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2020_05
02
(Sat)23:58

「わいはただただ絵が描きたいんや」「おれはただ絵が描きたいだけなんだ」

※しばらくブログの更新をゆっくりにします。次回は9日に更新予定です。


原田マハ『風神雷神』上下巻を読みました。
俵屋宗達の少年時代を描いた小説…なのですが、たぶんそれだけだったら読まなかったと思うのですが
「宗達少年が1582年の遣欧使節の少年たちと出会い彼らと一緒にイタリアまで旅をして
同じく少年時代のカラヴァッジョに会う」的なあらすじを単行本の帯で見て
なん…だと…!!??ってなって読書決定。
特に下巻の衝撃が色々とすごい、宗達くんほんとにヨーロッパ着いちゃったよ、イタリア行っちゃったよ!とか。
宗達が主人公の小説で「ピサの斜塔」って出てくるのすごいよね…!
宗達の前半生がほぼ不明だからこそ書ける物語だと思いますが
原田さんは遣欧使節の行程はもちろん、当時の日本とイタリアの時代背景もしっかり書かれて
そのうえで想像の翼を思い切りはばたかせているのが素敵でした。
存分に楽しませてもらいました。よいおうち時間を過ごせた。

1580年の肥前。準備中の遣欧使節団のもとへやってきて
長旅で絵筆が持てなくてくさくさしていたので紙と筆を要求して
巨大な紙いっぱいにつがいの鷺を描いてみせた野々村伊三郎(宗達)くん、自称14歳☆
「よっしゃ、ほな、いきまっせ」京ことばしゃべる宗達、最高!!(≧∀≦)
もうこのときの宗達は信長や永徳とも出会っていて
12歳で狩野永徳の洛中洛外図屏風の制作に参加したあげく永徳に「養子にしたい」とまで乞われるくらい
(その場でノブ様にダメって言われちゃうんだけど)実力のある少年として書かれていて、
でも全然偉ぶることなく(バカにされたら怒るけど)白い紙が目の前にあれば何かしら描いちゃったり
美術を見ればすぐ心動いたり感動して泣いたりしちゃうような、
とにかく「絵が好き」「絵が描きたい」気持ちが強い子だったりします。
小さい頃に家の近所にできた南蛮寺の聖母子像に衝撃を受けて以来、
「いつかたくさんの南蛮の絵を見る」「それらを模した絵ではなく超える己の絵を描く」と決めて
色々がんばっていたら洛中洛外図作りに巻き込まれたあげく
ノブ様に「おまえパードレたちと一緒にキリストの王の国へ行け、ローマを見てこい」と言われてしまい。。
キリスト教関係者は現地の信仰を、それ以外の者は活版印刷を学んでくるという壮大なプロジェクトだと聞いて
宗達くん顎が外れるくらいびっくりしちゃうんですけど、
ノブ様が宗達に行けといった本当の理由が「活版印刷は表向き。ローマの洛中洛外図を描いて持ってこい」
てなことだったのでさらにびっくり。。
宗達だけでなくアゴスティーノっていう名前までいただいちゃったし(宗達の名前もノブ様が与えたことになってます)
「俺様が推挙したんだから辞退はダメ」って言われて、行くしかなくなるっていう。
あわわ。この小説のノブ様もかなり強引な人だな…。
でもって使節団が長崎を出発したのは1582年2月中旬なので、本能寺の変の3か月半前なのだな…。
この物語の宗達くんは晩年のノブ様に出会ったことになるのだね。
(あとこのとき、永徳の子の孝信(探幽の父)がすでに生まれていて10代ですが
出てくるかなと思ってたけどあまり描かれてはいなかったな…。
あと永徳のもとにいた菅次郎少年は山楽だったりするんだろうか)

原マルティノくんは信心深くて常識人といいますか、
ラテン語やイタリア語がわかるので、宗達が現地で外出するときはだいたいマルティノくんがついてきてくれて
外国やキリスト教圏で過ごすコツをまったくわかっていない宗達くんに
「そういうこと言っちゃダメだよ」「これはこうするんだよ」ってひとつひとつ全部教えてくれて優しい。
みんながアゴスティーノって呼ぶ中マルティノだけは宗達って呼んでるんですよね、
宗達が洗礼を受けていないせいもあるけど、絵師の名前で呼んだ方がいいからって呼んでくれるんだよね。
「西洋の絵師は見事な絵を描くから少年ではないはず」と笑う宗達に
「日本には天賦の才を持った少年絵師がいる。そいつの名は俵屋宗達だ。だから西洋にもいるかも」って
言ってくれるマルティノかっこよすーー!!!素敵だ(*´ `*)☆
千々石ミゲルも中浦ジュリアンも伊東マンショもみんなかわいい、
彼らは生まれた年がはっきりしているわけではないけど、10代前半であったことは確かで
宗達くんも1580年の時点で14歳(自称)だからたぶん実際は12~13歳くらいですよね。
同年代として設定されているのでみんな仲がいいし、にらめっこや取っ組み合いのケンカもするし
見得を張って大口たたいたりもするし将来の不安も語り合ったりする。
遣欧使節の旅は遣隋使や遣唐使がそうだったようにとても過酷で
距離がアジアからヨーロッパまで伸びたぶん危険も増しているわけで、
少年たちは、海を渡ることが社会的にどういうことかはまだ小さいから背伸びしてわかろうとしている感じで
本質的には悟ってそうだなと思いました。
語学ができて信心深くて知識だけとはいえ外国のことも知ってて、自立してるなあ…と思うけど
ヴァリニャーノさんがゴアに残ると言い出したときに「自分がキリシタンじゃないから」だと思ってしまう宗達は
とても子どもに見えて…いや子どもだけど…なんというか、年相応に見えたのでした。
京都を出る前、宗達はお父さんから風神雷神を描いた金色の扇をもらうのですが
(この扇が色々と大活躍で、嵐の海で宗達が扇を振ってその金色で近くの船に合図したりしてる)
それは「形見のつもりで」もらっていて、以後はヴァリニャーノさんを親だと思ってきた宗達にとって
ヴァリニャーノさんがインドのイエズス会のためにローマに行かないとなったらそりゃしょんぼりしちゃうよな…。
(アレッサンドロ・ヴァリアーノはこのとき実際にローマへは行かずゴアに残っています)
宗達に日本語で話しかけてくれて、マリアやキリストではなく神の愛について教えてくれて
やさしかったヴァリニャーノさんとのお別れのシーンは泣けました。
このエピソード以降の宗達くんはちょっと精神的に強くなったように見える。

西洋史上の人物たちも次々に出てきます。
1584年10月に使節団がマドリードでフェリペ2世に謁見したとき、
なりゆきで宗達が父の扇を2世に見せる流れになるのですが
このとき2世が扇に描かれた風神雷神を「ディアブロ(diablo)」と表現したのがちょっとおもしろかったです。
空を飛んでて角が生えてたらそりゃ悪魔に見えてもおかしくはないか…。
(ただ、話はちょっとずれますが、この視点は大切だなと思ったことも確かでした。
宗達の風神雷神は、現代では「おもしろみ」「ユーモラス」「かわいい」などと言われていますが
当時もそう言われたかどうかはわからないので…。
あの絵が果たしてユーモラスかどうかは、見た人の主観でしかないのだよね)
ピサに到着してトスカーナ大公フランチェスコ1世が開いた舞踏会でコジモ1世の幽霊に会うシーンでは
ブロンズィーノの描いたエレオノーラ(妻)とジョヴァンニ(息子その2)の肖像画を見せながら
家族自慢を始めるコジモさんがかわいかったです。
(このエレオノーラとジョヴァンニの肖像画はウフィツィ美術館にあるやつかな→こちら
メディチ家の礼拝堂でダ・ヴィンチの聖母子を見つけた宗達くんが感動のあまり動けなくなってしまうのですが
ダ・ヴィンチ見ただけでこんなになってしまうならミケランジェロとか見たらどうなってしまうのこの子…
とか思いながら読んでいたら。
最後の審判の前で声もなくして泣いたよこの子。。。゚(゚´Д`゚)゚。
すごいよヴァチカンまで行ってしまったよ宗達くん…。
システィーナの美術に圧倒されてボーっと立ち止まり見とれてしまっているのをマルティノくんに注意されますが
ヴァチカンのパオロ神父が「みなさん立ち止まりますから」って言ってくれて思う存分見られてよかったね…。
ノブ様からローマ教皇への献上品の中に例の洛中洛外図屏風があって
それを見たグレゴリウス13世が「余は今、旅をした」と感想を伝えてくれるのが素敵でした。

1585年6月から一行はイタリアの諸都市を訪問していて、ミラノにも滞在しているのですが
宗達とマルティノが散歩していて街の教会を訪れて、そこがまさかのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会で
2人で最後の晩餐を見ていたらミケランジェロ・メリージという少年がドアを開けて入ってきまして…。
待ってえええぇ宗達とカラヴァッジョが出会ってしまったよ!!(゚Д゚;≡;゚Д゚)
シャツにベスト着てるってことは果物の皮をむく少年みたいなファッションてことだろうか、
あの絵の子はシャツだけですけど…。
「おれは17歳だがおまえ年下だろ」とかマウント取る宗達くんに
「おまえらが使節団?冗談だろ」みたいな感じで信じてくれないメリージくん、
でもダ・ヴィンチの絵の話になったとたんに意気投合しちゃうのおもしろい(笑)。
「祈るより先に絵として見てしまう」「マジで??実はおれも」から始まって
ダ・ヴィンチもミケランジェロもめっちゃリスペクトしているので宗達たちがこれまで見てきた絵について話すと
「聖母子見たの!?えっ、ヴァチカンも行ったの!!?いーなー!!」って
めっちゃ羨ましがるの本当にかわいかったです(*´︶`*)。
殴り合って握手するのは少年漫画ですけど、絵を語り合って分かり合うのは何漫画というんだろう(笑)。
まだ14歳だから工房では親方や兄弟子たちの仕事の準備をやらされるだけで絵を描かせてもらえなくて
仕方なく夜になって部屋に引きこもって自主練習してたら
「おまえの部屋のろうそくの減り方が早い」って兄弟子に注意されてケンカになって
教会に懺悔しに来たけどヴェロネーゼを見たらどうでもよくなっちゃったミケランジェロ・メリージくん!
「ヴェロネーゼを見たとき、ほんものの何かを見たと思った」「それがほんものだとわかった」の感慨は
わたしにも経験があるのでよくわかりました。
子どもの頃に見る美術は、技法はわからなくてもその作品がすごいってことはわかったりするんですよね…。
さらに宗達が「ミケランジェロと名前がかぶるならダ・ヴィンチみたいに出身地の名前を名乗ったら」と提案してくれて
カラヴァッジョと名乗ることを決めるメリージくん!!
「おまえの絵を見せろ」と頼まれてスケッチを持ってきていなかった宗達くんが父の扇をわたして
「ユピテルとアイオロスだよ」って説明するのすごく素敵だし
「この先どこへ行こうとこれを連れてゆくよ」と返したカラヴァッジョくんも素敵だし
扇のお礼にと後日カラヴァッジョくんが風神雷神の絵を描いて持って来てくれるの最高にエモい。
やまと絵の風神雷神と油彩画の風神雷神の交換とか!

宗達くん、ミケランジェロにも会えるとよかったけどね…史実でもギリギリ重ならないんですよね。(1564年没)
そこも上手い。

カラヴァッジョは1584年からミラノのシモーネ・ペテルツァーノのもとで修業を始めていて
1585年6月に遣欧使節団がミラノに滞在しているのですが、
「原マルティノとカラヴァッジョが9日間だけ同じ街にいた」という史実をもとに
ここまで想像を膨らませる原田さんはすごいな…。
あとこの小説、実は上巻のプロローグと下巻のエピローグに
現代の京博に勤める学芸員の望月彩という宗達研究者が
マカオで風神雷神の絵とマルティノが残した古文書を見つけるまでのエピソードが書かれるのですが
その絵は木板に描かれた油彩画なのでたぶん少年カラヴァッジョの絵だろうと思う。
マルティノは追放先のマカオで亡くなっているのでこれも史実にあわせたフィクションですね。
史実ですと宗達くんは日本で活躍したことになっているので
カラヴァッジョの絵とともに帰国しているはずですが、絵はマルティノにあげちゃったのかな…。
学芸員さんはなぜその絵がマカオにあったかというところまでたどり着くことはできるだろうか。
(物語は古文書の研究を始めたところで終わります)
現代パートはたぶん原田さんのご経験が反映されているのだと思う。
あとわたし、原田さんて、書かれる小説のラインナップからてっきり西洋美術がご専門なのかと思っていたので
今回、宗達を書かれたと知ってびっくりしたんですよね…。
それも、この本を読んでみたいと思った理由のひとつだったりします。
『ジヴェルニーの食卓』も『モネのあしあと』も『常設展示室』も静かな物語でしたけど、
『風神雷神』は冒険譚なので迫力が違いました。いやはや。
あ、あと『たゆたえども沈まず』も読んでみたいなあ。


あと原田さんは巻末やインタビューで、この本を書くにあたり
若桑みどり氏の『クアトロ・ラガッツィ:天正少年使節と世界帝国』を読まれたと書いていらっしゃいましたな…。
わたしも後で読んでみよう。
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2020_04
18
(Sat)23:51

絶藝女流天下無、声名早已動三都。

※しばらくブログの更新をゆっくりにします。次回は25日に更新予定です。


小谷野敦『歌舞伎に女優がいた時代』を読みました。
出雲の阿国以降の、歌舞伎に出演してきた女性の役者たちについて書かれた本です。
書店でタイトルを見て「こういう本を待ってた!」と感激して即購入決定。
女性の歌舞伎役者というとわたしは市川九女八や三代目玉三郎くらいしか知らなくて
女性と歌舞伎の歴史についても江戸三座ほか各地の芝居小屋に出演していた女性たちが少なからずいたとか
漠然とした知識しかなかったので、
資料をもとにかつて実在した女性たちについて丁寧な記述を読んでやっと流れがつかめてきました。
名古屋で育った坪内逍遥が「少年時に見た歌舞伎の追想」で名古屋は東西演芸の貯水槽であると述べていて
東から西から役者が集まって劇場も賑やかで、愛知県出身の女性の役者がたくさんいたというのも
この本を読まないとわからなかったと思う。
(あと愛知は歴代の尾張のお殿様たちが文化好きだったのもあってそういう記録が残りやすく、
だから愛知県出身役者がほかと比べて多いように見える、ともいえる)

ていうかそもそも出雲の阿国が歌舞伎の始祖か?と突っ込むところから始まっていて
ああ、はい、言いたいことは何となくわかります…て気持ちになりました。
もともとこの国には中世以降、白拍子や傀儡女など様々な女性による芸能があって
阿国かぶきをその流れのひとつとして見るとさほど珍しいものではなく、
いわゆる社会の底辺にいた女性たちによるひとつの踊りのかたちというものだったと思う。
彼女たちが奇抜なファッションで踊る「かぶき踊り」と呼ばれた芸能は
たぶん漢字で書くと「傾き踊り」になるんですけど、
現在でいう「歌舞伎」(そもそもこれも後世の当て字だ)とはまったく別の物なんだよね。
かぶき踊りは歌舞伎が現在の形になるまでに存在したひとつのきっかけ、影響したものであって
阿国さんが今の歌舞伎を始めたわけじゃないよ…というのは確かにわかる気もします。
わたしも素人なのでどうにもうまく説明できませんが…うーん。

御狂言師と呼ばれた人々のことは初めて知りました。
大奥や大名屋敷の奥に参上して歌舞伎を見せていた女性たちのことだそうです。
そういう人たちがいつからいたのかはよくわかっていないようですが
幕末の役者の番付なども残っているので少なくとも江戸時代後期には各地にいたと考えられているみたい。
その頃に活躍していた坂東三津江という狂言師の事例が紹介されていまして、
彼女が出入りしていたのは加賀前田家、讃岐高松松平家、安芸浅野家だそうで
おもに「先代萩」「鏡山」「忠臣蔵」など武家がモデルの演目を上演したそうで
浪速鑑や四谷怪談みたいなものはやらなかったらしい。
お芝居をするのはお屋敷の能舞台、あるいはそれに準じた拵えをした場所で
(女性の芝居は幕府が禁止していたのでバレたときに能をやっていましたと言い訳するためとか)、
様々な演目を用意して1日かけて上演したのだそうな。
すごいのはお殿様がときどき衣装を用意してくれることで
当時、三津江の一座にいた市川九女八の証言によると
「師匠は道成寺の衣装だけで7組くらい持っていた」とのこと。ヒョエ~。
とにかくどこまでも上品に遊ぶということなので、女中さんの前で役者の話をしてはいけないとか
食事が提供されてもその場では食べられなくて持ち物に入れて持って帰ったとか
特別贔屓のおうちに呼ばれるときはお屋敷中の部屋を夜通し回って踊りを披露したとか
色んなことがあったみたい。
あとこれは坂東三津江という人の事例なので、
各地のお屋敷に訪問していた他の御狂言師の人々にも様々な事例があったのだろうと思う。
(ちなみに三津江さんの衣装は東博に9点所蔵されていたりします。→こちらなど。
娘の高木鏡さんが寄贈したのだそうです。わたしも過去に何点か見たことがあります)

三代目坂東玉三郎が女性だったというのはあまり知られていない気もする、
わたしも数年前に何かの折にふと知って「そうだったんだー!」ってなりました。
十二代目守田勘弥の子で6歳の時に玉三郎を襲名、
勘弥が亡くなったあとは九代目團十郎に引き取られて九女八らとともに活躍して
九代目の死後に姉とともにニューヨークに渡り踊りの修行をしていたけれど
22歳の若さで病気になり客死しています。
お墓は多磨霊園にあるそうですが、多磨霊園、いつだったか行きましたが見つけそびれてしまったなあ。
九代目團十郎には息子がいなくて、娘2人は役者になっていて歌舞伎座の舞台にも立っています。
九代目は長女の実子さんに團十郎を継がせるつもりもあったと書いてあってびっくりした、
えええーーーーーっそれじゃもしかしたら女性の團十郎がいたかもしれないのか…!
結局のところ十代目團十郎は実子の夫・稲庭福三郎に追贈されるので
彼女はなりそびれてしまったわけですが…そうかあ…九代目…!
(実子さんはのちに翠扇と改名して明治座でヴェニスの商人に出演したりしています)
他にも、十一代目片岡仁左衛門の娘は片岡峰子と名乗り歌舞伎座に出ていたり
二代目坂東秀調の娘ののしほが本郷座で鶴亀や鏡獅子に出演したり
市川権十郎の弟子の市川笑燕という人が三崎座の専属として女芝居(歌舞伎)に出ていたりと
近代社会にも女性の歌舞伎役者は一定数いて、男性とともに舞台に立っていたのだよね。
各地にも○○座という芝居小屋がまだまだあって、そこで活躍していた女性たちの記録もあって
男性よりは少ないけど女性たちは確かにそこにいたわけで。

市川九女八は歌舞伎の歴史にうといわたしでも知っているくらい有名ですな。
九代目團十郎の弟子であり最初は芸風も似ていたことから「女團洲」と呼ばれたらしくて
(岡本綺堂が『ランプの下にて』の「男女合併興行の許可」の項でそのことを書いてる→こちら
ああやっぱり世間は男性役者を基準に見るのだなと思ったし、
同時代の女性役者に彼女と比べる対象がいなかったことも当時の女性の地位の低さを物語っているなと。
当時の役者には等級制度があって、九代目團十郎は一等、九女八は五等俳優だったらしい。
(九女八は各地の舞台に立ったけど歌舞伎座の芝居に出たのは九代目の三回忌の一度きりで
序幕の「岩戸のだんまり」のみに出ているのですが
長谷川時雨はそれについてちょっと嘆くような文章を書いてます→こちら
赤坂牛込に生まれて、御狂言師だった二代目坂東三津江のもとで修業しながら演技を磨いて
岩井粂治の名前から粂八と名乗り、やがて團十郎門下に入り各地の芝居小屋で大活躍。
大薩摩吉右衛門の薩摩座にいた頃は川越に来たこともあるそうですよ~知らなかった。そうだったのか。
(ドサ廻りだったので疲れと冷えで舞台で腰が抜けたりして大変だったみたいですが)
守随憲治の記録によると二代目三津江さんは晩年に九女八の舞台を見にきたことがあるそうで
そのとき九女八はしばられ弁慶と女鳴神を出していたようですが
「うまくなったね」「私の目に狂いはなかった」「油断は禁物、精進しなさい」と言われたそうです。
当時、三津江さんは90歳くらいで九女八は65歳。うれしかったろうなあ。
あと、1890年に依田学海が九女八に「月華」という名前と漢詩を贈っていまして
(九女八が新派に出るとき本名とあわせて守住月華と名乗ったそうな)、
今回の記事タイトルにはその一部を使わせてもらいました。
絶えて藝女流天下に無し
声名は早くも三都を動かす
結城宰相今いずくに在る
誰か当年の玉念珠を贈らむ

あと、九女八の弟子の佐藤濱子が
「ある画家がフランスでサラ・ベルナールに川上貞奴が日本一の女優であると紹介すると
サラは「自分の聞いた話では九女八という人が一番の女優だそうですが、違うのか」と聞き返された」
という話を伝聞として聴いたと証言しているらしくて、ものすごくびっくりした。
サラ・ベルナールといえば!ベル・エポックやアールヌーヴォーの真っただ中に活躍して
あのアルフォンス・ミュシャにポスターを描かせていたフランスの大女優さんではないですか。
いやそりゃ、河鍋暁斎が亡くなったときはパリの新聞にまで訃報が載るような時代ですから
フランスの演劇人が日本の役者を知っていても何らおかしくはないんだけど、
それでもまったく接点を想像すらしていなかった人同士に思わぬ繋がりがあったりすると
やっぱりテンションがあがってしまう^^
九女八は三代目玉三郎や中村仲吉みたいな海外公演の経験はなく、日本の舞台だけに立っていた人ですが
彼女の活躍と努力、彼女の演技を評価した人々、
また近代社会のグローバル化の進展に思いを馳せてしまうわけです。楽しいね。
というか貞奴と同時代を生きた人だったのか…。
他にも九代目團十郎、五代目菊五郎、八代目幸四郎、初代猿之助、岡本綺堂、長谷川時雨などがいた時代を
九女八は生きたのだなあと思うと体中がむずむずしてきます。
歴史上の人なのだよなあ…。
(あと松貫四の子孫である初代吉右衛門の娘が八代目幸四郎と結婚して松正子を名乗ったので
松たか子さんの芸名の松はそこからきているとか、
猿之助の屋号が澤瀉屋なのは初代の妻が吉原で「澤瀉屋」という見世を経営していたからというのも
この本を読んで初めて知りました。そうだったのかあ。
澤瀉屋の人々の名字が喜熨斗なのも初代の妻の名字からっぽい)


同時代人といえば。
先頃、講談社学術文庫から出た『市川團十郎代々』(服部幸雄)も読んだのですが
代々の團十郎たちのそばにいた人々がすごすぎて。。
二代目團十郎は生島新五郎(絵島生島事件で処罰された人)に芝居を習っているし
名古屋山三郎と競演しているし、英一蝶と晋其角に手を引かれて吉原に行っている。
五代目は大田南畝と狂歌を楽しんでいるし、山東京山は楽屋に訪ねてくることもあったらしいし
烏亭焉馬は五代目を気に入って彼に関する本を次々に出版している。
七代目は荒事にこだわらず鶴屋南北の四谷怪談もやっているし
九代目は演劇改良運動の中で文化人だけでなく井上馨、松方正義、伊藤博文とも交流しています。
歴史上の人々なのだなあ…。
あと彼らの名字が堀越なのは初代團十郎の父親が堀越重蔵という名前だったことからきているそうですね。
屋号の成田屋は新勝寺との関わりからつけられているのは知ってたけど…。
堀越の名字の歴史も古そうですね。
2019_02
20
(Wed)23:52

リアルとリアリティその2。

大森洋平『考証要集2 蔵出し!NHK時代考証資料』を読みました。
前作もおもしろかったですが今回もおもしろすぎる!
「アイスクリン」「あひる」「イラスト」「営業中/準備中」「お言いでない」「風見鶏」「ガッツポーズ」
「金魚すくい」「携帯カメラ」「高麗人参」「サイドカー」「信楽焼」「将棋倒し」「星条旗」「炭酸水」
「チャンバラごっこ」「土下座」「二人三脚」「発破をかける」「半鐘の鳴らし方」「左利き」
「ホイッスル」「三越」「龍宮小僧」「ロシアンルーレット」など
時代劇~近現代劇まで様々なドラマに登場する物や言葉や文化について
五十音順に並べて解説してくれています。
相変わらず興味のある項から先に読んでいたのですが、結局おもしろくて途中でやめて
最初から最後まで全部読んでしまった。いやはや楽しい時間でした。

時代劇で気になる言葉の言い回し。
赤字→大損、一丁前→一人前、応援→ご贔屓に・ご加勢、観客→見物の衆、感じが悪い→虫が好かない、
競争→勝負、教養→たしなみ、計画→企て、権利→筋合い、刻限→時分、賛成→承知、思案→了見、
情報→注進、程度→これしき、偵察→物見、道場→稽古場、悲劇→憂き目、復活→よみがえり、
資格がない→もってのほか、やばい→まずい・しまった、立候補→名乗りを上げる、など。
確かに言い換えてみると時代劇っぽくなりますな…。
権利や出勤などは江戸時代にも用例があるそうです。武士たちが使っていた言葉だそうな。
「ばか言っちゃいけねえ」ではなくて「ばかを言っちゃいけない」と
ちゃんと「を」を入れるようにというのは池波正太郎氏がおっしゃっているらしいとか、
「御用達」は「ごようたし」「ごようたつ」のどちらでもいいとか決まり事のようなものに気をつけつつも
ドラマを作るときは登場人物が日常会話でどういう言葉を使うかを考えながらやるそうです。
「時代劇の台詞は決して当時の言語を再現するものではない」という著者の記述は
時代劇を楽しむこちらも忘れてはならないと思いました。
(ほんとのほんとに当時の言葉で作ったら外国語を聞いているような気持ちになると思う)
なお岡本綺堂は随筆『江戸の言葉』に「(江戸っ子は)常に「べらんめえ」でしゃべると思ってはいけない」
「落語より講談の方がやや正しいが全部鵜のみにすることは避ける」
「あまり深く考えずに現代語で書いて、参考のために南北か黙阿弥の脚本でも読めばいい」などと
書き残しているそうです。
歴史創作クリエイターにとってたいへん頼もしいお言葉ですが、
「南北か黙阿弥」って、そういう名前がさらっと出てくるあたり綺堂は江戸に近い人だなあと思う。

以下、おもしろいなあと思った項の引用紹介と感想を少し述べます。

「刺青」。
刑罰としての入れ墨とは別におしゃれとして始めたのは江戸時代中期にいた浅草の侠客だそうで
彼は「南無妙法蓮華経」という文字を肩に入れたそうです。
それが駕籠かきや人足、鳶職、小者などに広まって後期に歌川国芳が錦絵に描くまでになるのですね。
「従って、戦国時代の足軽や、赤穂浪士の劇中に
倶利伽羅紋々のおアニイさんなんかを登場させてはいけない」と書いてあって笑いました。
驚いたのが浄瑠璃語りの和泉太夫という人が生首を描かせていたらしいこと!
浄瑠璃は殺陣や怪談などを語ることもありますしすごい心意気だなと。

「岩波書店」。
山本夏彦『戦前という時代』に、とある大学教授の家に著者検印をもらいに来た岩波書店の店員は
まだ縞の着物に角帯をしめていたと書かれているそうです。
お店で本を売る人が着物を着ていたっていうのが、何だか時代を感じる。

「運動会のピストル」。
徒競走などの号砲に使われるピストルがいつからあったか?というもの。
まあ近代なのですが、運動会の「よーい、ドン!」でピストルが使われるようになったのは
少なくとも戦前あたりからと推測できるそうです。
戦前生まれの作家早川良一郎『散歩が仕事』に、早川が通った麻布小学校の運動会には
近くの麻布一連隊から兵士が来てよーいドンの空砲を撃ったという記述があるそうで、
このあたりのドラマや小説なら号砲用の銃やピストルがあっても大丈夫ではないかとのこと。

「A4用紙」。
過去はB5やB4サイズの用紙が主流だった日本のオフィス、
その頃のドラマを作るときは登場人物にA4やA3を持たせないように注意するそうです。
言われてみれば子どもの頃はB5ノート使ってたもんなあ…!
A4サイズのノートやバインダーを使い始めたのは大学に入ってからです。

「おね」。
秀吉の妻の名前ですが、時代劇では「おね」「ねね」「寧々」などバリエーションが様々ありますが
ご本人は手紙に「ね」とだけ署名しているのみなので、
本当のところ彼女の名前ははっきりわかっていないんですよね…裏付ける史料が見つかってない。
なのでドラマで使うときは彼女がそのドラマにおいてどういうキャラクターなのかを考えて決めるとか。
しかし武田信玄といい織田信長といい豊臣秀吉といい、あれだけの力をもっていた武将たちの
妻の名前がはっきりしないってどういうことなんだろう…。
名前を知られることは呪だとか、家族以外に名前を明かさなかったとか(これは基本的に男性もそう)
色々理由はあったにしても、誰か一人くらいはどこかに書き残していてくれたりしないだろうか。
あなたのお名前なんですか。

「案山子」。
戦国時代ドラマでスタッフから「田んぼに案山子を置いても問題ないか」と質問がきたそうで
ここで著者が引き合いに出しているのが一遍上人絵伝(鎌倉時代成立)なのですが、
この絵巻に烏帽子をかぶった案山子が描かれているので問題ないとしたそうです。
一遍上人絵伝は過去に一度見たけど案山子がいたかどうかは気づかなかった~!
今度見る機会があったら探してみよう。

「蚊取り豚」。
蚊取り線香の発明は近代ですが、それを入れるようになった豚の陶器は
すでに江戸時代からあったそうです。
この豚に最初に蚊取り線香を入れることを思いついた人は誰なんだろう。

「鍬」。
時代劇の鍬の引き方が載ってる本なんて世界中探してもこの本くらいだと思う。
土寄せや畝立てに使う道具なのでよくドラマとかで見る振り上げるポーズはやらない、
また勢いよく振り下ろすと土の中に石などがあった場合破損するおそれがあるのでやらない、
というのは畑をやっているうちの父親やご近所さんを見ているとわかることですが
ドラマとかだとやっぱりわかりやすさを考えて振り上げちゃうことがあるのかもなあ。

「好物」。
足利義政は湯漬、山縣有朋は大根の煮物、渡辺崋山は焼きおにぎり、
岡本綺堂は寿司やウナギ、サンドウィッチやパイナップルなどが好きだと判明しているようです。
高杉晋作が鯛の押し寿司や荒煮、刺身、塩汁など鯛が好きだったというのは過去に何かで読んだな…
病床でも2日おきに食べていたというから余程好きだったのでしょう。
笑っちゃったのが徳川吉宗に謁見した象が食べたもので、
ミカンや藁などではなくお饅頭をたくさん食べていたのだそうです。おいしかったのかな。かわいい。
あと別の項で、近藤勇の好物がふわふわ卵だったというのは「大河ドラマ『新選組!』の設定」であって
(いかつい顔の近藤さんがふわふわした卵が好きという意外性を表現したものだそう)、
「大河ドラマを鵜呑みにしてはいけません」とあって笑ってしまった。つまり創作なので気をつけましょうね~。
あと年越しそばの項で、先祖が幕臣だった幸田露伴は「食したことがない」と言っていたそうなので
武士には食べさせない方がいいらしいです。
わたしも絵師たちにおそば食べさせたけど彼らは町人なのでセーフですね、こういうのほんとドキドキするね!

「サボる」。
サボタージュするの略語だそうです。初めて知った!
戦前の学生用語らしいので江戸時代より前の時代劇では「絶対不可」という著者の強いひとことが…。
時代劇ではどんな風に言い換えたらいいんだろう。

「じゃんけん」。
幕末に始まり近代以降に広まったので、江戸時代劇で出すのはNG。
現代のじゃんけんも、掛け声ひとつとっても地域によって様々な違いがありますから
ましてドラマでそれらを調べて出すのは大変な作業でしょうな…。
余談ですがグループ分けするときとかに使う「グッパー」も地域によって異なりますよね。
わたしの地域は「グッパーグッパーグッパージャス」でしたが
友人の地域は「グットパー」「グッパーわかれっ」とか、色々違っておもしろい。

「従軍看護婦」。
総婦長は准士官、婦長は下士官、看護婦は兵長クラスの待遇がそれぞれあったので
兵隊さんたちは上官に対する接し方をしていたそうです。知らなかった~。
基本的に軍人は従軍看護婦には丁寧に接したそうです。知らなかった~!

「スリ」。
戦国時代にはもういたらしい。マジすかー!
『日葡辞書』(1603年刊)に用例があるそうです…マジか…!!
戦国時代ドラマに使っても大丈夫な言葉ですが、物盗りなどと言い換えると時代劇っぽくなるとのこと。

「千枚漬」。
幕末に京都で発明されたらしいのでそれ以前の時代劇には出さないほうがいいとのこと。
「松永弾正や本阿弥光悦や大石内蔵助とかに食わせてはいけない」と書いてあって笑いました。
千枚漬け食べたことないのか光悦さんも内蔵助さんも…!
え、てことは宗達も光琳も応挙も大雅も若冲も食べてないのか…ちょっと、意外。

「ソメイヨシノ」。
時代劇で桜の満開シーンが出ると、だいたい視聴者から
「この頃の日本にはソメイヨシノはない」と突っ込まれるそうですが、
著者に言わせれば「百も承知でやっていること」だそうです。やっぱりそうかあ。
撮影のために木を引っこ抜くことはできないので、
「これは堺雅人が真田信繁を演じているのと同じく、ソメイヨシノが昔の桜を演じているのです。
どうか御寛容ください」と開き直りましょう。戦国大河でサラブレッドが駆けまわっていても仕方ないのと同じ」
などと書いてあって、そうだね…としか思えなかった^^;
過去からずっと同じ形で残ってるものなんて滅多にないしなあ。失われたものは多い。

「竹槍」。
子母澤寛の随筆に「竹槍を作るときは竹を斜めに切っただけでは不十分で
切っ先にごま油をたらして遠火であぶると固く締まる」とあるらしいのですが、
「百姓一揆ややくざの果し合い等の出撃準備シーンにどうぞ」と書いてあって
どんな豆知識だよと突っ込んでしまいました。
この本ときどきこういう変な用例事例をぶっこんでくるからおもしろいです。

「ちゅうちゅうたこかいな」。
行智『童謡 古謡』(1820年刊)に「ちうじ、ちうじ、たこのくわいが十ッ丁」という記述があるそうなので
19世紀以降の時代劇には使っても大丈夫のようです。
時代劇でたまに聞く言葉で何のことかと思っていたけど、数を数える言葉だったんですね。
ネズミの鳴き声とタコ、どちらも江戸にはなじみの深いものですが、由来はどこからなのだろう。

「鉄砲の数え方」。
一丁・二丁ですが、ある戦国ドラマで大名が鉄砲を見て「一丁いくらだ?」と聞き返すシーンの考証で
「初めて鉄砲を見たのに数え方を知っているのはおかしい」ということで「一ついくらだ」に訂正したそうです。
こういう言葉の綾は結構やらかすんですよねわたしも…気をつけようと改めて思いました。

「二連発」。
戦国時代に連発銃はないので、戦国時代大河ではNG。
確かに気をつけないとキャラクターにうっかり言わせちゃいそうなセリフではあります。
ちなみに複数の鉄砲で一斉に撃つのは「つるべ撃ち」というそうな。

「はぁ?」
何か問われてこう返すのは、つい最近まで「非常に行儀の悪い答え方」だったので
時代劇や近代劇では極力使わない方がいいみたいです。
「え?」「何ですって?」などに言い換えるとか。

「花札」。
現代のような形になったのは近代以降で、
江戸時代ではルールやデザインが地域によってまちまちだったそうなので
江戸時代劇に現代の花札を出すのは適切ではないとのこと。
言われてみれば江戸時代劇の遊びで花札を見たことってないかもな…
よく見かけるのは独楽回し、羽根つき、凧あげ、双六、かるた、あやとりなどですかね。

「幕が上がる・下ろす」。
上げ下げするタイプの西洋式の緞帳が使われ始めるのは近代以降で、
江戸時代の芝居小屋では幕を横に「開け」たり「引い」たりしていたので
「ここらで幕引き」とかにした方がいいとか。
言葉ひとつとってもその背景に文化の輸出入があって、
その影響で新しい言い回しが生まれたりするのだなあとしみじみ思いました。
文化は響き合うものなのだ。

あと読んでいて思ったのが、考証において使われているのが研究書だけではなくて
歴史家や研究者の意見、過去の人々が書き残した随筆や記録、絵巻や日記など
多くの人の言葉や史料が考証の助けになっているということ。
随所に引用される史料や意見が本当に様々で、こんなところからも探せるんだなと勉強になります。
「享年」は数え年で数えても満年齢で数えてもOK、と飯間浩明氏からご教示があったり
「たくさん」という言葉は人につく言葉ではない、人間には「多くの」「大勢の」が正しいと
山根基世アナウンサーから教わったりしたそうです。
中でも、電話のかけ方の項で
戦前ドラマで電話器のハンドルを回すのは受話器を取る前か後か?という質問を検証するために
映画『翼よ!あれがパリの灯だ』を使っているのがおもしろかった。
あの映画でジェームズ・スチュアートはハンドルを回してから受話器を取っていたそうで、
「スタッフ、役者ともにその時代を知っている人々だから間違いない動作」と考えたみたいです。
史料だけじゃなく映画からも考証ってできるんですね…!同時代を描いた映画ならできそうですね。

そんなわけで今回も大変おもしろかったのですが、
個人的にもっとも秀逸だと思った問いは「千手観音はどっち利きなのでしょうか?」というもの。
著者は「あまねく衆生を済度するための数多の御手であるから右も左もない」と答えたようです、
お寺に確認してはいないそうですが。
仏様の利き手って考えたこともなかったのでその発想はなかった!と思ったのでした。どうなんだろう。
2018_10
15
(Mon)23:51

キャットオブメニーバイタリティーズその2。

nekogamihiyori.jpg
八岩まどかさんの『猫神さま日和』(青弓社)を読みました。
日本全国に点在する猫神を祀る神社や猫に縁のあるお寺、猫塚や猫がみつけた温泉(!)まで
猫の言い伝えや伝説のある場所が散文的に紹介されている本です。
著者が各地の猫神を実際に訪ねて地元の人に話を聞いたり写真を撮るなどしていて
まるでフィールドワークのレポートを読んでいるようですし、
場所も最寄り駅より徒歩数分から電車もバスもバリアフリーもなさそうなところまで載ってて
よくぞここまで調べたなあとひたすら尊敬。
(役所に問い合わせてもわからないと言われたけど諦めずに根気強く探して
地域の人から「あの山の中」という情報を得て山道を登りようやく見つけた、なんて描写もある)
立派な建物がある寺社から、前は建物があったけど今は塚のみ残る場所、もともと塚だけだった場所など
落差の激しさもさりながら人々の信仰についても追想できる内容でした。色んな形があるものですね。

まずは養蚕の守り神として祀られている猫神。
蚕の天敵であるネズミを捕まえる猫は農家、特に養蚕をいとなむ農家にとっては
神様のようなものだったらしく、ネズミ除けや商売繁盛の願いをこめて祀る地域が多かったようです。
(そういえば我が家も昔から猫を飼っていたと親から聞いたのだけど
祖父の代までは養蚕をやっていたのでそのためってこともあったかもしれない)
蚕からとれる絹糸は高級織物の材料になるため農家にとっては貴重な収入源で
ネズミにとられるわけにはいかなかったのですね。
おもしろかったのが京都の木島神社に伝わる猫神さまの話(=^ω^=)。
この神社は境内に狛猫がいるそうなのですが
理由は江戸時代、丹後にいた佐平治という人が当時流行していた縮緬織りの技術を学ぼうと
西陣織の門をたたきますが秘伝だと言われ教えてもらえなかったけれど
ある日誰かが閉め忘れたのか織り場の鍵が開いていて
これは観音様のお導きだと感動してようやくこっそり見ることが叶い、
技術を丹後に持ち帰り縮緬織りとして成功させたことから丹後で養蚕業が発達し栄えた…ことから
木島神社が養蚕の神様として建てられたとのこと。
それなら狛猫が守っていても不思議ではないよね~。
他にも、養蚕の神様を祀る青梅の琴平神社や長野の安宮神社の近くに住む農家の人などは
「お蚕さまを育てている間は花火をすることができなかった」などという話もあるそうで…。
なんでも花火の火薬の匂いが蚕を刺激してうまく成長しなくなるという科学的な理由があるらしい、へえーっ。

猫又と化け猫。
猫も一定の年月を生きると尻尾が割れて2本足で立ち、言葉をしゃべるというお話は各地にありますね。
栃木の金花猫大明神の碑にいる猫は尻尾が2つに割れているそうだし、
新潟の南部神社付近には猫又権現信仰があって
村人が亡くなると遺体を神に捧げなければ猫又が取りに来るという話があるそうです。
静岡の函南地域の猫神はお祭の日にだけ現れて踊りを踊るというし、
京都の光清寺の絵馬に描かれた猫は
かつて遊郭に飾られていた際には芸者の三味線の音色につられて美女の姿で絵から抜け出して踊っており
困った人々がお寺に持って行くと今度は和尚さんの前に武士の姿で現れたといいます。
相手に合わせて姿を変えられるとは高度な技能をお持ちの神様だな…。
また猫の恨みをかって祟られるという話も、形は違えど各地で聞きますね。
過去に平木浮世絵美術館で岡崎の化け猫騒動の絵をたくさん見たし、
鍋島の猫騒動も有名ですけど、相良藩にも似たようなお話があったんですね。
殺された飼い主の血をなめた猫に飼い主の魂が乗り移り復讐するという話のパターンがこんなにあるとは。。
熊本の生善院は、無実の罪で殺された城主の弟の無念を晴らそうと猫の霊が祟るので
お寺を建てて代々の藩主が参詣したということです。
(ちなみに生善院は人吉にあるそうですね~夏目友人帳のモデルになった町だ。
ニャンコ先生は猫神さまの話とか聞いたことあるんだろうか。
そして化け猫といえば!最近見てないけどモノノ怪の化け猫がとんでもなくすごい話だからみんな見てくれよな!)

猫の恩返し。
かわいがってもらったお礼に人間に恩返しをする猫の話もよく聞きますね。
静岡の御前崎や福岡の宮若には、飼い主だったご住職を守るために
天井裏に住み着いていた巨大ネズミと死闘のすえ倒した猫たちの話が伝わっているようだし
鳥取の転法輪寺には、実は2本足で立って踊れることを隠していた猫がお寺を出て行かざるを得なくなって
でもやはり和尚さんにかわいがってもらったのは忘れられなかったらしく、
とある長者のお葬式が転法輪寺で行われるよう嵐を起こすなどして仕向けて
お寺にお布施を奉納させたという話があるそうです。
長野の法蔵寺に伝わる袈裟猫の話もおもしろくて、
そこは信州の猫寺と言われていて代々ご住職が三毛猫を飼っているそうなのですが
昔々にお寺にいた三毛猫が夜な夜な和尚さんの袈裟を借りて本堂でお経を唱えていたという
言い伝えがあるようです。
しかもお経の唱え方が言葉をしゃべるんじゃなく「ニャオン、ニャオン」と猫の鳴き声だったんだとか(笑)。
なんだかほのぼの^^
その猫はお経を唱えているところが見つかるとお寺を出て行ってしまったようですが
数年後に武士の姿で現れ「〇〇さんという人を檀家にします」と言い残して去り、
その後色々あって本当にそのお家が檀家になってくれたという後日譚もあるそうです。
お寺には袈裟をつけた三毛猫の石像が立っているそうです。見に行きたいなあ。

守り神。
立川の阿豆佐味天神社の話は聞いたことある~山下洋輔さんのエピソードでしたっけ。
飼い猫がいなくなったときこの神社にお参りして絵馬を奉納すると戻ってくる、という
猫返しというご利益(?)があるのですよね。
(ちなみにこの阿豆佐味天神社、元々は養蚕の神様だったそうですが
今ではすっかり猫返し神社みたいになってお参りする人が絶えないとか)
宮城の田代島(ひょうたん島のモデルになった島)は人間よりも猫の数の方が多いと有名ですが
山の中に美与利大明神という社があって猫神様が祀られているそうです。
島の漁師さんにとって猫は昔から大切な存在で、
猫がおとなしい日は大漁で、逆に騒ぐ日は時化るということで海に出なかったそうです。
その年に最初に捕れたマグロやカツオは必ず猫神に奉納するくらい篤い信仰を集めている神様だとか。
(7年前の震災では田代島も被災していますが、猫たちはいち早く高台に逃げてほとんど無事だったそうだ)
鹿児島の仙厳園には猫神神社があるそうですが
これは戦国時代に島津家が飼っていた猫たちを祀っているそうです。
(猫の目は時計代わりになるので戦場に連れて行った武将は当時割とたくさんいました)
朝鮮出兵の折に同家が7匹の猫を同行させたのは有名ですが、まさか祀られた社があるとは思わなかった。
祀られているのは帰国した2匹ということです。あと5匹は帰ってこられなかったのね。。
沖縄のシーサー!うちにもいます。過去に沖縄へ旅行した際に父親が買った阿吽の小像が。
そうか獅子の姿をしているから彼らも猫神か…!(笑)
シーサーが祀られるようになったのは江戸時代初期あたりからだそうです。結構新しいんですね。
スフィンクスやライオン像と同じく魔除けや守り神として門などに置かれたほか、
琉球王朝の王の墓にもシーサーがいるそうです。

貴人と猫。
お姫様と猫の事例が多く、だいたいは恩返しの項と似たようなお話が多く紹介されています。
特に「かわいがってもらったので屋根裏にいた大蛇を退治した」話の多いこと。
宮城の角田には首だけになっても飛んで大蛇を噛み殺した猫を祀った猫神権現があるそうな。
福島の猫啼温泉は、その昔玉世姫という人が京都へ引っ越す際に
飼っていた病気の子猫を連れて行けなくてそのまま置いていってしまったところ、
子猫は姫がいつも通っていた泉を訪れてはニャーニャー鳴いていたのですが
その泉に浸かるうちに病気が治って美しい猫に成長したとのことで
村の人は病気が治る泉の水ということで汲んで入浴するようになったのが始まりと言われるとか。
ちなみにこの玉世姫は京都へ行ったのち和泉式部と名を変えたということです。わあ。
あと、これは本の話ではなくただの余談ですけど
偉い人と猫の組み合わせというと宇多天皇とか一条天皇とか藤原頼長を思い出します。
特に宇多ちゃんは「うちの子の歩く様は雲の上の黒竜みたいでスゴイ」とか書き残しているくらい
飼い猫の黒猫が大好きだった人です。
頼長は子どもの頃に飼っていた猫が亡くなると大泣きしてお葬式をした人ですね。

そういえば今戸神社や回向院の猫塚が載ってなかったけど、あれはもう有名すぎるから
「みんなもう知ってるだろうからはしょるね」的なテンションだったということだろうか…
とか思っていたら著者が過去にだした『猫神様の散歩道』という本があるそうで
そちらの目次を見たら2か所とも載っていました。
こっちは重版未定らしいのであとで図書館で探してみよう~。
豪徳寺と自性院は両方とも載っていますね。
自性院いきたい~~~猫のお地蔵様に会いたいし太田道灌と黒猫のお話に思いを馳せたい。



先日のシンカリオン40話感想は例によって下にしまいました。
前回よりさらにテンションがおかしくなってますがよろしければどうぞ。↓

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2018_09
10
(Mon)23:55

知の連鎖。

shomotu_1.jpg
上野の森美術館の「世界を変えた書物」展に行ってきました。
金沢工業大学の工学の曙文庫が所蔵する科学技術や工学に関する初版本コレクションを
100冊ほど展示している展覧会です。
過去に金沢(2012)や名古屋(2013)や大阪(2015)で開催され、ずっと巡回を待っていたんですけど
やっと関東に来てくれましたよ~!
しかもこの規模で入場無料!写真撮影可!なのが更にうれしい。
ほんとにいいの?むしろ払うよ!?ってレベルで楽しかったです。
直筆はあまりなくてほとんど刊本ですが、学問や書物の歴史を通読できるので
学者、研究者、歴史ファン、初版本や装丁やフォントが好きな人も絶対楽しいと思いました。
会期が今月末までと短いので気になる方ぜひに!

shomotu_2.jpg
最初の展示室がこれです!
東洋文庫のモリソン書庫みたいに壁いっぱいに本棚が備え付けられ
すべての棚にKIT所蔵の書籍が詰まっているという夢空間。
お触り禁止のため手に取って読むことはできませんが背表紙見てるだけでも楽しいよ!

shomotu_3.jpg
やべ~~~~~何冊あるんだ!!?!?
正直、本の並べ方は全然なってないし全集と単行本混ざって凸凹してるし
分類見てもたぶんNDCじゃなく独自分類なのでどういう系統で並べてるのかよくわかんないけど
装丁の凝った古書がもっさりある空間はそれだけでワクワクします!
昔の人が書いた書物が今も残っていて読める…知の有機体だよ。たまりません。

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これだけの稀覯書を一度に持ってきちゃう企画者さんたちどうかしてる、ありがとうございます。
間に展示ケースがあって本がいくつか開いてありましたよ。

shomotu_5.jpg
アインシュタインの自筆研究ノート。
達筆でぜんぜん読めないけど、本文脇のスペースに書きこみがあったり二重線で消した跡があったり
彼の研究の一部が垣間見えます。あと意外と字がちっちゃい。

以下、気になった書物をご紹介していきます。
写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ☆

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2018_05
03
(Thu)23:50

歴史のタテヨコ。

大塚ひかり『女系図でみる驚きの日本史』を読みました。
歴史系ブロガーさんやフォロワーさんたちが割と「おもしろい」とおっしゃっているのを見かけたり
女系図から歴史をみる研究やそれについてまとめた本てあまり見かけなくて珍しいと思いましたので。
読み始めて早速、「平家は滅亡していない」という記述がとびこんできて
アッハイそうですね…ということまでは思ったものの
(滅亡したのはあくまで清盛の直系の子孫というだけで、
清盛は娘がいっぱいいたので藤原氏と結婚して生き残った人たちいるよね、程度の知識しかないけど)、
それが現天皇まで続いているとは知らなかった。
その藤原氏の子孫に南北朝時代の天皇と結婚した女性たちがいたみたいです。そうなのかあ。
あと、紫式部の血筋も何だかんだ現天皇まで続いているらしい…
彼女には一人娘がいて藤原賢子(大弐三位)という名前なのですが
この賢子が高階成章(先祖は高市皇子)と結婚して生まれた為家から6代後の女性が
後鳥羽天皇と結婚して土御門天皇を産んでいるのですね。
もうほんと、これだけでもものすごく楽しくなっちゃってこの先も夢中で読んでしまったよ!
だから歴史を学ぶのはやめられないんだ~。

天皇を女系図でたどる場合、よく見かける一族として有名なのは藤原氏かと思いますが
古代の天皇は渡来人や豪族や蘇我氏の血を引いていることが多かったりするんですね。
(このあたりは倉本一宏『蘇我氏』を読むとすごくよくわかる)
他にも公家や文化人の横のつながりとか、乳母の系図とか、伊勢物語や源氏物語の登場人物、
男色のつながりや手塚治虫『奇子』まで、あらゆる系図が紹介されていて楽しいです。
源氏と平氏の系図もおもしろい、彼らは例のキャットファイトのせいで犬猿の仲みたいなイメージがありますけど
女系図で見ると源頼朝のと結婚した北条政子は平氏だし(北条は名字であって姓ではない)
頼朝の先祖である義家は源氏と平氏のハイブリッドだし(父親が源頼義で母親が平直方の娘)
だから源氏vs平氏というのはあくまで頼朝と清盛一族のことなんだよね。
また、女系図を見慣れてくると気づくことなんですけど
どの女性が生んだかが子の人生を決めたりするというのもこの本では指摘されていまして。
たとえば藤原道長にはたくさんの結婚相手がいて、妻は源倫子、室のひとりに源明子がいるのですが
倫子の産んだ子はとんとん出世したり天皇や皇子と結婚したりしているけど
明子の産んだ子は源氏と結婚したりしていて、明らかに差があるのがエグい…。
栄花物語にはこのことについて明子が不満を持っていたという記述がありますが
実は倫子と明子の子孫は結婚した人たちもいて、そういうのもおもしろいですねェ。
あと、紫式部の孫と清少納言の孫が歌を贈り合っていたというのはびっくりした。。
藤原彰子に仕えていた小馬命婦(清少納言の娘)が、彼女の娘に代わって詠んだ歌
(その色の草とも見えず枯れにしをいかに言ひてか今日はかくべき・後拾遺和歌集)があるのですが
この歌を贈られた相手というのが高階為家、つまり紫式部の孫なんだそうです。
式部と少納言が宮中で顔を合わせたことはたぶんないけど、どこでどう繋がるかわからないものですね。

歴史の授業は昔から大好きでしたし、大学でも女性史の講義は選択したけど
教科書や資料集って結構、政権が誰から誰に移って~みたいな記述が中心ですし
その時代時代に政権を握っているのはほぼ男性で、
女性は志半ばで倒れた男性の意志を継いだ人とか誰それを育てた人とか文化人とかが載ってる程度ですが
よく考えなくてもこの世の男性も女性も全員、女性のお腹から産まれているので
決して歴史上で女性が活躍しなかったわけじゃないんですよね…。
平易な文章でとても読みやすかったし、縦のつながりだけじゃなく同時代の横のつながりもわかって
改めて女系図の重要性とおもしろさを再確認しました。
源氏物語や平家物語を読んだあとに読むとすごく楽しいので、同時の読書をおすすめします。

わたしが最初に女性の系図を意識したのはたぶん、
小説『創竜伝』の中で茉理ちゃんがランバート・クラークに言った「豊臣秀頼よ」からだと思う。
「徳川家光のいとこで母親と一緒に家康に倒されたのは誰か」という問いがその前にあって
クラークは答えられなかったんだけど、
わたしも首をかしげて次のページをめくって「おお~~そういえば」と感心したのでした。
秀頼の母淀の君と、家光の母お江は姉妹なんだよね。
そう考えると、淀君とお江の父浅井長政は織田信長に負けたけど豊臣と徳川両方の系図につながるわけで。
(ちなみに長政の妻は信長の妹の市)

あと、杉本苑子さんの『散華』を読んでいたときに面白かったのが紫式部と平安時代女性作家たちの系図。
ちょっとややこしいですが説明しますと、
・紫式部の母は藤原為信という人の娘
・その為信の兄弟に為雅という人がいて、藤原倫寧の娘と結婚してる
・藤原倫寧には娘が数人いて、うち一人は道綱母(蜻蛉日記作者)
・さらに菅原孝標と結婚した人がいて、孝標女(更級日記作者)を産んでる
・倫寧には息子もいて、うち一人の理能は清原元輔の娘と結婚してる
・その元輔女の姉妹には清少納言がいる
っていうのが最高におもしろかったのでよく覚えています。
あと紫式部と藤原道長の系図を上にたどっていくと藤原冬嗣にたどりつくので
2人は12親等くらいの親戚にあたるとか、
紫式部と彼女の夫藤原宣孝に至っては式部の祖母と宣孝の祖父がきょうだいなので
2人ははとこ同士で結婚しているというのを知ったのもこの本でしたな…。
わたしの説明だとわかりにくいと思うので気になる方はぜひ小説を読んでみてくだされ~。



そういえば先日やっと映画ゼロの執行人を観てきましたが
脚本が相棒の櫻井さんなせいかわりと社会派でした。(ただしコナンなので鬱エンドではない)
コナンの映画って最初から最後までミステリー要素で貫かれているか、
ミステリーはおまけみたいな扱いでアクションまみれかのどちらかが多いんですが、今回は後者だったね。
途中まで素敵なおっさんずラブだったのに後半そうでもなさそうな感じが出てきちゃって
それいらない…とか思った矢先に上戸彩さんの渾身の演技が聴けたのでよしとします←ちょろい
上戸さんすごかったねあれは…ちょっとびっくりするくらい声出てたもんね。
今回はおっちゃんが色々とばっちりくらったせいか、ランネー・チャンの出番はありませんでしたが
夫が捕まっても英理さんがずっと冷静だったのがプロの弁護士って感じで素敵だったし
栗山さんの調査能力がしっかり描かれていたのもよかったなぁ。
あとあの爆発映像に一瞬だけ映っていた安室さんを見逃さなかった哀ちゃんの組織センサーつよい。

で、今回キーマンになってる安室さんですがほぼ爆心地で爆風くらっても生きてるわ
風見さんを呼び出してアイタタなお説教するわ片手で盗聴器握りつぶすわ
モノレールの線路上でRX-7のメーター振り切ってぶっ飛ばすわ(あのときの武者震い顔まじ危険)
肘で飴細工みたいに強化ガラス割るわ、コナンを抱えたまま拳銃でビルのガラスぶち破って突入するわで
ハードなアクションを次々にこなしててとてもかっこよかったんだけど、
2年前に純黒を見てしまっているので
「でも今ここに赤井秀一が現れたらあなたそのポーカーフェイス台無しになるんでしょ…」とか思ってしまって
いまいち集中しきれなかったことを素直に告白します。
安室さんの魅力は赤井さんがいてこそ発揮されると思っているので(赤井さんは単独でもかっこいいけど)。
あ!でも、コナンに恋人いるのって聞かれた後の安室さんの返事は、あれはずるかったな。
(SNSで感想を検索したらあれにやられてすでに何度も執行しに行ってる人たちがいますね^^)
あとエンディングでサンドイッチ差し入れてきたときの笑顔がまぶしい。

そうエンディングの映像に珍しく後日譚が挿入されてた!初めてじゃないかな?だいたいエンディング後だもんね。
ましゃ兄の歌声をバックに草間彌生のカボチャが一瞬だけ映ってたけどロケ地はどこかしら。

あと、さらにどうでもいい余談ですが
映画を見終えて劇場を出た後、駐車場で駐車券を事前精算しようとしたのですが
劇場窓口でチケットを買ったとき3時間無料の手続きをしていただいたから駐車料金ゼロだよなって思ってやめて
思った後につい笑ってしまった。
しばらくゼロという言葉に反応する病に罹患する日々が続きそうです。
2017_06
17
(Sat)23:19

Once upon a time in 室町その2。

呉座勇一『応仁の乱』が売れているらしいですね。
京都の人がよく「前の戦争」などとおっしゃる11年にもおよぶグダグダな大乱を
約300ページというコンパクトな内容にまとめた新書です。
室町時代って学校の授業とかでも地味な扱いをされがちですけど(わたしも全然詳しくないけど)
たまに少し勉強すると想像以上の出来事や人々が出てきて手におえなくて頭が「えらいこっちゃ」ってなるので
あまり手を付けてこなかったのですが、
今回は書名だけ見て何も考えずに「読んでみよう」と思った本でした。
タイトルがシンプルなところにまず惹かれて、読み終えたら「これはやばい」ってなりました。
中公新書で売れた本の中では『ゾウの時間ネズミの時間』とか『理科系の作文技術』あたりは読みましたけど
あれらは気が付いたら売れていたのと興味があったから読んでみた感じでしたが、
今回の応仁の乱は確かベストセラーになる前から読もうと思っていた…はず。
しかも発売早々に読み始めたにも関わらず、数百人もの人物や出来事が浮上しては消えていくので
脳内処理が追いつかなくて何日もかけて咀嚼しながら読むハメになりました。
こういう読書はひさしぶりでしたなァ…。
ただ、読んでる最中は乱と同じように頭の中がぐちゃぐちゃだけど
読み終えると「こりゃダメだ11年続くの当たり前だわ…」ということがストンと腑に落ちてすっきりしました。
複雑だけどわかりやすい、そんな本です。
有難いのが、文章の後ろに()書きで出典がきちんと明記されていることで
自力で一次資料に当たろうと思ったときとても便利だろうなと思いました。
新書みたいな本はページ数が少ないので割愛される率が高いから…こういうのスタンダードになったらいいですね。

帯にも書いてあったけど、物語風ではなくひたすらリアルでわかりやすい英雄も悪役もいなくて
発生した問題にひとつひとつ対応していく将軍と管領と各地の武士たちの行動を追いかけていく感じで
読み終えても何の爽快感もありませんでした(^ ^;)。
ギリシャや北欧神話を読むときみたいな忍耐力が必要とでもいえばいいのか…
読み始めた当初は、せっかくだからひとつひとつの出来事をちゃんと覚えて
全体像を把握しながら効率的に読み進めよう、などと考えていたのですが
蓋を開けたらとにかく無数の小競り合いの連続で1ページや半ページどころか1行で話題が変わるので
第一章を詠み終えた時点で細かい部分を覚えるのを諦めたよ。。
ゲームに例えると無数のプレイヤーが参加する上、
勝利条件が参加プレイヤーごとに違うので(幕府を牛耳る、この国はおれのもの、あいつ絶許など)
もういっそ草鞋を履いて当時の人々の生活視点まで降りてみて
「どうなるの」「どうすればいいの」「もういい加減に終わらせようよ」とかイライラしながら読むと
すごくリアルに感じられてわかりやすいと思う。

本文は()書きであらゆる史料を提示してくれてるけど
ベースになっているのは当時、興福寺の別当を務めていた経覚と尋尊という2人の僧侶の日記です。
現代では奈良といえば東大寺ですが、当時は大和といえば興福寺のことで
源平合戦で奈良が燃えてから大和には守護大名が置かれず興福寺が実質的に守護を担当していたと。
藤原氏の氏寺ですから主に摂関家の子どもが僧侶として入っていくわけですけど
相続財産の大きさから各地の院跡を掌握することが多く、それが原因でしばしば揉め事があったそうな。
しかも摂関家の当主は京都住まいということもあって
大乱の舞台である京都からは距離があってもかなりの影響を及ぼしていたみたいです。
というかそもそも室町時代の奈良について全然知らなかったので本当に勉強になりました。
第一章のタイトルが「畿内の火薬庫、大和」となってるのからしてもう、すごい。
院跡の国民が荘園をめぐってしばしばケンカして、南北朝時代にはそれぞれ両陣営についてやっぱり揉めて
このとき北朝側にいた畠山氏の影響が応仁の乱勃発の小さな原因のひとつになっていたりしますが
将軍と一緒に各地の一揆を鎮めたり、でも何度も駆り出されるうちにしんどくなって断ったら怒られて
将軍の死後に大和内の武士たちの紛争をなだめたり色んなことをやっている。
お寺の経営でも、荘園の管理を任せた人が急にいなくなったり別の人を任じたら適当にやられたり
困って武士にお願いしたら「その代わりうちの〇〇を取り立ててください、でなきゃ嫌です」とか言われたり、
また大きいお寺なので各地に寺領があってそこから年貢をとるにしても問題が山積みになっていたりして
当時の政治や経済が細かくわかるようにまとめられていました。

で、さっきの畠山くんですよ…関東管領の長男に生まれた畠山義就が叔父に家督を奪われたのでぷっつんして
将軍の命令も聞かずに京都で爆ぜてしまって(そして11年居座る)、
おそらくこれがきっかけになった大乱についても、文字通り「どうしてこうなった」のかが順を追って書かれています。
とても全部は説明できませんが、幕府の体制が守護大名の在京制だった頃に
義教の暗殺後に勃発した細川・畠山管領家の争いを鎮めるために山名が飛び込んで
それが収まると山名・細川で揉めてにっちもさっちもいかなくなったみたい。
誰もが納得できる落としどころを見つけられないまま意図しない大乱に発展したような印象を受けました。
最初の武力衝突は畠山義就+山名・斯波軍と畠山政長+赤松・六角軍+細川・京極ですが
中立性を保った義政がストップをかけて数日で終わったと思いきや義政が細川に味方して
畠山や山名をなんとかしないといけなくなって細川も義視もこのままじゃ終われねえ状態で
止めるタイミングをなくしてしまったりしている。
しかも東軍西軍とも武将たちの結束が長年の信頼ではなく急な寄せ集め状態なので
各地から他の大名や家臣たちを呼んで次々に参戦させたり、お蔭で補給が追いつかなくなったり
戦争の長期化でそれに見合う報酬を大名も幕府も用意できなくなっていく。
誰もが大乱の収束を図っているはずなのにどうしても取りこぼしが出て
山名・細川がいなくなっても別の大名や武将たちが挙兵して思いも寄らぬ方向からまた火種が爆発したり
もうしっちゃかめっちゃか。
後半戦では兵隊が戦闘そのものに疲れて毬杖で遊んでたらしいしな…(そのせいで余計に士気ガタ落ち)。
戦争が相手を制圧して終わりではないことは歴史を学ぶうちに知りましたけど
こんなことになっていたとは思いませんでした。
義政も色々やってるんだけど命令が朝令暮改だったり優柔不断だったりするし
義尚に将軍職を譲った後も何かと口出したり誰かが義政に求めた意見が幕府に持ち込まれちゃったりして
さらに義尚がすねる、みたいな悪循環が。あわわ。
(義尚についてもわたしほとんど知らないんですけどちゃんと将軍してたんやね…そりゃそうですね…
義政の子だからといってえまきもの読みたいマンってだけじゃなかったんだ。うむ)
あと富子が諸悪の根源みたいな書き方してる本が未だにたくさんあるけどそれもばっさり払拭してくれて、
でも後から考えるとさらに長引く要因になった面も書かれているので
歴史ってほんとに一面的ではないなと思います…
誰かのせいって場合もありますが、それだってそうなった要因があるし。

この後、今川を筆頭に北条や朝倉や織田など戦国大名と呼ばれる人々がばんばん出てくるわけですが
これだけ京都がぐっちゃぐっちゃになっていたらそら自分たちで条例作って自治区しますってなるわな…
今川仮名目録は氏親パッパの最高傑作ですけども
あれの成立の過渡に応仁の乱があったと考えるとすごく納得がいく。
終章「応仁の乱が残したもの」のひとつとして京都文化の地方伝播についても語られていますが
言われてみれば奈良や京都の文化が東に北に伝わったのは伝えた人がいたからで
何故そうなったんだっけと考えたときに、
武士が地元に帰る←明応の政変←都壊れる←大乱←大名たちのごたごた←義教暗殺←幕府軍派遣でもめる←大和内のごたごた←興福寺の大和守護←源平合戦
というのが頭の中をドバっと駆け抜けて「わー!うわーー!!」って声出ました。
こうやって流れが繋がる瞬間がものすごい好きなんですよ…歴史を学ぶ醍醐味。
そういえば大乱の火事で洛中の文化財もすごい被害を被って建築も絵巻物とかも焼失してしまったので
後土御門天皇が三条西実隆に命じて大和に残る絵巻物の模写を土佐派にさせたって
高岸輝氏が『天皇の美術史』に書いてたっけ。
春日権現絵とか長谷寺縁起とか明恵上人絵とか…興福寺周辺のお寺が色々持ってたらしいのですね。

そういえば呉座氏が前に書かれた『戦争の日本中世史』の中で
元寇で竹崎季長が突撃した事例に「『さすが季長、おれたちができないことを平然とやってのける。
そこにシビれる!あこがれるゥ!』と賞賛したいところだが」とか唐突にぶっ込まれてて面食らったのですが、
今回の本にも「終わらぬ、大乱」という見出しの章があったなあ。
びっくりしましたよ中世史の本でこういうネタに遭遇するって…。
もしかしてと思って奥付のプロフィールを確認したら呉座氏は1980年生まれでした。どんぴしゃですな。


そういえば時代はちょっと下りますが、先日『江戸の蔵書家たち』という本を読んでいたら
学者たちの裏話を収録した『しりうごと』(1832年刊)という本が紹介されていまして。
その中の一節に、国学者の岸本由豆流が古今集に注釈を加えようとあれこれ書き散らしているところへ
なんと紀貫之が現れ(!)、『土佐日記』の由豆流の考証に対してひと通り文句を言ったあげく
「一体その方が考証はただ書ぬきを並べ立て見る人宜しきに従えなどといふのみ、
肝心の祭文のおもしろきところをば考証もせず只校合ばかりしたるは何の用にもたたぬことなり。
岸もとにさける𣑊うべしこそ実の一つだになき学びなれ」
みたいな皮肉まみれの言葉と歌を残して去ったとか書かれているらしいんですが、
これ要するに貫之が草葉の陰で泣いてますよみたいなことを言いたいんだろうけど
過去の人物の口を借りて当世人を批評したり揶揄したりする文法が、何だかちょっとおもしろい。
創作物じゃなく随想でなされるという何でもあり感がまた、現代に通じる気もします。
あと本読みには切っても切れない「積読」という言葉がありますが
これ江戸時代後期の村田了阿の狂歌にも出ているんですね。
『一枝余芳』という書物に「やけずとも一切経に用はなし昔訓読今は積而置」と書き残しているそうです。
ちなみに了阿は先述の岸本由豆流や山東京伝、式亭三馬などと交流があって
書物の貸し借りや照会についての手紙が残っているとか。レファレンスだ!


あと最近見つけた『日本の歴史人物事典 美麗イラストで楽しむ!』(成美堂出版)の目次に
小野氏の人々が3人(妹子・篁・小町)いたので読んだんですけど
この本、人物の見出しがいちいちおもしろいです(笑)。
しかも戦国時代や江戸時代は「猛将」「マルチな天才」とか割とありきたりな見出しなのに
古代~中古は「手紙を届けたら怒られた(特技:花を生ける)」小野妹子とか「実は尽くすタイプ」な藤原鎌足とか
「怒ると怖い学問の神」菅原道真とか「新皇におれはなる!」の平将門とか遊びまくってる!
ちなみに小野篁は「冥界でバイトした型破りな異才」「ひねくれ者の天才児」でした。まあ予想の範囲内だ。
そして各位歴史本におかれましてはそろそろそういう評価から脱してほしいような気もする。

あとこれ、たまに思うことなんですけど
なんで篁の夜の仕事は「バイト」と表記されることが多いのかな、単純に「昼は朝廷、夜は冥府でお仕事」じゃだめなのかな?
昼の公務員=正規で夜=非正規っていう意味なのかもしれないけどその根拠はどこなのかっていうか、
昼と夜で雇用形態が異なる(という認識が多い)理由は何だろう。
閻魔の補助を現代に照らし合わせたらバイトと認識して執筆・編集する人が多いってことだろうけども
昼が本業で夜が副業と考えたとしても、副業=非正規とは限らない気がするけど…(よく知らないでしゃべってます)。
どなたか検証してないだろうか。
2016_06
12
(Sun)23:46

日記の日に読む日記。

吉川弘文館の現代語訳『小右記』を読み始めました。
このブログでもたびたび書いている藤原実資(957~1046)がつけていた日記です。
タイトルの由来は「小野宮の右大臣が書いた日記」ということで「小右記」。
(小野宮は烏丸にある、滋賀の小野に隠棲した惟喬親王の邸があった土地で
実資の祖父実頼がそこに住むようになり一族が小野宮家と呼ばれるようになって
実資も小野宮の右大臣と呼ばれたわけです)
小右記は当時の世の中を知る貴重な資料であるとともに、実資の意見や感慨もぽつぽつ書いてあって
平安時代ファンと実資ファンとしては2度おいしいのですが、
注釈つきの本がいくつか出版されてはいるけどわたしの知る限り現代語訳は初めてで
刊行に踏み切ってくれた吉川弘文館さんには感謝の言葉もありません!
だってこれで実資の日記がスラスラ読めるんだもの!!
少しでも本人に近づきたいなら原文を読むのが一番ではありますが、
ドナルド・キーン氏が折に触れておっしゃる「古典に親しむには現代語訳を読めばいいのです」のおことばが
本当に胸にしみる。

現代語訳は全16巻の予定だそうで、現在1~2巻が刊行済み。
1巻の書き出しは977年3月、実資は20歳の青年でした。
20歳ってことは高梨沙羅さんや橋本愛さんや玉井詩織さん、ポケモン赤緑と同い年で
えっこの時つまりかみっきーや羽生くんやエマ・ワトソンより年下なんだ!ひえぇ~。
当たり前ですが歴史上の人物にも青少年だった頃があると思うと胸熱です。
そして右大臣まであと44年。

基本的にはその日に仕事先で見聞きした出来事と、実資の行動についての記述がほとんどで
朝廷の儀式、貴族の冠婚葬祭、年中行事や徐目などの公式イベントについての記録は
前日までの準備から当日のプログラムまで細かく書いてあって、
こういう風に進められていたんだなあと。
時々「いかがなものか」「奇妙な出来事である」「知らんがな」「前例ないけどどうかな」
などなど、その日のつぶやきみたいな言葉も見られてクスッと笑うことも^^
よく見られる記述として2~3日に1回は穢・物忌み・修法イベントが発生していることと
(内裏に牛が乗りつけたとか犬の死骸があったとかで陰陽師がしょっちゅう呼ばれて
占ったり祓ったりして安全を確かめたりしている)、
月一くらいの頻度で清水寺に詣でていること。
982年3月18日には沐浴の後、馬に騎って行ったと書いてありまして
清水さんにお参りする25歳の青年実資を妄想するとなかなか楽しいです。
行った日だけでなく行かなかった日も「参らなかった」と書いてるから相当気にしていた様子。
あと、室町にお姉さんが住んでいたらしく時々相談事を持ち込んでいて
仲の良さそうな雰囲気もあります。
(少し後のことですが、お姉さんが亡くなったとき実資は服喪のため仕事を休もうとして不受理になっている)


以下、個人的におもしろかった箇所を適当にメモしてみます。

982年1月17日。
射遺に参議(藤原佐理)を召すように奏上があって蔵人(藤原宣孝)に伝えて帰宅した記録。
(このとき実資は右少将や蔵人頭を兼務している)
三跡の佐理に、紫式部の夫の宣孝!
実資25歳、佐理38歳、宣孝は生年不明ですが実資と同年代じゃなかったか…紫式部はまだ子どものはず。
ちなみに次の日、佐理はちゃんと射遺所に参入しました。
この4ヶ月後に申文帖(藤原頼忠への長文詫び状)を書いていると思うと訳もなく楽しくなってくる。

984年10月19日、武蔵秩父駒牽。
ちょっと武蔵国民としては注目せざるを得なかった^^
駒牽というのは東国4国にある勅旨牧から献上される馬を天皇が見る儀式で
この日は秩父からの馬が来ていたようです。
上野や甲斐にも勅旨牧があったみたいでこの前後も何日か連続して行われています。

986年6月には花山天皇の退位騒動があったはずですが
それらしい記述がほとんどなくて(というか986年は記事がものすごく少ない)、
実資が書いていないのか散逸してしまったのか…。
前年7月に天皇の女御だった藤原忯子が亡くなった記事は細かく書いてあるし
筆まめな本人のことを考えると後者かもしれない。
(現存する小右記は他にも983年の記事が丸ごとなかったり、年によって記事が多かったり少なかったりする)
12月にすうっ…と一条天皇の読書始めについて書かれていて
ああ天皇代わってもう半年経ってすでに日常になってるな、と思った。
990年1月に11歳の一条天皇が笛を吹く姿を眺める33歳の実資やばし。

988年閏5月9日、藤原保輔の強盗露見。6月14日に追補宣旨。
で、出たー!保輔!(゚Д゚)
北花園寺にて保輔が剃髪出家した通報を受けて検非違使が駆けつけたとき、
彼はすでに逃亡した後で出家のため切り捨てた髪と衣と指貫だけが残っていたっていう話に
ドラマかよ!って突っ込んだ学生時代の思い出(笑)。
実資は書いてませんが、このとき保輔の父藤原致忠が簾のない車に乗せられて監視される事態になって
致忠も保輔を見つけ次第差し出すっていう請文を提出してるんですが、
それでも本人が出てこないので朝廷は捕らえた者に歓賞を与えるという宣旨を出してるんですね。
直後に保輔の出家がわかって、4日後に彼は足羽忠信の邸を訪ねたところを捕まって
次の日獄死しちゃうんですけど。
藤原保輔を知ったのは杉本苑子さんの小説『散華』ですが
わたしがアウトロー好きということもあるんですけど、すごくわたし好みなセンチメンタルヤクザ男子になってて
そこから史実調べたりするうちにいつの間にかハマった人物だったりします。
あと彼の一族は曲者が多すぎる(元方とか陳忠とか保昌とか)。

989年1月23日、藤原兼家が雑談のさなかに出家の本意について実資たちに語ったそうですが
語りながら泣いていたそうで、実資は「宿願を催したてまつったのか」と書いています。
このとき兼家は還暦を迎えていて、実資は32歳。
青年が壮年期に入りそろそろ年齢や人生について考え始めたのではないかな…。
(ちなみに年末に太政大臣になりますけどね兼家)
また、2月11日に尊勝法・泰山府君祭があり御祭について安倍晴明が行っています。
晴明も儀式の日時を勘伸したり吉日を調べたりと、たびたび小右記に名前が出てきまして
御祭のときは68歳。
あと、985年4月25日に藤原為時、987年6月6日に藤原為頼、989年6月21日に藤原伊祐の名前があって
うおお~~紫式部のパパと伯父さんと従兄くんではないか!と興奮ひとしきり。

990年7月に実資は長女を亡くしていて
(毎日祈祷したり穢に気をつけたり栄養のある食事を用意したり
仏師を10人あつめて長女の等身大不動尊(フルカラー彩色)を作らせたり色々していた)、
「悲嘆・泣血」「悲慟に耐えない」「心神不覚」など悲しい記述が続くのですが
17日の初七日に「諷誦を珍皇寺で修した」の記述に一瞬、いろんなものが頭から全部吹っ飛びました。
六道珍皇寺じゃないすか!!( Ꙩ௰ꙩ )
長女の遺体は東山に置かれたとのことで(当時東山や鳥部野辺りは風葬墓地だった)、
東山のお寺で法事が行われるのはまあ当然ですが、まさか珍皇寺とは。
もしかしなくても小野篁のこと聞いてたり知ってたのかなああぁぁ実資、ありがとうございます(混乱)。
また8月3日には紫宸殿に異鳥が飛んできたとあって
カワセミのような姿形をしたそれは「水乞鳥(アカショウビン)」ではないかと物議をかもし、
次の日にどこへともなく飛び去って行ったそうで…
その鳥がそうだったかはともかく、アカショウビンがこの頃から日本にいたことにびっくりしたし
その時行われた占いが「病気や火事があるかも」という結果だったらしいのもびっくりした。
あと989年10月に着裳の儀を行った藤原定子が
1年後の990年10月に皇后になったときは「きたきた~~」ってテンション上がりました☆
実資は立后の儀式を記録しまくって(誰がいつ来て何をして退出したっていうのを数十人ぶん書いてる)、
定子や一条天皇については全然書いてないんだけど。

食べ物に関する描写もありまして、
985年6月18日に子どもの五十日の儀でお餅を準備したり
990年10月21日は亥の日なので尚侍の藤原綏子が亥子餅を用意していたり
993年7月28日に公卿たちに甘瓜が下賜されたり。
(饗応の記録もたくさんあるけど実資たんお酒のことしか書いてない)
あと食べ物関係というか、990年11月16日に実資は左大臣の話を聞きに行くはずが
二日酔いがひどくて行けなかったとか、
993年4月18日に風脚病(痛風)のため呵梨勒丸(正倉院にもある香薬)を飲んだとか
病気の治療が加持祈祷だけではなかったことも裏付けられますな。
ちなみに呵梨勒丸は医心坊(984年の医学書)にも書いてあって風病に効くとされていたものです。
(風病はすきま風のように人の体に入って頭痛や発熱を引き起こす邪気、つまり風邪のことで
呵梨勒丸はそれを撃退すると考えられていたそうな)

993年6月25日、菅丞相に贈位・贈官。
903年に亡くなった菅原道真に正一位左大臣と太政大臣が贈られたわけで、没後90年ですな。
実資のメモは「託宣によって行われるものである、ということだ」で、
翌7月5日の記事に外記多米国定が書いた贈位・贈官の儀式についての日記の一部を転写しています。
太宰府天満宮への勅使は菅原幹正、道真のひ孫にあたる人ですな。

藤原道長と藤原伊周の記述がぐっと増えた995年(実資38歳)の記事で2巻が終わっています。
とうとうあの騒動に向かっていくのだな…。
そして賢人右府まであと26年。

999年9月に一条天皇が猫のために行った産養の儀を「奇怪」って言っちゃったりとか(嗚呼)、
1018年5月に殿上が暑すぎて氷水を飲んだとか(真夏ですからね)、
同年10月の宴会で道長の望月歌をうっかり書いちゃったとか(お蔭で現代まで伝わりました)、
1019年のお正月に養子の資平が藤原彰子を訪問したら為時女が取り次いだとか
(お蔭で紫式部がこの頃まで生きていたと現代人は知ることができています)、
はやくその辺りも読んでみたいものだ。

…とか楽しんでたら国立公文書館さんが小右記の画像をツイートしてた、何というタイムリーな。
982年1月1日の画像ですから円融天皇の物忌みがあった日で
公卿は本来慶賀を奏上するのにしなかった、旧事を知らんのかと正月早々文句言ってる記事です。
このとき実資たん26歳。
今日は日記の日でしたか…入唐求法巡礼行記、土佐、紫式部、更級、
アンネやオルコットの日記あたりをまた読みたい。
そして…いつかどなたか出してください明月記の全現代語訳を~~!(他力本願)
2014_09
05
(Fri)23:55

リアルとリアリティ。

大森洋平『考証要集 秘伝!NHK時代考証資料』を読んでいます。面白い!
NHKで時代考証業務を担当された著者が、番組制作支援用に作成した考証資料を
「あんみつ」「扇の使い方」「花柳界」「キス」「軍議」「正座」「天下の台所」「鼠小僧」「バイバイ」
「幽霊」「流人」「ワイン」などなど、項目を辞典みたいに五十音順に並べて本にしたものです。
どのページから読んでも大丈夫な構成になっていますので
目次で興味のある言葉を選んでページをめくりだしたら、止まらない!
その時代にその物があったかなかったかはもちろん、言葉の語源や昔の読みや言い方、
現代にいわゆる「常識」とされる物や言葉がだいたい近代以降のものだったりすることまで
大河ドラマで実際に使われた事例も交えて説明してくれています。
歴史劇や時代劇の中でひとつの物を存在させるためにこんなに気が遣われているということも
ひしひし伝わってくる内容。
笑ってしまったのが本のタイトルです(笑)『往生要集』を意識しているんだろうなあ。

まずはよくある地球儀ネタ(笑)。
戦国時代や幕末ドラマに、かならずといっていいほど出てくる
「外国人が持ち込んだ地球儀を見て、世界が丸いことと日本がとても小さいことに驚く」イベント。
これ、ドラマの時代によってはオーストラリア大陸の有無に気をつけなければならないそうです。
オーストラリアの発見は17世紀、つまり江戸時代なので
戦国時代ドラマで地球儀を使いたいならオーストラリアが載ってないものを用意するらしい。
ちなみに『軍師官兵衛』で江口信長と内田お濃が地球儀を回してましたが
大陸はありませんでしたね。
(『新選組!』の江口龍馬が地球儀の前で両手を広げて
「これがわしらが住みゆう地球よ!」とのたまうシーンがいつになっても忘れられないくらい大好きです。
その後香取近藤が「意味がわからない」ってギョロ目で言うのも大好き)

地球儀イベントは戦国以降のドラマ主人公がだいたい通過していきますけども
幕末あたりになると加えて「黒船を海まで見に行きオオー!とびっくりする」イベントも発生するな…。
たぶん、その後の主人公の人生に決定的な影響を与えるのを強烈に印象付けられるのでしょう。

言葉コーナーもおもしろい。
「御酒」を発音するときのアクセントは"しゅ"ではなく"ごしゅ"なんだそうで
このアクセントでばっちり発音した役者さんがいてかっこよかったそうな。
「時代考証なんか少しくらいぞんざいでも、台詞がしっかりしていれば時代劇は決まる」と
コメントがつけられていて笑ってしまった。
「野菜」という言葉は江戸中期にできた言葉で、それ以前は「青物」というそうですな。
(伊藤若冲の実家が確か青物問屋「枡屋」さんといいましたっけ)
言葉の違いとしては、「いっこく」と「いっとき」があって、どちらも一刻と書くのですが
いっこくは約15分、いっときは約2時間だそうです。
大阪と大坂の違いについても、これは研究者の間でも色々な意見があるそうで
ドラマを作るときはだいたい「近代は大阪、それ以前は大坂」表記でやっているみたいです。
関東と関西で言い方が違う言葉もあって
たとえば「真ん中」というのは江戸なら「まん真ん中」、上方は「ど真ん中」と言うそうな。
同じように「インチキ」は上方、「いかさま」は江戸の言葉なんですって。
そうなのかーわたし両方とも使ってるな…。

食べ物ネタもありますよ~。
「ワイン」がワインと呼ばれるようになったのはここ50年くらいのことで
それまでは葡萄酒で通していたというのは何となく納得できたのですが、
「鍋料理」は江戸時代では"以下物"と呼ばれていたと知ってびっくり!
うわ良かった…鈴木春信のお話でお鍋のシーンとか書かなくてよかった…ドキドキ。
「味噌汁」と「饅頭」が普及し始めるのは室町時代で、
どちらも禅宗の食事や点心から始まっているらしくてこれもびっくり。
特にお饅頭は、戦国時代までは高貴な人々の食べ物だったらしいので
戦国大名とかは食べていたかもしれないけど、庶民はまだなんですねえ。
「まんじゅうこわい」の落語が生まれたのも江戸時代ですしね~。
「サンドイッチ」も18世紀には出島の役人が食べていたらしくて、
『新選組!』正月時代劇でラブさん榎本が耕史さん土方においしいよってすすめてたけど
あれ中身はハム・塩漬牛肉・固チーズ・ピクルスだったそうですね。
あのチーズが、歳さんが釜次郎さんに「あんたこそ死ぬんじゃねぇぞ。この土地を開拓して、
何万頭もの牛を飼ってチーズを作れ」っていうセリフに繋がってくんだよね、
あのときの歳さんは破格のかっこよさで視聴者の心を悩殺しにかかっていた…彼は本気だ…
さらに服部克久氏の美しく静かな音楽が涙腺を煽ってくる…うっ涙が…(以下自主規制

「川越江戸間の船便」の項が個人的にテンション高かったです☆
江戸時代に荒川で行われていた川越~浅草花川戸の船便は
通常30~50人乗りで、午後3時に川越を出発、翌日正午に花川戸に着いたそうです。
逆に川越行きは川の流れをさかのぼるので2日かかってしまうため、
人はほとんど乗らなかったとか。(確かに、歩いた方が早いよね)
「京大坂間の船便」の項もあって、こちらは京都の伏見~大坂間を淀川を使い行き来したもので
こちらは物資を運ぶのがほとんどだそう。へー。
伊藤若冲の『乗興舟』が伏見~大坂間を描いた拓版画ですが
また大倉集古館が公開してくれたら行きたい…もう何度見ても好き…話がズレている…。

あと、「"椿の花は打ち首を連想させるから武家になかった"のは間違い」というのも載ってるのですが
これまだ言われてるのでしょうか…。
この本には書いてないけど、正倉院には椿の木で作った杖が納められていますし
戦国時代には織田有楽斎が茶室に飾っていたりするし、
江戸時代には将軍家や武家が園芸品としてお庭に植えるほど愛された歴史のある花なんだけど。
椿が気の毒だからそろそろ消えてくれないかなあと思っている。
(ただし、実際は武家の家に植えられていたことと
"縁起が悪いから武家にはなかったと誤解された時期があった"ことは
椿の歴史として記録しておかねばならぬ)

ほかにも「河童」の項で「芥川龍之介によれば河童にとって最大の侮辱は蛙と言われること」とか
全然関係ないこと書いてあったり、
「オウム」の項で「戦国ドラマでセキセイインコが出た時、この鳥はオーストラリア原産だから
この時代にはいない」との指摘をいただいたそうで、注意することとしながらも
「しかし、インコよりドラマを見て欲しい」とか本音もこっそり書いてあったりして
笑えたりもします^^
わたしが知ってる考証ってほんとに少ないので
たとえば合戦で槍が使われ始めるのは室町時代とか、
昔の馬はどっしりして背が低くて、時代劇によくいるサラブレッドじゃなかったとか
「神経」という言葉を最初に書いたのは杉田玄白だとか
近代以前の夫婦は別姓で財産も別々だったとか、そんなもんだなあ。
座布団が全国に普及するのは近代というのもよく言われる話ですね~。
似たような理由で、掛け布団も一般に普及するのは近代以降で
それまでは着物を被って寝ていたはず。
(しかし殿様の寝床が綿布団にシーツつきというおそろしい図を
某戦国ドラマで見た覚えがあるぞわたしは…)

それから大事なことも書いてあった。
「考証において○○を再現しました!よりも大切なのは○○を出さずに済みました!という消極的成功」
だということ。
せっかくお金と時間と労力をかけて作ったドラマが、たったひとつの所作やセリフで台無しになるのは
実によくあることなのだそうです。
とはいえ、歴史ドラマはあくまでフィクションでありファンタジーなので
史実にこだわりすぎるとつまらなくなります、ともおっしゃる。
「考証が素晴らしくてもつまんないのはだめ」って
大石先生かどなたかがどこかでおっしゃったのを聞いた覚えがあるな…。
予算と時間と現場の人々の奮闘、様々なハードルを乗り越えて
ドラマやドキュメンタリーは作られているのでありました。
わたしもお話づくりやお絵描きにもっと真摯になって、きちんといいものを作りたいなあ。


sotatsu7.jpg※クリックで大きくなります
「風神雷神図屏風Rinne」宗達・光悦編その7。6はこちら
鷹峯に引っ越した光悦の家へ、宗達が風雷を連れてやって来ています。
(小川通~鷹峯間は歩いて1時間程度の距離です)

光悦「ひと休みしないか」
宗達「するする、ありがとう」

宗達が何をしているかというと、光悦の引越し祝いに、襖に絵を描いている真っ最中です。
後ろの襖はすでに完成。宗達が絵を描き、光悦が書を入れています。

光悦は茶人でもあったので自宅屋敷にいくつか茶室を建て、
さまざまなお客をもてなしたそうです。
鷹峯に引っ越してからは大虚庵と号し、人がいてもいなくてもよく茶をたてていたとか。
数奇者というやつですね。
2014_07
31
(Thu)23:28

おーい、応為。

キャサリン・ゴヴィエ著『北斎と応為』を読みました。
ご存知葛飾北斎と子のお栄(画号:応為)が並んだタイトルで、北斎が先にきていますが
北斎の史実にお栄の人生を想像で加えて、お栄の一人称で話が進みますので
主人公は応為の方ですね~。
お栄ちゃんがその場その場で何を思ったかを共有しながら読んでいく感じかな。
彼女が主人公の小説ってほとんどないから貴重だと思う。
(というかわたし他に知らないのでどなたかオススメあったら教えてくだしあ)

書店をぶらぶらしていて偶然見かけたのですが、タイトルと表紙(応為画「三曲合奏図」)と
あと作者がカナダ人であることが気になってパラ読みしたら
書き出しが北斎のセリフで「オーイ、おまえさんよ、そこの大アゴだよ、え、お栄っ」だったのが運のつき。
マジやばかった最高ですって叫ぶとこだった!!
北斎はいつも「オーイ」とか「アゴ」(お栄ちゃんのあごは大きかったらしい)とか叫んで
お栄を呼んでいたそうなのですが
そんな北斎とお栄の関係ものすごく端的に表してるセリフが書き出しだなんて!
この作者さんわかってらっしゃる、と浮き立ちながら続きを読んだらあれよあれよと読めてしまって
お栄ちゃんの人生が記録されている『葛飾北斎伝』(飯島虚心著)の版本を
四苦八苦しながら読んだ日々はなんだったのか、
北斎の後半生と応為のゆりかごから墓場までがわかりやすく生き生きと書かれていて
ああもっと早く出会いたかった…と思いました。
北斎たちだけでなく当時の江戸文化や絵師、戯作者、遊女など緻密な資料調査を行って
人物も世界観も大きく複雑に仕上げているのが文脈から伝わってくるので
巻物トラブルの相手がヘンミーだったりとか、北斎が大達磨を描いたお寺が護国寺になってたりとか
七代目團十郎に大向こうじゃなく野次が飛ぶとか
(でも團十郎が「最高潮の場面なのに客はうつむいて筋書読んでる」と笑うシーンはごめんなさいって思った)、
老中のはずの松平定信が町絵師にふらふら会いに来たりとか
ときどき時代考証に首かしげるけど(笑)、面白さの方が勝ってるからあまり気にならないです。

酒好きで口悪くて絵にうるさくてもしかしたらお父さん以上に性格ねじ曲がってるお栄ちゃんが
すごく生き生きしてていとおしくて抱きしめたくなった…!
全速前進で生きてる感じ。
人と話すときは目を見て話し、筆1本で食べていく自信を持ち、
北斎の自己中な振る舞いを愛し、北斎や家族をこてんぱんにけなし(でも本人たちの前では言えない)、
心に燃えるような思いを抱えているお栄像にめちゃくちゃ感動しました。
北斎との関係が複雑すぎて一言で表現できない。
ずっと父のそばで絵を描くのを見て育ってだんだん手伝うようになって
しまいには手が震える父の代わりに絵を描いて「北斎」と署名して売るようになっていく設定は
「北斎の晩年の絵は応為が手伝ったorほぼ応為の手によるもの」という仮説を
もとにしているのでしょう。
絵に北斎の署名を入れてしれっと版元に売りに行く飄々っぷりと
父に認めてもらいたい思いと、「北斎」を社会的に支えている自分への誇りと。
(でもそれらはコンプレックスと依存というのが読み手にちゃんと伝わってくるのがこの本のいいところ。
作者さんが相当厳しいまなざしを向けているからだと思う)
北斎をふだんは「父」、憎まれ口のときは「爺さん」、仕事中や客観的なときは「北斎」と呼び分けてて
「北斎」はドライなんだけど「父」「爺さん」と言うときものすごい愛憎が入り混じってて生々しいです。
志乃さんや遊女たち、夫の南沢等明、三馬や英泉やシーボルトなどと交流していても
常に心のどこかに北斎がいつも引っかかってるというか、
離れたい気持ちと離れられない気持ちとの間で反復横跳びしてる感じが個人的にはしました。
(だから父親に構ってほしかった弟の崎十郎とは話が噛み合わなかったりする)
物語の後半で北斎の幻を見るお栄ちゃんが、生前の北斎にさんざん振り回されていたくせに
「助けがいるならそっち行くよ」と叫んじゃって、
でも「そのうちな、でも今はだめだ」と北斎に消えられてしまうというのが
その最たるシーンだなあと思った。

身なりにもお金にも名声にも興味ないけど絵への執念は異常なまでに深い天才肌というのが
わたしの中の北斎像ですけども、このお話の北斎もそんな感じですな。
元気なときは家で、町で、寺で、吉原で、体調を崩してからは布団の中で、いつもどこでも絵を描いて
常に「本物の絵師になりたい」と途方もない夢を見ている。
何か面白い現場に遭遇しては「父だったら絵にしただろう」とつぶやくお栄ちゃんが、
もう、もうほんと北斎のことわかってるお栄ちゃんが涙ぐましくて、な……話がズレた…。
引越しや名前を何度も変えたエピをはじめ、口ずさんだ呪文や点から絵を描くとか米粒絵のエピまで
ちゃんと書かれてて笑った。
ほかの当時の絵師や作家たちも少し出てきて狂歌や講談、歌舞伎、舞踊などが要所要所にあって
江戸文化クラスタとしてはうれしい限りです☆
絵や着物だけでなく戯作、黄表紙、春画、読売、蘭学、お菓子、團十郎の押隈まであるから最高です!
志乃さんを始めとする吉原の女性たちも
何も知らない少女のお栄ちゃんの目を通して描写されるから全然いやらしくないし、
吉原の意味を知ってからもお栄ちゃんがまったく変な目で見てなくて、そこも好き。
志乃さんは外国文学によくいる、主人公を導く賢者のような存在というか
お栄ちゃんが困っているときに必ず側にいてくれる人のような印象でした。
美しい人だなあと思った。

シーボルトが北斎から絵を買ったのは史実ですけども
(お蔭でシーボルト事件で北斎は危うく摘発されかかったりする)、
やりとりの場には体調を崩した北斎が不在で
ほぼお栄とシーボルトで行われたように描かれていましたね~。
お栄ちゃんがシェイクスピアとその娘のことをシーボルトに尋ねるくだりは
お栄ちゃんの業みたいなものを感じて心が痛い。
シェイクスピアはあんなにたくさん話を書いた、なら誰かが側で支えていたはず、
そして支えたのは娘であるはず…と根拠もなく思ってしまったりとか
シーボルトにシェイクスピアの娘について確実なことはわかっていないと言われると
「娘なしで一体どうやって。私の父は三人も娘がいたのにそれでも足りなかったんですよ」と叫ぶとか。
娘の時代の到来とは。
あと、シーボルトが日本の女性たちの抑圧について不可解極まりないと思考するくだりは
作者のゴヴィエさんの思考でもあるのかもしれないな…とふと思いました。
それは全編にわたり徹底された理知的なまなざしだなあ、とも。
それにしてもお栄にシェイクスピアを語らせるあたり
いかに彼が英語圏の人々にとって偉大な存在であるかが伝わってきますね~。

「碑文になりそうな名文句だけど、私の墓を改めてもらわないとそれはわからない、
肝心の墓は見つかってないからどうしようもない…」という内容の一文が
冒頭とラストの両方に呼応するように置かれていて、
その名文句も冒頭とラストで全然違うものが書いてあって、
最後まで本を読んだあとに冒頭を読むとまた感慨深いです。
あれらはお栄ちゃんの人生が客観性と内面からずばりと表現されている文句ですな。

原書『The Printmaker's Daughter』の試し読みも見つけましたが、表紙のインパクトがすごい。。
(どうでもいいけどお栄って髪結ってもすぐあちこち緩んで
ほつれ毛落ちまくりのイメージあるんですがなんでだろう)
本文も、カナダの本ですしまあ当たり前なんだけど
北斎が「Hey you! You with the big chin, oei!!(おーい、そこの大アゴ、お栄!)」とかって
英語しゃべっててこそばゆい(笑)。
北斗七星(北斎のこと)は"The seven stars"だったり
狂歌連は"The mad poets"だったり、字のまんまですね(笑)。
狂歌は必ずしもマッドな内容ってわけじゃないんだけど、他に翻訳できる言葉がなかったのかな。
あと"Yuko" という遊女に「夕湖」と漢字が当てられていたのは訳者のセンスを感じました。


utahoku.jpg※クリックで大きくなります
手鎖の刑を受けて牢屋に閉じ込められた歌麿を、北斎と応為が訪ねるシーンが
笑い事じゃないとわかっててもツボすぎてマンガにしてしまいました。
(火種に石油ぶっかけて妄想の炎を燃えあがらすのは歴史クラスタの使命ですからね!笑)
歌麿せんせいものすごい俺様歌様だった…惚れる…(* ̄д ̄)
原書も"Utamaro was on top"とか"Great man"とかものすごいリスペクト表現が見られますので
作者さんは歌麿が相当お好きな方とみた。
"I am the best."と居丈高につぶやく歌麿さんとか、もうなんか色々面白すぎる!
アイアムザベストって歌麿が言うんですよ!あほかあぁぁ萌えるっしょ。

hokuou.jpg※クリックで大きくなります
北斎が将軍家斉の前で鶏を放って竜田川の絵を描いたシーン(史実です)の後に2人が交わした会話が
クリティカルヒットしたので描き描き。


そういえばお栄ちゃんが志乃さんと南禅寺を訪れるシーンで
お寺の庭に百日紅が植えてあってニヤリとしました( ̄ー ̄)。
わたしの大好きな杉浦日向子さんのマンガ『百日紅』も北斎と応為が主人公ですね。
(こちらの2人はゴヴィエ氏の小説と違いゆったりさっぱりした人物像ですが、変人度は負けずに高い)
読みなおそう~来年アニメーション映画にもなりますしね。→こちら
(百日紅にも応為が北斎の代作してたっぽい感じの描写がなかったっけ…)


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2014_07
23
(Wed)23:52

徒然なるままに日ぐらし。

tsurezure.jpg
サントリー美術館の「徒然草 美術で楽しむ古典文学」に行ってきました。
卜部兼好の随筆『徒然草』が歴史の中でどのように享受されてきたかを記録から探る内容と
徒然草の各章を絵画化した徒然絵が楽しめる内容でした。
徒然草の文章や兼好の姿絵などはよく見かけますが、研究や章ごとの絵はほとんど見たことがなく
色んな場所で徒然草が研究されたり絵にされていることがわかって面白かったです☆

入ってすぐのところには兼好の姿を描いた掛軸がいくつか並んでいました。
尾形乾山の「兼好法師図」が!かわいい!
ものすごくまじめに写実的に描いてる松花堂昭乗や海北友雪の兼好肖像が隣に並んでるから
余計にコミカルさが際立つといいますか、
字がくねくねしてて兼好の目鼻はちょんちょんとか、乾山らしさ噴火しててマジかわいい。
乾山はかつて兼好が晩年を過ごした双ヶ岡に住んだことがあるので
兼好に思いを馳せることもあったろうな…。
「ここ兼好法師が歩いたかも!同じ景色ぼくも見てるのかも!」とかな…( ̄∀ ̄)ニヤリ
「和歌四天王図」は頓阿・慶運・浄弁・兼好と、南北朝時代を代表する歌人が描かれていますが
4人ともまんまる造形なのかわいい。
どうでもいいけど兼好は肖像画に描かれると必ず帽子被ってますね。

兼好の自筆といわれる『兼好家集稿本』には赤が入ってて推敲のあとがみられるそうで
重要文化財に指定されています☆
本当に自筆だとするとかなり字うまいですぞ、兼好。
徒然草が再び脚光を浴びるきっかけになった歌論書『正徹物語』は
「隨分の哥仙にて、頓阿・慶運・静弁・兼好とて其比四天にて」云々とあるページが開かれていて
兼好が歌人としても一目置かれていたことがわかります。
室町時代の日記魔こと三条西実隆の書いた『実隆公記』もありまして
深草院に兼好の旧跡があると記しています!
おおぉ双ヶ岡だけじゃなく深草院にも兼好さん住んでいたのね。
実隆さんは色んな人と交流してるうえに気になったことすぐ日記やメモに残してくれて
室町時代の藤原定家とわたしは呼んでいますが、
それらをしっかり保存しておいてくれる子孫の人たちもね!マジ尊いすね!
現代までの室町後期史の研究、彼らのおかげでわかってることたくさんあるんじゃないかと思う。
面白かったのが『太平記絵巻』。
初めて知ったんですけど、高師直がラブレターの代筆を誰かに依頼しようとする場面で
「兼好といふ遁世者の歌よみ」が登場するのだそうです(笑)。
和歌を届けている兼好が描いてあって、なんだかお調子者っぽかった。。
(そして師直はこてんぱんにふられる^^;)

小堀宗甫・本阿弥光悦・松花堂昭乗・近衛信伊合作と伝わる嵯峨本『徒然草』と
烏丸光廣が書写して光悦が作った『徒然草』がきれいだった。
3年前に東洋文庫所蔵の光悦作『徒然草』を見ましたけど、
今回の展示品も光悦が無駄に本気出して美しく装丁してますよ!
まるで星をちりばめたような雲母刷り料紙であった…光悦はほんと金箔をうまく使いますね^^
戦国~江戸初期の文献研究として有名な林羅山の『野槌』や
松永貞徳の絵入注釈書『なぐさみ草』など、徒然草研究の資料もありまして
ああこうしてだんだん"現文"から"古典"になっていくんだな…と思いました。
特になぐさみ草の挿絵はこの後出てくる徒然絵の構図をほぼ規定したといっていいらしい。

それにしても南北朝から戦国時代って200年くらい間が空いてるけど
もう注釈がないと読めなくなるのか、と思ったんですけど
そういえば藤原俊成・定家親子も「このままじゃ源氏物語を誰も読めなくなる」って危惧して
注釈作ったりしてるし(源氏物語と俊成・定家の間は約200年)、
古代エジプトでもその時代に書かれたパピルスが
200年後には筆記者が解読できずに間違って書写されたりする事例があるんだよね…。
200年というのは言葉が断絶して読めなくなる期間なのかもしれない。
わたしも江戸後期~幕末の本読めるかっていったらスラスラとはいかないし。

そんな研究と、印刷技術の発展とともに徒然草は一般にも広く知られるようになって
源氏物語の"源氏絵"や伊勢物語の"伊勢絵"のような、
徒然草の章段をそれぞれ絵画化した徒然絵なるものが江戸初期から制作されるようになります。
白黒印刷やカラーの絵画がいっぱい展示されてました!
狩野派(探雪や常信など)が描いた絵巻はやっぱりきれいですね、丁寧で落ち着いた仕上がり。
土佐光起は徒然草137段だけをひとつの絵巻に描いてて
『絵本徒然草』はカラーで金泥もつかってあって贅沢な1冊。
奈良絵本の『徒然草貼交屏風』は本文と隣り合う絵をどうも適当に貼り合わせたらしくて
文と絵が一致してない適当さに笑ってしまった。。

徒然草は章段に区切られているので人気のある場面が絵画化されるケースが多いのですけど
ことに41段の登場率はどの時代でも高いなあと思う。
木に登って上賀茂神社の競べ馬を見物する法師が眠そうにしている図が絵にしやすいのでしょう。
鍬形慧斎の徒然草屏風にある41段は法師が木の上で猫みたいに丸くなって寝ててかわいかった。

展示の後半は海北友雪の『徒然草絵巻』全20巻がズラーッと公開されてます!
全部ではないけどほぼ全段に絵をつけたというから圧巻です!
「つれづれなるままに~」の書き出しに添えられた兼好のポーズは
展示室の入口に飾られていた兼好図と同じでしたね~。
すごーいきれい繊細、渋い、かわいいって楽しんで眺めてたのですけど
半分くらいでふと「これってひとりで描いたんよね?」というのを改めて感じて戦慄した。
描いたのかよ、これを…海北友雪、なんという猛者。
もしわたしだったら5巻で「先は長いぜ…」とため息をつき、10巻で山場を越えたと少し安心し、
15巻以降あたりでは息も絶え絶えにデスレース、
20巻の最後の一筆を入れるなり机か床につっぷする地獄を見る気がする。
なぜ20巻も企画したのか、いや描いてるうちに20巻になってしまったのかもしれませんが
これだけの絵巻を描ける人ってすごい、惚れる。
友雪はそんなに描きこむ人ではないので、割とあっさりした筆と色遣いでしたけども
それでもシンプルなわびさびっぽさがあって味わい深くて
兼好の世界観を大切にしつつ描いているなあと最後まで見て思いました。
20巻のラストに友雪の署名を見つけた時は泣くかと思った、しかもフォントおもしろすぎ!
見られてほんと幸せでした…友雪すごいわ…。
そしてこの20巻を収める小さな箪笥は黒光りしてて要塞みたいで、猛烈にかっこよかった。

友雪の画業を紹介する展示もありました。
総持寺縁起絵巻に出てくる一夜で十一面観音を彫り上げるチート童子がすっごくかわいらしいのですが
正体は長谷観音様だったりして伏し拝むしかないし、
誓願寺縁起絵は和泉式部や清少納言、上東門院などこれまで同寺を訪れた有名人をたくさん描いてて
ああこんなに色んな人が通り過ぎて行ったお寺なのかとしみじみするしかない。
一の谷合戦図屏風がおもしろくて、右に熊谷直実、左に平敦盛が描かれているのは定石ですけど
屏風いっぱいに大きな扇を描いて、その中に馬上の武者を配置してて
うわーこんな絵描きたい!って思いました。
そして60代に描いたという五行之図が美しいシンプル絵すぎて震えた。


sendaitana.jpg
徒然草展を観終えて美術館を後にしてガレリア館内をぶらぶらしていたら
2Fに仙台七夕まつりの吹き流しを見つけました。
「東北三大祭り in 東京ミッドタウン」ということで東北3県のお祭モチーフが展示されているとか。
8月末まで見られるそうです。

neputa.jpg
1Fにあった青森ねぶた祭の「ねぶた」。

akitasao.jpg
地下にあった秋田竿燈まつりの「竿燈」。おっきい。

torakin1.jpg
とらやの今月のお菓子も無事ゲット。「若葉蔭」だそうです。
金魚が水の中で涼し気☆

そんな感じで、美術館楽しかったしお菓子も買ったしさあ帰ろう~とお店を出て
ふと何の気なしにとらやの右奥にあるガラスの向こうにミッドタウンの芝生広場を見ましたら、
2014godzilla1.jpg
!?!?!?
え、え、ちょっと待ってゴジラいるゴジラいる、なんで!?ってなって大慌てで広場に飛び出しました。
「MIDTOWN meets GODZILLA」というイベントで、
ハリウッド版ゴジラの公開を記念して8月末までここに植わってるそうです!(なんか違う)
うおおお知らなかった知らなかったマジびっくりしたうおーっ!

2014godzilla2.jpg
近くまで来るとすごい雰囲気、実物の1/7スケールとはいえかなり見上げる大きさです。
つかビジュアルに一瞬!?ってなったけど今週公開の映画のゴジラかそうか、
口が耳元まで割れてるもんね。
チェーン張ってあって触れないけどきっとカッチカチに硬い皮膚よね!

2014godzilla3.jpg
後ろから。
夜はライトアップされるらしいですが背中のせびれはピカピカ光ったりするんだろうか。

2014godzilla4.jpg
足跡。芝生の色で見事に再現。
ゴジラの尻尾の両脇に交互にいくつかあって、
まるでさっきまで歩いてたゴジラがここでズボッと埋まったみたいな感じになってました。

2014godzilla5.jpg
吠えるお姿さえあまりに気高すぎて剣を捧げたくなる。
どうでもいいけどこのご尊顔を拝し奉るとドシラ、ドシラ、ドシラソラシドシラ…と
伊福部昭氏の例のメロディが自動的に脳内再生されるよね。

ゴジラ好きの弟に写メ送ったら「おお、今年のゴジラじゃん」ってさっさと見抜いたよ!
わたしは近づいてみるまでわかりませんでした。修行が足りぬ。
2014_01
05
(Sun)23:47

江戸の入口、鬼平の街。

月曜日がウォーミングアップを始めたと聞いて逃げたくなったゆさです。
皆さんあけましておめでとうございます。(←それ前回記事で言った
なぜだ、21世紀も14年経ったのになぜわたしはオフトゥンから出なければならんのだ。むー。

お正月休み中は駅伝見たり、お雑煮食べたり、お節食べたり、おしるこ食べたり、
初売りや回転寿司に行ったり、いとこが連れてきた赤ちゃんのほっぺつんつんしたり
年末に録りためた番組消化したり、アニメ「蟲師」続章のお知らせに小躍りしたり
「のぼうの城」テレビ放送のカットのされっぷりに涙したりと盛りだくさんでした。
にしてもお正月休みの幸福感はほんとパない。休み明けの絶望感もパない。
さーはりきってー、おしごとだ!

ところで3日に、帰省していた友達と一緒に
先月リニューアルオープンしたばかりの羽生パーキングエリア「鬼平江戸処」に行ってきました。
池波氏直筆の鬼平。

寄居の星の王子さまパーキングエリアと同じで、
「鬼平犯科帳」の世界を再現したパーキングエリアですよ~。
何日か前にテレビで特集されていたのを見てすごく面白そうだなって思って行きましたよ。
すごくすごく楽しかった☆

以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開閉しますのでどうぞ☆

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2013_11
01
(Fri)23:52

この辺りに若紫や。

今日は古典の日だったので、Twitterで色んな人たちが色んな古典を語っていて
TLに次々流れてくる書名や作品名を見てわくわくしていたゆさです、こんばんは。
皆さんそれぞれ思い入れがあっていいですなあ。古典ばんざい。

古典の日とは。
『紫式部日記』1008年11月1日の記述に、貴族たちの宴会に参加した紫式部が
酔っぱらった藤原公任の「この辺りに若紫はいらっしゃいませんか」というつぶやきを聞いて
「光源氏のような人もいらっしゃらないのに、あのお方がいるものですか」と思った…と
書き記しているのですが、
これが、源氏物語の日本史上における最初の記録だったりします。
で、それから1000年後の2008年に源氏物語千年紀委員会が
日本の古典文学を顕彰する日として11月1日を「古典の日」と宣言し、
祝日にはなっていませんが、記念日として2012年に法律で定められ今に至ります。
このブログにも応援リンクを貼っていますが、詳細はこちら→「古典の日宣言

人生で一番初めに触れた古典てなんだろうと思い返すと、やっぱり竹取物語だと思います。
子どもの頃読んでいたのは「かぐや姫」のタイトルですけども。
(5人の貴公子たちの魅力がまったくわからなくてズルはダメでしょうと思ったりとか
かぐや姫が翁たちと別れて月に帰ってしまうのがものすごく悲しくて泣いたこともありました)
中学校の古典の授業で最初に勉強したのも、確か竹取物語でした。
「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ
よろづのことに使ひけり。名をば、さぬきの造となむいひける…」
まだ暗唱できますねえ(´ー`)。
翁の「さぬきの造」の名前がかっこいいとクラスで妙に人気だったのを覚えてます。
成立時期は平安初期で日本最古の物語文学と言われていて、
紫式部が源氏物語の中で「物語の出で来はじめの祖」と源氏に言わせています。
確かに今読んでみると起承転結のはっきりしたテンプレのような物語だと思う。

竹取物語と古今和歌集の完成時期は被っているという説があるらしくって
竹取の作者の候補の1人に紀貫之の名前が挙がってるそうですが
個人的には、貫之の人物や歌や土佐日記と竹取物語を見比べると
ちょっと違うような気はしているんですけども。
古今和歌集は先日までブログ連載していたお話を描いているうえで何度も読みましたが
なんだかなあ、月並みな表現ですが宝石を並べて埋め込んだような歌集だと思います。
読み手の個性がここまで強烈に出ている歌集もないような。
ちなみに万葉集は玉(ぎょく)、新古今和歌集は植物が並べて埋め込まれてるイメージ。

日本霊異記、今昔物語集、平家物語、十訓抄、御伽草子はどこから読んでも面白い。
霊異記は著者が僧侶で、勧善懲悪な短編集って感じです。
奇跡や怪異についての話がほとんどで、鬼や幽霊、極楽や地獄とか出てきますが
大丈夫、ちゃんと一般人の話もあるよ!(でもだいたい役人か盗人です^ ^;)
今昔でよく読むのは「本朝付霊鬼」の巻。
これにも鬼に悪人に幽霊、妖怪、オバケ、精霊、神様など変なものがいっぱいいるんです!!
それらがみんな自然に当たり前に存在する話が多くて
まあ人間とうまくいったりいかなかったりするんですけど、
どの話もちょっと教訓が入っててワサビが効いたような読後感があって癖になる。
平家物語はなんでこのカテゴリかっていうと、まあ鵺とか牛頭馬頭とか出てくるし、
ぶっちゃけると白河院がもののけだし、清盛はその子どもって説があるし
後白河院は大天狗だし崇徳院は怨霊だし、ほらみて!妖怪カテゴリ!!(笑)
御伽草子は、紫式部の言い方を借りるなら「現代の昔話絵本の祖」。
一寸法師、ものぐさ太郎、鉢かづき姫、酒呑童子、浦島太郎などが
現代の絵本とはすこし違う形で記されています。
どこがどういう風に違うのか読み比べると楽しいかもしれません。わたしは楽しかった(*´∀`*)。
(ちなみに瘤取じいさんの話が収められているのは宇治拾遺物語だ)

語り物だと江談抄が好きで、やっぱり幽霊やオバケがたまに出てくるんですが
あれはオバケよりも人間たちのキャラが濃くて楽しいです。
平安時代人って生への執着が尋常じゃない、こいつらちょっとやそっとじゃ死なないなって思う(笑)。
大鏡の平安ぶっとび狂騒曲ぶりもなかなかですけど、
語り部が200歳近く生きてる設定っていう時点で
日本ってこの頃から攻めてるなあと思ったりもします。
わたしはこの本で花山天皇の出家にまつわるエピソードを知って背筋が凍りついた。

大和物語や堤中納言物語もいいなあ。
大和は平安初期の歌物語で、短編ごとに歌が1首くっついています。
(伊勢物語もこの形式ですね)
主に宇多天皇の周辺にいる人たちの日常や悲哀を描く、じわりとくる一品。
堤中納言は虫めづる姫君(風の谷のナウシカのモデルになった話)の近辺しか読んでないですが
あれだけ読んでも楽しいです。姫君が生き生きしていますよ~。

物語も好きですが随筆や日記文学も好き~。
枕草子、紫式部日記、更級日記、方丈記、徒然草、奥の細道、大好きです。
個人的に読んでて一番楽しいのは枕草子かな!
いつも、うんうん、わかるわかるってうなずきながら読みます。
好きなもの、きれいなもの、苦手なものについてなんでそう思うかとか、
オフィスあるあるというか、働く人にとってすごく普遍的なこととか書いてある。
そして半分以上が中宮定子への敬愛で埋め尽くされている。Everyday定子様。定子様は世界の天使。
紫式部日記は人間関係に多く筆が割かれて
悩み多き人だった式部の人柄をしのばせます。
いくら漢字を書くことがためらわれる職場環境だったからって、
「一」も書けないふりをするとか涙ぐましいよあなた…!!
更級の作者の、源氏物語へのフィーバーっぷりに脱帽ですが
これ回想してるときの作者は晩年なので
「あのときの自分ちょっとイタイ」とか書いてるあたり本人にとっては黒歴史なのかもなあ、とも思う。
方丈記と徒然草は大学で学んで好きになったのですが、
鴨長明と卜部兼好の人間性が正反対なのでどっちも読んでて楽しい。
あとね、2人とも世を捨てているようで全然捨てきれなくて気になってしょーがないっぽいのが
文章の端々からうかがえて微笑ましいです。
おまえら絶対俗世のこと好きだろって(笑)。
奥の細道はまだ半分くらいしか読んでませんが
行く先々で「芭蕉さまいらっしゃいませ☆」ってもてなされる芭蕉がすごい。
どんだけ名前知られてるんだよ…。
あと、これ読んで白河の関がいかに難攻不落かというのが身にしみてわかったので
幕末史を勉強しているとき白河の戦いのところで情景がありありと想像できてウボアーってなった。

世阿弥の風姿花伝は最初読んだときさっぱりわからなかったですが
馬場あき子さんの解説つき本を読んだらするする頭に入ってきて
今では心の書のひとつになりました。
それでも世阿弥の言葉はすごく遠くにある感じで未だに掴みきれずにいます。
有名な「秘すれば花なり」のくだりとか、まだ完全には理解できてないだろうな自分…。
なんでもないときにふと予想外の感動が押し寄せてくるのはわたしも経験がありますが
そういう絵を描きたいってずっと思っていたりします。
思ってるだけ。思うだけならタダ。←
それ以前にわたしはデッサンをやれ。ぐぬぬ。
よく写真家さんが「いい1枚は明日撮れるんです」とかおっしゃるけど
絵もおなじで常に描きたい絵や憧れの絵はあってもゴールはないっていうのが
描き続けることなのかもしれませんね。
ゆるくいこう。


本日のお絵かき↓
仏師。※クリックで大きくなります
運慶&快慶。
紫式部が源氏物語について日記に書いてから約200年後に
この2人をリーダーとする仏師集団が東大寺の金剛力士像を制作した記録が
『東大寺別当次第』に書かれます。
身長8メートルもある阿吽像ですが、わずか2ヶ月ほどで作り上げたとされているそうな。
熱い現場だったんだろうなあ。

金剛力士像の落慶供養が10月3日(新暦11月8日)なので本当は10月に描くはずでしたが
うっかりしてしまったのでせめて新暦に間に合うようにと思って描いた次第です。
*ブログ内のイラスト記事一覧はこちらです*
2013_03
08
(Fri)23:52

白鳥は悲しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ。

上野誠さんの『天平グレート・ジャーニー 遣唐使・平群広成の数奇な冒険』を読みました。
Twitter上の、主に歴史クラスタさんたちの間で時々この本が話題になっていたので
少し前から気になっていたのですが、
これは、かなり、読み応えがありました!
遣唐使として唐に渡り、帰るときに嵐で遭難してしまい崑崙国(今のベトナム)に漂着して
流行病で部下を失ったり政府に幽閉されたりさんざんな目に遭いながらも
あきらめず旅をしつづけて中国の蘇州に戻り、阿倍仲麻呂に謁見して助けられて
渤海国使節団とともにようやく帰国することができた、平群朝臣広成が主人公の歴史小説です。
(その割に表紙の絵は「弘法大師行状絵詞」でしたけど^ ^;)

著者の上野氏は本業が大学の研究者なので
正直、読む前は「学術書みたく文語で書いてあるのかな」とか勝手に思っていたのですけど
蓋を開けてみたら全然そういうのじゃない、むしろちょうどよい具合にくだけた
大冒険小説でした。。
表紙の折り返し部分の内容紹介で、「学芸エンターテインメント」とあってああそれだって思った。
小説とも学術書とも違う感じがするのは、
登場人物(実在の人物なのでそう表現するのも何だかムズムズするけど)の会話が口語調で、
地の文が講義のプレゼン風(いい意味です)だからかもしれない。
章タイトルが「諸国の巨木、竊に伐られ、時に平群広成、私に多治比広成の邸を訪ふ」とか
漢詩の書き下し調なのも雰囲気があってよいなあ。

遣唐使の航路や、長安までの旅路、長安においての儀式や学習活動なども
こと細かく書いてあって、読むのが大変でしたが勉強になりました。
市販の研究書だと、「遣唐使がこういう航路で海を渡って、この道順で長安まで歩いて、
長安についたら皇帝に謁見して」などなど
物事の進行が一言で済まされていたりしますけれど、
この小説は、たとえば長安の儀式においても挨拶の言葉や献上品の内容や
並んでいる人たちの表情ひとつひとつにも気を配ってあって
見てきたような感じがしてリアリティあるなと。
多少は政治劇っぽい部分もありますけど、広成は大使や副使ではなく判官なので
あまり表舞台は書かれていなくて、でもこれくらいがいいんじゃないかと思いました。
タイトルにもあるけど、あくまで広成の冒険が主体なんだもんね。

安一族がすごくいい味を出していて大好きです。
特に安東が広成と三麻呂を崑崙国から連れ出した手段の鮮やかさがハイレベルでした。
かっこよかったよ安東~もう、好きっ☆
こういう、「外見からは何を考えているかわからないけれど
行動には筋がとおっている」人はゆさ的にはクリティカルヒットでして。
広成たちが安一族の手で蘇州に送り届けられるあたりは
タイムスクープハンターとか歴史秘話ヒストリアあたりで映像化すべきでしょ…。
特に安仁の一件を聞いて、広成が「かくや、かくや」と呟くシーンは
ナレーションではなく役者さんの声でやってくださいまし…。話がずれてきた…。

阿倍仲麻呂が広成を試しながらも広成の帰国に手を貸す、という構図は
同じく上野氏が脚本を担当されたオペラ『遣唐使』にも見られたので
ちょっと懐かしく思いました。
(あのオペラもっかい関東でやってくれないかな…観たい…)
仲麻呂と広成のやりとりはほぼ会話文だけで構成されていて
すいすい読めて楽しかったです。
わたしは「お互い、立場を理解しながらも相手のために全力を尽くす」というパターンに
ものすごく弱いのですが
仲麻呂が立場のボーダーラインギリギリのところまで歩み寄って来て
広成を助けようとする姿があまりにかっこよくて、
広成も最初は仲麻呂に頼るべきか判断しかねているけど
仲麻呂の真意に気づいてからは全面的に信頼していて、
「こういう関係いいなあ…」と2424しながら読んでいました。

広成たちが帰国していく部分には当時の外交関係もからんでくるので
「こういう形だとまずいから、こういう解釈でいかがでしょう」とか
当然のように行われているところがニヤリとしますね( ̄▽ ̄)。
広成も「しばらく考えて(考えるふりをして)」とかぬけぬけとやっちゃうし。
というか、仲麻呂と別れてからの広成はやたらと勘がはたらく人になっていてビックリした。
いろいろ経験して立ち回る術を身につけたのですなー。
(そもそも彼は遣唐使だから、日本を出発する前に外交教育は一通り受けているだろうけど
その知識の使い方を覚えたということでしょうか)

あと聖武天皇のキャラが新しすぎる件。
「ゆうゆうと俳優(わざおき)のように歩く」とかどういうことなの…!
今まで読んだどの歴史小説にも、こんなますらお全開な聖武天皇は出てこなかったぞ(笑)。

…というわけでだいたいの点においては面白かったし勉強にもなったのですが。
実は気になる点がひとつあったりします。
何かというと、吉備真備のキャラクター造形について。
わたしが真備びいきということもあるのですけど(というか最大の原因はそれだと思うけど)、
この小説の真備は広成に対して全然本心を明かさなかったり、
井真成がなくなったところへやって来て蔵書をごっそり持って行っちゃったりと
妙にいやらしく書かれていてあーこれ無理だわ…と本を閉じかけてしまった。。
たぶんわたしと上野氏の真備観が異なっているのでしょう。
あと、タイトル忘れちゃったのですが、以前に井真成が主人公の小説を読んだときも
なぜか真備や玄昉があまりいい人じゃなくてですね…。
山之口洋氏の『天平冥所図会』とか、高橋克彦氏の『風の陣』での真備は
前者はあたたかくやさしいおじさん、後者は老獪なデキるおじさんという感じだったので
個人的にとても好感が持てたのですが。

…とかなんとかで、100%満足とはいかないのですけれども
読み応えがあった!というのが総合的な感想です。
381ページと割と厚めな本ですが、時間をつくってあと2回は読み返したい。


ああでもない、こうでもない。※クリックで大きくなります
「貫之1111首」古今集編その4。3はこちら
明日のためのその2。まずは歌の分類を決めます。

貫之「四季・恋・賀・羇旅・離別・哀傷…」
友則「おおすじ、これでいいか。あとは分類しながらひとつひとつ決めよう。場合によっては範疇広げてもいいし」
躬恒「分類できなさそうな歌は?」
忠岑「むやみに外したくねぇしなー雑体でまとめるとか?」
貫之「それがいいな」
友則「よし決まり。明日は、みんな空いてる?」
貫之「暇」
忠岑「暇です」
躬恒「今夜宿直なんで、これから戻ります」
友則「じゃあ明日の午後からやろう。急ぎじゃないし、無理せず、ゆっくりね。無理だったらすぐ言ってね」

古今和歌集の撰者たちは編集所に常勤していたわけではなく、
それぞれの仕事とかけもちしながら資料の収集にあたっていました。
アフター5は別の顔(違)。
2013_02
09
(Sat)23:39

さあ、あなたの暮らしぶりを話して。

中野三敏さんの『江戸文化再考』を読んでいます。面白い。
意識、無意識に思っていた疑問が次々解かれてスッキリします。
江戸の人々の思想とか地理とか、物の見方とか、普段何を考えて何をどうとらえていたか。
こういう視点の本がずっと欲しかったので読めてよかったです☆

近現代の江戸評価…「近代主義的に評価できる部分を摘まみ上げて、それだけを評価してきた」とか
頷けすぎて。。
新時代は旧時代の否定から始まるという例に漏れず、近代人は江戸を江戸に即して眺めることをせず、
「近代的に見て」評価できる文化や芸術、学問、エコ生活術などを
ピンセットでつまみ上げるようにピックアップして、他の部分はほとんど見てこなかった。
でも、そういう姿勢にはそろそろ終止符を打って
近現代から見て良いところも悪いところもひっくるめて江戸時代というものを理解しようという
姿勢を持つべきではないか…と中野先生は仰っていて、
昨今の江戸ブームに対してわたしが感じていたことが具体的にズバッと言葉にされていて
ものすごくスッキリしました。
いや、江戸ブームに限らず、平安ブームや戦国ブームに関しても同じことが言えるんだけど。

世界についてのとらえ方も、江戸の知識は遅れていたと言われがちですけども
当時の大名たちは日本地図や、翻訳された世界地図をきちんと所持していて
世界の大陸や海について十分に知っていた…ということも
ああやっぱりそうだったんだなぁと思えてホッとしました。
貿易拠点が長崎に限られていたとはいえ、
江戸中期には庶民も海外文化に触れられるイベントが各地で行われていましたから
大名たちが世界に目を向けるのも自然な流れだよなって思っていたので
裏付けされて嬉しい。
さらに、司馬江漢の弟子に片山松斎という御家人がいて、蘭学にも詳しかったらしいですが
この人が書いた本の中に「古事記や日本書紀に書かれたことは世界の開闢だと言う人がいるが、
あれは日本の開闢であり、世界の開闢を書いたものではない。
また、日本は中国より遅れているという人がいるけれど
それは日本の傷ではない。たとえ逆であったとしても名誉でも何でもない」という内容のことが
あっさり書いてあったりするとか。
中野先生はこれらを、江戸の封建制を考えるうえで大きなポイントになると仰っていて
わたしもすごくそう思いました。

お江戸の思想史の章が目から鱗でしてな…。
江戸時代の思想の中心だったのは朱子学と陽明学ですが、
その陽明学の中の、特に狂について。
狂というのは頭がおかしいという意味ではなく、人間存在のひとつのレベルなのだそうな。
頭が良くて志が高くて、目的に向かって勇猛邁進するけれど
その高貴な精神に体がついていかず時々言語不一致になったりする人を
「狂者」というらしいです。初めて知りました。。
これを聞いて思い出したのが曲亭馬琴の平賀源内評ですね…。
源内が晩年に起こした殺傷事件(源内の蔵書を勝手に読んだ知人を、源内が斬りつけた事件)を、
当時13歳だった馬琴が噂に聞いて文章に書き残しているのですけども、
「鳩溪(源内のペンネーム)が常に稿本を秘藏して人に見せずといふ噂は此外にも聞たることあれば
さもありけんと思ひ」と書いてあって
これ単に源内ってそういう奴だから、みたいな評価かと思っていたんですが
もしかしたら狂の思想も影響していたりして…などとふと。
お江戸の人々の思考回路がちょこっと垣間見えた気がします☆


あと、狂は老荘思想のことばでは「畸」と表現されています。人間のレベルとしては狂とほぼ同じ。
人として最高レベルなんだけど、ちょっと極端な部分があるような人を畸人というそうです。
儒教の狂、老荘の畸。さらに仏教的に言うと「禅」にあたると中野氏は考えているらしい。
なるほどなあ。
そういえば先日、江戸時代に出版された『近世畸人伝』を読んでみたら
18世紀の狂者たちが紹介されていまして、
久隅守景や円空や柳澤淇園がいるのはわかるけど、池大雅が載っていてビビりました。
いわゆる畸人というイメージではなかったので…大雅もそうとらえられていたんだな。


で、狂と聞いて思い出すのが、1200年前の平安時代に実際にいた「野狂」と呼ばれていた人のこと(笑)。
小野篁の「野」に狂とつけて、野狂(やきょう)ですね。
たぶんあの「狂」も「志が高くて時々言語不一致」な意味だったんだろうなあと。
本人の人生を見るともうそのまんまだなと思うけど。

本日のお絵かき↓
謫行吟。※クリックで大きくなります
野狂の人。
*ブログ内のイラスト記事一覧はこちらです*


そんな狂の思想を最近久しぶりに聞きましたねぇ。大河ドラマ『八重の桜』で。
第1話でオグリン演じる吉田寅次郎が「断固として事を行うとき人はみな狂気ですけぇ」と言うのを聞いて
「よし!」って思った(笑)。長州人のセリフだー!
実写であの言葉を聞くとさすがにドキッとします。吐息が聞こえるから。
そういえばオグリンが死罪宣告受けた後に叫んでいたのは孟子ですな…。
至誠にして動かざるもの未だこれあらざるなり。
で、孟子の影響を受けた王陽明の学問が陽明学なわけだ。繋がってるなあ。
そして獄中生活の松陰の世話をしていたはずの高杉晋作はやっぱり出なかったね…伊勢谷友介さん…。
(それ別のドラマ)

しかしまだ5話目というのに見ごたえありすぎます、『八重の桜』。
次々にすごい人たちが出てくるのでモチベーションが一向に下がらず、
次々にすごい人たちが去っていくので心臓がもちません。
オグリンの松陰や榎木孝明氏の井伊直弼がもう見られないなんて淋しいよー(TmT)。
特に松陰は29歳で亡くなっているので、オグリンは年齢的にもぴったりで自然な感じが良かったです。

3話の覚馬兄つぁまに脳みそ昇天しかけた件。
すばらしいヘラクレスヌード筋肉!なにあのダイナマイトバディ!着物の下にダイナマイトバディ!←
東大寺南大門の阿吽像もびっくりの芸術的な肉体美でありました…まさに御神体…。
やばかった。どんな鍛え方すりゃああなるのだ。
Twitter見てたら阿鼻叫喚で、TLに「20件の新しいツイート」とか出て、みんな…ナカマ…!って思った。
3話の槍の勝負も、5話のこうもり傘のチャンバラもかっこよかったよー。

西郷頼母さんは兄つぁまをよくたしなめるけれど、
全力で兄つぁまたち若者を守っている姿がすごくいいなと思います。
というか、
兄つぁまが西郷さんに意見を言う

西郷さんが出すぎない方がいいとたしなめる

西郷さんが兄つぁまの意見or兄つぁまと同じ事を考えていますと若殿に伝える

言われる前から若殿は兄つぁまと同じことをすでに考えている
がデフォになりつつあってだな。
若殿と兄つぁまのシンクロ率高すぎて床をゴロゴロ転げ回る日曜夜6時です。たまらん。

ドラマでも描かれているように、当時の会津の人たちは勝海舟ら開国派と同じように
世界の技術に目を向けて新しい制度や武器の導入をしていて、
決して幕末の戦争で負けたからといって保守的な思想で凝り固まっていた訳ではないのだよね…。
開国派も佐幕派もそうじゃない人も、見えない明日を今日よりよくしようと日々進歩していて、
あの戦争の勝敗なんて誰にもわからなかった。
ドラマは今後、二本松の戦いとか白虎隊とか、かなりつらい部分が描かれていきますが
できるだけ会津側にも開国側にも寄り添いすぎずに、
佐幕派が負けてしまったのは時の運だったのだ、みたいな描き方だといいなと個人的には思います。

そして山川大蔵くんは少女マンガによくある「報われないキャラ」のフラグが盛大に立ちまくっている。
2012_08
18
(Sat)23:58

心のすみか。

scribo ergo sum」の八少女夕様と相互リンクさせていただくことになりました。
紹介記事はこちらです。どうぞどうぞ、よろしくお願いいたします☆

妹が帰省してきたので、恒例になっている「今日までに買った新刊を見せ合う会(主に漫画)」を
昨日から開催してがっぽり漫画漬けな休日だったのですけども、
わたしが買った群青さんの『まつるかみ』を妹がかなり気に入ったっぽくて
自分も買いたいと言いだしました。
トバ様がサンタクロースをする話と、指と引きかえに願いを叶える黒鬼の話がツボだったらしい。
異形の者が人を喰らう目的で近づいたのにいつしかそれができなくなる、というモチーフは
日本昔話や漫画にも割とみられるし、よくわかる気がするな…。
(そしてこの作品に限らずITANコミックスはハイレベルな作品が多いと思う)

日本の文化史の中の鬼ってあまり人を警戒しないというか、
むしろ警戒しているのは人の方じゃないかなという印象が個人的にはあります。
今昔物語集でも御伽草子集でも、雅な鬼や風流を愛する鬼はいるけど
(たまに、人に危害を加えたりぺろりと食べてしまう鬼もいるけど)
時々、人に対して余りにも無防備ではないかと思える描写がある。
羅城門の鬼は内裏に忍び込んで玄象を持ち出しちゃうし、
葉二つの鬼は自分から源博雅に声かけちゃうし、
瘤取りじいさんの鬼たちは、おじいさんの身元なんか全然気にしないでお祭に誘ってるし
桃太郎の鬼たちも、なんかあっさり島に攻め込まれたりしてるし。
酒呑童子を怖がったのは人で、一寸法師の鬼を怖がったのも一寸法師たちだし…。
大工と鬼六とかソメコと鬼などを見ると、「なんだぁこいつら超かわいいなぁ!」みたいな
いとおしくてたまらない存在になってる。

西洋だとこんな鬼いたかな…とふと考えたのですが、
そもそも西洋には鬼の話ってあったっけ、とか、根本的なところから考えなきゃなわけで。
思いつくのはグリム童話の人食い鬼とか、金の髪の毛が三本ある鬼か…。
(あれ挿絵つきの単行本で読んだ記憶があるのですが、鬼の絵がめちゃくちゃリアルで怖くて
そのページだけとばして読んでいた覚えがある)
ただ、邦訳で鬼と訳されたものを読んだだけで原文にあたったわけではないので、
本来は、鬼というよりはデビルやサタン(ドイツ語だとトイフェルかな)に
あたるのかもしれないですけれども。

他にも、ゴブリンやトロルを鬼とみなしたり
「ジャックと豆の木」に出てくる大男は鬼ではないかという考え方もあるようですが
彼らも別だん、人を怖がったりしていないように見えます。
『指輪物語』に出てくるオーク(『ホビットの冒険』ではオーク鬼)も怖いものなしって感じだし。
あと、『ムーミン』のお話に飛行おにというのがいますけれども
彼はもともと"魔物"という解説がくっついているから
鬼というより悪魔にカテゴライズされるのかもしれない。
余談ですが、小さい頃のわたしは飛行おにの魔法のシルクハットが欲しくてたまらず
自分の帽子をハットに見立てて遊んでいたことがあります。
家が植物でいっぱいになったら面白いだろうなぁとか、ずーっと妄想していたんです(笑)。

いつものことですが、鬼について考え出すと止まらなくなります。マーイプレシャース。

あ。今思い出したんだけど、だから何ってわけじゃないけど
『天空の城ラピュタ』で、ラピュタの庭にいた園丁のロボットやヒタキに
パズーが「人を怖がらないね」って言うシーンがあるけど、
あそこでも先に警戒していたのはパズーの方なんだよね。
シータを守りたかったから、ね。


昼下がり。※クリックで大きくなります
「貫之1111首」歌合編その8。7はこちら
気難しい話は終わりにして、のんびり過ごす休日の午後。

貫之「歌合まであとひと月か…。早ぇーなぁ」
躬恒「ゆっきー、作ってる?」
貫之「ああ」
躬恒「北の方の評価は?」
貫之「毎日、けんか。でもおれ、あいつの勘は誰より頼りにしてるんだ」
躬恒「わたしも毎日妻が見てくれてる。最近は娘が言葉を覚えて、一緒になって叱咤激励がとんでくるの」
貫之「いいじゃないか」
躬恒「いやー、時々ついていけなくなるよ」

ハイレベルな配偶者を持ったがゆえの悩み。

ちなみに貫之が持っているのは琴(きん)で、躬恒が持っているのは楽琵琶です。
どちらも小型でお手軽楽器。
2012_04
16
(Mon)23:39

ドール・ドール・ドール。

前回記事の続き。原宿の太田記念美術館へ行ったあとは
目黒雅叙園の「人形師辻村寿三郎×平清盛」展へ行ってきました。
有形文化財である百段階段に連なる7つの部屋に、
辻村氏制作の平家の人たちの人形が雰囲気たっぷりに展示されています。
人形が1体いるだけでそこに世界がひとつできたみたいな感じがしました。
どれもすごい存在感だった。

辻村氏の作る人形は顔から何からすべて布製であるせいか、柔らかい雰囲気であたたかくて
さわるとすべすべしてそうな印象があります。(さわるの禁止だったけど)
ので、どの人々にも体温や吐息が感じられて見入ってしまいました。
一番多かったのは清盛ですね。お母さんと一緒の子ども時代、なまいきそうな顔をした少年時代、
佐藤義清(西行)と一緒に小さな崇徳天皇をあやす北面の武士時代など
色んな姿の清盛がいました。
(たぶんもう少し年を重ねた姿は後期展示に出てくるのだと思う)
忠盛はしっかりおじさんでしたが、若い頃もありましたよ~。
63歳白河天皇&15歳の忠盛とか…!うおおたぎる。
祗園女御は想像とだいたい同じでしたね~。
水売り女時代の女御が大原の早乙女みたいな格好をしていてかわいかったです☆

「讃岐に流されて怨霊になってしまった崇徳天皇を
懸命に鎮めようとする西行」の人形が何ともドラマチックで見とれた。
そこだけ世界のスケールが周りと全然違いました。人形のエネルギーが爆発してた。
崇徳と西行は仲が良かったと言われているので、こういう場面は切ないですな。。
黒い羽に覆われた姿の崇徳天皇の奥の方に、小さく、人間の格好をした天皇もいました。
良心というやつだろうか。
そう思って西行の顔を何気なく見たら、頬にニス(だよね?きっと)が塗られていて
そこだけ部屋のあかりが当たって光っていることに気がつきました。
たぶん涙じゃないかと思う。

平家の人々の他にも、空海や仏様や遊女や歌舞伎役者などの人形がいました。
お遍路中の空海のかわいさったらハンパないです。目がくりくりしていて金長狸みたいだった(*^ ^*)。
愛染明王の迫力がすごくて、小犬くらいの大きさなのに圧迫感を感じてしまった。。
これはお寺に奉納されても問題ないクオリティだと思う。
桓武天皇とその子どもたちもいました。
特にかわいかったのが神野親王(嵯峨天皇)。
下げ角髪から垂らしたぴんとはねていて、リンゴ色の頬で
すてきな笑顔をしていましたね~惚れてまうやろ。
遊女たちは太夫から禿までいて、文字通り花魁道中のような華やかさでした。
太夫の着物が一番地味に見えましたが、よく見ると一番豪華な布が使われていたような気がします。
一見、派手じゃないけど実は華やかっていうのが太夫ですよな~素敵だ☆
「暫」の団十郎は、ここに来る直前に太田記念美術館で清長の「暫図」を見てきたので
すぐにそれだとわかったのですが
二次元でもすごいインパクトだったのに、三次元になったらさらにインパクトあった。。
もはや起き上がり小坊師どころじゃないよ…これは達磨だよ…!!

ちょっとレトロな時代の着物女性たちと、現代の振袖を着た少女たちの展示もあって楽しかったです。
落ち着いてしっとりした着物と、華やかでゴージャスな着物、どっちもよいですな~。
丸盆に雪うさぎを乗せて持っている振袖の子がかわいかったので
ショップでポストカード買ってしまった☆
あと、すごく勉強になりました。
辻村氏は古着をほどいて人形用に仕立て直して人形たちに着せるそうですが、
模様の位置などにきちんと配慮していて、振袖や小紋や訪問着などの区別がつくように作られているのが
おおおお見習わなければあぁと思いました。。
レトロな女性たちが着ている着物とか、そのままサイズアップすれば着られそうだもの。すてき。

小さい頃から人形やぬいぐるみ遊びが好きだった身としては、
テンションがあがらずにはいられない展覧会でした。
和の人形いいよ!好きっ☆


むしゃむしゃ。※クリックで大きくなります
歌人シリーズ9。8はこちら

夜勤中にひたすら食べて飲む人たち。
(忠岑が帰らないのは、貫之と一緒に物憂い顔の練習をしている間に月が沈んでしまったためです)

躬恒「でもあれだね、岑ちゃんの例もあるし、これからは、とっさのときに詠める力って必要かもしんないねえ」
忠岑「だなー。あーもっと何か読まなきゃなあ」
貫之「万葉集読めよ」
忠岑「でもあれ100年も前のじゃん。今のだよ今の。今様がどんなか知っとかなきゃ」
貫之「だったら、半年前に菅家がまとめたのがあるだろ」
忠岑「ああ、新撰か。あれお上が出し惜しみしてるんだもん、まだ写せてねぇよ」
貫之「友則に頼んでやろうか」
忠岑「ほんと!?ってか、友則さん、持ってんの!なんで!?」
貫之「あいつが大夫のお気に入りだからだよ」
忠岑「すっげー!」
躬恒「今わたしが借りて写してるから、終わったら貸すね。友則さんにはゆっきーから言ってもらお」
忠岑「よっしゃあああ、お礼に書き足して返そ!」
貫之「や・め・ろ」

貫之たちが青年期を過ごした9世紀後半は、文化の主流はほぼ漢詩でしたが
人々が集まって歌を詠み合う「歌合」もしばしば行われるようになった時代でした。
貫之も大学を出たときに歌合デビューを果たしています。

ちなみに…
菅家とは菅原道真のことで、その道真が編纂した歌集が『新撰万葉集』と言われています。
2012_02
21
(Tue)23:13

祗園精舎の鐘の声。

土曜日に葛飾区郷土と天文の博物館の「星と琵琶の世界-琵琶で聴く平家物語」を聴いてきました☆
プラネタリウムの下で『平家物語』の薩摩琵琶語りが聴けるというイベントです。
星空をバックに歴史と軍記物語と芸能を堪能できるなんてラッキー☆と思って気軽に申込んで参加したら
プラネタリウムは綺麗だわ琵琶は情感溢れるわで頭の中がてんやわんやでした。
とても雰囲気のよいイベントだったと思います。行って良かった♪
(この日は金糸の扇模様の赤い道行を着て行ったのですが、
受付の人に「綺麗なお着物ですね」って言っていただきました。ひゃっほーい☆)

今回演奏された平家物語の章はこちらです↓
・「祗園精舎」
・「敦盛最後」
・「壇ノ浦」

語り部の平田卓さんは鶴田流薩摩琵琶の奏者で、この博物館で平家物語を語るのも3度目だそうです。
イベントの出だしで柱が欠けるアクシデントがあったのですが、
(このときピンチヒッターで冬の星座の解説をしてくださった学芸員さんの語りが
ものすごくテンポが良くて聞き入ってしまった)
ちょこっと修理して「じゃ、いきます」と奏で始めた音色ったら、
わたしがこれまでに抱いていた琵琶の音色のイメージをぶっ壊したよね!
撥で撥面をたたいたり、バイオリンやエレキギターみたいに弦を撥でこすったり
かと思えば弦を押さえてひかえめな音を出したりして、とにかくたくさんの音が出るので
気がつくと引き込まれて聴き入ってしまっていました。
繊細な音からすさまじい音まで出せる薩摩琵琶は、
琵琶にしては音域や演奏方法の種類がかなり多めなんじゃないかと思います。
琵琶の上を縦横無尽に動き回る撥を目で追っていたら目が回るかと思いました。
あれだけ大きい撥だったら色んなことができるだろうな…。
平田さんも、語る前に「弦を押さえるとこうなります」「離すとこんな音になります」とか言いながら
色んな音のパターンを披露してくださったし。

「平家物語を琵琶の生演奏で聴く」というのは実は初めての経験だったので
語りで聴くとこうなるのか~とか色々考えながら聴きました。
当時の琵琶法師たちがこの物語をどのような節で語っていたのかを垣間見られた気がして
感慨深かったです。
覚一本を底本としているとはいえ、物語の文章をそのまま語るところもあれば
省略したり膨らませたりして聴衆が聴きやすいようにしている部分もあって、
そこは奏者の腕の見せどころなのかもしれません。
しかしね!敦盛と直実のくだりは読んでも聴いても泣くよね!!
平田さんは他に、梁塵秘抄の「遊びをせんとや生れけむ~」の今様も歌ってくださいました。
節は平田さんオリジナル。

薩摩琵琶はかつて薩摩藩士が士気を高めるために軍記物を奏でたといいますが
確かに戦を語るときの伴奏として最上の琵琶なんじゃなかろうか。
ちょっと重いけど、琵琶も撥も大きいし、大きくて派手な音も出せるし
「ひとつの音が響き終わらないうちに次の音を出す」のをじゃんじゃん続けると
音がどんどん膨れあがってフルオーケストラって感じになるし。
(たぶん楽琵琶や笹琵琶で同じ音を出そうとするとその琵琶がもたないと思う)
そういえば去年の春に湯島天神で聴いた薩摩琵琶の演目も
「白虎隊」と「八甲田山」だったっけな…。これも両方とも軍記物。

ところでこの鶴田流薩摩琵琶、今年の大河にも使われているのだそうな。
「ちょうど明日放送の回から琵琶が出てくると思います」と平田さんがおっしゃっていたので
楽しみに見てみたら、
予想以上に琵琶を奏でるシーンがいっぱい出てきてひゃっはー☆ってなった。
女性たちの奏でる琵琶でしたから、平田さんがイベントで奏でたように激しくはなかったけれど
音が少ないぶんかえって凛とした響きがあるような感じがした。

プラネタリウムも久し振りに堪能してきました。
暖房のきいたあったかい部屋で冬の星空が見られるとか最高じゃないか…!←
あと、琵琶の演奏が始まると、天井いっぱいに桜の花の画像が映し出されたり
壇ノ浦の語りの場面で海になったり、平家物語絵巻の壇ノ浦合戦の絵が出てきたりして
すごく雰囲気ありました。
こんな形で絵巻を見る方法があったかーと感心しながら楽しんでしまった。


それから、イベントが終わって会場を出たときに
階段の吹き抜けに設置されているフーコーの振り子を見てきました。
丸いすり鉢状の装置の中を振り子が、同じ振り幅でのんびりと揺れているのですが、
地球が自転しているため揺れる方向が時計回りに少しずつ変化し、
約41時間かけて360度回転するらしいです。
装置の中にはピンがいくつか設置されていて、数分ごとにひとつひとつを振り子が倒していきます。
面白ーい!!
地球の自転を振り子で感じられるとは思いませんでした。
しかしピンが倒れるのを待っていると帰りの電車がなくなりそうだったので
諦めて帰りました。。。
また来る機会があったら今度こそちゃんと見よう!
2012_01
14
(Sat)23:30

御容貌に思ひよそへつつ。

ポスター。
というわけで行ってきました~☆目黒雅叙園の「百段階段×源氏物語」展。
あー何もかもが華やかで艶やかで眼福だった!
会期ギリギリだったのですが、夕方に行ったら結構すいていてゆっくり見られました。

雅叙園に入ってすぐのロビーに、
『源氏物語』の「紅葉賀」で源氏と頭中将が青海波を舞う場面を再現したジオラマがありました。
京都の風俗博物館から出張してきていたようです。人形さんたち超かわいかった(*´∀`*)♪

じゃん☆
会場入口にはこんな人たちがいました。特に誰とは書いてありませんでしたが、誰なのかな。
たたずまいがエレガントです☆
(ところでどうでもいい余談ですけど、ここに来るまでに乗ってきたエレベーターの扉や内装が
ロココ調でものすごく派手で、
対して会場入口の↑は、全然派手に見えないのに贅を尽くしていて華やかさがある、というのが
何とも対照的で、それでいて違和感なく収まっているのが面白いなぁと思いました)

現在公開中の映画で衣装デザインを担当された宮本まさ江氏プロデュースの衣装が
階段に隣接する7つの部屋に所狭しと展示されています。
季節感とか有職故実とかも反映されてはいるけど、
最終的には「その人っぽさ」で作られている衣装が多かったように思いました。
どれも、見ながら「うんこの人こういうの着てそう」ってうなずいてばかりだった。
物語の人物と実在の人物では、衣装の雰囲気が明らかに違っていたのも面白かったです。
光源氏の衣装がどことなくふわふわした印象があるのに対して、
藤原道長や紫式部の衣装はくっきりと輪郭線が見えるような印象でした。
布地や刺繍にはっきり差があるというか…。
あれだ。映画『おもひでぽろぽろ』で、思い出編が淡い色で描かれているのに対して
現代編が人物も背景もはっきりした色で表現されているとか、そんな感じ。

印象に残ったのは藤原さんちの道長さん。存在感がハンパないです(笑)。
十畝と星光の間の2箇所にいたけど、どちらも彼がいちばん自己主張してましたよ。
特に十畝の間にいた彼が座ってた敷物ったら、「オレはここにいるぜ」オーラがばんばん出てた。
黒地に金糸って目立つよな…。
その隣に紫式部がいたのですが、彼女は藤が刺繍された白い着物を着ていました。
白地の下から紫の着物の色が透けて見えて美しかったですね。
彰子は桜色に大きな花の刺繍がされたかわいらしい感じの着物を着ていました。
あと、安倍清明が白い衣装なのはあれですか、野村萬斎氏の影響ですか(^ ^;)。
(公開中の映画の後半だと、一応、彼がキーポイントなのですよね確か)

物語の人たちの衣装も負けずに華やかです。
葵の上の衣装が特に美しかったー☆
おとなしい柄なのに、よく見るとかなり贅沢な布を使っているのがわかってヒョエーと思いました。
一見しただけではわからないのが、この手の衣装の奥深さなんだよなぁ。
重ねている着物の数も、紫式部や御息所や夕顔に比べてぐんと多いです。
思わず何枚着てるか数えるという、酔っぱらった藤原実資のようなことをしてしまった。。
六条御息所の衣装の背中のクモの巣がめっちゃリアルでどきりとします。
こんな人がリアルで出てきたら源氏じゃなくても圧倒されちゃうよ…。
夕顔は想像していたのとだいたい同じでしたね~。近侍していた童もかわいかったです。
藤壺宮は、落ち着いた紫色の衣装でした。
源氏の衣装が最も多かったのは、さすがに主人公というところかもしれません。4人もいたし(笑)。
個人的に気に入ったのは、漁樵の間の源氏が着ていた黒の指貫。
なんというか、一番源氏らしい気がしました。

百段階段の各部屋そのものも、意匠が凝らされていて見応えがあります。
漁樵の間の、床の間の柱の浮き彫りには溜め息しか出なかった…。
こんな柱みたことない。
四方八方が鏑木清方の絵で埋め尽くされている清方の間も良かったですよー。
壁だけではなく欄間にも描いているそうな…どんだけ手間暇かけてるの…。
天井には花鳥風月や扇絵がいっぱい描かれていて、こちらもとても華やかでした。
あと、階段に足を踏み入れたとたんに空気がヒヤリとしたのが忘れられない。

それから、階段下にあったショップで猛烈にテンション上がりました!!
オリジナルデザインの狩衣とか帯とか売ってて、見てるだけで楽しかった~。
ススキにとんぼが舞う柄の帯と、藤の刺繍がある帯と
御息所のクモ柄スカーフはちょっと欲しかったです。
とどめは源氏香の帯止めだよ…!買いたかった…!しかし予算が足りなかった…!!
雅楽ストラップはうっかり買ってきましたけども。


あと、雅叙園に来たのが実は初めてだったので、本館も散策してきました。
すでに夕方5時を回っていてすっかり陽が落ちて、館内のあっちこっちに灯りがともっていました。
↓は宴会場入口の水場にあった扇と花車。
背景が平安時代の女性たちだ。

水の音しかしない。
反対側にあった扇です。ひらひらきらきら。

「いづれも、劣りまさるけぢめも見えぬものどもなめるを、着たまはむ人の御容貌に思ひよそへつつたてまつれたまへかし。
着たる物のさまに似ぬは、ひがひがしくもありかし」

(『源氏物語』「玉鬘」より紫の上の言葉)


帰りの電車の中で、センター試験を終えた学生さんたちが興奮気味に答え合わせをしていて
あーがんばってきたんだなぁ…としみじみ思いました。
皆さん本当におつかれさまです。良い結果でありますように。
2011_11
25
(Fri)23:44

アート&ハート。

先月までの『盆栽春秋』に載っていた小林東雲氏のインタビュー記事を読んでいて、
東雲氏のたたずまいや語り口が、どうも誰かに似ているなぁと思っていたのですが
「ああ、小林忠氏に似ているんだ」と今更のように思い至りました。
片や水墨画家・片や江戸絵画研究者でお立場はまったく異なる人たちなのですけれど、
おふたりとも口調がとても落ち着いていて、ことばが簡素で的確で鋭くて
先人の作品をめちゃくちゃリスペクトしていて、でも眼差しはあくまで理知的。
何より作品との向き合い方、距離の取り方が「近づきすぎず、遠すぎず」って感じで
絶妙だなぁと思います。愛をビシバシに感じる。
ああいう風に作品鑑賞できるようになりたいお。

東雲氏の作品で好きなのは「牧牛図」。牛と童子が描かれた絵です~。
(森鴎外が水墨画を描くときによくモチーフにしていた題材だ)
牛飼いの子と牛がすごくやさしい目でお互いを見つめているの。和みます(*´∀`*)☆
あと龍の逆鱗の絵と、小野道風&カエルの絵…。

忠氏の著書では、千葉市美術館が春信展をやったときの美術館ニュースの挨拶文が好き。
春信への愛がものすごく伝わってきます。
この人は何を書いても日本美術への愛に満ち溢れた文章になるから
読んでいて幸せな気持ちになれると思う。


本日のお絵かき↓
わたしたちが体をもつ弱い存在ということを、あなたはよく知っておられる。※クリックで大きくなります
バルバラ。
塔の上にいる人です。塔の上のラプンツェルではありません(笑)。でも髪は結構長いらしい。

ヤン・ファン・エイクの『聖女バルバラ』がめちゃくちゃ美しくて好きです。
筆のやさしいタッチとか、習作みたいな衣服とか、ガウディも真っ青な背景の塔の描き込みとか見てると
何でもいいから猛烈にガサガサ描きまくりたくなります。絵魂がたぎる。

聖人シリーズもだいぶたまってきたので、次回でおしまいにします~。
最後に誰描こう。
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