ポストカードは刈込造形、つまり庭の生垣を動物の形にカットしたものが
命を吹き込まれたらどうなるかがテーマの連作になっていて
でもゴーリーのことだから人間が刈込造形と仲良くなるとかキャッキャする絵は全然なくて
犬に噛まれたり蛇にまとわりつかれたり熊に抱きつかれたり大砲に入れられたりと
みんなさんざんな目に遭っていて、ああやっぱりなって思った。
ゴーリーがバスタブの形をした生垣描いた時点で嫌な予感しかしないよ!案の定人の姿はない絵でした。
あとバレエやオペラも大好きだったゴーリー、贔屓のバレリーナがいたみたいだし
ニューヨークシティバレエ団の振付師ジョージ・バランシンに憧れて自分もニューヨークへ移住して
バランシンの参加する舞台を欠かさず見るほどの熱の入れぶりはすごい。
当時ゴーリーは「私にとって悪夢とは新聞にジョージの訃報をみつけること」とも語っていて、
数年後にそれが現実になったときはショックを受けてケープコートに引っ越しますが
地元の大学で開催されたオペレッタ「ミカド」に舞台美術と衣装デザインで参加するなどしていて
行動が完全にオタクなゴーリーおじさんまじ慕わしいな…!
ミカドの衣装デザインは冠被ってるし足袋穿いてるしで色々おもしろいんですが、
中でも自転車に乗るミカド(ロートレックを意識したのかな?)の冠の襞が「M」になって
MIKADOのタイトル文字に被っているポスターデザインは秀逸でした。
NYシティバレエ団の50シーズン記念にファンとして描いた回想「薄紫のレオタード」は
子どもと手を繋いだおじさん(たぶんゴーリー本人)がいましも出かけようとしている後ろ姿に見えました。

今回、ゴーリーの原画をこんなにたくさん見たのは初めてだったのですけど
ほとんど修正のあとが見られないのが何だかものすごく印象的でした。
鉛筆じゃなくペン描きですから消しゴムで消すこともできないはずで、
きっとものすごく構想立てて下調べして下書きもしっかり描いて準備万端にしてからペン入れ始めるんだろうな…
とか思っていたのですが、いくつか展示されていた下書きを見ると
原画の緻密さとは似ても似つかないほど雑な走り描きばかりで、意外と大ざっぱな一面も見られました。
優雅に叱責する自転車のためにおしゃべりする自転車のスケッチをしたり
自転車が街をどのように移動したかを住宅の配置図に矢印で描きこんでいたりと
絵本に直接描かないこともしっかり設定してあってさすがだなと思った(スケッチは雑ですが)。
あと絵本タイトルや著者名を手書きでレタリングしているのマジ感動する!
文字も絵本の一部です。

鑑賞中は会場でずっとメモをとっていたのですけど、わたしがやたら紙をひらひらさせていたせいか
見かねた監視員さんがクリップボードを貸してくださいました!
お蔭でむちゃくちゃメモがとりやすくて助かりました…ありがとうございました。

Gorey2.jpg
中国風オベリスクに出てくるゴーリーおじさんのパネル。
毛皮コートにスニーカー、髭もじゃの顔はお気に入りの自画像の姿だそうです。

Gorey3.jpg
うろんな客もいます。

Gorey4.jpg
ここにもいます。

Gorey5.jpg
ギャシュリークラムのちびっこのひとり、Aではじまる名前の子エイミー。
この子を始めとして子どもたちがアルファベットの順に酷い目に遭う絵本で
展示は他にも表紙のラフ画とかありましたけど、ざくざく描いてあるぶん完成絵よりも怖かった。
(ちなみに裏表紙は26の墓石である)

Gorey6.jpg
パネルのあるスペースにはテーブルと椅子が用意されていて
ゴーリー絵本の日本語訳が読めます。
わたしが行ったときも熱心に読んでいる人たちがいました。夢中になっちゃうよね。
実は展示室の中にも各国で刊行された書籍がガラスケースに展示されていたけど
やっぱり椅子と日本語訳絵本が用意されていたのがよかったです。
展示室の中で作家の絵に囲まれながら絵本が読み放題とか!なんという素敵サービス。
2017_10
20
(Fri)23:53

第2333回「最近読んでいる本や好きな本は何ですか?」

こんにちは!FC2トラックバックテーマ担当の神田です
今日のテーマは「最近読んでいる本や好きな本は何ですか?」です
食欲の秋、運動の秋など○○の秋というフレーズがたくさんありますが、やっぱり「読書の秋」は欠かせません!
小学生の頃にはよく「秋の読書月間」とかやっていたなぁと感じます...
FC2 トラックバックテーマ:「最近読んでいる本や好きな本は何ですか?」


読書の秋ですねえ。
最近読んだ本は高楼方子さんの『街角には物語が……』で
具体的に地名は記されませんがヨーロッパ風の旧市街が舞台の連作短編集です。
6編のお話にそれぞれ主人公がいて、彼らはみんな想像力が豊かで
部屋の窓から見える光景からたらればを妄想したり、仕事先の同僚の転職理由を本当かな?と疑ったり
友達とのティータイムに話が続かない理由を考えたり、おじさんのくれた瓶に一喜一憂する少年がいたり
子どもの頃からずっとシューティングゲームを続ける男性にお店の夫妻が想像をめぐらせたりと
想像の中で自由に遊ぶ人も、自分の想像に自分でおびえてしまう人もいる。
中には本当に不思議に遭遇する人もいて、絵本の表紙に描かれた少女に
「わたしと入れ替わってみない?」と誘われてOKしてしまう少女は
ちっとも怖がらずにあっさり受け入れて夢を見続けていて…果たして街に戻ってくるのかどうか。。
恋人の真正面の顔しか知らないという青年に占い師が助け舟を出す話が一番何でもなく終わったな…
高楼さんはこういう、ぞくっとする話としあわせな話を組み合わせた物語づくりがうまいので
毎回、これどうやって終わるんだろう…とドキドキしながら読めるのが楽しかったりします。
オチもああよかった!と思うときと、ん?本当に良かったのかな…と思うときと
いやいやいやいやいやってなるときと、おお丸く収まったすげぇ…ってなるときがあります。

あと平松洋さんの『猫の西洋絵画』にて油絵や水彩画の猫たちに癒されました(=^ω^=)ニャー
18世紀~20世紀の、主にヨーロッパの画家たちによる猫の絵が紹介されていて
(それまで絵画の脇役だった動物たちが絵のモデルとして描かれるようになり
動物画というジャンルが確立されてきたのがこの時代なのだそうです)、
猫たちが中心の絵が多いのですが子どもたちや女性たちと一緒にいる絵もあって
どの子も目がくりっとして毛もふわふわで、猫をよく知っている人たちが描いてるなあと思う。
過去に猫まみれ展で見たアンリエット・ロナー=ニップ(この本ではヘンリエッタ・ロナー=クニップ表記)の絵もあり
黄色いクッションに白猫がゆったりと座って、周りに子猫たちが寄り添って寝たりごはん食べたりして
思い思いの行動をしながら過ごしているのがほんとにかわいい^^
あと猫関係の本では『猫SF傑作選 猫は宇宙で丸くなる』とか『猫ミス!』が気になっていて
どちらも数人の作家たちによるアンソロジーなので読んでみたい。
桜井海さんがTwitterで連載している『おじさまと猫』もほのぼのしてかわいいマンガです、おすすめ。
映画「劇場版岩合光昭の世界ネコ歩き」もそろそろ公開されますね。

マンガですと最近読んだのは浅野りん『であいもん』、宇佐江みつこ『ミュージアムの女』、
大柿ロクロウ『シノビノ』、小沢かな『ブルーサーマル-青凪大学体育会航空部』、
桐丸ゆい『江戸の蔦屋さん』、小林ロク『ぶっカフェ!』、さもえど太郎『Artiste』、
白浜鴎『とんがり帽子のアトリエ』、鷹野久『バスキュレ』、灰原薬『応天の門』、ユペチカ『サトコとナダ』
あたりですかな。
であいもんは和菓子が猛烈においしそうだし、バスキュレは硬派な世界観がすごく深いし
ぶっカフェは天上天下唯我独尊~!って言いながらドンペリ開けるの最高に笑ったし
江戸の蔦屋さんは鳥山石燕と喜多川歌麿の師弟関係が個人的にツボでかわいかったし
シノビノはおっさん忍びが渋かっこいいしサトナダは2人のスパイス的な日常生活がゆるかわだし
ミュージアムの女の美術館あるあるは同意と尊敬と戒めのオンパレードだった。
ブルーサーマルは熊谷市が舞台の青春マンガですので埼玉県民のみなさま読んでみてくだされ、
コミックバンチのサイトで一部無料で読める話もありますぞ~!
(ガイコツ書店員本田さんにWebで売れたマンガは紙でも売れる法則の話が載ってたけどあれ超わかる…
最近は余程一目ぼれしたり自信がない限りはジャケ買いしないので
数ページでも1話でも1冊でも試し読みができるのは本当に有難いです。
仕事や趣味など色んな理由で本を読む日々ですが勘で全部買ってたら当たり外れもあるので
本棚に置き場所がなくなるし(ゆさは電子書籍推進派の紙書籍派です)、
お財布と相談したり図書館で借りて読んだ中でうおおおお!ってなった本を手元に置いてます)


好きな本に関しては自己紹介記事や過去記事に何度か書いているので割愛しますが
相変わらず本の好みは変わってないように思います。
絵本や児童書、エッセイ、マンガ、画集、古典、学術書などを主に読んでいて
一般小説や歴史小説は気が向いたり気になったタイトルがあったりしたら読みます。
最近読むようになった作家さんは辻村深月さんや松田青子さんですね~。
色んなこと想像したり考えたりしながら読める文章を書く人たちなので
読み終えると「うおお読書した」って実感します。汗をかくほどじゃないけど充実した時間というか。
話題のカズオ・イシグロ氏の本は過去に『浮世の画家』と『わたしを離さないで』を読みましたが
どちらも読了後にどっと疲れた覚えがあるな…彼の本は体力のあるときじゃないと読めないですね。

なぜかわからないのですが昔から文字や文章が好きで、親に本読んでって絵本を持って行ったり
布団で読んでもらってる最中に親が寝オチしたら「続きは!?」って起こしたり(疲れてたんだろうなぁごめん)、
読めるようになったら家の本棚から手ごろな本を勝手に引っぱり出して読んだり
子ども向けではない本もほとんど意味がわからなくても読んだし(それで知った言葉もたくさんある)、
国語の教科書や社会科の資料集はもらった時点でさっさと読んじゃったし
学校の図書室には入り浸ったし図書委員も何度か経験してる。
物語だけじゃなく辞書や年鑑、統計、時刻表、楽譜、同人誌なども読むの好きだし
本の帯や雑誌のアオリ文、新聞、パンフレットやチラシ、広告、ゲーム画面の説明文やセリフ、
缶や瓶のラベル、ファストフード店のトレイに敷いてある紙、神社やお寺に貼ってある〇〇の言葉みたいな貼り紙、
石鹸やシャンプーのパッケージのフローラルの香りみたいな宣伝文なども面白がりながら育ってきまして
そんな日々に今はネットが加わってしまったのでもはや飽食状態。常にお腹がいっぱいです。
ブログやTwitterはどんどん言葉が流れてくるからつい時間を忘れて読んでしまいます…
あれも一種の読書だよね。
2017_06
21
(Wed)23:14

第2282回「雨の日はどのようにテンションを上げますか?」

こんにちは!トラックバックテーマ担当の岡山です。
今日のテーマは「雨の日はどのようにテンションを上げますか?」です。
梅雨シーズンがやってきましたね。
雨の日はなかなかテンションが上がらず困っちゃいますが、私が雨の日にテンションを上げる方法は雨音に紛れて...
FC2トラックバックテーマ 第2282回「雨の日はどのようにテンションを上げますか?」


「今日は雨か~、じゃあアウトドアはやめて美術館に行こうかな」とか考えます。
駅直結の施設とかだったら濡れなくて済むし。
(というかそもそも、わたしの最近のお出かけは屋根のある場所ばっかりですけども)


先日、青い日記帳監修『カフェのある美術館-素敵な時間を楽しむ』を読みました。
ミュージアムに併設されたカフェがきれいな写真入りで紹介されている本です。
お出かけしてる最中に雨に降られると手近なカフェに飛び込むことが多いのですが
そういえば美術館カフェに行く場合もあるなあと思ったので記事にトラックバックしてみました。

目次はこちらに一覧がありますが、
掲載されている中でわたしが美術館も併設カフェも訪れたことがある施設は以下でした。
・三菱一号館美術館(東京)Café 1894
・三井記念美術館(東京)ミュージアムカフェ
・根津美術館(東京)NEZU CAFÉ
・世田谷美術館(東京)ル・ジャルダン
・山種美術館(東京)Cafe 椿
・細見美術館(京都)CAFÉ CUBE・古香庵
・東洋文庫ミュージアム(東京)Orient cafe
・国立科学博物館(東京)ムーセイオン
・Bunkamura(東京)ドゥ マゴ パリ

意外と少ない…。
三菱一号館のカフェは近代建築の銀行の雰囲気がものすごくよくて
ああいう洋館が好きな人は絶対に楽しい空間だと思います。
あとね、たまにやってるアフタヌーンティーがとても…おしゃれです…!いついただきに行くべきか。はやく行きたい。
NEZU CAFEも、庭園にあるカフェってすごく好きなんですけど
あんなに過ごしやすい庭園カフェ空間をわたしは知らない。
陽差しが強い日でもとても心地よく陽光が店内に取り入れられているんです、日焼けしない光量。
東洋文庫のカフェはほんとにオリエントって感じするし
山種美術館の椿も菊屋さんの美しい和菓子がいただけるし
細見のキューブはスタイリッシュで古香庵でいただくお抹茶最高ですし
科博のムーセイオンは広くて家族連れなどで賑やかです。
最近は美術館に行くことを決めたら公式サイトや食べログとかでレストランやカフェがあるか確認して
さらに展覧会限定メニューがないかとSNSなどで探してしまいます。
アートをイメージしたお料理ってまさにアートだと思う。

ちなみに美術館は行ったけどカフェは行ってないところは以下でした。

・国立新美術館(東京)ブラッスリーポール・ボキューズミュゼ
・箱根ラリック美術館(神奈川)LE TRAIN
・京都文化博物館(京都)前田珈琲
・ポーラ美術館(神奈川)レストラン アレイ
・ワタリウム美術館(東京)オン・サンデーズ
・金沢21世紀美術館(石川)カフェレストラン "Fusion21"
・横須賀美術館(神奈川)ACQUA MARE
・石川県立美術館(石川)ル ミュゼ ドゥ アッシュ KANAZAWA
・京都国立近代美術館(京都)Cafe de 505
・春日大社国宝殿(奈良)春日荷茶屋

ワタリウムは実際はショップだけなのですが(展示室が閉まってた)カウントしちゃいました、
いつか展示室に入ってみたい。
ラリック美術館のカフェはオリエント急行で実際に使われた車両の中に入ってお茶できると聞いて
「い、行きてえええ!」ってなってるんですが当日の予約がすぐいっぱいになってしまうみたいで、
始発で間に合うかわからないから泊まりで行く方が確実かしら。
新美は何度も行ってるのに3Fレストランは未踏の地だなァ…いつかお金ためておしゃれして行くんだ…!(ハードル高い)

美術館もカフェも未訪問なのは以下でした。

・アサヒビール大山崎山荘美術館(京都)喫茶室
・ホキ美術館(千葉)イタリアンレストランはなう
・神奈川県立近代美術館 葉山館(神奈川)レストラン オランジュ・ブルー
・山口県立美術館(山口)La Plume Bleue
・原美術館(東京)カフェ ダール
・那珂川町馬頭広重美術館(栃木)JOZO CAFÉ 雪月花
・大分県立美術館(大分)café Charité
・菊池寛実記念智美術館(東京)レストラン ヴォワ・ラクテ
・日本近代文学館(東京)BUNDAN COFFEE&BEER
・畠山記念館(東京)

こうして見ると1/3ずつくらいですね。
原美術館は展覧会のイメージケーキが毎回あるみたいで気になってますが
さっきカフェを確認するために公式サイト行ったら
クリックのたびに「♪ポンポンポン」ってかわいらしい音がして(たぶんちゃんと耳に心地よい音が選ばれてる感じする)
素敵じゃないか原美術館。
畠山記念館は展示室でお抹茶がいただけるそうで気になっています。展示室でお抹茶。気になる。(2回言った)

他に行ったことある美術館カフェは…

・東京国立博物館(東京)ゆりの木
・東京都美術館(東京)IVORY
・奈良国立博物館(奈良)レストラン葉風泰夢
・京都国立博物館(京都)The Muses (ザ・ミューゼス)・からふね屋
・東京富士美術館(東京)セーヌ
・サントリー美術館(東京)加賀麩 不室屋
・江戸東京博物館(東京)桜茶寮
・六本木シティビュースカイギャラリー(東京)THE SUN&THE MOON
・歌舞伎座ギャラリー(東京)寿月堂
・世田谷文学館(東京)喫茶どんぐり
・三鷹の森ジブリ美術館(東京)カフェ麦わらぼうし
・国際版画美術館(東京)カフェけやき
・群馬県立館林美術館(群馬)イル・コルネット
・栃木県立美術館(栃木)レストランつくし
・横浜美術館(神奈川)ブラッスリ―・ティーズ・ミュゼ
・岡田美術館(神奈川)足湯カフェ
・星の王子さまミュージアム(神奈川)Le Petit Prince
・千葉市美術館(千葉)かぼちゃわいん
・青森県立美術館(青森)cafe4匹の猫
・宮沢賢治記念館(岩手)レストラン山猫軒
・MIHO MUSEUM(滋賀)カフェPine View
・広島市現代美術館(広島)喫茶室アーチ
・島根県立古代出雲歴史博物館(島根)マルカフェ

美術館は入ってないけどカフェに行ったことがあるのは
・ひろしま美術館(広島)ジャルダン
かなー。
行った理由はそのとき特に食べたいものが思いつかなかったのと単純に美術館カフェに行きたくて決めたんだったけど
そこかしこに猫のモチーフが置いてある素晴らしいカフェでしたっ…!おすすめです。
2017_04
23
(Sun)23:58

熊蜂の飛行。

恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』を読んで、久々に音楽、特にピアノ曲が聴きたくなって
部屋中のCDとか動画サイトで音源を漁りまくっていたゆさです、こんばんは。
(この記事も聴きながら書いています)
同書は浜松市のピアノコンクールを舞台に、4人の主人公と彼らをとりまく人々の心の動きが
ピアニストたちの演奏とともに描かれていく小説です。
あちこちで話題になってますしわたしの周辺でも好意的な感想が多かったので楽しみで、
パッと開いたら2段組みで500ページ超えててうおお?ってなったけど
読み始めたらあっという間でした。おもしろかった。
タイトルはたぶん、主役の1人である塵くんの父親が養蜂家であることと
三次予選前に塵くんが散歩中に見かけた冬の雷からきているのかな。
その後、塵くんが調律師さんに言った「天まで届く音にして」のセリフには心の奥底までしびれた。

ピアニストたちの来歴や思考やパフォーマンスが細かく描写されているので
彼らの弾き方もピアノの鍵盤からあふれでる音色も全部違って聴こえてくる感じがするし、
主催者や審査員、調律師、記者や家族など様々な視点の言い分やコンクールの在り方もさりげなく語られて
群像劇になっていますね。
わたし自身も学生時代にピアノを習ってましたし、合唱ですがコンクールに参加した経験もあるので
予選前のピアニストたちの気持ちとかめちゃめちゃわかってしまってムズムズしたし
付き添ってくれたレッスンの先生や部活顧問の先生はこんなこと考えてたかもしれないなと思ったし
審査員の先生方がルールを取るか音楽を取るかの試されてる感とかものすごく想像ついちゃって
そこも読んでて面白かったです。
楽譜通りに弾くのは正しいけど自分が弾く意味とか考えちゃうし
年齢とかメンタルとか審査員の好みとか意識しちゃうのわかるし
そういう緊張感と無縁のコンテニストを見ると、焦ったり打ちのめされたりするけど
本番の時間はあっという間にやってきて過ぎ去っていく。
一次、二次、三次と予選がすすむ中で
登場人物たちがコンクールの雰囲気に慣れたり新たな課題を発見してもがく姿は抱きしめたくなります。
がんばってるよお~君たち。

ホフマンが塵くんをギフトと表現していたとき、なんとなく意味の想像はついて
読み進めていくうちに「やっぱりな」みたいな確信に変わったのは
学生時代にコンクールで彼みたいな人たちを何度か見た経験があるからかもしれない。
ギフトの概念を知ったのはル=グウィンの『ギフト』からですけども
『ピアノの森』の海くんや『少年ノート』のユタカくんや『陰陽師 瘤取り晴明』のときの源博雅みたいな、
ストレートに音楽を信じていて人々に演奏したいと思わせてしまう演奏ができる塵くんは
とても危ういし魅せられてしまいます。
コンクールに1人か2人はああいう人がヒョッと出てきますよな…コンクールであることを忘れて
「あの人の音好き」とか「すごい」としか言えない演奏をする人たち。
そういう瞬間があるからコンクールって楽しいんですよな^^
高島さんは『葬送』のショパンみたいな緊張感があったし
栄伝さんとアナトールさんは君嘘の公生くんやかをりさんを思い出した。
特に栄伝さんは内省的すぎるほど内省的で
そんなに考え込まなくて大丈夫だよとか、余計なお世話ですが声をかけたくなったというか
だから彼女が肩の力を抜いて弾けるレベルまで自力でたどり着けたときは「よかったー!」ってなって
本を持ったまま部屋の中をぐるぐる回ってしまった。。
そして彼らのいいところは本番前に思いつめるほど思い詰めてても
本番ではきっちりパフォーマンスできるところなんですよ…そういう人たちだから上位に残っていくんですけど。

ピアノの調律や音響についても書かれていて、
以前に宮下奈都『羊と鋼の森』を読んだこともあるので
クールなプロフェッショナルがピアニストたちの要望を聞いて会場の音響と合わせて調整していくのが
ワクワクしましたね~。
浅野さんの「お望みどおり、何でもするよ」の一言が頼もしい。
ピアノをなるべくステージの前の方に置きたいとか、いや奥に並べたいとか
観客がぎっしりの会場は思った以上に音を吸収するとか
床が少しくぼんだところでは音の響きが違うみたいなところは「そう、そうなの!」って思わず声に出ちゃったよ。
ちょっとしたことで音響ってずいぶん変わりますのでね…
そしてそれは容赦なく審査員の耳に影響する。音響とても大事。うん。
(そういえば去年の本屋大賞が『羊と鋼の森』で、今年が表題作ですから
2年続けて音楽関係の本が受賞したんですね。
この2冊が、クラシック音楽業界が少しでも盛り上がる一助になってくれるといいな)

コンクールの結果も頼むから全員受からせてやってくれよってなりましたね…仕方ないんだけど。
(とか思ってたら恩田さんもインタビューで似たようなこと答えてらしてホッとした→こちら
宮下奈都『よろこびの歌』、中田永一『くちびるに歌を』、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』、
武田綾乃『響け!ユーフォニアム』などを読んでいたときや
ミュージカル『コーラス・ライン』などを観たときも登場人物全員に肩入れしてしまって
みんなこんなにがんばってるんだから報われてほしい…とか、祈るような気持ちでした。
発表の瞬間てすごくストレスたまるけどカタルシスでもあるよね。
終盤で、塵くんが海辺で巻き貝と渦巻雲を眺めながら
ホフマンとの思い出を追想しつつフィボナッチ数列をつぶやくところは
『天と地の方程式』のラストをふと思い出して、
そういえば雷の音って音階であらわせるんだろうか?と気になってぐぐってみたら
何人か音階で聞こえるとおっしゃってる意見がヒットしてひえぇってなった。


余談ですが、音楽について書いたり描いたりしたものを見るといつも
ダイアナ・ウィン・ジョーンズさんの『ダイアナ・ウィン・ジョーンズのファンタジーランド観光ガイド』に
こんなことが書かれているのを思い出します。

「音楽:きわめて重要なもので、常に善であり、おそらく魔法でもあり、
特に竪琴で奏でた場合にはその傾向が強い。どうやら闇の王は音痴らしい」

闇の王が音痴かどうかは知らないけど、
言われてみれば小説や映画で歌がうまい悪役キャラクターがパッと思いつかないけど誰かいましたっけ…。
ミュージカルやディズニーの悪役みたいな、ストーリーの筋として歌を歌うんじゃなくて
「歌がうまい設定」になってる悪キャラ。
あと、歌を歌うと物が修復できるとか世界が救われるみたいな
歌がストーリーのキーポイントになってる物語も結構ありますけど、
そのときに歌う役割というのはだいたい女声に振り分けられてる気もする。
男声だと夢の守り人のユグノあたりが思いつきますが他にもいるかなあ。


週末に西の方へ旅をしてきますのでちょっと留守にします~Twitterには出没しています。
帰って来たらレポ書くですよ☆
2017_03
14
(Tue)23:52

食卓に珈琲の匂い流れ。

『茨木のり子の献立帖』を読んでいます。
作家のおやつとか画家の食卓みたいな本がありますが、あんな感じの本で
茨木さんが生前に書き残したレシピノートから再現した料理写真と
台所実測図や日常の写真、日記の一部などから
彼女が普段の生活の中でご家族やご友人と何を食べていたかが紹介されています。
茨木さんに限りませんがこういう本読むと「ああこの人、ほんとに生きて生活してたんだなあ」という
ごく当たり前のことをしみじみと感じずにはいられない。
茨木さんの詩は生活感があるけど、何よりもぴしっと伸びた背筋を感じさせる詩が多いので
三大欲求の面に触れるとなんだかホッとしますのです。ご飯はいいね。

通勤医の夫さんは普段は家にいらっしゃらない方だったので
茨木さんは自宅で家事をこなしながら詩のお仕事をされていたんだよね。
レシピも誰でも作れそうなものからちょっと手間暇かかりそうなものまで色々。
カレーに始まりサラダ、水炊き、茶椀蒸し、ナポリタン、リゾット、揚げ物、漬物、スープ、焼き魚、お汁に卵焼き。
ポテトキャセロールとか栗ぜんざいとか、鶏とびわの甘酢あんかけとか
マカロニナポリタン(うどん代用鶏もつ)とかおいしそう。
「ヤンソンさんの誘惑 スエーデン」はてっきりトーベ・ヤンソンのことかと思ったら
スウェーデンのクリスマス料理の名前なんですね。
じゃがいもやアンチョビなどを使った家庭料理ですごくおいしそうで作ってみたくなりました。
ノートには基本的にレシピと簡単な調理法しか書かれてないみたいですが
「1時間ほど煮るのが水炊きのコツ」とか、ガスパチョにパンくず入れると分離しにくいとか
蒸し物を何度も蒸し直さないとかちょっとしたメモ書きがあったり、
ご友人に教えてもらったレシピにその人の名前をつけたり
教えてもらったらノートに「〇〇さんより」と書いていたりするのが
お人柄が偲ばれるなあと思う。
チーズケーキのレシピの「衿子さんより」の添え書きは岸田衿子さん(岸田今日子さんのお姉様)ですね。
茨木さんが川崎洋さんと創刊した詩誌『櫂』に参加したりお互いに著書で言及したり
ずっとお付き合いがあったんですよな…。
お知り合いが亡くなられたとき茨木さんが岸田さんに「衿子さん私より先にしんじゃいやよ」と言われたと
岸田さんがどこかで語ってらして切なくなった覚えがあります。
(岸田さんも6年前になくなりましたけども)

レシピと一緒に書かれた日記も一部収録され仕事に家事に大忙しな日々が綴られていて
個人的にはこれが一番読めてうれしい。茨木さんの字はかわいい!
買い物や外食や初詣や同窓会に出かけたり、手紙書いたり書き物の仕事したり
丸善に万年筆を直しに行ったり、雑誌や中公新書や「日本史概説」を読んでいたり
関東大震災から50年目の防災訓練のこととか
大谷友右衞門(四代目中村雀右衛門)や幸田文のエッセイに一考したりとか
暮しの手帖展で花森安治に会ったとか、ドラマの大岡越前や勝海舟をご覧になっていたりとか
ディオニソスよ見捨てたまふなと呟いたりとか
すっきり晴れた夜空にシリウスと木星を見たりとか。
そして合間に色んな詩人の詩集を読んでひとこと感想を書き留めている。
茨木さんの日記は手短でまるでご本人の詩のようにてきぱきとして
その時その時の気持ちも一言主のように言い切っておられて
やっぱりそういうとこ上手いなあと思います。
あと、茨木さんの手料理を喜んで食べる夫の安信さんも日記に「Y」として登場していて
「Y、よろこぶ」「Y、ごきげん」「Yとランデブー」などと書かれてるのかわいい^^
お酒はおふたりともいける口だったらしくて
そういえば本のレシピも焼き鳥やお豆腐など、おつまみみたいなのも載ってます。

甥の宮崎治さんが茨木さんのお料理について言及されているのは何度か読んだことありますけど
今回の本にもエッセイを寄せておられました。
茨木さんは外食でおいしいと思ったものを台所で再現できる特技があったとかで
食事中に「このソースに何が入ってるか当ててみなさい」と言われたとか
レストランのウエイターに「これどうやって作るの」と尋ねるのを見たとか、
ずっと彼女の詩集を読んできた身には、なんて"らしい"のかと感心するエピソードがちらほら。
毎日毎日ごはん作るの大変だったろうし楽しくもあったろうし、
新しい味を知ると作ってみたくなるとか、たまには奮発しておいしいもの食べに行こうとか
茨木さんも考えることあったかなあ。

茨木さんの60代の頃の詩に『食卓に珈琲の匂い流れ』というのがあって
この本にも一部が引用されていましたが
(添えられた写真に写っている藍色のテーブルクロスに白い四角模様が点々とあるのが
なんだか渋好みの茨木さんらしい感じ)、
茨木さんは東伏見の自宅から夫妻で吉祥寺によく出かけて映画を見たりコーヒーを飲んだとか
ちらほら書き残されているんですよね。
日記に書いたことを詩にも書いていて、繋がってるなあと思いました。
夫さんが秋口に「コートいらないからこれ欲しい」というほど気に入って買った椅子の記述があって
その椅子はずっと保管されてて後年『倚りかからず』のモデルになったそうで…。
(茨木さんは夫さんの遺品をほぼそのままにしていたらしい)
あと『夏の声』に出てくる「いくじなしのむうちゃん!」の記述が8月の日記にあって
本当に真夏に聞こえた声だったんですね。

ごはんの本読むとごはんを作って食べたくなります。
ぐりとぐらのカステラまた作りたいし赤毛のアンのマリラの料理も気になるし
ブシメシのお味噌汁すごいおいしそうだったし、パパと親父のウチご飯の唐揚げと鍋やりたいし
カルテットの4人がごはん作って食べるシーンがいつも楽しそうだし
(フードスタイリストの飯島奈美さんのお仕事が光っておられる…☆
そして家森さんがワシにもくれ!とかあれー?ってジブリみあるのかわいい、中の人が聖司くんだからかな)、
きのう何食べた?のトーストに苺ジャムごろごろ乗っけたやつにアイス乗せるのやりたい~。

dokushoneko1.jpg
本日の猫さま。
わたしの読書中ずっと膝でおねんねされていました。

dokushoneko2.jpg
そういえば茨木さんの詩に猫はいたっけ…と手元の詩集をパラパラとめくったら
『もっと強く』という詩にこんな一節がありました。
「猫脊をのばしあなたは叫んでいいのだ 今年もついに土用の鰻と会わなかったと」
わあ。

続きを読む »

2016_10
09
(Sun)23:58

長い時間と波、そしてあっという間の先の、解放。

左右社の『〆切本』を読みました。
夏目漱石から現代作家までによる、〆切に関する随筆や手紙や日記を集めたアンソロジーです。
タイトルと表紙見たとたんに笑える気持ちと笑えない気持ちが同時におこって
なかみを読んでやっぱり笑って震えて胸が苦しくなって元気出た。
仕事や趣味でものを書いてる人にはものすごくクる本だと思います。とてもおすすめ。


扉を開くと真っ先に掲載されているのが白川静による「締切」の漢字の解説だったから
そこから!?ってなったし、かえって企画した編集部の本気度もよくわかった。
(ちなみに締は祭卓の足を結んで締めるの意、切は七(切断した骨)に刀を加える→切るの意)
白川さんも〆切に追われたことあったんだろうか…このアンソロには載ってないけども。

ざっと引用するだけでも悲喜交々なのですが
「ああ、いやだ、いやだ。小説なんか書くのはいやだ」田山花袋
「精神的にも肉体的にも直きに疲労する。だから二十分とは根気が続かない」谷崎潤一郎
「〆切が五日のところ十五日迄延ばしたのですが、とうてい書く気が出ず上京して断りました」梶井基次郎
「純粋な考え方からすれば、むろん断るべきであった」江戸川乱歩
「第一回分四十枚ばかりを書いた。結末がどうなるかという見通しは全然ついていないのである」江戸川乱歩
「書けないときに書かすと云うことはその執筆者を殺すことだ」横光利一
「どうしても書けぬ。あやまりに文芸春秋社に行く」「どうしてもといわれるが、筆が進まぬ」高見順
「かんにんしてくれ給へ。どうしても書けないんだ」吉川英治
「才能がないのではないかと、悲観するのは、新しい小説にとりかかる前、いつも感じる気持ちである」遠藤周作

やばいお腹痛くなってきた。(中断)
あと泉鏡花は「昼よりも夜の方が余程筆が早い」と書いているように夜型だったらしいのですが
この時間帯なら書けるみたいなのも確かにあると思うし、
坂口安吾が「眠るべからざる時に眠りをむさぼる。その快楽が近年の私には最も愛すべき友である」とか
木下順二が「フォークナーか誰かは、鉛筆を何本も削ってばかりいるというのではなかったか」と書いてたり
仕事がつらくて2~3時間はボンヤリしちゃう菊池寛とか
原稿の合間にオペラや文楽へ出かけてしまう有吉佐和子とか
仕事以外のことをやってしまうというのもよくある話だと思う。
試験勉強期間は部屋の掃除や本棚の整理がはかどるとか。(わたしだ)

"〆切はゴムのように延びず"というのは、わたしが高校時代に在籍した部活の格言でしたが
まあ当然ですが延ばした事例はいくらでもあるようで、
島崎藤村は「来年一ぱいには全部を書き終りたいと思ひます。丁度一年だけ後れる訳になります」とか
〆切を1年も延ばしたつわものだったりする。
長谷川町子は「カツオの表情がどうも気に入りません。描き直すので1時間だけ待っていただけませんか」と
配達の人を玄関先に待たせて仕上げたらしい4コマを描いています。
(そういえばサザエさんに出てくる伊佐坂先生はいつも〆切に追われてますね)
ただ、個人的にすごく怖かったのはそのあとのコマで
原稿を描きなおした長谷川さんがボツ原稿を破ったら、なんと破ったのは描きなおした方(!)で
仕方ないのでボツ原稿をそのまま渡したという話…
思い出したくもないですがわたしも似たような経験があるのでほんとに怖かった、
人間、慌ててると手が滑って何するかわからないから気をつけましょうもの書きの皆様…。

長谷川さんで思い出したけど、漫画家さんの〆切前の悲鳴はしょっちゅう耳にしますけど
このアンソロには載ってないけど、武内直子が前に描いてたエッセイ漫画に
セーラームーンの原稿間に合わないどうしようって編集(おさぶさん)に電話したら
「ええ~っノート(付録)だけで本編のないなかよしが200万部も書店に並ぶなんてやだ~!」と泣かれて
どうにかこうにか仕上げたみたいな話があったね…。
手塚治虫は逃亡の常習犯で映画館や駅やホテルに探しに来られては連れ戻されたらしいし
藤子不二雄コンビは眠いときはペンを手に突き刺しながら原稿描いたそうだし
鳥山明も「あと1コマで終わる!」とか言ってる自画像を漫画に描いたことあるし
きっと昨日も今日もどこかで漫画家と編集者の奮闘が起きてるのでしょうね…
漫画家の皆様お疲れさまです。いつも面白い漫画をありがとうございます。
そういえば先月、こち亀が連載終了するというので秋元治がテレビに出てたけど
「常に原稿をいくつかストックしておいて落とさないようにしていた」とおっしゃってて
すげぇ本当にこういう人いるんだって思った。
〆切前に仕上げる作家というと国木田独歩や川端康成、三島由紀夫などを聞いたことがある。
逆に伝説並の遅筆だったのは、トットてれびでもやってたけど向田邦子ですね…
〆切過ぎてから書くとかザラだったらしい。

「仕事はのばせばいくらでものびる。
しかしそれでは、死という締切までにでき上る原稿はほとんどなくなってしまう」外山滋比古

編集者とのやり取りも。
「様子をみにきたのですよといはれてほろりとする」林芙美子とか、
「ただいま大宮でカンヅメになり仕事中です」と手紙に書いた太宰治とか
「カンヅメなるものを非難拒否していたが、やむにやまれずカンヅメされることを受諾」した高見順とか
相当やり合ってきた時間を彷彿とさせる文章が。。
執筆中に体調を崩す人もいて、パブロフの犬というか職業病だったり仮病(?)だったり様々。
寺田寅彦は書くときに頭痛や胃痛がしたそうですが
「大した事はなく、遊んで居ればいゝといふ誠に我儘病で慚愧の至り」と編集に手紙を出しています。
井上ひさしは原稿の依頼を引き受けてからの行動を缶詰病と呼んでいて
最初は「傑作を書く」などと言ってハイになり、次に睡眠をむさぼり、やがて放浪癖が目立ち、
しまいには「次号廻しにしてください」「殺してください」などと言い始めますが
ホテルなどに缶詰にされると全快するらしい。
梅崎春生と編集者の「ほんとに風邪ひいたんですか」「ほんとだよ」のやり取りみたいに
本当に体調を崩しても疑われることもあったとか、
何本も連載抱えてた松本清張が「ゲラ入れだけでも徹夜になる」とかぼやいてるの見ると
延ばしてあげてほしいとも思ってしまうけど、
編集者も「原稿依頼はたいてい多少のサバを読んである」「ほどよいところに締切日を置く」(高田宏)とか
ちゃんと考えて依頼してることがわかる文章も載ってて、もどかしいですね…。
(岡崎京子は6日もサバを読まれたことがあるそうな)
ちなみに高田宏は「書くことも、編集することも、相手に惚れなかったら、はじまらないのではないか」という
名言も書き残している。(川本三郎の章から)

外山滋比古の章に原稿性発熱(〆切になっても一字も書けず発熱して気分が悪くなり、
またの機会にと断られると熱が下がる遅筆の作家の事例)なる言葉があって、
それを左右社さんが栞に作ってしまったのが→こちら
これちょっと現物欲しい。

作家はサボってるわけではないし、編集者も意地悪してるわけではなくて
お互いに仕事に対する情熱やポテンシャルがぶつかってしまうだけであって
それがうまくはたらけばいいけど、ドツボにはまってしまった時にきっと
こういう文章たちが生まれてくるんだろうなと思いながら読んでいたら
幸田文の「私というものが認められることは全然なかったから、"私に"といって、
書くようにすすめられた時は本当にうれしかったのでした」とか
三浦綾子の「一気に十八枚口述して、何とか〆切に間に合わす」(晩年は彼女の夫が書き取ってた)とか
米原万里の、何でもいいというよりはテーマと枚数と〆切を与えられて書くと
「嘘みたいに仕事がはかどる」「不自由な方が自由になれる」みたいな文章も載ってるから
書くことの奥深さを知る本でもありました。
「終わりが間近に迫っているという危機感が、知に、勇気ある飛躍を促し、
ときに驚異的な洞察をもたらす」(大澤真幸)もよくわかるし…。

「自分の中では、なに、たまたまさ、
潮が引けば、じきに元の、暇に恵まれた日々に戻るさね、という考えがある」大沢在昌


ドラマ「夏目漱石の妻」を毎週、拳を握りしめながら見てるんですが
あれの漱石は精神病で書けないみたいになってて〆切に関する話は特に出てないような。
ちなみに漱石は吾輩は猫であるを書いている最中に
「猫は明日から奮発してかくんですが、かうなると苦しくなりますよ。だれか代作が頼みたい位だ。
然し十七八日までにはあげます。君と活版屋に口をあけさしては済まない」
と書いた葉書を、高浜虚子宛に送っているそうです。
弱音を吐きながらも弟子に気を使わせないようにする漱石せんせいは逞しい。
2016_06
20
(Mon)21:54

精霊の書き手。

uehashi1.jpg
世田谷文学館にて開催中の上橋菜穂子と〈精霊の守り人〉展に行ってきました。
守り人シリーズを中心に上橋さんの作品世界や研究内容、お人柄に迫る展覧会です。
この文学館が行う作家展はキュレーションが本当にすばらしくて
ファンの「そう!それが知りたかったの!!」という部分を見事についてくれるので
今回も色々びっくりさせてもらいたくて事前情報はあまりチェックせずに行きました。
(上橋さんのエッセイや講演会などでお人柄については何となく存じ上げているという理由もありますが)

入口の真っ青なポスターは旅人シリーズの佐竹美保さん描きおろし、
向かい側に原画も展示されていて間近で見られます。
ポスター前にはドラマ守り人で使われたバルサの短槍(レプリカ)もありました。
ドラマご覧になった方はおわかりかと思いますが、綾瀬はるかさんの身長よりちょっと低めの長さ。
照明で尖端がギラリと輝いてかっこよかったです。

展示は上橋さんあての2通のお手紙(1979年6月と1982年1月)から始まっていて、
差出人はルーシー・M・ボストン!
高校のとき学校の研修旅行でイギリスに行った上橋さんは事前にボストンさんに手紙を出したら
「ぜひいらっしゃい」とお返事があったそうでケンブリッジのマナーハウスに会いに行っているのですよね。
ボストンさん(当時80代)直筆のお手紙!すげー本物!
マナーハウスの外観やボストンさんとツーショットのお写真も展示されていました。
グリーンノウの子どもたちが遊んでいた木馬に乗った高校生の上橋さん、楽しそう(^ω^)。

上橋さん曰く「偕成社から奇跡的に見つかった」精霊の守り人初稿(1993~1994年)。
バルサは35歳だし(出版後は30歳)新ヨゴ国も別の名前だったなど裏話もキャプションにありました。
隣に再現されたシリーズ原稿の束と、虚空の頃まで愛用されていたノートパソコンも。
会場に流れていたインタビュー映像でもおっしゃってたけど
上橋さんは編集者さんと特に打ち合わせしないで、まず物語をまるっと書き上げてから
「1冊書けたけど読みますか?」と連絡を入れるんだそうです。
まず午前中に前日書いたものを読み返して、続きを書いて
午後にまたイメージが浮かぶこともあれば浮かばない日もあるとか。
あと、原稿は400字詰原稿用紙ではなく実際に読者のもとに届くレイアウトで書くんだそうで
ほほうつまり、わたしの本棚にある守り人と上橋さんが読む原稿は同じスタイル…
ちょっと、たのしい。

上橋さんは守り人を始め数々の賞を受賞されていますが、
賞のトロフィーや賞状を展示したコーナーはどこかの博物館のようだった。
産経児童出版文化賞と路傍の石文学賞のトロフィー超かわいい…!本屋大賞のスケルトンきれい。
国際アンデルセン賞を受賞されたときのメダルや賞状、
デンマーク女王マルガレーテ2世からのサイン本のお礼のお手紙もありました。
上橋さんは眼鏡ウォンバットつきのサインをなさったらしい、かっこいい。
(著書にときどき出てきますが上橋さんの自画像は眼鏡をかけたウォンバットです。かわいい)

uehashi2.jpg
撮影コーナー☆
ドラマ守り人で俳優さんたちが着用された衣装が並んでいます。
バルサ、チャグム(旅姿)、チャグム(皇太子姿)、新ヨゴ王家紋章つき瓔珞、狩人、新ヨゴ王家の旗。
チャグムの旅衣装はNHK衣装部が所蔵していた経年変化した布を組み合わせているとのこと。
狩人の鎖帷子は3㎏もあって、俳優さんはこれをつけて殺陣の撮影をされたそうで
松田悟志さんはその重さに耐えておられたと思うと個人的に萌えポイント高し←

uehashi3.jpg
バルサの衣装のベストは皮を編みこんだものだそうで、
宮城の南三陸の人々によって制作されたとキャプションにありました。
後ろに回ると背中がちょっと見られましたがザックリ切れていて
1~2話の激しい戦闘時に確かバルサが背中を斬られるシーンがあって、その殺陣の痕かな…。
次回シリーズの放送は来年ですがバルサはまたこの衣装で活躍するのでしょうか、
背中の切れ目はタンダが縫ってくれるに違いない…。
あっでも、シーズン1のラストでログサムに短槍投げちゃったのでそんな暇はないかしら。
獅童ちゃんの王様姿完璧すぎて今も思い出し笑いする。

ドラマの小道具もありまして、
ツツジがモデルというシグ・サルアの白い花とか(ツツジは蜜がおいしいからかな)、
青々とした精霊の卵とか(ドラマでは卵の中に小さな地球と雲がCGでついてたよね)、
新ヨゴの夏至祭で使われるトルガル王のお面とか(魔物と王の顔が表裏一体になってるやつ)、
チャグムの部屋にあったおもちゃ、ヨゴ文字の石板、帝の冠(ビショップの冠と卵の形がモデル)、
星読ノ塔や最上階、タンダの家の木の模型なども精巧に作られていました。
星読ノ塔は133m(ビル30階建て)という設定らしい。

uehashi4.jpg
衣装コーナーの隣、黒いカーテンの向こうはどうなっているかというと。

uehashi5.jpg
床一面にドラマのキービジュアル!

uehashi6.jpg
実はこれ、ナユグを体験できるインスタレーションです。
人が入るとセンサーが感知して映像が動きだします。
こんな風に波がおこって、白から緑、青、赤、黄色、紫など次々に色が変化して
壁が合わせ鏡になっているので世界や道がどこまでも続いているように感じる。

uehashi7.jpg
わたしはナユグに行くとこんな姿に見えるんだろうか…ゴボゴボいってるけど…(笑)。

uehashi8.jpg
こちらは展覧会の入場チケットですが、
インスタレーションの部屋に行くと新ヨゴ王家の紋章が浮かび上がるようになってます。
いやはや楽しい。

インスタレーションの一部は文学館のTwitterで見られますのでどうぞ→こちら

守り人・旅人シリーズの挿絵もいくつか展示されていました。
二木真希子さんの守り人シリーズやっぱり最高です…。
精霊からは最終ページの挿絵、バルサがカンバルへ戻る途中で雨に降られるカットで
個人的にこの本で一番好きな絵なので原画が見られてうれしかった!
他にも表紙の卵を抱くチャグムとか、守り人世界の地図とか。
佐竹美保さんの旅人シリーズも挿絵や設定画まであって
軽く寄りかかるヒュウゴのラフに惚れそうになったよ…かっこよすぎるよヒュウゴ。
(ドラマのシーズン2で鈴木亮平さん演じる彼が楽しみで仕方ない)
あと萩尾望都さんと対談なさったときにモー様から贈られた直筆のバルサとチャグムの色紙とか
上橋さん自らイメージスケッチされたキャラクターたちのスケッチブックもありました。
二木さんにも見せたというティティ・ラン、オコジョに乗った人かわいい( *°∀°)و✧
(ちなみにイメージの固定を避けるため他の絵は見せていないそうです)
タンダとチャグムがドラマの俳優さんにそっくりだったのがまるで予想したかのようでびっくりしました、
そんなわけで上橋さんは東出さんがタンダにぴったりと思ったのですって。

そして…。
守り人出版前の1994年5月、上橋さんが偕成社に出した「挿絵を二木さんにお願いしたい」というお手紙が
全文が展示されていてマジ感動。
こ、ここからすべてが始まったんだー!二木さん…!!
上橋さんはデビュー作『精霊の木』を出版された際に二木さんの『世界の真ん中の木』を読んだそうで
同時期だったのかなと思ってぐぐったら同じ1989年出版なんですね。
「二木さんはお忙しいが(この時ぽんぽこか耳すまの制作真っ最中)お願いしたい、
もしお引き受けいただいても挿絵が遅れるかも、それでも可能なら…」など熱い思いに満ちていました。
どういう経緯で二木さんに決まったのか知らなかったのですが上橋さんのリクエストだったんですね、
二木さんの挿絵は海外で翻訳出版された守り人でも使われているそうです。

文化人類学の研究についても、フィールドワークに使う地図やサングラスやカメラ、調査ノート、
写真や現地でもらったブーメランなどが展示されていました。
『隣のアボリジニ』の表紙を飾ったドット・ペインティング「Honey art Dreaming」の実物は
思っていたよりも結構大きかったです。アボリジニのご友人のお手製だそう。
各誌に発表された論文や著書、分厚い博士論文「ヤマジ」などを見ていると
うわ本当に研究者なんだ…などと当たり前のことを今更のように考えたりしました。
わたしはどちらかというと作家としての印象が強いですけど
大学で上橋さんの講義を受けている学生さんたちにとっては教授でもあり作家でもあるのですよな…。
(Ciniiで上橋さんのお名前を検索すると論文がいくつかヒットするしね)

海外文献コーナー。
守り人をはじめ上橋さんの著書は英語や中国語、フランス語、イタリア語ほか各言語に翻訳出版されてて
(アメリカ版の表紙は個人的に五条大橋の義経を思い出すような迫力です→こちら
英語版は翻訳にあたり平野キャシーさんが担当されたそうで、
最初はメールでやりとりをしていたのがだんだん確認事項が増えて長くなってきたため
「やりますか!」と高松のホテルで缶詰なさったとインタビュー映像でおっしゃっていた。
(ホテルのロビーでバルサの槍ポーズをとったりしたらしい)
会場にやりとりの一部がパネルで紹介されていましたけど
平野さんが細部まで読み込んで翻訳しようとなさっている奮闘ぶりがうかがえました。
ルイシャの青はBlueかGreenか?→Blueで、とかきっぱりお答えなさる場合もあれば
こういう印象なんです、と言葉を尽くして説明された事項もあったようで…。
また別のインタビュー映像では、自国では出版されてないけどアメリカの友達に送ってもらって読んだという
ウクライナのティーンエイジャーから熱烈な感想と続きが読みたいという願いがお手紙に綴られてきて
物語が広がっていくのはうれしいともおっしゃっていました。

持ち物コーナー。
再現されたご自宅の本棚にはサトクリフやル=グゥインなど岩波系が多かったり
イランやポーランドから持ち帰られたという小箱やティッシュケースはカラフルなデザインだし
「上橋菜穂子の目」のタイトルで旅先で撮影された写真群は
建物や料理、馬車や刀剣など多岐にわたっています。
アルハンブラ宮殿を見たときの圧倒された感はチャグムがタルシュ帝国を訪れた時の驚きだとか
鹿の王を書いていたときはヴィエリチカ岩塩坑の風景が浮かんでいたとか
中世の騎士が履いていたサンダルが知りたくて銅像の足を撮影したとか
コメントも楽しかったです。
海外と日本では水質が違うため旅先に必ず持って行くというリトルポコポコ(携帯湯沸かし器)欲しい…。
高校時代の文化祭で悲劇の脚本を書いて主演したそうですが
同級生だった片桐はいりさんが見事に喜劇にしてしまったという裏話も(笑)。
国語科文集の開かれていたページで、上橋さんは「人間の歴史」の感想文を書いていたけど
片桐さんは「堕落論」を書いてて何というか、その後のおふたりの進路を考えるとさもありなんという気がした。
(展覧会図録では片桐さんが上橋さんについて文章を寄稿しています)
また、『明日は、いずこの空の下』の表紙を飾ったグラナダの空の絵は
お父様で画家の上橋薫さんが描いたものだそうで、本物の展示もありました。

メディアミックスコーナーにはアニメの設定資料、ドラマのイメージボードや制作資料がたくさん。
アニメ資料は余白に書かれたスタッフさんのメモがおもしろくて
「ラルンガ:冬眠する」に一瞬、笑いそうになった(笑)。
グロくなく獣にしたいという書きこみと、色をキレイにしたいという熱意に胸キュン、
うーん個人的な感想としてはちょっとグロかったけど色はカラフルでしたね…。
他にもトーヤとサヤは定食屋が捨てた箸を再利用してるとか
細かすぎて視聴者に伝わらない(たぶん伝わらなくても問題ない)ネタが随所にあった。
アニメのドイツ語版DVDとかあってびっくり、翻訳されてるんですね。
ドラマのイメージボードも、そのまま実写にしたらこういう絵になるなあと思ったくらい細かくて
これを設計図にあの迫力が再現されたのかと思うとwktk。
藤原カムイさんと結布さんによる精霊、闇の漫画原稿もやっぱりわくわくしました。
狐笛のかなたが舞台化されたのはどこかで聞いた覚えがありますが
会場が新歌舞伎座で主演が早乙女太一くんとは知りませんでした(滝汗)。
うおお早乙女くんの野火めっちゃ見たかった…!

出口付近にスケッチブックがひとつ置いてあって
今回のために描かれた上橋さん直筆の「眼鏡ウォンバット自画像」があった(笑)。
書斎にいる姿を、ということでパソコンの前に座ったウォンバット上橋さんだそうです。
かわいい。

出口に小さな立て札があったので見たら
5月に亡くなった二木真希子さんへの、上橋さんからの追悼文でした。
早すぎるとのお言葉にうなずきながらわたしも先月のショックを思い出したんですけど、
さっきまで二木さん推しのお手紙や原画を鑑賞していて、うれしいのと同じくらい実は悲しかったけど
でも原画を拝見できるなんて次はいつかわからないので時間をかけて見せてもらいました。
またこういう機会があったらいいな。
(二木さんの原画で好きなのはナウシカと王蟲の子、ラピュタのシータと鳩、トトロのドンドコ踊り、
草花に寝転がるキキ、波の上を疾走するポニョです。
あと毎年作られるトトロのイヤープレートも二木さんが描いていたそうです。
二木さんがどういう人かは『世界の真ん中の木』解説で宮崎駿氏が書いてますのでそちらをどうぞ)

donguri1.jpg
展示を堪能した後はゴジラ2000ミレニアムで実際に使われた着ぐるみが(なぜか)展示されている
文学館の喫茶どんぐりに入店。
すげ~スーツアクターさんが中に入ってたのかあれ…(実はゆさはスーツアクタークラスタ)。

donguri2.jpg
ランチにトーストを注文。
守り人に出てくるバム(無発酵パン)や獣の奏者のファコ(同)の気分でいただきました。
上橋さんの「住める世界を書きたい」という思いは作品にも表れていて
おいしそうな食べ物がたくさん出てくるよね。

donguri3.jpg
展覧会限定のフルーツタルト。

そういえば明日は守り人でも重要な日の位置づけになっている夏至ですね。
どこかで誰かから無事に卵が生まれますように。
2015_08
29
(Sat)23:43

傾いて生きろ。

前回記事に少し書きましたが、『カブキブ!』おもしろいです。
書店で表紙だけ見かけてなんとなく読まずにいたのですが、
ブロともの春さんがおすすめしていらっしゃったので読んだらどっぷりハマりました。。
高校生!歌舞伎!部活!アツイ!まぶしい!青春グラフィティ!!
歌舞伎大好きな主人公が高校入学と同時に歌舞伎の部活動をやるため走り回るお話で
後先考えず好きなことを思いっきり楽しくやるスタンスが気持ちいいです。
なにより彼らの通う高校の名前が「河内山高校」
(河竹黙阿弥作「天花粉上野初花」に出てくる数寄屋坊主の名前)ってのが、まず素敵よね。

以下とりとめのない所感。
ネタバレせずに語るのが難しくて結構、遠慮なく書いてますので未読の方ご注意ください。


既刊3冊手に入れて1巻の1章分だけ読むつもりでうっかり開いたのが真夜中だったのですが
結局怒涛のようにページめくって、読み終えて時計を見たら3時でした。丑三つ時も過ぎちゃった。
次の日は寝不足(しかし充実した寝不足)でしたが、
歌舞伎座へ向かう電車の中で2巻と3巻を走り抜けるように読んだ!
おもしろさが加速していくんですよ…うっかり東銀座駅乗り過ごすところだった。
タイトルについてる「!」が、大河ドラマ「新選組!」みたいな力強さとポップさがあって
ストーリーも風が吹き抜けていくような朗らかさを感じる。
主人公の名前が黒悟(くろご)っていうのと、芳先輩が立役も女形もできそうっていうのと
蛯原くんが細面で軸が強い体格ってとこであ、この著者さんガチだってわかったし。
あと3巻にいきなり佐々木蔵之介の名前が出てきたんでシートに座ったまま飛び上がりそうになった(笑)、
よく歌舞伎役者みたいな名前って言われるよね。

歌舞伎オタクの黒子兼狂言方、万能すぎる事務方、演劇部のスター、日本舞踊の名取、
神と呼ばれる衣裳担当、暗記が苦手な芝居の天才、研究熱心な梨園の秀才、
まったく初心者のヘタレ顧問にチャキチャキの江戸っ子大向こうおじさんほか
個性的な人たちがワイワイやっててお祭りみたいなストーリーが、王道だけどとっても気持ちいい。
どの人も実際に会いたくなるし、お芝居見てみたいって思う。
演技は大根だけど歌舞伎への愛と情熱のために
どうかするとアクセル全開になりがちな黒悟くんかわいい、カブ友になりたい。
そんな彼をクールになだめるトンボくんも素敵です。
記念すべき初舞台が不発に終わって、ヘコむ黒悟くんにトンボくんがやり甲斐を与えるシーンは
まったくもって胸に刺さるけどひたすら現実って感じしました。
あれは黒悟くんじゃなくてもトンボくんに惚れるわ。

花満先輩の藤娘がどんなにすばらしいかは容易に想像ついたけど、
本人はきっとまだまだ上達したいだろうし、「また毛が伸びちゃって」と折にふれて嘆くに違いない。
丸ちゃんの衣装を誰よりも着こなしているのは彼だと思います…
というか丸ちゃんとオタ友になりたい。というか師匠とお呼びしたい(突然)ついていきます師匠。
阿久津くんと蛯原くんがコインの裏表状態なのは、ドラマチックな生まれも相まって
じれったいし抱きしめたいし背中をばしっと叩きたくなります。愛すべきツンデレどもめ!
読んでいくほどに阿久津くん小学生みたいって思ったけどいざというときの救世主感ハンパないし
蛯原くんもう素直じゃなくていいよそのままの君でいればいいよって思えてきた。
逆に誰よりも二枚目なのは芳先輩だよね~本番に強くて、一人称が「私」なのが好き。
かっこよさの中にパリッと引き締まった強さがある感じ。
ずっと立役かと思ってたら女形にも興味がありそうで、
その声を黒悟くんがちゃんと拾ってて「今度先輩に合う女形考えよう」ってなってて
ああ彼、ほんと演出向きだなって思いました。
村瀬歩さんあたりのハキハキした声でしゃべりそうな気がする。
トンボくんがぼそぼそしゃべるたびに津田健次郎氏の音声で脳内再生されるのなんとかしたい、
ってか、トンボくんと芳先輩の関係いいっすね…キュン
黒悟くん&トンボくんや花満先輩&梨里先輩のような、いつも一緒にいる仲の良さとはまた違って
自立した大人同士の友情みたいな空気を感じる。
いや高校生同士だけど。いいなあ。

黒悟くんが芳先輩と花満先輩を初めての歌舞伎に連れていくのが新橋演舞場で、
個人的な理由からうれしかったです~わたしの初歌舞伎も演舞場だったから(´▽`)。
歌舞伎座は殿堂ですから派手でどっしりしてて、明治座や浅草公会堂は気軽に行けて
演舞場はその中間くらいの劇場ですからちょうどいいんじゃないかな~。
つか寺子屋がデビューですかえらいもん観せますね黒悟くんも、遠見先生に行けって言った正蔵さんも…
たまたまやってたからかもしれないけど。
主君のために子どもを身代わりにする話は「熊谷陣屋」「伽羅先代萩」もそうだなァと思ってたら
3巻で黒悟くんが、歌舞伎好きだったおじいちゃんを亡くした後に見たのが先代萩だと判明して
「歌舞伎座が建替え中だったから演舞場で」のセリフにふと、どうなのかなって調べたら
2011年3月の演舞場で本当に先代萩が出されてました!→こちら
黒悟くんが見たのはきっとこれだね、スゲーなちゃんと調べて書いてあるよこの本!
その後もイヤホンガイド借りるといいとよか、お弁当持ってきたのねとか
ドブ席とはいえ7列目とは奮発しましたなあとか、読みながらどうでもいいことばかり目にとまって
全然先に進めない歌舞伎脳なわたしでした。まったくもう。
観終えた後に芳先輩がソイラテ飲みながら「何で小太郎ちゃん死ぬの!?」とか言ってるのもよかった、
だって真剣に観てくれたってことだから。
でも楽しい部分もみつけてくれて、先輩たちが「やってみようか」って言ってくれたときは
おおやっと物語が始まるぜ!ってワクワクしました。

2巻の外郎売で劇部と勝負するとこ、教頭先生も言ってますが
阿久津くんの外郎売まじ、めっちゃ見たいんですけど…!
「とざい、東西ーーー」で始まるとこ反則だよ、電車で読んでたのに一緒になって節つけそうになった。
暗記が苦手な阿久津くんのためにあれこれ手を尽くす黒悟くんが
正蔵さんの「そんな必死な外郎売はいねえだろ」を聞くまで芝居をさせることに気づかないのは
やっぱり高校生だなって思ったけど
阿久津くんに「おまえに外郎売になってもらう」って宣言して実行するのはしびれた。。
高校生って急に化けるからたまんないですね←
そうそう、正蔵さん、とにかく粋なおじさんで
「今はハンドルネームもアカウントもあるんだから、衣裳担当に屋号があったっていい」とか
「芝居見物にめかしこむのは当然」とか
「あいつらにとっちゃ檜舞台だろ、酒届けたいところだ」ってコーラ届けたりとか。
若者にとってこんな風に応援してくれる大人は貴重ですね。
外郎売は亡くなった團十郎さんのしか見たことないですがすごいですよ→こちら
演劇部の人も叩き上げるようにセリフ読んだんだろうな~アナウンス風だとどんなか聞いてみたい。
すべてはキリコさんの手のひらの上でみんな踊らされてたっていうオチも
キリコさんかっこよすぎて惚れるレベル。

3巻のクライマックスはクロくんやったねーーってなりましたよ今までで最高の盛り上がり。うおおお!
もう蛯原くんのダメ出しが、きみちょっとそれ、完全に役者目線のアドバイスだよ(笑)。
全否定じゃなく演じ手の体格や性格を見抜いて、出し物のためによくしようとしてるのがいいです。
言うだけじゃなく言わない選択もするしね、阿久津くんのためにね^^
数馬くんにアドバイスするときの「続いて次に控えしは!」がヤベーーーーー!!!
節が聞こえてくるようでした…よく通るいい声をしてるんだろうな…。
彼の赤星十三郎が目に浮かぶようです、きっと一番目立たなくて、一番見てしまうと思う。
阿久津くんの力丸も芳先輩の弁天小僧も見たい~~。
稲瀬川勢揃いの場は3月の南座で若手さんたちのを見たけど、
あんな雰囲気で高校生たちが衣装とカツラばっちり決めて舞台に仁王立ちしてるとこ想像すると
正蔵さんが大向こう飛ばしてサイコさんが感動して大泣きする図しか浮かばないですね。

ラスト1文が最っ高な次巻への幕開けになってて、4巻発売がとても楽しみ。
青い目の能楽師だっている時代ですよ!大丈夫。阿久津くんだって最初は金髪で和尚吉三演ったしね。


…さて、話は変わりますが。

2015noryo10.jpg
歌舞伎座納涼歌舞伎・千穐楽おめでとうございます☆
仕方なかったんだ金曜日が代休だったんだ、つかなんで金曜日が千穐楽なんだ!
というわけで棒しばり観に行ってきました。幕見で。
あとわたし、今月は家で棒しばりの話ばっかりしてたんですけど
母が「そんなに面白いなら行くわ」ってある日突然チケット取ってました。
いや、前に取り方をレクチャーしたらメモとってたけどさ…いつの間に。

2015noryo11.jpg
今回はこの位置から。幕見席最前列に座れました。

よく考えたら千穐楽の観劇って初めてでして、幕が開いたらびっくり。
こんなに気合いが入ってるのかと、舞台からほとばしる熱気が今までと全然違って見えた。
主人に呼ばれて返事をする太郎冠者の第一声がのびるのびる、先週こんな伸びてなかった!ってくらい
みっくんが思い切り伸ばしててやばい、
おちくぼ物語にも出た後なのにこの声量、喉と肺活量どうなってんのって思う。
じゃんけんに負けての踊りも足は鳴るしステップがダイナミック。
次郎冠者が高速でダダッとバックしていって下手ギリギリでぴたっと止まって切り返してくるし
クルクル回りながら戻って来るのも余裕のある笑顔ですごい。
扇を今までで一番高く放り投げてキャッチしてた~勘九郎兄さんブラボー!
役者さんはプロだから信じてるけど無事キャッチできるか毎回ハラハラしました、よかった。
今後おふたりで長いこと踊っていくのかな、どう変化していくのか楽しみです。

歌舞伎座の外で母と落ち合いましたら(彼女は1階席でおちくぼと棒しばり両方とも観た)、
「七之助きれいねぇ隼人イケメンねぇええ勘九郎と巳之助の踊りすっごい踊りよくあんな動けるねえ!
彌十郎の踊りよかった、てか棒しばり笑ったわー超楽しめたもん!」って絶賛でした。
今月ちょこちょこ見ていたわたしもこの日が一番すごかったと思いましたから
母は一番いい内容のを見たと思う。よかったよかった。

棒しばりの後は歌舞伎座5階にある寿月堂さんにて一休み。
観る前にお店に行って予約させていただいたら、
カウンター奥のお席を用意して待っててくださいました!
お蔭でゆっくり過ごせましたよ~店員さん本当にありがとうございました。
2015noryo12.jpg
幕見チケットでしたからお昼は奮発しました。6月からの新メニュー、和のアフタヌーンティー☆
シーフードサンドに手まり寿司、野菜のケーキにヴィシソワーズ、
抹茶パンケーキにほうじ茶パンナコッタ、抹茶とフランボワーズのフィナンシェ。
ほうじ茶はおかわり自由ということで遠慮なくいただいてしまった(´▽`)ホッとおいしい。

2015noryo13.jpg
とどめは抹茶ソフトクリームと抹茶カプチーノです。Macchaコンボ。
お抹茶はその場で点てていただけます。
まだ数回しか飲んだことないけどやっぱり濃い。結構なお点前でした(╹◡╹)。
抹茶ソフトが甘いからお抹茶によく合う。

2015noryo14.jpg
お会計のとき「よかったらどうぞ」ってお土産までもらっちゃいましたー!
さすが染五郎さん御用達、もともと大好きなお店ですがどんどん好きになっていく…。
次回はお茶漬けがいただきたいな。

この後は池袋のハンズメッセをブラブラして、夕ごはんを食べに寄った和食屋さんで
お茶をいただきながら、
母「飲むぞ飲むぞ」
わたし「飲め飲め」
母「(一口飲んで)いやーさても一段とよいお茶じゃ」
食事を終えてお店を出るときには、
母「そろそろ行くぞ」
わたし「心得た」
棒しばりごっこ楽しい(笑)。
2015_06
18
(Thu)23:40

よりそう着物。

幸田文さんの『きもの』を読みました。
何の気なしに図書館の棚を眺めていて背表紙が目に留まりまして
中身をざっと見て借りて帰って本能のままに一気読みしてしまった。はぁお腹いっぱい。
(* ̄ω ̄*)=3

こちら著者の自伝的小説だそうで
(お父さんのモデルは幸田露伴でお母さんは早くに亡くなられたお母様だと思う)、
舞台が戦前ということもあって読んでるとエーッてなったり
「いやいやいやいやないわ」ってドン引きする部分もたくさんあったけど、
着物描写や生活の知恵のくだりがおもしろくて目からウロコの連続で
へーへーそうなんだ!って何度口走りそうになったかわかりませんでした。
今までなんとなく覚えていた物事に裏付けをしてもらったというか。
このブログをお読みの方はすでにお察しかと存じますが、
わたし生活史とか風俗史とか文化史といったものに果てしないときめきを覚えることが多くて
この本はまさにそんな知識が満載でMy好奇心をパンパンに満たしてくれたわけです。
その物がそうあるのは何のためか、
この時に使うのがこれじゃなくそれなのはなぜかといった事例を
できるだけ多く知りたいといつも思っています。
事例って人それぞれで同じものいっこもないもんね。

着物は着心地!見た目じゃないわ!がモットーのるつ子に心から共感しまくりました。
綿がぎっしり詰まった胴着は肩のところで袖がつまって腕がまっすぐ上に上げられないから嫌い、
よそ行きの着物は重たいし裾長で足にからみついてくるから嫌い、
手拭ゆかたの洗いざらしは軽く、しなやかで自分の思うままになるから好き、
紋羽二重の羽織は着ているか着ていないかわからないほど軽くて好き、
「柄や模様より気持ちのいいのが第一」というるつ子の心情は
なんかもう、わかりすぎるくらいよくわかる…。
わたしも、サイズや着心地の合わない服を着てるとその日1日ブルーですが
ぴったりの服だと自然と元気になるから不思議。
見た目ももちろん大切なので趣味に合ったのを選んで着ているわけですけども、
着ていて気持ちのいい服は人の機嫌も世界の見え方も変えると思っているので
服を買うときは見た目でピンときたら素材を確認して触ってみることにしています。
(あとクリーニングじゃなく洗濯機で洗えるかどうかが大事)
メリンス(毛織物)で肌がかぶれたり、お寺の和尚さんの着物にこっそり手を通してみたり
薬屋さんの掛軸にいる神農像の着物が何でできているか気になったり
結婚して家を出たお姉さんが里帰りに着ている派手な服に目をひそめたり
お葬式のバックヤードで動き回るときも薄汚れた物ではなくこざっぱりした銘仙に割烹着を着たり
震災で崩れた街から帰って来たお父さんの洋服姿に節度を見たり
結婚することになって染めの着物に身を包んだ時になって気づいてしまったことがあったり
様々な場面での様々な服を見たるつ子のファーストインプレッションと思考が
時にさっぱり、時に丁寧につづられるのを追いかけるのが楽しかったです。

るつ子とおばあさんが病気のお母さんのために縮緬の布団を作るときの描写がとってもわくわく。
お古の子ども用の縮緬着物を使って作るのですが、
柄が大柄すぎやしないかと思案するるつ子に、おばあさんが
・布団てものは、大柄な方が上品に見える
・作るのは敷布団だから、どうせ敷布で柄は見えなくなる
・大事なのは寝心地、縮緬の柔らかさがあればすべてよし
というわけで、かつてない派手な布団が出来上がっていくのはとても楽しく感じます。
「布団を新しくするのは嬉しいものだよ」と言うおばあさんのセリフにも首肯。
というか、おばあさんが折にふれて語る着物や家事の知恵のひとつひとつが
経験に基づいて理にかなっているからするりと納得がいきます。
着物についても木綿、毛織、銘仙、絹、いつどの素材を着るか、また何故その着物なのかが
的確に語られるのがとても勉強になって
今後着物着るときはるつ子のおばあさんの知恵を全面的に師匠にしようと思ったくらい!
そしてそれは関東大震災の描写でもっとも顕著にあらわれていたな…。
揺れが収まって真っ先にるつ子へ出した指示が「足袋をお履き」っていうのが
びっくりするくらい説得力あるし、
2人で避難するときお米とドロップを2つの包みに分けるのも
はぐれたときのことを考えているっていうのがもう、リアリティあるなあと思いました。
たくましいおばあさんかっこよす。
(あ。ひとつだけ共感できなかったのはるつ子が痴漢に遭ったときのコメントね。
当時の社会を考えるとそう言うしかなかったんだろうけど、そういうことじゃないって突っ込んでしまった)

るつ子の家がずっとお世話になっていた呉服屋さんがある日大盤振る舞いをして
数日後に店をたたんでいなくなってしまって、
お姉さんが「固いお得意さんだけを呼んでこっそり安売りしたのね」ってぽつりと言ったときに
お店の人にもうちの買い物がいくらか足しになったろうか…と
自分ではどうにもならない理不尽について考えるるつ子がとてもよかったな。
あと、震災で避難しているときにおばあさんをどこかで休ませようと思ったるつ子が
山の手の大きなお屋敷の人へ声をかけたときに
突然、自分は少しだけどお金を持っていた、お金で堂々と交渉する手段があったのだと
元気が出るシーンもあって、それもよかったです。
(ちなみにお屋敷の人はお金を受け取らずに休ませてくれた)
あと、るつ子のお兄さんが震災で炊き出しのおにぎりをこしらえるとき
いちいち手に塩をつけるのが面倒だからと、釜の中へ塩をまいてかき混ぜて
お茶碗で型抜きして作ったというのが頭いいなあと思った。

ラストがちょっと唐突なのですが、巻末の解説によるとこれは連載が止まったためだそうで
できればもっと続きを読んでみたかったです。
まあ、なんとなく想像はできますけど…。


幸田さんは着物エッセイも書いていたと知って『幸田文 きもの帖』を読んでみたら
冒頭から「夏は絶対に洋服へ軍配を挙げます」「洋装に越したことはありません」と書いてあって
うおおおおおこの人本物だ!って思わず両手の拳握った。
こういうことを率先して言ってくださると着物クラスタとしてホッとします、選ぶ自由がある気がして。
続きに「若い和服がいいのはやはり雪と花と紅葉でしょうか」ってあるのも
首が折れるほどうなずきましたよ。
何より「雪と花と紅葉」って言い回しがさ…最高ですね…!
冬と春と秋じゃないんだよ!雪と花と紅葉だよ!!
(ゆさはしゃべり言葉フェチでもあります)
とはいえ、夏に着物をお召しにならない著者では、もちろんありません。
ゆかたを「正装でないことは常識である」としながらも
・糊気を置いて着れば肌を離れて風を入れてくれる
・糊気を落として着れば高原の冷やつく夜気を庇い、肌に添って冷えを防いでくれる
ということから「情けのある着物である」と情緒たっぷりに語っていらっしゃって
こんな風に着物をそばに感じて着こなせたらなあ…とは思うのですが
いざ自分がやってみるとなかなか難しいもので四苦八苦すると同時に
改めて幸田さんのような方への憧れを抱いたりする今日この頃です。

また、幸田さんの娘の青木玉さんも、お母さんの着物の本を書いてらっしゃって
『幸田文の箪笥の引き出し』とかを読んでみると
親子でお着物ライフを楽しんでおられたのが伝わってきます。
(幸田さんは生涯、着物で過ごした方でした)
様々な着物を着た幸田さんの写真も載っていて、飼い猫を抱いた写真がとても素敵だったのだけど
名前が「阪急」といったらしくて、なんか笑ってしまった。


korin7.jpg※クリックで大きくなります
「風神雷神図屏風Rinne」光琳・乾山編その6。5はこちら
家を売って引越しを終えた光琳、乾山の焼き物に絵付をする仕事から始めることにしました。
下絵のアイディアをひねっていると中村内蔵助が訪ねてきます。

内蔵助「こんにちは」
光琳「おや、こんにちは」
内蔵助「二条様の使いで参りました。お庭に窯を開きたいとのことでおふたりとお話されたいそうです」
光琳「へ?窯??」
内蔵助「絵やお能も引き続きご所望だそうですが、さしあたっては窯をと」
光琳「そりゃまた」
乾山「良かったね兄ちゃん、仕事になるしお招きいただけるじゃない、法橋の話もしやすくなるよ」
光琳「………いいな、それ」
乾山「でしょ」

ものは考えよう、な光琳と乾山なのでした。借金で苦労している身には大切なことです(キリッ

乾山が著した『陶磁製方』には「最初之絵ハ皆々光琳自筆」とあり、
焼き物を始めた頃は光琳が絵をつけていたようです。
その後、乾山が作陶と画賛を入れて仕上げていました。

中村内蔵助は京都の銀座役人で、公私にわたり光琳を援助してくれている人です。
また、二条家は藤原摂関家の公卿で
当主の綱平は東福門院の孫の栄子内親王と結婚したことから尾形家とも交流がありました。
光琳は綱平の絵の師となり能や舞も披露し、2人の交流は長く続きました。
2015_03
02
(Mon)23:53

名探偵のテーブルマナー。

Poirot1.jpg
神田の早川書房さんのビル1Fにあるカフェ・クリスティが
1~2月に名探偵エルキュール・ポアロとコラボしていたので足繁く通っておりました☆
普段はモーニングやパスタなどがいただけるお店なのですが、
期間限定でポアロや原作者クリスティに関連したメニューが出ると聞いて
時間の許す限り行かなくては!と思ったので\\ ٩( 'ω' )و //

カフェクリスティさんはこれまでにもパブ・シャーロックホームズやフィリップ・K・ディック酒場など
コンセプトカフェを企画してくださっていますね。
パブ・ホームズは行けませんでしたが(平日夜しか開いてなくて通える距離でもなかったのです)、
ポアロは休日も営業してくださるとのことで
わたしの灰色の脳細胞が完全に呼ばれている気がしたわけです(一体何を言っているんだ)。

Poirot12.jpg
入店したらもらえたスタンプカード。
オリエント急行の乗車券みたいなデザインです。ステキです。

メニューはこちら。お昼と夜があってそれぞれの時間にいただけます。
お料理は『アガサ・クリスティの晩餐会 ミステリの女王が愛した料理』という本をもとに
再現されているそうだ。

Poirot2.jpg
店内にはポアロに関する書籍や舞台、映画、ドラマのポスターや俳優さんの写真が飾ってあります。
デビッド・スーシェ氏大好きだ~!かっこよすぎる。
肉声も大好きですが、吹替えの熊倉一雄氏の「ムッシュ」とか「メルシー」がたまらんよね…
あれ絶対語尾にハートマーク付いてると思う。
三谷幸喜氏脚本のドラマ「オリエント急行殺人事件」のポスターもあったよ。
(ドラマは第一夜がクリスティの原作で第二夜が三谷氏オリジナルでしたね、
萬斎さんとっても楽しそうだった^^
ヘクター・マックイーン→幕内平太とか、登場人物の名前がオリジナルをもじってて面白かったなあ。
入念に仕込んだはずの計画が関わった人々の思いによってあっけなく空中分解していく様と、
松嶋さんとニノの「なんで燃やすかなー」「燃やしたくなっちゃったんですよ!」の会話が
三谷節が炸裂してて大笑いしました)

Poirot3.jpg
入口にある背広と山高帽は自由に借りてポアロコスができます。付け髭もあったよ!
わたしが行ったときも何人か借りて楽しんでいる人がいました。

Poirot4.jpg
イラストレーターで作家の桜井一氏が制作した
『そして誰もいなくなった』のインディアン島の模型(1986年のミステリー・魅ステリアス展に出品されたもの)も。
うおおあのホテルがあの入江がっ!!殺人場所には赤ついてるし。
これでメニューに薫製ニシンがあったらわたし真っ先に注文したわ~(なかったけど)。

そして誰も~はアクロイド殺人事件と同じくらい好きな小説です…ひたひたと忍び寄る恐怖にドキドキ。
島の描写も美しくて不気味さを誘って、張りつめた静けさが目に浮かぶようです。
いやABCも捨てがたい…ポアロのクリスマスも…予告殺人も…スリーピングマーダーも…
だめだきりがない。
秘密機関はトミーとタペンスがキャッキャしながら事件解決してて楽しくて
あっという間に読んだ覚えがあります。謎解きはスポーツ!それにしては疲れるスポーツ。
パディントン発4時50分は殺人を目撃するシーンの秀逸さと完璧すぎるメイドさんに軍配。
一番はカーテン。鉄壁。

Poirot5.jpg
壁には早川書房から翻訳刊行されているクリスティ著作の表紙が☆
これだけでひとつのアートですよな。

Poirot6.jpg
ポアロ風スタッフドキャベツ。
メニューに添えられた「クリスティの別荘グリーンウェイハウスでは
こんなご馳走が出ていたのかもしれません」の言葉どおり、
キャベツと挽肉が交互にサンドされトマトソースとチーズがかけてあってそれはそれは美味でした。

Poirot7.jpg
ポアロのアフタヌーンティーセットをいただきながらアガサ・ノートを読む至福の時間。
コンセプトカフェで作家の本を読むのが…夢だったの…!叶ってうれしい。
この本はわたしの手持ちですが、店内にはポアロの文庫本も置いてあって借りてる方もいらっしゃったし
推理小説談義に花を咲かせる人たちもいらっしゃった。
ポアロのドラマBGMが流れる店内でポアロ談義。最高のシチュエーションですね。

Poirot8.jpg
ちょっとしたゲームも。
店内に「え」「う」「か」などの平仮名を書いた紙がバラバラに貼りつけてあって
ぜんぶ見つけて並び替えると、あるポアロ作品のタイトルになるというもの。
大喜びで探して回答したら無事に正解できまして、ポイントカードにスタンプ押していただきました。

Poirot9.jpg
こちらは別の日にいただいたイングリッシュ・マフィンサンド・ポアロ風。
マフィンもスクランブルエッグもふかふかでおいしかったです。

Poirot10.jpg
クリスティ研究家の数藤康雄氏がクリスティ本人から送られたお手紙もいくつか展示されていて
こちらは「近くまで来るなら別荘に泊まりなさい」と書かれているもの!
他にもクリスティが選んだ著作ベスト10とか、作品内容についての数藤氏の問い合わせへの返答、
「ミス・マープルにモデルはいません」ときっぱり書かれたお手紙もありました。そうなのか~。

Poirot11.jpg
クリスティとお孫さんのマシュー・プリチャード。
プリチャード氏はクリスティ著作を読むと序や後書きなどで必ずお名前を拝見する
アガサ・クリスティ社の会長さんですね。

Poirot13.jpg
カフェでもらえたコースター。
アルファベットが書いてあって、全部集めるとポアロの名前になります☆
もったいなくて使えない…(´ω`)。

他にもチキンの巣ごもりとか羊肉と白インゲン(『マギンティ夫人は死んだ』から)とか
キドニーパイ(『ヘラクレスの冒険』から)とかポアロのホットチョコレートとか
色々ありましたが通いきれなかった。
でもでも、本当に楽しかったです!
ポアロの著作やメディア作品に囲まれてポアロをイメージしたお料理をいただく機会って
すごく憧れでしたので素敵な企画でした。
またやってくれないかなー!
あ。キドニーパイはパブ・ホームズのときも評判がよかったそうで、いただきたかったのですが
イギリス料理の定番だから他のお店でもいただけるかもしれん。探してみよう。

…ところで。
ファンの心を刺激してやまない早川書房さんはとうとうこんなメニューまで始めたようです→こちら
ノンアルコール「ピンク色の研究」って!エッグ・ベネディクト・カンバーバッチって!なんぞ!!
(ドラマシャーロックSeason4が待ちきれないよ~撮影は今年で、BBCでの放映は来年だとか。
マイクロフト役のマーク・ゲイティスさんによるとクリスマス用特番の撮影は既に始まってるらしい)


週末に京都へ旅行に行ってきますので、少し留守にします。南座で花形歌舞伎を観るのだ☆
Twitterには出没しております(・ω・)ノ