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2020_12
05
(Sat)23:53

わたしはこんな顔ではない。

※しばらくブログの更新をゆっくりにします。次回は12日に更新予定です。


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国立歴史民俗博物館に行ってきました。
かなり前に一度来たことがあって、その時は常設展示だけ見たんだっけな…。
もう記憶の彼方なので、博物館の前にものすごい登り坂があることもすっかり忘れていたよね…。
(歴博は過去に佐倉城のあった高台に建っています)

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感染症対策としては入館時にサーモグラフィの検温があり、消毒液で手指の消毒をして入館。
入館者確認票という紙を渡されて氏名と連絡先を記入して提出します。
館内はマスク必須で、距離を取って会話を控えるようにとのこと。
館内の各所に消毒液が置いてありました。
総合展示(常設展)は自由に入れますが、混雑緩和のための入館制限を行う場合があるそうです。

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企画展「性差(ジェンダー)の日本史」を鑑賞します。(日時指定の予約制です)
過去の資史料や美術の中で性がどのように記録・表現されてきたかを紹介しています。


展示は古代から現代までの歴史を全7章に分けて紹介しています。
まずは「古代社会の男女」。
古代社会の政治について、あると思ったけど、やっぱりありました魏志倭人伝(16世紀版本)。
三国志魏書東夷伝倭人条(3世紀)にある「共立一女子為名曰卑弥呼」の部分や
男女が参加する政治集会の「会同坐起父子男女無別」などのパネルが展示されていました。
熊本県宇土市にある向野田古墳(4世紀)では30歳代の女性の遺骨が見つかっていて
副葬品から首長であると考えられていますが、
骨に妊娠痕があることから妊娠or出産経験があることがわかっているそうです。
鏡・玉類・農耕具類などの副葬品は男性首長と同じですが甲冑が副葬されていないとか。
また京都の大谷古墳からは古墳時代中期頃の女性小首長(40代?)の骨が見つかっていて
(女性が埋葬される古墳の大きさは30mかそれ以下)、
古墳から出土した青銅鏡や勾玉、鉄剣が展示されていました。
奈良の宇陀・丹切古墳群からも青年期の女性首長の骨が見つかっているそうです。
5世紀になると棺内に武器が置かれるようになるらしく、
熊本県マロ塚遺跡(5世紀後半)からは横矧板鋲留短甲という甲冑が出土していて
他にも大きな武器や武具が副葬されていたことから被葬者は男性?と考えられているそうです。

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展示室内は撮影禁止ですがこちらは可。復元された古代の原初腰機。
足と腰を使って布を織る古代の機織り技術の様子です。
この織り機を使って機織りをする女性坐像埴輪の3D画像が展示されていて、
その埴輪を含む栃木県甲塚古墳(6世紀)から出土した埴輪の群像が9体、
展示室の真ん中に並べられていました。
馬を引く男性・柄杓を持った女性・盾を持つ男性・腰に手を当てた女性・機織りをする女性などの埴輪があって
性別は髪型から推定されているとか。(男性はみづら、女性はまとめ髪など)
沖ノ島の神への奉納物と考えられる、島から出土した紡績具の雛型(10世紀)からは
それらが女神に捧げられるものとされたことから昔から機織りが女性の仕事だったということがわかりますが、
後々は税として徴収される錦は男性が織り、女性は麻などを織るといった分業制になっていったとか。

古代の地域社会であるムラやサトの様子について、
島根県の青木遺跡から当時の様子を再現したジオラマ展示がありましたが
令集解(17世紀写)の儀制令春時祭田条に「男女悉く集まり」「則ち歯(年齢)を以て坐に居し」とあるので
8世紀のムラの祭祀は男女がともに参加して直会などでは年齢順に座っていた事例があったということだな。
出土した捧げ物の木簡には「〇〇丸」や「〇〇女」など男女の名前がみられるそうです。
鳥取県で見つかった般若多心経(845年)は奉納した中心人物数名のうち女性は1人のみで、
この経典を奉納する行事で中心になったのは男性だったのかな?
福島県の荒田目条里遺跡(奈良~平安時代)には農業のひとつとして田植えをした人々の記録があり、
ある郡司の田植えで参加した36人のうち男性33人、女性3人という日があったそうな。
一方、栄花物語(平安時代中期)によると50~60人の女性たちが田植えをするという記述がみられるので
この辺りから田植えが女性たちの仕事になり、早乙女のイメージに繋がっていったのかもしれない。
鳥取県の青谷横木遺跡から出土した田植木簡(10世紀後半)にも
女性8人、男3人、子ども1人と書かれたものがあるそうです。
(記録を追っていくと田植えに女性が増えるのは9世紀以降だそうな)

律令国家の時代。
『古事記』敏達天皇の項では、天皇の子どもは出生順に記録され、名前も「〇〇王」と書かれますが
律令制の時代になると皇子や皇女、親王や内親王となっていきますね。
702年の御野国加毛郡半布里戸籍(正倉院宝物)では戸ごとに男女を分けて記載していて
女性の名前はすべて「〇〇売」という風に売(メ)をつけて書かれています。
当時の働く女性の姿として、青谷横木遺跡で見つかった7世紀の女子群像の板絵が紹介されていて
これらは高松塚古墳の女性群像との共通点が指摘されているというのは過去にニュースになりましたね~。
伊福吉部徳足比売臣骨蔵器は、因幡から飛鳥にやってきて働いていた女官の骨蔵器で
蓋に放射状に16行の銘文が108字で彫られていました。
竹波命婦木簡からは、常陸国筑波郡出身の竹波命婦(称德天皇に仕えた女官)が
御所の食料として小豆、醤(ひしお)、酢などを請求したことがわかります。
他にも、『続日本紀』721年の年末の大祓には官人およびその家族(女性や子ども)も呼ばれていたり
707年に大極殿で110人に位が授けられた際には男女が同じ日・同じ場所で授けられていたことがわかるとか。


続いて、「中世の政治と男女」。
奈良時代まで顔をさらして働いていた官人女性たちが顔を隠すようになっていく様子が
駒競行幸絵詞(藤原頼通の時代を描いた絵巻)や枕草子からわかります。
高山寺文書群は八条院(鳥羽法皇の娘)の院庁にあった文書を貼りつけて屏風に仕立てていて
彼女の所領だった荘園の運営や日々の事務などが記録されています。
トラブルがあったときの「女院の仰せのとおりに」と答えたらしい人の記録とか、生々しいやら微笑ましいやら。
八条院に仕えていた健御前(藤原定家の姉)の日記には
「侍所の人は朝来るのが遅くて夜には帰ってしまう」などという記述が見られるそうです。
定家の日記『明月記』1226年12月18日の項には長女が禁色勅許を許されたことが書いてあり、
前年に息子の為家が蔵人頭になったことと合わせて「男女の栄」としています。
(ちなみに定家の父俊成の娘たちは11人が禁色を許されています)
また、女院号を冠した美福門院庁下文(1160年11月2日付)は公文書のためか漢文で書かれていますが
後土御門天皇の書状(室町時代)は一位御局(日野富子)に宛てたもので
仮名ちらし書きになっていました。
男性も私的なものなら仮名まじり文で書いていますね。

次に「中世の家と宗教」。
源頼朝の妻北条政子について、『新編吾妻鏡』の関東将軍次第には「平政子治8年」とありまして
編者は政子の治世があったという認識みたいですね。
承久の乱に際し御家人たちを呼んで御簾の中から「頼朝の恩は山より高く海より深い」と檄を飛ばしたのは有名な話ですが
尼将軍と呼ばれるようになったのはいつ頃からだろうな…。
(あと「源頼朝」と「平政子」の夫妻なので夫婦別姓なのだよね)
今川氏親朱印状(1526年6月12日)および寿桂尼朱印状(1528年10月18日)は
どちらも寿桂尼が出した安堵状とされていて、仮名まじり文で書かれています。
像内納入品から1334年製とわかっている木造の地蔵菩薩立像は胎内に印仏や毛髪が納められていて
願文や印仏には僧俗男女の名前が規則性なく書かれており、女性の名前も多いという事例。
関東下知状(1302年12月23日付)は田代基綱の子どもたちへの相続について書かれていて
その中に「姫夜叉」という名前があり、息子だけではなく娘にも分別相続がされていたことがわかります。
尼しやうせう領地売券は仮名交じりで書かれた土地売券で
売主の尼しやうせう、連署の嫡女藤原氏女、買い主の清原氏女は全員女性なので
女性による土地の売買が行われていたことがわかるもの。
中世の女性が自分で土地、というか財産管理をしていたのはもうだいぶ知られるようになったけど
こうして資料で裏付けられているのを見るとワクワクします。

「仕事と暮らしのジェンダー:中世から近世へ」。
洛中洛外図屏風(歴博甲本)には、魚屋の女性や価格交渉する遊女や早乙女など様々な女性が描かれていて
歴博の人物データベースで検索すると283人の女性がヒットするとか。
清水寺の周辺を描いた東山名所図屏風(16世紀後半)にも茶屋や扇屋などで働く女性が描かれていて
青屋で働く女性は子どもをイズメに入れてあやしていました。
清水の舞台の中央には後家尼とその家族が参拝する様子や男女の神子の姿が描かれていました。
東寺鎮守八幡宮供僧評定引付(1422年9月)は、八幡宮に巫女による神楽が奉納されたときに
とても安い給料で行わせたため問題になったことが書かれている文書。
春日若宮拝殿巫女等申状案(1353年4月)には巫女たちが負担の減免を上層部に訴えて
最初は半分免除になりましたが、勝手に1/3にされそうになったので再度訴えたという文書。
当時は民主的な仕組みや保証がないから必死にそういうことをやっていたんだよなあ…。
職人風俗絵巻の扇屋のところに女性職人が描かれているように
中世では女性が経営者や職人として仕事をしているのですが
(室町時代後期には布袋屋玄了尼という人が洛中扇売りの営業権を独占し養女の鹿子女房に相続させたりしてる)、
官刻孝義録や近世職人尽絵詞(鍬形蕙斎画・19世紀)を見ると女性は「〇〇妻」「〇〇女」などと書かれたり
女性の職人の絵姿がまったく描かれなくなっています。
花容女職人鑑は、初版(1818年)には仕事や家事をする女性たちに狂歌や詞書が添えられていましたが
後刷り(1830年)になると文章が全部削られて、女性の絵のみになっています。
版元にお金がなかった可能性もあるし、女性が「花容」として眺め消費する対象とされていく流れでもありそう。
写真家のフェリーチェ・ベアトが1863年にスタジオ撮影した髪結(男性)と女髪結の写真がありまして
男性の髪結は客を訪ねて髪を結っていましたが(宇江佐真理さんの『髪結い伊佐次』で知った)、
女髪結も同じように営業していましたが非合法だったのよね(天保の改革時には手鎖・罰金の対象)。
「女は自分で髪を結って一人前」が江戸時代だったからね…。
また田植えをする早乙女を描いた版本やすごろくや教材の展示もありまして
これによって田植えは女性の仕事というイメージが世の中に広がりつつあったようですが
幕末や近代に撮影された写真では男女ともに田植えをする姿が写っていたりするそうです。あれ。
(何だか活版印刷の発明後に印刷で魔女の絵が流通して魔女狩りが広まった中世の西洋みたいな流れだ…)
(ちなみに中国の佩文耕織図(19世紀前半)には男性が田植えをする絵、女性が機織りをする絵がある)
東北地方やアイヌの女性たちの生活の様子もあって、
「どんじゃ」(19~20世紀)は青森県南部で使用されていた、麻布や木綿を縫いあわせた夜着で
使っていたのは家長、重さは14~15kgくらいあるらしい。
「ぼどこ」も同じく麻布や木綿ををつぎはぎした敷布で、出産にも使われたそうです。
こうした手仕事は主に女性たちの仕事だったと。
菅江真澄による百臼之図にはアイヌ女性の脱穀風景や紫臼をつく東北女性やブリコ採取をする女性、
箱館松前地志(19世紀)には和人とアイヌの農耕が描かれていて、女性たちも働いていました。


「分離から排除へ:近世・近代の政治空間とジェンダーの変容」。
主に将軍と大奥、武家の女性についての展示です。
松蔦獅子流水模様小袖(江戸時代後期)は将軍家伝来とされる礼装用の小袖で
大奥の女性たちもこういう着物を着たんだろうか。
幕末の大奥には32の職階があり1,000人ほどの女性が働いていたといわれます。
(大奥の男子禁制を定めたのは徳川秀忠ですが、
大奥の女中たちは表(将軍付)と奥(御台所付)に分かれていて
秀忠の子どもの乳母を務めた春日局も最初は「表の局」と呼ばれたとか)
西丸向惣絵図(1852年)は江戸城西ノ丸(大奥)の図で、家定が養育されていた頃のものですね。
お鈴の廊下の先(表)は描かれていませんでした。
本丸一二三四側大奥長局惣絵図(1860年)を見ると大奥は閉鎖的な設計になっていることがわかり、
広屋敷向の詰所を通らないと外に出られないため火事があると犠牲者が多く出たそうです。
伊達家の御老女中浜野他二名連署起請文(1741年)は
伊達家の江戸上屋敷にて当主の吉村と冬姫に仕えた老女たちの名前が末尾にあって
形式は男性たちと同じ書き方ですが、署名と血判は男性たちより小さかったです。
幕府の女中帳(1805年)は大奥の人事について書かれていて
伊達家が藩主の御城使に増野という女性を増員する伺いを出したところ
将軍付御年寄の浦尾を介して留守居から許可する指示があったことがわかります。
伊達重村の妻観心院の肖像もあって、彼女は夫の死後に財産を相続して家中を指揮するとともに
幼い後継ぎの後見をつとめていたそう。
生麦村に住んでいた関口家の当主が代々つけていた日記には
1828年3月に当主の娘の千恵が江戸城に勤めることになった頃の記録があって
彼女は32歳から11年ほど大奥に出仕して御中臈の部屋子として働いていたそうです。
奥奉公出世双六(1844年)は地域の女性が大奥をめざし昇進していく様子が
振り出しから上がりまで描かれていて、出世コースのモデルだったんだなと。

静寛院宮(和宮)による日記の1868年3月7日の項には「立退ぬ心得」と書かれ、
一人称に「予」が使われていたりと、当時の彼女の矜持が見え隠れしています。
1892年の皇居御造営下調図によると、女官の居住スペースは
旧西丸奥の外部(大奥より外側)に設置されたことがわかります。
1889年1月27日の枢密院決議(第三審会議)は、大日本帝国憲法が発布される前の記録で
第2条に「皇子孫之ヲ継承ス」とあったのを直前で「皇男子孫之ヲ継承ス」と修正したものでした。
さらに1888年4月に発行された官報1443号の市制町村制理由の項においても
外国人や女性に公民権がないことは「通例トス」と書かれています。


「性の売買と社会」。
白拍子や傀儡など芸能を売る女性たちから、幕府公認の遊郭について。
かつて芸能のプロだった遊女たちは、中世の頃は自分で職場をもち価格も決めていて
13世紀成立とされる「今様之濫觴」の傀儡女について書かれた項では
今様の大曲は母から娘へ伝えられる女系の相続だったといわれるそうです。
東大寺八幡宮神人解案(土代)(1332年8月)は遊君たちが幕府に訴えを起こしたときの文書で
兵庫の海辺で仕事をしていたところ海での不法行為が多発し船が来なくなったために
生活が成り立たなくなったという内容だとか。(この頃兵庫の遊女は1700名以上いたとされる)
信長公記の1579年5月の項では都での人身売買の噂を聞いた京都所司代が調べたところ、
80人の女性が売られたことが判明したとの記述があるそうです。
個人が経営していた遊女歌舞伎が「風紀を乱すから」と禁止されたり
戦国時代から江戸時代初期にかけて各地で次々に遊女町が置かれた流れも関係あるだろうなあ。

近世職人尽絵詞には新吉原の仲の町通り、お客や遊女や芸者らが描かれていますが
これらはお客さん目線の遊郭ですよね。
氷室御宮・仏光寺門跡貸付所の反古証文貼継ぎはいわゆる寺社名目金貸付についての資料で
新吉原のとある楼主が仏光寺門跡役人に借金の担保として遊女を提出したことが書かれていたり
受け人が新吉原の同業者だったりすることがわかるとか。
新吉原町浅草町御貸付金調帳は、信濃の豪農だった坂本源之助が
吉原の遊女屋58軒に貸し付けた4207両の未回収金の記録で
(寺社名目金なので「御」がついてる)、新吉原で働く遊女を搾取して得た収益は
見世・寺院・豪農・江戸町奉行所が山分けするなど
体制に深く組み込まれていたためにあちこちで黙認されていたらしい。
実際、信濃の豪農たちは公用人馬の負担の免除を歎願するために
吉原で幕府の役人を接待していたそうで、
稲本屋の遊女3代目小稲の書状(1863年)には接待の不備を詫びる内容のことが書いてあるそうな。
高橋由一「美人(花魁)」(1872年)は4代目小稲の肖像画ですが
モデルになった小稲はこの絵を見て「自分はこんな顔ではない」と怒ったと伝わります。
そんな小稲の揚げ代を記録した遊興費領収書(1863年)もありました。
木綿問屋だった長谷川家の「定」(1852年)には手代の遊女屋での遊ばせ方について書かれています。
長谷川家は主に引手茶屋の近江屋を利用して遊ばせていたらしく、
近江屋からは定を守るかわりにこれまで通り利用されることに感謝する一札之事(1853年)が出ています。
万字屋の手引札は現金掛け値なしで引手茶屋を通さずマージンを減らして価格を引き下げる引き札で
江戸時代後期に多く発行されたそうです。
蔦屋重三郎などが出した吉原細見では遊女の紹介のほかに大中小の見世など遊郭の家格も書かれていて、
小見世の梅本屋で働いていた小雛という遊女は毎日の食事を記録していて
だいたい茶漬けや香々、あさりのおしい汁がほとんどですが、食べなかった日もあるみたいで
引手茶屋だったら客と食事とかするだろうけど梅本は小見世だから介さないし出前を取る客もいなかったのかな。
梅本記は1849年に梅本屋の遊女16人が起こした火つけ事件の証言を記録したもので
彼女たちは2年以上かけて計画をたてて実行したのちに名主へ自首をしまして
(大火事にならないように火鉢で木を燃やして煙を出すとか考えたらしい)(吉原は火事が多かった)、
楼主の佐吉による折檻や経済的虐待などの非道を訴えています。
当時北町奉行だった遠山景元は佐吉と3人の遊女に遠島を、
12人の遊女に押込と屹度叱を命じています。(江戸では火つけは大罪です)
江戸時代後期の吉原では非道に耐えかねた遊女たちによる放火が多発しているし、
梅本屋の事件も有名ですが、資料の実物を見たのは初めてでとても実感がわいたな…。
日記に挟まれたおぼへ帳(証拠書類の綴り)には遊女・桜木による覚書きが仮名文字で記録されていて
彼女らが残したものの大きさと重さを考えました。

太政官布告第295号・司法省達第22号(1872年)を合わせて芸娼妓解放令と呼ぶんですね。
東京府の「芸娼妓解放人名」(1872年)には遊女たちの名前が記録されていますが(ものすごい分厚かった)、
親元や女衒のもとに戻っても再び強制的に働かされる事例が多かったようです。
近代は外国人居留地や宿場町、軍事基地などに遊廓が設置されて
滋賀県の八日市新地もそのひとつで鉄道や飛行場、航空第三隊などができた後に設置されたと。(1958年に解体)
八日市遊廓清定楼の娼妓の生活用具がいくつか展示されていまして
着物や鏡台や火鉢のほかにオトコサマ、しゃもじ、洗浄器、香炉や簾など。
見世では客が来るとお香を焚いて時間を計り料金を決めていた事例もあると初めて知りました。
また、新潟から長野へ遊女として売られていったイキという女性について
借金の借用書・遊女稼業の同意書・体の診断書・遊女の名簿登録申請書・父親による委任状が並んでいて
なんだか桂歌丸さんの自伝を思い出しましたね…。(歌丸さんのご実家は横浜の遊女屋です)
喜連川病院「検按書診断書控綴」(1913年)には遊女の診断書がまとめられていて
多くは子宮内膜炎と書かれているそうですが梅毒の可能性が高かったのではないかと。
楳毒検査場の看板や米沢市福田遊廓の娼妓健康診断簿(1915年)などもありました。
北新地五番町遊廓遊客帳(1934年)には客として見世を訪れた男性の個人情報や使った金額や
相手をした遊女の名前などが記録されています。(警察が名簿の作成を義務付けていたらしい)
1931年に松島遊郭で遊女たちがストライキを起こしたときの朝日新聞の記事や
吉原から逃げて柳原白蓮に助けを求めた森光子の記事なども紹介されていました。
(彼女が書いた春駒日記はだいぶ前に一度読もうとしてあまりの重さに半分も読めなかった覚えがあります)


「仕事と暮らしのジェンダー:近代から現代へ」。
雑誌「婦人画報」(1909年)には家庭の掃除をしたり、ピアノなどの楽器で合奏する女性たちの絵があって
女性たちのたしなみは屋外ではなく室内というイメージがあったことがわかります。
『文芸倶楽部』13巻1号(1907年)には鏑木清方「新案双六当世二筋道」という双六が付録でついていて
振り出しは女学生で、その後労働者(下級官吏など)として働き、結婚で上がりになるというもので
男性とは違った立身の道筋を可視化しています。
戦前の官僚試験は女性に受験資格がなかったので、女性たちは資格を必要としない一般職で採用されていて
そのひとりとして三木(清水)を美喜の事例を紹介。
彼女は逓信省で働き、珠算競技会で暗算の一等賞をとり、貯金局の静岡一班長にも任命されますが
女性の判任官は班長以上は出世できなかったそうです。
女性たちはいつの時代も働いていましたが社会的にはほとんど評価されることがなくて
職種にも待遇にも男性とは明確な差があったんですよね。今もありますが。
日清紡績女工応募者心得(1907年)は女工の求人情報で
職業教育や寄宿舎があることなどの福利厚生を推し出しています。
女工たちが使っていた月経帯(エンゼルバンド)の使用説明書やポスターもあり、
ミスコロナの月経帯はバンドではなくズロースの形をしていました。
山本作兵衛の炭坑記録画(1899年頃)では筑豊の女性坑夫の姿が描かれていて
展示されていたのは10歳未満の息子に赤ん坊を背負わせて坑道に入る母親の絵でした。
(坑道の天井が低いので、母親では赤ん坊の頭がぶつかるので背の低い子どもに背負わせたそうです)
子守りのために仕事をする子どもは学校を長期欠席したそうですが
その子たちその後どうなったんだろう、学習機会は…?

戦後に設置された労働省婦人少年局は女性の職員が多い職場で
初代局長の山川菊栄や局員の谷野せつらが婦人週間を開催したり賃金格差の調査をしたり生理休暇を導入したり
ポスター「男女同一労働同一賃金になれば」(1948年)などを制作して性差別の廃止につとめています。
マリア・ミード・カラス宛て谷野せつ書簡(1949年)には
紙芝居「おときさんと組合」やパンフレット「発言の手帳」を送付したことなどが書かれていて、
GHQのSCAP経済科学局にて婦人少年局の業務推進したカラスと婦人少年局職員たちとの交流が見られます。
同じくカラス宛て山川菊栄ら6名による書簡(1950年)にも
カラスからのクリスマスプレゼントへのお礼と婦人少年局の当時の活動の様子が書かれていました。
(婦人少年局の仕事は現在の厚生労働省雇用環境・均等局や子ども家庭局に繋がっています)
『学習コンピュータ』2巻6号(1971年)には情報処理技術者の国家試験の合格書を受け取る
木伏恵子さんの写真が掲載されていて、
大戦期の官庁や戦後の気象庁などで計算を担当する職員として女性が働いていたことも写真で紹介されています。
確か同時代のNASAでも、宇宙にロケットを飛ばす計画において表計算をしていた職員の多くは
女性でしたよね…そういう本とか映画とかありますよね。


企画展示室自体はそんなに広くなくて、展示されている点数もそんなに多くはなかったけど
文字資料が多くて色々読み込みながら鑑賞していたので気づいたら3時間近く経っていました。。
基本的には知っていることがほとんどでしたが初めて見る資料もあったのでちゃんと見たかったし。
あと性的マイノリティの人々に関する展示がなかったのが気になりました。
ジェンダーを研究するなら必ず出てくるトピックだと思うのですが
企画された横山百合子さんによると今回の展示はミュージアムにおけるジェンダー展示に関する
3年間の研究成果の発表ということらしいけど、セクマイの歴史や資史料はまだ研究されてないんだろうか。
(あと、わたしが遊郭の展示を鑑賞していたときに
お連れの方に熱心に展示物について説明していた方がいらっしゃったのだけど
後から考えるとあれたぶん横山さんだったと思う。
時間もなかったし、盗み聞きしてるみたいで申し訳なくて早々に離れてしまいましたが
かなり裏話的な会話をされていたのでもうちょっと聞いていたかったな)


そんなわけで時間がなくなってしまったので、総合展示(常設展)はとばして鑑賞。
歴博は今回の企画展と研究を機に総合展示の構成を多様性とジェンダーの視点で見直し始めていて
少しずつリニューアルしている途中だそうです。
(2019年3月に第1展示室「先史・古代」をリニューアルオープンしています)
歴史上の多様性を紹介するのはミュージアムの仕事のひとつだと思うし
現在の展示の形が正解とは限らないので、今後も研究を続けていってほしいな。

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常設展示にいたゴジラ。東宝映像美術にいらした小林知己氏の遺作です。
1984年公開の映画「ゴジラ」をモデルに造られています。

ゴジラの映画制作に関わる女性キャストや女性スタッフは
1954年の第1作から最新作をざっと見比べると増えてはいるんですが、
登場人物に女性の研究者や博士はいるけど政府やGフォースの幹部には女性がいないし
スタッフも監督やプロデューサー、脚本、特技、音楽などのメインは男性で占められていて
まだまだ特撮は男性の世界だなァと思いました。
特撮というかテレビや映画業界が男性社会なので、
そこを何とかしない限りゴジラ映画を女性監督が撮る日は来ないと思う。


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皆様いつもありがとうございます(^-^)/☆

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2020_10
18
(Sun)23:54

お菓子な歴史。

※しばらくブログの更新をゆっくりにします。次回は24日に更新予定です。


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とらや赤坂店に行ってきました。
お目当てのお菓子はこれ、きんとん製と求肥製の「イスパハン」です。
とらやはフランスのパリにもお店があるんですが、そのお店が1980年に開店してから40周年になるのを記念して
とらやと交流が続いているピエール・エルメ・パリとコラボして作られたものです。
エルメの代表作でもあるイスパハンをベースに、バラとライチ風味の求肥とそぼろ、フランボワーズの羊羹とジュレ。
口に入れたとたんにフワッと上品な香りがいたしまして「えっ!?」ってなった、
和菓子でこんな香りの強いものあまりいただく機会がないので…。
バラを口に入れたらこんな感じかなと思いました…想像ですけど。
日本とフランスの技術で作られたお菓子、たいへんおいしゅうございました☆

ピエール・エルメは池袋や新宿にもお店があるので名前は知っているし何度か見かけていますが
ケーキのイスパハンは店頭で見たことがありません…あっという間に売り切れてしまうらしい。。
一度食べてみたいんだけどな~予約すればいいのかな。


とらや赤坂店はリニューアルオープンしてから1階がエントランス、2階が販売とカフェ、
地下がギャラリー(展示室)になっているのですが
現在、ギャラリーではこんな企画展示を開催中でした。
yokosookashi_1.jpg
「ようこそ!お菓子の国へ ―日本とフランス 甘い物語」。
とらやパリ店40周年を記念した企画展で、テーマは「日仏の菓子くらべ」。
日本とフランスのお菓子の歴史や、日本・フランスの年中行事のお菓子について、
お菓子を作るときの材料の違い、道具や型の紹介、和菓子職人さんやパティシェさんへのインタビューなど
和菓子・フランス菓子の魅力とともにそれぞれの文化を紹介する内容でした。
こういう比較文化研究のような展示は大好物です。とっても勉強になったし楽しかった☆

yokosookashi_2.jpg
料金は無料、撮影も可。
特に予約などは必要ありませんが、入口に消毒液がありました。
注意書きなどはなかったけどマスクもして会話も控えた方がいいと思う。
展示室はときどき人が入ってくる程度で、鑑賞中はすいていたのでソーシャルディスタンスは取れました。

以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ。

お菓子な歴史。 の続きを読む »

2020_08
15
(Sat)23:53

Once Upon a Time in 埼玉。

※しばらくブログの更新をゆっくりにします。次回は22日に更新予定です。


埼玉県立歴史と民俗の博物館に行ってきました。
密を避けるために(埼京線に乗る勇気がなかった)初めて大宮まで車で行きました…。
途中休憩しながらがんばれば行けるもんですね。
(あとナビに行きと帰りでぜんぜん違う道を案内されて帰り道にめっちゃ田舎道を通らされて
「わたし帰れる?帰れるの!?」ってすごい不安になった…帰れましたけど。
あれどういう仕組みなんだろう)

rekihaku1.jpg
博物館の入口で消毒液で手の消毒を行い、サーモグラフィの検温をすませ、
博物館が用意した消毒済の鉛筆で氏名・連絡先を記入してから入館します。
館内はマスク必須、会話を控えて人と距離を取りながら鑑賞してくださいとのこと。
受付で国芳の鍾馗カードをもらいました。夏の特集展示の期間中、入館者に配布されるそうです。

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館内に本物の展示もありましたよ。(撮影可スペース)
「ミニ展示 疫病退散」というコーナーで、他にも河鍋暁斎の鍾馗、永島春暁の源為朝、
鍾馗図が彫られた印籠、鬼鍾馗が象られた刀の鍔などが展示されていました。
春暁の為朝像は疫病に効果があると信じられていた赤色で摺られていた。

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中止になった特別展「『武蔵国の旗本』を振り返る」と
規模を縮小して開催されることになった「太平記絵巻の修理を終えて」を鑑賞します。
旗本のほうは今年の3月~5月に開催予定でしたが感染症の影響で博物館が5月末まで休館になったため、
中止ということで幻の展覧会になってしまったもの。
各地の博物館や寺社から資料を借りて図録も制作して準備万端だったそうです…惜しい。なんて、惜しい。
借用資料は既に返却されていますが、歴博の所蔵資料を使って
展覧会の一部を振り返る機会を作ってくださっています。

展示室にはわたしを含め2~3人しか鑑賞者がいませんでしたが、距離を取ることは心がけて鑑賞。
水野氏の菩提寺である昌国寺に祀られている徳川家康(東照大権現)の掛軸、
旗本の菩提寺には家康の像がよく祀られていたそうです。
徳川秀忠が佐久間頼照(深谷の人。300石)にあてた知行宛行状は
関ケ原の合戦のときの恩賞だそうで(佐久間氏は徳川方)、
だいたいこの頃に与えられた土地が後々にわたってその一族の土地になっていたりするそうです。
江戸時代後期に制作された関ケ原合戦絵巻は大雑把なタッチでほのぼのしていて
石田三成や大谷刑部らも単純化して描かれていました。かわいい。

続いて武蔵の旗本稲生家と水野氏について、菩提寺とともに資料や遺品から紹介。
稲生家は現在の坂戸市やさいたま市あたりに知行があり、町奉行に勤めた人も輩出しています。
大名や幕府の名鑑である「安政武鑑」には当時の当主である稲生出羽守正興の名前があり、
留守居役として1500石の石高があったと書いてあった。
獅子や麒麟の紋付の母衣や萌黄色の二枚胴具足、獅子が彫られた刀装具、
小刀・目付・毛抜き・はさみ・耳かきの懐中物、竜田川の蒔絵櫛・簪、葵紋付御所人形などを見ると
男性たちの仕事や女性たちの生活、子育てなどの当時の光景が浮かびあがってきます。
縹色の葵紋付熨斗目小袖は礼装の下に着用したもので
将軍に献上されたものが大名家への下賜品になったのではないかとのこと。
こういう部分でも将軍家と旗本は上下関係を結んでいたんだな…。

水野氏は現在の寄居町・小川町あたりに800石(のちに2000石)の知行があった旗本。
寄居町に昌国寺というお寺がありますが、ここは家康のいとこだった水野長勝の屋敷跡で
家康から40石をもらったという朱印状も展示されていて、
さらにその取次ぎをして「OKで~す」と書いた内田正次(全阿弥)の書状もありました。
家中分限帳によると長勝の子である忠貞の時代には150石の大久保氏を始め51人の家臣団がいたらしい。
忠貞像の掛軸には本人の筆で「世のうきめ見えぬ山ぢへ入らむには 思ふ人こそほだしなりけれ」(物部吉名)と
古今和歌集の歌が書きこまれていました。直筆かあ…!
忠貞の子・忠顕の書状もあって、元禄10年の大火では水野家の江戸屋敷の近くまで燃えたとあって
江戸は火事の多い街でしたから旗本たちも色々と苦労したんだろうなあ、などと。
水野家が昌国寺へ寄進した物の一覧を記した納物帳もあって、
当主が亡くなった際には衣装や仏具、位牌などを奉納していたそうです。
(そうして昌国寺に集められた遺品や資料群が現在、歴博に寄託されていて、今回の展示もその資料の一部です)
歓祥院様御葬送御行列書には221人もの参列者の名前があり、
棺を川越街道から先に回して、などと注意書きもあるので当主のお葬式の様子がわかります。
水野貞利の表白文は初代長勝の200回忌に際して追善願文を出したというもので
「源貞利」という署名にドキドキしました。こういうときは本姓を書くんですね。
謙信流軍学伝授之書物(全24巻の皆伝目録)やシャコ貝の盃、
使用済みの長袴や鎧・鞍、子ども用の御召御麻裃、6代目政勝の薙刀(加州住藤原光国)など
生活がわかるものも展示されていました。

あと参考展示として、山岡鉄舟が「鴻澤霑民庶」(1880年9月)と揮毫した白鳥神社の幟(模造)があったのですが
巨大すぎて展示室の床から天井に折り曲げる形で張り付けてあったので見上げてきました。
首が痛いことになったけど、全長8m93cmもあったらこうなるよな…!
博物館の屋外の壁に張る予定だったそうです。展示風景を見たかった。

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こちらは撮影可能スペース。
会場の順路や展示品の配置、展示物の一部がパネルで紹介されていました。

縮小展示でもとても勉強になりました。開催できていたらなあ…!本当に惜しいです。
展示の最後に使われなかった200枚以上のパネルの山があって心をえぐられた…。
160件220点余りの資料(うち借用資料125点)を展示予定で
200枚以上の解説キャプションやパネルを作成したものの日の目を見られず…。
今回の特集展示で一部が再利用されているとはいえ、学芸員さんの無念を思うと胸が苦しくなりました。
永楽通宝紋の鞍とか稲生正興出羽守宣旨とか、徳林寺の涅槃図(御絵所宗貞)とか見たかったよーー!!
(1688年に小笠原氏が奉納して1748年に狭山の甲田重蔵が修復したやつ)

そして、同じ展示室内に特集展示「太平記絵巻の修理を終えて」もありました。
太平記絵巻は海北友雪によって江戸時代に制作されたものと推定されていて、
後醍醐天皇の即位から南北朝時代を経て足利義満の時代に至るまでを全12巻で描いています。
1・2・5・6・10巻を歴博が所蔵しており埼玉県指定有形文化財になっています。
(ちなみに7・11・12巻は民博、3・8巻はニューヨーク公共図書館が所蔵。
4巻・9巻は行方不明ですがボストン美術館と東博に模造品があります)
2017~2018年にかけて6巻と10巻の修復を行い、
「太平記絵巻の世界」展として一挙公開の予定でしたが感染症の影響で縮小。
綺麗になった6巻と10巻が3期間に分けて展示されます。
わたしが行った日は、6巻は楠木正成の首が足利尊氏によって故郷へ返された場面から始まっていて
比叡山攻めで最澄の木が焼かれてしまわないように稚児に降りた日吉権現が猿に鐘を突かせて守る場面や
東寺合戦で高重茂が狂歌を詠んだり新田義貞が日吉大宮権現に鬼切を奉納したりする場面などを
見ることができました。
新田軍が越前の冬を越すところで弓矢を薪にしてあたたまっていたのちょっとかわいかった。
10巻は観応の擾乱の終わりの頃までが描かれていて、
新田軍に駆け入る佐々木秀綱の場面や石清水八幡宮で足利直冬が託宣を受ける場面などが開いてあった。
神南山の戦いにて那須与一の母衣(オレンジ色)をかけて戦う奈須五郎(与一の子孫)がかっこよかった…!
また10巻には笛吹峠の戦いの様子も描かれているそうですがわたしが見に行った日は別の場面でした。
友雪は人物描写がとにかく細かくて、鎧や着物だけでなく人々の表情まで全部描き分けていて
人物の顔の特徴や人格をきちんと考えて作っていると思う。
合戦の場面は広々と構図をとっていて、人間だけでなく馬も躍動感がありました。

あと、修復の様子も写真で紹介されていました。(業者さんは株式会社修美さん)
紙の汚れや折れ、シワ、顔料の剥落などが目立ち、なかなか大変な状態だったとのことで
一度すべてを解体したところ、6巻は過去に2度修復をしていたことが判明したり
紙の継ぎ目に数字(順番をあらわすもの?)が書かれていたこともわかったそうです。
裏打ち紙を取り換えて本紙を綺麗にして、記録を取って報告書にまとめ、保存用の桐箱を新調し、
修復後は状態を安定させるため1年間休ませたそうです。
こんなに大変な修復を終えて、特別展として紹介されるはずだった太平記絵巻…。
絵巻だけでも公開されてよかったです…見ることができてよかった。


特別展示室を見たあとは常設展示室にも行きました☆
写真撮影が一部を除いて可能になったということで、パチパチ撮ってきましたよ。
(鑑賞者はわたししかいなくて貸切状態でした)
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コラム展示のスペースに「和菓子づくりの世界」として、かわいらしい和菓子の木型がたくさんありました。
祝儀の松竹梅や鯛やハマグリ、不祝儀の蓮や菊の花など、工芸品のような木型の素朴な美しさがたまらん。
家紋の木型や葬式まんじゅうの焼き印、木型の図案集などもありました。

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いがまんじゅう!!
普段お店とかで販売されているものが博物史料として展示されているのびっくりしてしまうな…!
いやそれが博物館の役割ですけども。
(埼玉には「朝まんじゅうに昼うどん」という言葉があるほどに香川に次ぐうどんの消費量を誇り、
わたしの地元である北埼玉にはハレの日にうどんを、お葬式におまんじゅうを出す風習があったりします)

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県内各地の古墳や遺跡から出土した土偶、土器など。
製作された時代や使用目的の違いもあると思いますが形も大きさも様々ですね。
みみずく土偶ちゃんもいくつか見つかっているんですな。

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斎藤別当実盛の像。
埼玉、もとい武蔵国で中古・中世あたりの有名人といえば
だいたいこの人と平将門と熊谷直実と畠山重忠だと思う。

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国友の鉄砲。
武州鉢形に住んでいた国友という職人が制作したものだそうです。
鉢形城下には鉄砲職人たちの生活圏があったそうで、そこに住んでいた人が作ったのかな…。
国友というとかつて長浜にあった国友村が鉄砲の生産地として有名ですが(鉄砲ミュージアムがあるとこ)、
寄居にも国友を名乗る人たちがいたということだろうか。

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大宮氷川神社が和宮御立退御殿にあてられたときの看板。
和宮が徳川家茂と結婚するために江戸へやって来たときのルートが中山道だったのですが
万一の事態に備えて氷川神社が避難所にあてられたのだそうです。
中山道からすぐのところにあるからね。
(ちなみに彼女の持ち物は東海道を下ってきている)

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蒸気機関車1290形式、通称「善光号」の模型です。かわいい!
1882年にイギリスからやって来て隅田川から川口の善光寺付近で陸揚げされたので「善光」号。
鉄道博物館で本物を見たなあ~懐かしいな。もう1年半前になるんですね。

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東北新幹線が開業したときの写真。1982年に大宮~盛岡駅間が開通しています。
翌年に上越新幹線(大宮~新潟駅)も開業したんだよね。

とりあえず気になったものだけご紹介させていただきましたが、
常設展、ものすごく久し振りに見たので内容をほとんど忘れていて
土偶から新幹線までこんなに細かく埼玉の歴史がわかる展示になっているのだと改めて思えました。
また勉強しに行きたい。


この後は車で自宅まで帰ったのですが、
実は歴博のすぐ近くに大宮の鉄道博物館がありましてね…。
てっぱくは東北新幹線と高崎線の線路に挟まれて建っていますけども
その2つの線路とてっぱくの下を県道がくぐっていまして、その道路を通って大宮公園の歴博に向かうのですが
道路をくぐる直前に、本館~南館に屋外展示されているE1系と特急あずさ号が見えるんですよ…!
余所見運転になってしまうのでガン見はしませんでしたが、チラっとでも見られて本当に幸せでした。
てっぱくも今は予約制になっていますが…行こうと思えば行けますけど
でも他所のミュージアムよりお子さん多いと思うので今は我慢…!
次にわたしが行くまで待っててくれてっぱく、わたしもがんばるよ!
2020_02
12
(Wed)23:51

あらぶる雨、めぐみの雨。

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川の博物館に行ってきました。
企画展「雨展-あらぶる雨・めぐみの雨」の鑑賞が目当てです。
子どもの頃に来たことがあるはずなのですが記憶があるようなないような、ちょっと曖昧なのですが
館内を見てもほとんど覚えてなかったので、もう初めましてな気分で
一から勉強させていただく感じで行きました。

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チケット売り場に行こうとしたら駐車場の一部と駐輪場が埋まっていて衝撃を受けた。
奥のベンチあれきっともう少し足が下に出ているはずですよね…。

かわはくは荒川のすぐそばにある施設なのですが、
去年の台風で荒川が増水したため大きな被害を受けています。→こちら
博物館の建物は無事だったそうですが、屋外の施設や展示物がかなり浸水したそうです。
その状況からわずか1ヶ月で再開してるからすごい…!→こちら

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かわはくのシンボル、大水車。高さ24m、約1分ほどで一回転しています。
遠くから見ると観覧車のように見えます。
この水車は博物館の敷地の中でも高い場所にあるので、ここまでは水は来なかったようです。

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水車小屋広場では水力で生み出されるエネルギーのシステムについて学習できます。
写真は、皆野町から移築復元されたコンニャク水車。
直径7.3m、60年ほど前までコンニャクのアラコ挽きに使われていたそうです。

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中はこんな感じ。
寄木造りの木の部品が複雑に組み合わさってパッコンパッコンと動いていました。
実際に動いているのを見られるのはいいなあ!

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杵の部分。ここでコンニャクをひいて粉にします。
内部は改良された跡もあって、使っていた人の工夫がみられるそうです。
お仕事道具だもんね…長く使っていたのかな。

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東秩父村で使われていた精米水車。
1日1斗ほどを精米していたそうです。(麦とかだともっと時間がかかる)
こちらも内部で木の部品がパッコンパッコンと動いていました。

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かわはくのマスコット「カワシロウ」。館内のあちこちにいます。
ミュージアムショップではぬいぐるみも販売されていた☆

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本館にやってきました。企画展「雨展」を鑑賞します。

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2020_01
06
(Mon)23:54

文化の祭典その4。

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今年も東京国際フォーラムのJ-CULTURE FESTの展示を見てきました!
毎年恒例、入場料無料で開催されているイベントです。

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去年と同じく、今年もEホールのロビーギャラリーにて京都の風俗博物館さんによる展示がありました。
いつもは雅な平安王朝絵巻の展示ですが、今回は「平安宮廷スポーツスタジアム」と題して
平安時代の人々の遊びやスポーツを紹介するアクティブな内容になっていました。

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まずは蹴鞠!
『源氏物語』若菜上より、源氏41歳の3月に六條院春の御殿にて開催された蹴鞠のシーンの再現です。

蹴鞠は中国から伝わった球技で、
日本で行われた最古の蹴鞠の記録は本朝月令にある701年5月の蹴鞠会のものだそうです。
(中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠の会で出会ったというエピソードが有名ですが
あれは故事なので記録はないんですかね…史実だとしたら645年より前の話になります)
ルールとしては4~8人で円になり「アリ」「ヤア」「オウ」などの声をかけて蹴るというもの。
基本的に勝敗はつけず、より長くラリーを続けられることを良しとします。

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源氏と蛍兵部卿宮が見守る中、ポーン!と高く高くあげられた鞠。
透明な棒で支えてあってちょっと笑ってしまった。浮いたままにしておけないから仕方ないよね^^

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蹴鞠会からちょっと離れた場所にいる夕霧(左)と柏木(右)。
夕霧はもともと夏の御殿で別のグループと蹴鞠をしていたのですが、源氏に呼ばれてこっちに来て
さっきまで柏木と一緒に蹴鞠に参加していたという設定。

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「柏木の視線の先にいる女三宮」みたいな写真を撮りたかったのですが、
どの角度から撮っても夕霧が真ん中にくるので夕霧メインみたいになってしまった。。
柏木なんだよ!このシーンの主役は柏木と三宮なんですよ!!(力説)

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御簾がほんの少しめくれて三宮の姿がチラりと見える。
三宮は源氏の兄朱雀院の子で、そういう身分の人がこんなに御簾の近くにいることは普段ありえないのですが
この日は蹴鞠をする男性たちを見物するためにかなり近づいていたようでした。
そして、もともと三宮のことが気になっていた柏木が、このとき彼女の姿を見てしまって
気持ちが爆発してしまいとんでもない行動に出る…というのは、また別のお話ですね。

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御簾があがった原因はこの猫たち。
親猫に追われた子猫が御簾の外に出て、紐がからまってしまったのでした。
(この時代、貴族が猫を飼うときは基本的に紐で結んでいました)

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かわいい(=^ω^=)。
源氏物語に猫が出てくる描写は唯一この場面だけなのですが、
なんとも大変なきっかけを作るお役目を与えられてしまいましたなあ。

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バックヤードでは女房たちが蹴鞠後の宴席のために椿餅や梨や柑子(塩漬け)を準備中。
同時刻に庭先で柏木が三宮を目撃したことを、まだ彼女たちは知りません。
これからあなたたち大変ですよ…などと、千年後の読者は呑気なことを思うわけで^^

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2019_11
17
(Sun)23:56

羊羹礼賛。

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とらや赤坂本店に行ってきました。
去年のリニューアルから早くも1年経ったそうで、そういえば全然行ってないなあと思ったのと。

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虎屋文庫の展示が4年ぶりに再開したということなので!「虎屋文庫の羊羹・YOKAN展」。
タイトルの通り羊羹をテーマにその歴史と文化をひもとく内容です。

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最近、新潮社から出版された『ようかん』の本。展示室にも閲覧用が置いてあって読めました。
文章と多数のカラー口絵で羊羹の歴史を紹介しています。
この本で紹介されている書物や道具、パッケージの実物などを展示室で見られるので
両方チェックするとおもしろいと思う。

羊羹がもともと中国の料理で「羊の羹(羊肉入りの汁物)」というのは
過去の展示でも紹介されていましたけど、今回もそこから始まっていました。
つまりご馳走だったんですね。
そんなご馳走を日本に伝えたのは中世に中国へ留学した禅僧たちだとされていて
『庭訓往来』(14世紀成立)によると法会の際に食べるものとして挙げられており、
小麦粉で作って羊肉に見立てた精進料理のようなものだったと想像されているとか。
そんな汁物だった羊羹ですが、室町時代後期の『食物服用之巻』では
「汁につけて食べる」と書いてあるので、この前後で汁と具が別々になり、
やがて独立した食物として食べられるようになっていった…ということみたいです。
ちなみに羊羹が「お菓子」として食べられたことを示す最古の記録は
茶会記『松屋会記』の1542年4月3日の記事のお菓子の項に
「菓子:
ヤウカン(羊羹)
ヤキクリ(焼き栗)
イモノコ(芋の子)」
と、書かれているものだそう。

そんな風に汁がなくなりお菓子として食べられるようになった羊羹、
戦国~江戸時代にかけて様々な製法で作られるようになっていきます。
・1500年代~形を作るタイプの羊羹
・1500年代末~蒸すだけタイプ
・1700年代~柔らかいタイプ、寒天の水羊羹
・1700年代後半~煉羊羹
ちなみにこれらの製法はとらやにも伝わっていて
林檎形(形タイプ)、栗蒸羊羹(蒸すタイプ)、水羊羹(柔らかいタイプ・寒天タイプ)、夜の梅(煉羊羹)として
現在も販売されているので買えます☆
夜の梅は毎年、干支のパッケージで発売されたりしますよね。
材料ですが主に小豆・小麦粉・葛粉・砂糖で、
現在、羊羹の主流となっている煉羊羹には寒天も混ぜて作られますね。
さらに芋羊羹や琥珀羹など小豆を使わないタイプの羊羹も開発されて
羊羹の定義も広がりつつあるような。
とらやでの製法の展示もありまして、材料を混ぜて煉って、型に流し入れて固めて切って
販売されるまでの流れが調理道具の写真や映像とともに紹介されていました。
煉羊羹を煉る際に使う大きなおしゃもじの名前を「エンマ」というそうですが
語源はわかってないみたいですが閻魔様の杓から名付けられたかも、とのこと。

煉羊羹について。
『北越雪譜』(1837年刊)には寛政年間に江戸日本橋の喜太郎が煉羊羹を創始したと書かれていて
これまではそれが通説だったらしいのですが、
最近、それ以前の茶会記などに煉羊羹の使用例が見つかってきたので今は疑問視されてるらしい。
たとえば『太梁公日記』(加賀藩11代目前田治脩の日記)の1773年10月12日の記事には
「ねりやうかん半分」を食べたと書いてあり、しかも「風味不宜(おいしくない)」だったらしくて
たぶん藩主のお好みの味ではなかったか、製法が確立されていなかったんでしょうね。
また『逾好日記』(播磨姫路藩2代目酒井忠以の日記)には
1787年11月26日の茶会のお菓子に「ねりやうかん」を出したとあるので
少なくとも江戸時代中期には「煉羊羹という食べ物」があったのではないかということみたい。
酒井抱一のお兄ちゃんが羊羹を食べていたならきっと抱一も食べていたはず…とか、
楽しい妄想もできました^^

今は無き羊羹の名店。
お江戸には羊羹のお店がたくさんあり、番付などもあったそうですが
常にその上位にいた4店舗の紹介でした。
船橋屋織江(深川)の『菓子話船橋』では1804年の開店には800~1000棹も売れたと書いてあったり
鈴木越後(日本橋)の羊羹を「天下に鳴る」と紹介している『江戸名物詩』(1836年刊)があったり
金沢丹後(日本橋ほか支店多数)の菓子見本帳には凝ったデザインの羊羹がたくさん書かれていたり
藤村(本郷)は加賀藩御用達で近代には森鷗外や夏目漱石なども食べて小説に紹介してたりと
強すぎるエピソードのお店ばかりですごい。
今はどこも閉店してしまっているそうで、時の流れを感じますなあ。
…ちなみに、とらや(京都)の羊羹ですが。
『院御所様行幸之御菓子通』の、明正天皇が後水尾天皇のもとに行幸した1635年9月16日~20日に
二口屋と分担して538棹もの羊羹を納めたというのが、とらやの羊羹についての最古の記録だそう。
とらやに残されている御菓子絵図(1824年)でも色んなデザインで作っていたことがわかっていて
近代では州浜台に羊羹を積んだりしてギフトみたいな商品もあったみたい。
ギフトといえば昔は羊羹切手というのもあって、商品券のようなもので贈答品に使われたそうです。
お店の名前とともに「一煉羊羹」「壱棹」などと書かれていて、羊羹と交換できたのかな。

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近代の羊羹の商標・包み紙いろいろ。(ここだけ撮影可)
鉄道の発達などもあり各地へ旅行する人々が増えて、
地域の特産品を使った羊羹がお土産として販売されるようになり、そのパッケージを集めた展示です。

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浮世絵みたいできれいだなと思った、山梨の葡萄羊羹のパッケージ。
そういえば羊羹は、近代以降は紙やアルミ箔に包まれて販売されますが
その前は缶詰だったそうです。
(エドワード・モースが凮月堂のブリキ缶入り羊羹をアメリカに持ち帰ったりしているそうだ)
さらにその前の江戸時代では竹の皮にくるんだりしていたらしい。
『諸方御用留帳』1702年3月10日の記事に「やうかん六棹かわにつつみ入」という記録があります。
竹皮で販売していた主な理由は大きなサイズでしか販売していなかったからなのですが
紙のパッケージが可能になったあたりから小さいサイズでの販売も始まり、
現代でも販売されているサイズがこの頃ほぼ決まったみたい。
小型羊羹のパッケージも色々展示されていて、南座限定やニューヨーク店限定パッケージなど
(言い忘れたけどとらやは1980年にパリ店、1993年にニューヨーク店を出している)、
日本語のみならず外国語でデザインされたものもありました。
パリ店の「エッフェル塔の夕暮れ」羊羹めっちゃきれいですな…!
ニューヨーク店のカフェで出されたらしい羊羹サンドイッチに思わずシベリアを連想しましたけど
あれはカステラでしたね…ちょっと違う…。
さっきチラッと書いた夜の梅の干支パッケージも展示されてましたよ~。
夜の梅はとらやの歴史でも古くから製造されていて、1776年には蒸羊羹、1862年には煉羊羹になって
現在も販売されていますね。
「夜の梅に鼠」と題した掛軸を金島桂華が制作していて
子年にちなんで羊羹の箱の上にちょこんと乗ったネズミを描いた絵がありました。
衛生面が心配になりますが、絵としてはとてもかわいい。

羊羹トリビア。
歌川広重の「太平喜餅酒多多買」という、お菓子と酒が戦うというトンデモモチーフの錦絵に
「船橋入道ようかん」という、顔が羊羹になっているキャラクターが描かれています。
絵が展示されていたけど確かに顔が羊羹で体は人間でした。
『名代干菓子山殿』(お菓子の擬人化ストーリー)という黄表紙には
「かす寺(カステラ)の羊羹和尚」という、頭に羊羹の切り身を乗せた和尚様が登場します。
たぶん羊羹が精進料理だった時代の名残でお寺の人がキャラクター化されたのかな…。
またアニメ「それいけ!アンパンマン」にはヨーカンマダムというキャラクターがいて
顔が四角い羊羹で礼儀作法に厳しい人らしい。
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』には「羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、
肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる」という記述がありますが
何とそれを再現したスペース(!)がありまして、
ぼうっと灯された行燈の隣にある机のお皿の上に羊羹が置かれていましたが暗くて全然見えなくて…
わたしはまだまだ文豪の境地には至れていないなと思いました。
秩父宮さんはとらやの缶詰羊羹(1.5kgもあるやつ)をリュックに入れてマッターホルンへ登頂し、
山頂で茶会を開いたというつわものだそうですが
そのときの1.5kg羊羹入りリュックのレプリカが置いてあって持ち上げられました。重たかったです。
戦争が始まって空襲が激しくなると、とらやの工場も焼けてしまったそうで
溶けて商品化できなくなった羊羹は人々に無料で配られたのだそうな。
(新田潤の妻もバケツで持ち帰ったという記録がある)
また戦争中に海軍に納めた「海の勲」という小型羊羹、実物が1本だけ残っているそうで
それが今回展示されていました。
第一次南極観測隊への寄付もしていたようで、
1957年の観測船船長の日記には「赤道を通過し極寒の地で開けても変質なし」と書かれていたそう。
最近では野口聡一さんが国際宇宙ステーションで開催した宇宙茶会で
クルーとともに山崎製パンの羊羹を食べたのだそうで、そのときの写真もありました。
(ちなみに宇宙食にするにあたり特に改良などはなく合格してそのまま持っていかれたそうな)

あと最近の羊羹の食べ方としてヨーグルトとのマリアージュとか
お酒と合わせてみるとか、羊羹パンなるローカルフードとか
色んな方法で食べてみる人たちがいるんだなァとおもしろく拝見。
作り手の想像を消費者が超えていくこともありますよね。これからも意外な食べ方が出てきそうです。

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名代干菓子山殿には挿絵もあって、羊羹和尚も描かれているので
こんな撮影スポットが再現されていました(笑)。
羊羹和尚はかわいいな~。
2019_07
15
(Mon)23:58

待て、あわてるな。これは孔明の罠だ。

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東博の三国志展に行ってきました☆
「リアル三国志」を合言葉に、後漢から三国の時代について2~3世紀の出土品を中心に紹介する展覧会です。
三国の人々が実際に生きていた当時のものから伝説化・物語化されてゆく後世の創作品などに混じって
川本喜八郎氏の人形、横山光輝氏のマンガ原稿、三國無双の武器まであって
学術からエンタテイメントまで幅広く網羅されていて楽しい内容でした。
ゲームが展示される展覧会は近頃とみに増えていますが、東博もやっとやり始めましたね。

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ちょっと(どころじゃなく)びっくりしたのが全展示品写真撮影OK!!
ついったで情報が流れてきたときマジか、東博が?東博の特別展が!??って3度見くらいしました。
色んな意味で特別な展覧会になってると思います…関係者の皆様に感謝。
わたしは全部じゃなく興味のある展示品だけ撮ってきたけどそれでも200枚以上にはなりましたよ、
以下でご紹介していきます。

展示はいくつかのコーナーに分かれていて、まずは「伝説のなかの三国志」。
記録され、記され、語られていく中で三国の歴史は伝説化されて現代まで伝わっていますが
その様々な文化の形を紹介。
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横山光輝氏の『三国志』漫画原稿がいくつかありました。写真は桃園の誓いの場面。
15年かけて連載された長編漫画の始まりはここからなんですよね。
読んだのずいぶん前なのでほとんど忘れてしまっているな…読み返したい。

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関帝廟壁画(18世紀)。
蜀の関羽はその生き方から、唐の時代には既に神様としての信仰があって
劉備のもとへ行く前には塩を売る仕事をしていたことから民衆には商売の神様としてあがめられ、
関帝廟が各地に作られていますね。(横浜中華街にもあるよね)
写真は関羽が兵書を読んでいる姿を絵にしたもの。

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キービジュアルにもなっている関羽像(15~16世紀)。大きくてかっこいい!
美髭公とも称される関羽、お髭が強調される姿で表現される事例が多いですがこれは割と控えめだそうです。
充分たくわえた風に見えますが…これでお髭控えめなのか…^^;

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孔明出山図(15世紀)。
三顧の礼ののち孔明が山を下りて劉備軍に加わるところを描いています。
基本は水墨で色もそんなになくて、文人画っぽい雰囲気。

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関羽・張飛像(19世紀)。
曹操のもとから戻った関羽に一時は疑いの目を向けるも、その後きちんと謝る張飛。
演義の張飛は猪突猛進キャラですがかわいい部分もあるよね^^

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趙雲像(17~18世紀)。
長坂坡で阿斗(後の劉禅)を抱えて単騎で走り切った故事の彫刻です。
お腹に阿斗様をがっちりホールドしています。風ではためくマントも馬のたてがみも生き生きしてる!

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NHK人形劇三国志の人形があった!川本喜八郎氏の作品です。
写真は曹操・劉備・孫権の3人。こんなに綺麗に保存されているんですね…みんなかっこいいですね。
赤壁後に関羽を見逃す曹操の表情の動きとか、あの人形劇屈指の名シーンだと思ってるんですけど
あれももっかい見たいなあ…。
今回の会場には各人物ゆかりの品や関係品を紹介する冒頭で必ず主要人物の人形が展示されていました。

以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ。
(追記に紹介した展示品は特に注意書きがない限り1~3世紀の出土品です)

待て、あわてるな。これは孔明の罠だ。 の続きを読む »

2019_06
17
(Mon)23:53

小さな山がたくさんある街。

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太田記念美術館の「江戸の凸凹-高低差を歩く」展に行ってきました。
江戸時代に描かれた浮世絵から坂道や川、山、丘などの風景に着目し、
お江戸の地形をたどる展覧会です。
ブラタモリでタモさんがさんざん高低差高低差って宣伝しまくっているせいか、
近頃は各地で地形をたどる体験ツアーなども見聞きするようになりましたが
とうとう美術界でも高低差を取り上げ始めましたよ。こういうの大好き!(笑)

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会場では「東京の地形と江戸の名所MAP」なるものが配布されていました。(裏側は展示作品リスト)
御茶ノ水や上野、深川など、浮世絵によく描かれたエリアの地形と名所が書かれたマップです。
高低差がわかるように色分けされているので山も谷も川もわかりやすい。

まずは坂道から。
歌川広重「東都名所坂づくし」から神楽坂、御茶ノ水の昌平坂、九段坂などを描いた作品が展示されていました。
神楽坂は飯田橋方面から長くゆるい坂道になっているし
昌平坂は湯島聖堂や神田明神に行こうとすると必ず通る坂道だし
神保町から靖国神社へ至る道も確かに坂道になっていますね。
伊皿子坂(港区)や江戸見坂(ホテルオークラの前の坂)などからは江戸湾が一望でき、
湯島天神の男坂などからは不忍池が見えたみたい。
名所江戸百景からは八景坂の鎧掛松、赤坂見附の坂、湯島天神の男坂、神田明神の夜明けなど。
虎ノ門葵坂というところはかつて武家屋敷があり、
葛飾北斎「諸国瀧廻東都葵ヶ岡の滝」によると大きな滝もあって
水流の周りには葵の花が植えられていたそうです。
滝があるということはそれなりに高低差があったってことよな…(虎ノ門はあまり行かないので詳しくないです)。
広尾ふる川の絵もあって、そうだ恵比寿駅から山種美術館へ行くときは坂道を登って行くんだったとか
広尾から六本木方面へ行くとやたら登り下りが多かったな…などと思い出したり。
恵比寿のおとなりの目黒も、エリアマップを見るとたいそうな高低差で
目黒ってあまりウロウロしたことないのでわからないんですが目黒川の両脇は高台になっているんですね、
確かに目黒駅から雅叙園に行くときに通る行人坂はものすごい下り坂だよね…。
ちなみにキャプションによると江戸時代と近代の坂道を地図などで見比べるとほぼ変わっていないようです。
景色は武家屋敷やお茶屋がなくなりビルが建ったりしてかなりの変化があった東京ですが、
丘を割るような工事は江戸初期あたりにしかされなかったということだろうか…。

「お江戸の名所は高台にあり、必ずお寺か神社がある」の法則。
名所江戸百景の飛鳥山や湯島天神、王子稲荷の不動の滝、芝の愛宕山や増上寺などを見ていると
お参りや観光、お花見などで有名な場所はだいたい山道や階段を登った場所にありますね。
飛鳥山は武蔵野台地の際にあって江戸の街が一望できるし、湯島天神は言わずもがなだし
王子稲荷も愛宕神社も長い石段を登った先にあります。
増上寺は港区なのでそうでもないのかと思ったら、あそこも武蔵野台地の際で
場所によっては海抜20mのとことかあるみたいですね。
五重塔・新堀川・赤羽橋が描かれた絵を見てみると
新堀川の蛇行から谷状の地形になっていることがわかります。
あ。川で思い出したんですが、御茶ノ水のど真ん中を通る神田川とその両脇の渓谷って
山を掘削して神田川を通した人工渓谷なんですね!キャプションで初めて知りました。
昇亭北寿「東都御茶ノ水風景」や広重の「東都名所御茶ノ水之図」などには
どまんなかに流れる神田川と、両脇にそびえ立つ渓谷が描かれていて
この高さの山を割ったのかよ昔の人は、とんでもねぇなと思いました。
名所江戸百景の神田川も今まで何気なく見ていたけどまさか土木工事の景色とは知りませんでした…。
すごい、この展覧会勉強になるなあ。

昔はあって今はない景色の絵も。
名所江戸百景に描かれた目黒爺々が茶屋という、今はないお茶屋さんを描いた絵があって
淀橋高台の崖沿いにあったお茶屋さんらしいんですけど
その先にあった富士塚に向かうお客さんが立ち寄っていたそうな。(富士塚も今はありません)
あと目黒の駅付近にあった千代が池という池には10メートルほどの滝があったらしい。(今は両方ともない)
江戸名所道外尽からは妻恋こみ坂の絵がありまして
かつてここは厠(公衆トイレ)があったようで絵の中の人たちはみんな鼻をつまんでいました。
歌川豊春「浮絵和国景夕中洲新地納涼図」に描かれた中洲新地は
隅田川の新大橋の下流にかつてあった歓楽街で、
中洲にたくさんの船が集ってお店もいっぱいあって夜はとても賑やかだったようです。
北尾政美「浮絵東都中洲夕景之景」によると、夏には花火大会もあったみたいですが
広重の名所江戸百景に描かれる頃には取り壊されて浅瀬になっているんですね。
浮世絵からビフォーアフターがわかるっておもしろい!
時間を感じさせる作品は他にもあって、品川の御殿山を描いた浮世絵がいくつかあったのですが
花見の桜でにぎわう絵を見た後で名所江戸百景の御殿山を見るとびっくりします。
ペリー来航後、江戸では防衛のために土を海へ運びお台場が作られたのですが
その土は御殿山の一部を切り崩して運ばれたのですね。
広重が絵に描く3年前のことだそうです…崖がむき出しになった御殿山は痛々しく見えました。

上空から見た絵も。
名所江戸百景「深川洲崎十万坪」は鷲が大空から江戸を見下ろしている有名な絵ですが
鳥の眼下に広がる景色は3年かけて埋めたてられた洲崎だったんですね。
はるか遠くに見える山は富士ではなく筑波山とキャプションにあって、そうなのかあ!と驚き。
北尾政美「江戸名所の絵」は手前に隅田川、奥に富士山があって
その間の江戸の街を名所とともに高低差込みで描いたおもしろい絵です。
川や谷や山などの凸凹がしっかり表現されていて、これ余程地理に詳しくないと描けないと思う。
二代目広重の「江戸名所一覧双六」はお江戸各地の名所がコマになっている巨大な双六で
振り出しと上がりがともに日本橋でした。

展示されていた浮世絵が一部(北斎、政美、北寿など)を除いてほぼ歌川広重一色だったのも
すごいなと思いました。
名所江戸百景や東都名所坂づくし、江都名所など
お江戸の風景画を数多く残した広重の絵は当時を知る貴重な資料にもなっているのだなあと。
名所江戸百景も何度も見ている作品なのに、高低差に着目して見たことはなかったので
新しい視点をもらえてよかったです。
浮世絵から読み取れるものってたくさんあるんだなあ…これだから美術館通いはやめられない^^
2019_04
13
(Sat)23:51

武蔵の地獄と仏教の歴史。

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前回記事の続き。大宮公園でお花見をした後に
同公園内にある埼玉県立歴史と民俗の博物館の「東国の地獄極楽」展に行ってきました。
中世以降の東国(関東)の史料や美術品から地獄極楽についてたどる展覧会です。
桜ミクさんも歴博デビュー☆

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いつもは装束体験で来ている歴博、展示を見るのは久々です。
関東の地獄や極楽の美術って全然知らないので楽しみであります。

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ロビーにあった圓福寺の閻魔王宮八大地獄図(レプリカ)は撮影可。
本物(春日部市指定文化財)は出品されていませんが、由来を記した版木が展示室にありました。
江戸時代の住職だった生善光世が源信の『往生要集』を参考に
2年かけて彫り上げた幅6.6メートルものレリーフです。でかい!

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中央に閻魔大王がいて、左右に八大地獄の様子が彫られています。
閻魔大王以下、登場人物(?)がみんなギョロ目で水木しげるっぽいデザインでおもしろい。
やってることは釜茹で、火の海、切り刻みなどエグいのにキャラクターじみた画面がすごくちぐはぐ、
本物はきっともっと迫力あるんだろうなあ。

展示はまず、地獄極楽は何ぞやということで源信から始まっています。
常光院(熊谷市)の恵心僧都坐像は県内に現存する数少ない源信の画像だそうで
数珠を持ち静かに座る源信がとてもきれいに描かれていました。
そして源信といえば往生要集です!江戸時代のゑ入往生要集(パネル展示)がありました。
極楽の表現として出品されている吉祥院(久喜市)の地蔵菩薩立像の掛軸は
踏割蓮台(台座が2つに分かれているもの)に乗っていました。
地蔵菩薩は地獄絵の隅によく描かれていますよね、地獄に仏というやつですね。
かつて長瀞の博物館に所蔵されていたという阿弥陀如来坐像は顔や体の破損がひどく、
火災に遭ったのではないかとキャプションにありました。おいたわしや。。
阿弥陀如来は極楽図の中心によく描かれる仏様でもあります。

次に、熊谷直実の人生について。
現熊谷市出身の直実は源平合戦の平敦盛とのエピソードが有名ですが
あの戦いの後出家して浄土宗信者となったことはあまり知られていないように思います。
宇治川・一の谷合戦図屏風や吾妻鏡など、当時の戦いを偲ばせる絵や資料がありました。
土佐光信の模写といわれる一の谷合戦絵巻は同じく敦盛と直実の対峙を描いていますが
彼らを描いた絵にしては珍しく海辺などの背景がありません。
未完成なのか想像で補うのか、鑑賞者に問われている気がする。
源平合戦の後、直実は法然に帰依して京都で出家し、蓮生と名乗ります。
信濃の善光寺にある蓮生法師坐像(南北朝時代)の彫刻は手が失われてしまっていますが
蓮生の彫刻は作例があまりないので貴重とのこと。
江戸時代の熊谷蓮生坊絵詞は京都の知恩院が所蔵する法然上人行状絵図を模写した絵巻で
蓮生が予告往生を遂げた様子がパネルで大きく引き伸ばされて展示されていました。
蓮生は上品上生を目指していたらしく、そのことを阿弥陀如来に誓う誓願状をしたためていまして
その誓願状(清凉寺所蔵)も出品されていました。これ自筆らしいですね!貴重だね。
1204年5月13日の日付と署名があり、極楽往生の立願の経緯が細かく書かれていて
ちょこちょこ二重線で消して書きなおしたり小さい文字で付け加えたりしている部分もありました。
蓮生が往生するとき隣に置いていたという迎接曼荼羅(清凉寺)も展示されていて、
中央に阿弥陀如来が坐し、左下に描かれた家屋の中にいる人物が蓮生本人のようです。
これさっきの蓮生坊絵詞の絵を見るとちゃんと蓮生の隣に飾っているのが描かれてるんですよね。
迎接曼荼羅由来はその曼荼羅が熊谷家にどのように伝来してきたかを記した書物で
法然が往生する姿を夢に見て蓮生に与えたということですが、
蓮生がこの曼荼羅を所持していたと思われる1195年ではまだ帰依して日が浅いことから
その辺りは後世の潤色と考えられているそうです。
曼荼羅を受け継ぐには何らかの説話が必要だったということなのかな…権威づけとかハクづけというか。
なんとかして残そう、伝えようとした人たちのご苦労がしのばれます。

続いて、関東における浄土宗信仰について。
法然の孫弟子にあたる第三祖良忠と、良忠の3人の弟子による関東三派の布教活動を通して
関東における浄土宗の始まりと教線の広がりを紹介しています。
キャプションでとても丁寧に、関東三派の詳細な説明がされていたのですが
なじみがないので正直言って難解でした。。
鎮西派として九州からやってきた良忠は鎌倉に光明寺を開山し、関東での布教活動を始めます。
江戸時代の良忠上人坐像は赤と金の美しい袈裟をまとったやさしそうなおじいちゃん像。
このお像は鴻巣の勝願寺が所蔵しているのですが
勝願寺は良忠が北条氏から土地を寄進され建てたお寺なのだそうです。ほお~。
同じく勝願寺の阿弥陀廿五菩薩来迎図は多くの菩薩が坐して迎えに来ているという珍しい作例でした。
良忠は89歳まで長生きした人で、観経疏伝通記など多くの仕事を残しているのですが
1272年に良忠が息子の良暁に宛てた譲状では鳩井(現川口市)の土地を譲るとしていて
その良暁が後継ぎに指名され奥義を伝授されています。
良暁は父の死後、相模国白旗郷に移って活動したので白旗派と呼ばれるようになり、
光明寺の所蔵する附法状には浄土法門の流れが良忠→良暁→良榮であると書いていたり
述聞制文には鎮西流の法門を相伝される経緯を記しているので
良忠に続く正統であるという強い自負があったように感じられました。
寂恵良暁坐像は椅子に座った状態の良暁の彫刻で
ふっくらとした顔に大きな目がつき、払子を持ち背筋をぴっと伸ばした力強い作品でした。
また、良忠の弟子にあたる性心も活動の幅を広げていて
武蔵の藤田(現寄居町)に居住していたことから彼の信者は藤田派と呼ばれるようになります。
東北の藤田派の拠点にあたる高厳寺(福島県)が所蔵していたという阿弥陀二十五菩薩来迎図や
善導寺開祖の良心が創建した蓮光寺(寄居町)の当麻曼荼羅図などが展示されていましたが、
江戸時代の幡随意上人行記(川越の蓮馨寺に学んだ僧)によると
その頃には多くの信者が白旗派に転派して藤田派は消滅してしまったとか。
さらに、同じく良忠の弟子である良弁も鎌倉の名越谷で布教したため
名越派と呼ばれるようになっています。
秘伝を集めた聖教を収めた箱「月形函」について書かれた重書宝函事(門外不可出と書いてある)や
浄土鎮西義名越派代々印璽脈譜(開祖良弁の赤い手形つき)などが展示されていました。
また名越派は善光寺と縁があったようで、善光寺式の仏像がズラリ☆
善光寺式は善光寺の本尊を模した一光三尊形式(阿弥陀(光背つき)・観音・勢至)で作られた仏像のことで
展示品はどれもさほど大きくはない仏像でしたが綺麗な良品ばかりでした。
良榮が持っていたという阿弥陀如来及両脇侍立像、
いわき市に草庵を結んだ真戒(尼僧)の阿弥陀如来及両脇侍立像は小さなサイズでした。
東博の阿弥陀如来及両脇侍立像が一番保存状態が良かったな…さすがです。
ほかにも関東で活躍した僧侶ということで法臺寺(新座市)の観智国師坐像が紹介されていて、
観智は法臺寺で受戒した後、浄土宗を学び増上寺12世となり徳川家康とも仲良しだったそうです。
圓福寺の阿弥陀如来立像及両脇侍像は中尊の体のみ鎌倉時代、ほかは江戸時代の補作だそうですが
観音は膝をかがめて合掌し、勢至は坐しているというやっぱり珍しいポーズでした。

後半は、関東の地獄極楽に関する仏教美術の紹介。
清浄院(越谷市)の閻魔王坐像は真っ赤な肌に口をかっと開け、たくましく髭を生やしていて
いかにもザ☆閻魔って感じ。
唐風の衣装にあぐらをかいて、沓の裏がチラリと見えていました。大きくてかっこいい像だった!
明光寺(狭山市)の地蔵十王図は全13面にそれぞれ十王と賽の河原と奪衣婆が描かれていて
リアルというよりもコミカルでちょっと親しみやすい表現でした。
江戸時代の作らしいのでそうだね、あの時代は美術もデザインもかわいくなっていくからね…。
三学院(蕨市)の地獄図は閻魔王と地獄の責め苦が画面いっぱいに描かれていますが
隅っこに阿弥陀如来がいて救いがある絵でした。
最勝寺(越生町)の十王地獄図もところどころに地蔵菩薩が描かれて救いがあるけど
阿鼻地獄に堕ちる人々をつつむ炎の描写は容赦のない赤ですさまじかったです。ダイナミック地獄堕ち。。
松山(現東松山市)出身の絵師江野楳雪による十界図と六道図は
ど真ん中に阿弥陀如来が、その下に閻魔が描かれる世界の絵で
十界図は曹源寺(江野家の菩提寺)が所蔵しているそうです。
観音寺(八潮市)が所蔵する阿弥陀如来立像は来迎形の姿で、厨子に入っているのですが
厨子の内側にカラフルな菩薩たちが描かれていました。
如来が三次元で菩薩が二次元!こんな来迎図もあるのだなあ。
小さいサイズの当麻曼荼羅も展示されていたのですが、
江戸時代になるとこうした持ち運びしやすい曼荼羅が多く作られるようになったとのことで
思想と流通の広がりについて考えるなどしました。ネットワークが広がるとこういうものが必要になってくるんですね。

最後に。
東善寺(熊谷市)の阿弥陀如来立像が展示されていたのですが
この仏像、最近の調査で快慶の作ではないかとニュースになったものですね。
丸顔で唇が小さく、衣の流れるような紋などに特徴がみられるそうです。
もし快慶作であれば関東で3例目、埼玉県内では初の発見になるとのことで
まあ確かに展示物の仲では垢抜けた作りだなあという印象でした。
大きさは70cmほどで、快慶がよく作っていた三尺阿弥陀より小さく、欠損も多く状態もあまりよくないけど
補修された形跡がないので造像当初の姿に近いのではないかと考えられているそうです。
習作だったのか制作途中だったのかどこかの阿弥陀如来のプロトタイプあるいは胎内仏なのか…
可能性は無限大なのでこれから研究が進んで色んなことが明らかになっていくでしょう。楽しみです。

それにしても埼玉にあんなに江戸時代の地獄絵の事例があったとは思いませんでした…!
だいたい過去に見た地獄絵と似たような表現が多かったけど、
江戸や京都と同じような内容で伝えられていたんだなと。
あと関東三派については本当に勉強になりました。
中世の武蔵における仏教ってほとんど知らなかったので…これを機に理解を深めてゆきたい。

展示で色々勉強した後は野田線で大宮駅に戻ったのですが。
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ちがう、帰り道はそっちじゃない。
(埼京線が正しい帰り道なのですが最近大宮に来るとフラフラとこっちへ行きそうになります)
(今週はシンカリオンが運休なので悲しみ)

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帰りに川越特急とニアミス。
3月から運行している特急列車で川越~池袋間は朝霞台のみ止まります。
残念ながらアートトレインではなかった~いつ走ってるんだろう。1回くらいは見たいなあ。
2019_03
28
(Thu)23:51

線路は続くよどこまでもその3。

懲りずに先週に引き続き大宮てっぱくでガンガンズダンダン充してきました!
実は先週の訪問では時間が足りなくて全館回りきれなかったので。。
1日で回れないなんて大英やルーヴル美術館クラスのミュージアムのための言葉だと思ってたのに
そんな博物館が国内に、しかも居住県内にあるとは思いませんでした。
先週から特に展示が変わったわけでもないのにまったく飽きずに楽しんできましたけどね。
シンカリオンのお蔭です。シンカリオンはすごいです。

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シンカリオンE5(1/5スケール)の展示はこの日の時点で残り5日。
任務完了日の本日に行った人たちによると「任務完了」の看板が立っていたそうです。
お疲れさまでした!!会いに行けて本当にうれしかったよ。

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先週行きそびれた場所その1。0系先輩のお部屋です!
車両ステーションではヘッドのみの展示ですが、ここは1両まるごと展示されていて
開業当時の雰囲気が味わえるし車内も見学できるし貴重な資料も見られます。
もはや0系のための0系ルーム。

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0系先輩は下にもぐって車輪が鑑賞できるよ!失礼します!!
新幹線の車輪も駅のホームとかだと見えませんからねえ…こういう複雑な部品の絡み合う光景だいすき。

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先週行きそびれた場所その2。鉄道文化ギャラリー。
室内は撮影禁止なので写真はありませんが、
鉄道が出てくる小説やマンガ、鉄道をテーマに描いた絵画作品、
駅で販売されている駅弁や駅そばの食品サンプル、鉄道を歌った歌謡曲など
鉄道に関する文学や音楽、絵画、食文化に関する展示がありました。
文学は内田百閒から西村京太郎など、鉄道といえば!な作家さんの作品から
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」など、そこまで網羅するの!?的なものまであったし
駅弁サンプルがかわいくて見飽きない!新幹線の形のお弁当箱にテンションあがってしまった☆

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C57の転車台イベントも見てきましたよ。
先週は主に車両についての解説が聞けましたが、今回は汽笛の鳴らし分けの実演がありました。
ポッポッポッと短い汽笛:方向転換、危険を知らせる
ポーッポーッと中くらいの長さの汽笛:運転開始、トンネルや橋を走るとき
ポッポッポーーッと短いのと長い音の組合せ:2両以上で坂道を登るとき、後続の機関車に押してもらい、登り終わってもう押さなくていいよと伝えるとき
ポーーーーーッと長い汽笛:踏切の手前で列車の接近を知らせるとき
色んな音があるのですなあ。
汽笛に種類があるのは気づいてたけど、こうして音とともに説明してもらうとすごくわかりやすいです。

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パノラマデッキへ。今日も新幹線がたくさん通ります。速いよかっこいいよ~。

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360°ザ・ムービー2回目。
先週は夢中で観てしまったので今回は余裕をもって鑑賞。360°ぐるぐる見回してきました。
シンカリオンが走る風景や捕縛フィールド内がちゃんと360°描いてあったことにやっと気づいて
やっぱり何度か見ないとわからないことってあるなあと。
あと、座った席の位置が前回と違ったのでE6のフミキリキャノンはわたしの頭をかすめていったし
E3の手裏剣もE7のドリルも直接くらうことはなかったので安心して見られたの良かったです。
ブラックのミサイルポッドは相変わらず無差別なので迫力ありましたね~。
そしてイエローはとてつもなくかっこいい。(頭抱)

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やっと新幹線ラウンジのリュウジさんが座った椅子に座ってきたんですよ!(一番手前の真ん中の椅子)
前回は緊張して座れなかったけどこの日は勇気出したよ、わたしえらい!!
やっぱり緊張しましたけど後悔したくない気持ちの方が勝りました。がんばった。座れた。感動。ありがとう。(誰に)

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トレインレストラン日本食堂にも入りました。
食堂車をイメージした超オシャレなレストランでドキドキしましたけど
電車の窓から外の景色を眺めているような気分になれて楽しかったです。

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東京駅の赤レンガをイメージしたパウンドケーキ。
この日の朝の放送で中央迎撃システムを起動しチェンジした東京駅を思い出しながらいただきました。
ぎっしり中味の詰まった、でもしっとりした上品な味でおいしかったです!聖地を食べるぜ。

他にもひと通り楽しみましたが、レポは先週の記事に書きましたので割愛。
閉館間際までウロウロして、名残惜しいですが博物館を出てプロムナードから駅へ向かっていたら。
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ガラス戸の向こうにシンカリオン各機!
てっぱくボランティアさんによる新幹線の歴史の展示があったのです~~(^◇^)☆
行くときは気づかなかった。帰りに気づいてよかった。
まるでこの日のシンカリオン全機東京駅集合の図を再現したかのような並び方で
(H5が一番右にいるのとかE3がアイアンウイングなのとかトリニティが合体前なのとか)、
あまりのアニメとのシンクロっぷりにシャッターを押す手が止まらなかった。
こんなことってある??これで中央にイエローと紅がいてくれたら完璧だったわ!!!(滝涙)

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大宮支部のモデルになっている大宮てっぱくに模型とはいえこの名前が掲げられていることのエモさよ。
ボランティアの皆さん本当にありがとうございます。
最後の最後までテンションMAXな、とてもいい時間が過ごせました…春の感謝祭に大感謝。

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戦利品。
すいペンおみくじは特に大吉とか書かれてはいなくて、素敵なアドバイスをくれる内容でした。
来館記念カード大放出、今回は新幹線の柄だったので
E5×E6をいただいてきましたよ~(^o^)欲しかったからもらえてよかった!

2週にわたって楽しんだのでさすがにもうしばらくは行かないと思いますが、
やっぱり自分がそのとき行きたいところに行くのが体にも心にも一番いいことなんだろうな。
というのは博物館に滞在している間、心がものすごくぴょんぴょんしてて、それが体調にも影響したらしくて
帰ってお風呂入って洗顔したらかつてないくらいお肌トゥルットゥルだったんですよ…。
すごいよ鉄分、いやシンカリ成分。。どんなカウンセリング化粧品より効きます。すばらしいです。


シンカリオン63感想は以下です。↓今回も推しの顔が美しかった。

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2019_03
16
(Sat)23:57

線路は続くよどこまでもその2。

やっと、やっと、大宮の鉄道博物館に行ってきました☆
今月のてっぱくは春の感謝祭ということで色んなイベントが開催されていて「楽しそう」と思ったのと、
博物館のエントランスにいたシンカリオンE5が今月いっぱいで任務を終えてさようならすると聞いて
大慌てで会いに行ったのでした。
去年の11月には名古屋のリ鉄、今年の1月には京都てっぱくに行ったばかりだというのに
この短期間でこんなに鉄道系の博物館を回ることになるとは…
シンカリオンというきっかけがなければ行かなかったと思うので感謝です。シンカリオンは本当にすごい。

その前に。
stamp1.jpg
JR川越駅改札の手前で700ひかりレールスターくんをふと見かけて
「そうだ今シンカリオンスタンプラリーをやってるんだった」と思い出しまして。
JR東日本が新幹線や武蔵野線、宇都宮線などの駅にスタンプを置いて
制覇すると抽選で景品が当たるというものです。
範囲が広すぎて全部は回り切れないので、
てっぱくまでの道のりにあるスタンプだけ記念に押していくことにしました。

stamp2.jpg
大宮駅に到着。
みどりの窓口前にE7かがやきのスタンプがあって、ツラヌキくんが迎えてくれました。

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南改札(埼京線・新幹線側)を出てすぐ目の前がニューシャトル線へ向かう通路になっています。
いっくぜ~!

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ニューシャトルに乗って鉄道博物館駅に到着☆
初めて乗って気づいたんですけど東北新幹線の線路沿いを走って行くんですね!
運が良ければ新幹線と並走するタイミングがあるかもしれない。

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駅から博物館へは地下直結のプロムナードがあります。雨の日でも濡れずに行けるね。

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地面に新幹線の時刻表が書いてありました。
写真は東北新幹線です。山形新幹線や秋田新幹線も書いてあるよ。

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プロムナードには車両がいくつか展示されていて撮影ができます。
写真は1972年まで活躍したD51蒸気機関車。

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上を見上げるとカラフルな鉄柵が張り巡らされています。
新幹線のダイヤグラムをイメージした装飾だそうです。

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やっと入口に到着。。
でもここで思い出したことがあって立ち止まってしまいました。
なぜならここはアニメ18話でツラヌキくんがリュウジさんに声をかけた場所だから!!!
「おまえも母の日のプレゼント買いに行くか?」「母の日か…一緒に行こう、案内してくれ」くっは~~(*´Д`*)☆
(すいません今回の記事ずっとこんなテンションです)

以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ。

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2019_01
05
(Sat)23:54

文化の祭典その3。

2019JCUlTUREFES.jpg
今年も東京国際フォーラムのJ-CULTURE FESTの展示を見てきました!
去年と同じで入場料無料で開催されていたお正月のイベントです。
写真は手毬さんの和菓子ですよ~~今年もかわいい、干支の猪に牡丹にパンダ饅頭。
上生菓子は基本、練り切りで作られますが、この猪は表面がこしあんでできています!
滑らかな食感で美味でした☆

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会場の入口にあった猪タワー。
白い猪のぬいぐるみがぎっしり積まれていてすごい光景(笑)。
おかめのお面や獅子頭をかぶってたり小判や海老を持ってたり、お正月らしくてかわいかったです。

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会場にあった巨大宝船☆
伊藤若冲が見たら狂喜乱舞して絵を描き始めそうなくらい、野菜や果物がどっさり積まれていて
その中に松竹梅や季節の花が飾られてまるで生け花のようでした。
米俵や酒樽も積まれていて七福神が喜びそう。

今年もEホールのロビーギャラリーにて京都の井筒さんによる「平安王朝文化絵巻」があります。
相変わらず気合いの入った展示で、無料で、写真撮影OK!ほんとに有難い。
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牛車、今年は中だけではなく外にも人がいます!
キャプションを見たら源氏物語をイメージして再現しているそうで、
牛車の外で扇を持って立っている彼は惟光(光源氏の従者)ですね。
隣に立ってみたら烏帽子を差し引いても結構、背が高くてびっくりしました…
そういえば惟光の身長について物語の中では特に言及がないから、好きに想像していいんですな。

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手元の扇をアップで。夕顔の巻を思い出しますな。

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中には源氏と紫の上がいました。何を話しているのかな…。

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そして今回もジオラマ展示がアツイ!
今年の六條院は明石の姫君の裳着の儀式と宴会が再現されていましたよ。

以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ☆

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2018_12
14
(Fri)23:58

衣紋の道その4。

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埼玉県立歴史と民俗の博物館の特別体験事業「十二単と男子装束体験」に行ってきました!
男子装束に応募しまして、直衣狩衣は過去に着せていただきましたので
今年は赤袍を着せていただくことに。

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いつものように更衣室で単と下袴をつけていただいてから着付け会場に出るのですが
今回は冠も更衣室でかぶっていくことに。
椅子に腰かけた状態で衣紋者さんたちがつけてくださるのですが
わたしには髷がないので(冠は本来、髷を後ろの出っ張りの中に括り付けて頭に固定します)、
額と纓のバランスが崩れやすくなってしまってなかなかうまいこと引っかかってくれず、
最終的に顎の下に締める紐がぎゅーっとなることに。。
「大丈夫です殺しませんから!」という頼もしいお言葉に「はいー!」と勇ましく返事だけして
もうなるようになれと背筋を伸ばしてひたすら待ちました。
5分くらい格闘させてしまったかな…なんとか無事につけていただけたので着付け会場へ移動。

会場では単と赤袍、そして袴をつけていただきます。
(写真は博物館のスタッフさんが撮影してくださいました。ありがとうございます☆)
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じゃーん☆
赤袍は五位の官位をもつ人が着る衣裳です。あのときわたしは五位になった…!
直衣や狩衣のときはささっと着付けていただいたように記憶しているのですが
赤袍は着付け時間が2倍近くかかり、衣裳そのものもずっしり重くて
完成したときは若干肩が痛くなってました。
これ下着と単と袍しか着てないのに、ですよ!
十二単が重たいというのは体験済みなこともあってかなり実感できているところではありますが
袍もかなりの重さということがわかって驚いてしまいました。男性も大変だったんだな…。

ここでの衣裳体験も4度目なので、さすがに手をだらんと垂らすのにも慣れてきたんですけど
(腕の上げ下げは衣紋者さんたちがやるので、着せてもらう人は基本的に何もしないのがマナー)、
やっぱりうっかりやってしまうこともあって、そのたびに「殿はじっとして!」って怒られました。
すいません生まれも育ちも一般人なので…!
でも3人もの衣紋者さんから「殿ちょっと腕上げますね」「殿、肩の力抜いてください」「殿、段差気を付けて」
などなど、殿っていっぱい呼んでいただけるのすごく楽しかったです☆
人生で殿なんて呼ばれる機会そうそうないと思うので!

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斜め後ろから。

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座ってみた。
狩衣のときは自分で座れたけど、袍は衣裳が重くて自分ではどうにもできず
衣紋者さんの手を借りて座らせてもらいました。
袴も重たいのであぐらをかくのがたいへん。
よく大河ドラマや時代劇で、朝廷の会議のシーンとかがあると
こういう格好の人たちがズラリと座っていたりすることがありますが
そんな気分が味わえました^^

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斜め45度。この角度が好きなのですよ。

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横。
冠の纓が綺麗な弧を描いているのがやっぱり好き。

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あとこれも初めて知ったのですが、笏の持ち方って
人指し・中・薬指が前で、親指と小指は後ろに添えるのだそうです。
親指はまあわかりますが小指まで後ろだとは思わなかった…!勉強になりました。

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袖口。唐草模様がほどこされています。
衣裳は厚みがあって結構あったかくて、これなら冬でも大丈夫ですね。

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更衣室にあったかぶりもの一式。
わたしは今回、真ん中にある有紋をかぶせてもらいました。
右の冠は無紋で、頭の小さい人用だそうです。左にぺったんこと置いてあるのは烏帽子。

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たたむところも見学させていただきました。
プロの方でいらっしゃるのでさっさっと畳まれていくのはまさに神技…!
あんなに大きかった衣装がコンパクトにまとまっていくのはおもしろく不思議でもあります。

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「衣裳を保管するとき首上は締めないでおきますが、持ち主が亡くなると締めます」と
衣紋者さんがふいにおっしゃったのでびっくり、そうなんだーーー!!?
人が亡くなった際に色々決まりごとがあるのはわかりますけど
物にも物としての終わりの形がある、というのは何だかドキドキしてしまいました。
本当にここの体験は勉強になることばっかりです…また来たいな。

今回までで十二単のうちピンク色・直衣・狩衣・赤袍を体験しましたので
未体験の衣装はもうひとつの十二単のみになりました。
というわけで次回の目標:
もうひとつの十二単を、着るっ。
(抽選当たるかなあ、十二単はものすごい人気で倍率がむちゃくちゃ高いのです。がんばって葉書出そう)

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帰りに大宮駅の豆の木をなんとなく撮影。
ここも何度も訪れているのに彼らがよく使う駅だと思うとつい、ね。


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年賀状マラソン始まってますよ~。
毎年、基本的には女の子を描いてるんですが
気まぐれに手癖で男の子を描いてみたらちょっとこれは…似すぎましたね…(汗)。
男の子が届いた人たちはあぁあのアニメねって生暖かい目でスルーしてください。
2018_11
24
(Sat)23:52

望月の歌ミレニアム。

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昨夜の満月。
唐突に何やねんと思われるかもしれませんが、
昨日は歴史学界隈、特に日本史の中古を専門とする人々や当時のファンにとっては
ちょっとした記念日だったわけでして。

昨日11月23日は旧暦でいうと10月16日にあたり、
さらに今から1000年前の1018年10月16日はある人物が満月の歌を詠んだことで知られます。

「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」

藤原道長がこの歌を土御門第の宴で詠んでからちょうど1000年後の満月が昨日だったわけです。
宴に参加した藤原実資の日記『小右記』にこの三十一文字が書かれていて、
道長自身も日記『御堂関白記』にこの日に歌を詠んだと記しています。(歌そのものは書いてない)
ちなみに明石市立天文科学館が調べたところによると
当時のこの日も満月(正確には満月を少し過ぎた十六夜月)だったそうです。
1000年後にも満月になるとかすごい奇跡。旧暦って月齢の関係で毎年変わりますのでね。

歌が詠まれた10月16日は道長の娘・威子の結婚の儀があり、
「一家立三后(一条天皇と彰子、三条天皇と妍子、後一条天皇と威子)」を成し遂げた日でもあります。
この日、威子が後一条天皇の中宮に立つことにより道長の3人の娘が3代の天皇の后となりまして
そのお祝いとして土御門第(現在の京都御苑の一角)で宴が開かれています。
本宮の儀の後に穏座(2次会のような宴)が設けられ、望月の歌はその席で詠まれたそうです。
そのときの状況がちょっとおもしろくて、過去記事にも書きましたけど
道長「おれ今から歌詠むから実資くん返してね~」←たぶんお酒入ってる
実資「はあ、いいっすよ(歌は苦手なんだけどな…)」←こっちもまあまあお酒入ってる
道長「即興だよ~」
実資「わかりましたよどうぞ(さて、どうやって返さずにすませるかな)」
道長「(望月の歌)」
実資「まったくすばらしい歌で返歌などできません。みんなで唱和しましょう」←笑顔
その場の全員「(声に出して詠じる)」
とか、とか、そんな雰囲気だったそうなのです。(イマジナリー道長&実資でお届けしています)

ちなみにこの歌ですがいくつかの要因が重なって今まで残ってきたようで。
・道長の宴にあまり来ない実資がこの日は珍しく来ている
・即興の歌を聞きとり日記に書いている
・日記の自筆は失われたけど写本が2冊だけ残っている
小右記は全61巻といわれますがほとんど散逸してしまい、丸々1年残っている年はないのですが
たまたまこの1018年の広本が現代まで伝わり広く知られることになったようです。
藤氏の栄華を詠んだ道長の傲岸不遜な歌というのが一般的な解釈ですが
歴史学のうえでは当然、別の解釈もあるわけで
本当に驕りの歌なのか、我が世はこの世ではなく道長の人生ではないか、
これから欠けゆく満月に一族を例えるなどしないはずだからこれは天皇の后となった娘たちではないか、
そもそも実資が聞き取った文言は一字一句正しいのか?というところまで
様々な研究者が考えているようです。
この歌の一次史料は日記で、書き手である実資の主観が入っているので
実資と道長の関係を考えると盛ってる可能性があるのですね。
なのでなるべく批判的に読み込んで、他の史料も使って妥当性を探っていかないとならない…。
歴史研究は事実と解釈されたらそこで終わりではなく、歴史が続く限り永遠に続くんだよね。
書いたのは本当にこの人か、書かれた時代は本当にその時代なのか、
時代が経過すればするほどその時代を見聞きした人はいなくなっていくので
その史料が正しいかどうかの証拠は何ひとつなくなり常に疑われることになります。
膨大な史料を突き合わせて相互に参照しながら事実かどうかクロスチェックすることを
研究者はずっと続けてきたし、これからも続けていくわけです。
似たような記述が多ければ当時その出来事があったという可能性が高まりますのでね。
あと史料を解釈する研究者の主観も介在しますね…その当代の歴史家の思想が必ず入ってきます。
歴史学は真実を探究する学問ではなくあくまで解釈する学問なので
解釈が時代とともに移り変わっていくのはさもありなんと思いますし、
おそらくそうあった方がいいとわたしは思ってます。
…何が言いたいかっていうと望月の歌の色々な解釈を見るのが楽しいってことです。歴史のロマン!

さらに。
本人が書き残していない歌を別の誰かが書き残したというのも異例中の異例らしいので
今頃あの世で道長が実資をタコ殴りにしているかもしれません。
「やっべ娘の結婚式で超うれしかったのと酒とでテンションあがってあんな歌詠んじゃったよ消えたい…
でもまあ盛り上がってよかったしその場の流れで…って思ってたら実資おま何メモしてくれてんの??
テメーはそのへんの女房の単でも数えてりゃいいんじゃ!」(紫式部日記のあれ)
「暴力反対!なんとなく書いちゃっただけだしこんなに残ると思ってなかったし!
だいたいおれ歌詠むの得意じゃないってあんた知ってんのに何無茶振りしてくれてんの??
テメーはそのへんの女房に料紙でもばらまいてりゃいいんじゃ!」(紫式部日記のあれ)

あと、昨日この望月の歌がこんなに盛り上がっていたのは、
・天文学界隈による発信
・歴史学界隈による史料の典拠
・歌を披講する文化
・月
このどれが欠けてもあんなに盛り上がることはなかったと思うので、
文化というのは複合的なものなのだなと改めて思いました。
人文学と社会学と自然科学のコラボだ。

粛々と史料を読んでそこに見つけたおもしろいネタを投下する人になりたい。



シンカリオン46話感想は下にしまってます~。↓
すっげぇリュウジさん回だった上に情報過多でドッタンバッタン大騒ぎな長文ですがよろしければどうぞ。

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2018_11
20
(Tue)23:57

ここ掘れワンワン。

たいていの人は図書館やミュージアムに行かない、という話を職場の人としていて
業界にいると見えないことっていっぱいあるよなあと思ったゆさです、こんばんは。
うちでもミュージアムに行くのは母と弟だけで、父と妹はぜんぜん興味ないしなあ。
(その代わり別のものに興味があってそっちには猛烈に入れ込んでいる)
図書館も、わたしと母はよく行くけど他の3人はあまり行かないなあ。
(父と弟は読みたい本は自分で買う派)(妹には読書の趣味がありませぬ)
色々と便利な世の中ですが文化に触れる機会は圧倒的に少ない中で
わたしにできることはあまりないですけど、
たとえば友人から「今度〇〇に行くんだけど観光スポットある?」と聞かれたら
「現地のミュージアムに行って」「わからなかったら調べるよ」というのは伝えています。
図書館はともかく美術博物系だったら興味のある分野の展示があれば行ってくれる人はいるので…。
(行くかどうかは個人の自由なので言うだけ)

そもそも「敷居が高い」「興味のある資料(展示)がない」「趣味ではない」「知らない」などなど
企画とか広報とか宣伝とかの課題は山積みなわけですが、
美術系の笑い話としてよく言われるのは
「国宝や世界遺産や有名スポットの中で生活していると日常すぎて行かない」というやつだと思う。
(祇園に住んでて八坂神社行ったことない人の話を過去に聞いたことがあるです)
近くにありすぎるとかえって行かないというのはわたしもよくわかる…
高麗神社とか平林寺とか妻沼聖天山とか近美とか川博とか埼スタとか、実は行ったことないのです;;
大宮の氷川神社も三峰神社もここ数年の間にやっと行ったばかりだし…。
理由はただ単に用事がないからですけど、
近くより遠くに住む人の方が「遠くて普段なかなか行けないからこそ行きたい」ということで
情熱が燃え上がるのかもしれないですね。
わたしも各地に旅行した際には「次いつ来られるかわからないから行けるとこ全部回る」ってなるし。

その話のなかでちょっと気になったことがあったのですけども。
「奈良や京都みたいな掘ったら文化財が出てくるような歴史ある地域」という内容のことを言った人に
少し違和感を覚えました。
ええと、うまく説明できる自信がないのでいつものようにだらだら長くなりますけども。。
西日本に指定文化財が集中しているのは確かですけども、ちょっと考えてほしいのは
文化財というのは文化財保護法に基づき指定されたものなわけでして。
でもって、これもよく言われることですけど
文化財指定されずに埋もれている文化財(になりうるもの)は発見されていないだけで
各地にべらぼうにあるわけで。
それらが何らかのきっかけで発掘・発見されて基準を満たせば文化財になりうるし、
法律が変わって文化財の範囲が広がることで、前は指定されなかったものが指令される場合もあるし
逆に破損してしまい外されるものもあるわけで。
法律や基準は人間が制定するものですから揺らぐんですよね。現にしょっちゅう改定されてますしね。

実はこの前、うちの土地の一部が国指定史跡になったので役所がハンコもらいに来たんですけど
それはその分野を長く研究してきた人たちの成果が実ったわけでとてもすばらしいことだし、
そうやってある日突然、自分の身近にある物が
「今日からこれ(ここ)は文化財ですよ」って国や自治体から言われる可能性はあるし
逆に何らかの理由で外されて一般に戻る場合もあるんだよね。
戦後に文化財保護法ができてから(法隆寺金堂の火災がきっかけです)、
文化財指定というのはそれらの繰り返しで今まで積み重ねられてきていて
だからこう、うまい言い方が見つからないので例えがアレですけど「あやふや」なんですよね。
いつどうなるかわからないっていう。
だから「指定されたからスゴイ」とか「外されたからもうダメ」とかいう言説を見かけると「ん?」ってなるし
指定されたら保存されるけど外されたら保存しなくていいという理由にはならないと思っています。

博物館や美術館は公共や個人の文化を収集・保存したり研究したり一部を展示している施設ですので
文化財について楽しんだり勉強したりするには最適な施設なわけですが、
博物館美術館にあるものとか、研究がすすんでいるものとか
いわゆる権威づけされたものだけが文化のすべてではないと思う。
発見されてない、情報がまとめられてない、研究されてない、保存されてない、から
文化的ではない、とは限らないので。
普段何気なく歩いている道端の盛り土が古墳かもしれない。
学校や職場から出てきた土くれが数千年前の土器かもしれない。
何気なく通り過ぎていたボロボロの社が未発見の神様を祀る神社かもしれない。
自宅の障子に貼られていた和紙が維新志士の手紙かもしれない。
箪笥や押し入れに眠っていた書物が武士の家計簿かもしれない。
そういう可能性は全国各地にあるわけでね…文化財になってないだけでね。
西日本、特に奈良や京都の指定文化財が群を抜いて多いのは確かですし
奈良スゲー京都スゲーっていうのもその通りです。
だってそれだけ研究と手間暇が費やされてきているわけだから。
でもあなたの住む土地も発掘や研究がすすめば奈良や京都に並ぶかもしれないし
「奈良や京都に出土したもの=文化財」的な考えはちょっと気を付けた方がいいよ…と
おせっかいながら思ったのでした。(言わなかったけど)
(ただ、いまの奈良や京都で発見・発掘されたものが研究に回るのは当然だと思うし
奈良や京都が人々にそう思われているという事例は思想史の一環として記録しておいた方がいいと思う)

というか、これは震災が起きたあたりから強く感じていることなのですけれども。
毎年毎年何らかの災害の絶えないこの地球上で、いまの景色が残っている時点で
それはとんでもない奇跡なのだと最近思うようになりまして。
もしこの先地球に何かあって、その土地が消えてしまったら発見も研究もできなくなってしまいます。
自然だけじゃなく人災も、たとえばパルミラ遺跡やアフガニスタン博物館のこととか考えると
歴史研究って常に今が最適なのだと心底思い知らされる…現物があるならなおさらです。
目の前にその物が存在しているなら記録しておかないと、物は今この瞬間も光や酸素に触れて傷んでいくし
いつ消えてしまうかわからないからです。
というわけで国は歴史研究と文化行政にお金ください。(突然)

何を言ってるのかわからなくなってしまいましたが、
文化っていつどんなときに掘り起こされるかわからないしその可能性は地球上どこにでもあるよって、
それが言いたかったんだ…(長いよ)。
江戸時代までほとんど見向きもされなかったけど近代に正岡子規により発掘された万葉集しかり、
近世はほとんど上演されなくなっていたけどファンにより再演されるようになったシェイクスピアしかり、
最近までほとんど埋もれていたけどネットから爆発的な人気が出た伊藤若冲しかり。
誰かが目を向けたことで脚光を浴び保存・研究が進む文化はものすごくたくさんあり、
そういうものの背景には必ずといっていいほど「残そう」としてきた人たちの活動があります。
だから西日本だけが文化的とは思わないでほしいし、
掘り起こされないからといってその土地に何もないだなんて思わないでほしい…。
文化財だけが文化じゃないし指定されない=価値がないわけじゃない、何もないなんてこともありえない。
人が住んできた土地には必ず何らかの痕跡があるので
それらの研究がすすめば人類はもうちょっとだけ人類について色々なことがわかるようになるよ。



シンカリオン45話感想しまっております~。ダァシェリイイィィィイス↓

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2018_10
23
(Tue)23:53

秋に動く山その2。

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日曜日に川越氷川神社の本殿彫刻見学に行ってきました。
神社の本殿というと基本的には直接お参りすることはできませんが(だから拝殿を拝む)、
氷川神社では毎年、川越まつり2日目の午後の2時間のみ無料公開してくれます。
なかなかタイミングがなくて行けなかったけど今年は行けたど~!
写真はパンフレットと川越まつり限定御朱印。御朱印は氷川神社例大祭・神幸祭の4日間のみ頒布されます。
江戸時代の神幸祭を描いた絵巻物の絵が描いてあってかわいい!
神幸祭は拝見したけど例大祭はまだないのでいつか見てみたいよ~。

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神社に着くと入口の鳥居の前でお囃子が披露されていました。

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本殿の説明板。

氷川神社本殿は透塀(玉垣)に囲まれておりまして、御垣内へいきなり入ることはできなくて
まず拝殿にて宮司さんによるお清めを受けてから数人ずつ入ります。
そんなに広くないので一度に何十人も見学することはできず、
カメラ等による撮影も禁止ですので彫刻の実物写真をお見せすることはできませんが
氷川会館のブログに一部画像がありますので雰囲気だけでもどうぞ→こちら
彫ったのは嶋村流七代目嶋村源蔵および石原流の飯田岩次郎だそうで
嶋村源蔵は浅草の人で田無神社や越生八幡神社などに本殿彫刻を残し、
飯田岩次郎は熊谷の人で宝登山神社や箭弓稲荷神社の社殿に彫刻を残しています。
江戸彫と呼ばれる方法で1枚の板から浮き彫りにされているのですが
現物を見てみると結構、縦にも横にも大きくて
これほどの彫刻を完成させるために必要な板ってどんだけ分厚かったのかと。
彫刻のテーマは天岩戸、山王の猿、布袋、関羽、浦島太郎、源為朝ほか
諫鼓の鶏、牛若丸、小鍛冶、源義家などお祭で曳かれる山車人形が題材になっているものも。
北面の3面にわたる源頼朝図は歌川国貞の浮世絵が参考になっているそうです。
これらは江戸時代後期の作で彩色もされていないので(江戸彫の特徴)、
200年ほど風雨にさらされたためでしょうか、表面が少し削れて丸くなっている部分もありますが
全体的には細かく綺麗に残っていて保存が行き届いているなあと思いました。
何より普段立ち入ることのできない間近でお江戸の職人技が見られる僥倖!
年に一度の素敵な時間なので興味ある方はぜひ~。

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見学を終えて外に出ると、仙波町の人たちがお参りされていました。
でもって、

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どうも後ろからお囃子が聞こえるなあと思ったら、

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仙波二郎の山車が社参に来ていた!
川越まつりの2日間は各町の山車が交代で神社へ参拝に訪れるのですが
神社の日程表を見たらこの日最後の社参だったみたい。

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仙波二郎安家の人形。源頼朝が上洛する際に随兵を務めた人物で吾妻鏡にも名前がちょこちょこ出てきます。
仙波氏は平氏の流れですが、頼朝の父義朝の頃は既に源氏側だったようです。まあよくある話だ。

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お参りを終えると帰っていきました。
大勢で力任せにグルリと回して向きを変えて、「ソーレ!」と縄で引っぱり後ろから押して移動します。
いつ見てもすごい迫力。

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街の方はどうなっているかしらと向かっていたら、市役所前に猩々の山車が止まっていました。
これは川越市に寄贈された山車なのでここにいるんですね。

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街方面から日本武尊の山車も戻ってきます。
この山車は氷川神社の駐車場内に車庫があるからそこへ帰る途中だったのかも。

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札ノ辻付近がものすごい混雑で何かと思ったら
牛若丸と菅原道真の山車がお囃子対決していた!
道真の人形は仕舞われて出ていなかったけど、牛若はまだ出ていました。
平安時代初期の学者と平安時代末期の武将が現代で相対しているようで時空のゆがみ感ハンパない、
こういうことがあるから山車行事は楽しいよね~(^◇^)♪

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牛若さんズームアップ。
菊綴が見えるから水干を着ているのかな、笛を持っています。
弁慶と出会った五条橋でのいでたちでしょうか。かわいらしいお顔をしていなさる^^

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夕暮れの蔵造りの街。まだホコ天は解除されず道路はたいへん賑やかでした。
もうちょっと暗くなると明かりがついて宵闇の色になります。宵の川越も好き。

例大祭から一週間続いたお祭もこの日でおしまいです。
山車が帰っていくのを見ると今年もお祭が終わるなあとしみじみしますね。また来年。




シンカリオン41話感想は下にしまってます~↓リュウジさんいなかったので短めですが、なんとなく。

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2018_07
27
(Fri)23:50

Once upon a time in 縄文。

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東博の特別展「縄文-1万年の美の鼓動」に行ってきました。
縄文時代の造形美にスポットを当てた展覧会です。
わたしの縄文時代の知識は中学生のときの歴史の授業で止まっていて更新されてないんですけど
今回は考古資料に美術の視点から迫ると聞いてそれだったらわかるかもしれない…とか
あと東博さんはいつも適度な解説をキャプションに書いてくださるから不勉強でも何とかなるかも…と思って
おっかなびっくり行きましたら予想を超えてはるかにおもしろかったです。
特に土偶が!一度にあんな量の土偶を見たのは生まれて初めてかもしれない。

最初は縄文時代の人々の生活に関する展示から。
土器や水差し、武器や装身具など生活に使われたであろう展示物がズラリと並んでいました。
大きな漆塗彩文鉢形土器や微隆起文土器など、現代でいうお鍋や炊飯器にあたる容器は
彩文や微隆起文など大ざっぱに模様をほどこしている。
漆塗木製水差は三角形の形をしていて、発見時に種実が入っていたことから
果実酒を入れたのではないかと考えられているそう。
木製網籠、通称「縄文ポシェット」は植物などで編んで作られた小さな籠で
もはや何の植物かわからないくらい真っ黒でした。
中にクルミの皮が残っていたとのことでそれも展示されていたよ~古代のクルミ!ロマン!!
この籠の持ち主はクルミを食べていたのか…そうか…(謎の感慨)。
壺型土器は鹿児島県の出土品で、シンプルな造形で弥生土器っぽいんだけど
現在確認されているものの中では年代が最も古いそうで、
この形をいち早く作った南九州の人々の先見性!
鹿角製の銛頭や釣針の形は現代とほぼ変わってなくて
こういう道具の形ってこの頃には完成していたんだなあと。
漆塗りの櫛やかんざし、貝から作った貝輪などの装身具からは当時の人々のおしゃれや美意識が見てとれます。
土製耳飾りは見事な透かし彫り!モチーフは花なのか植物なのか水流なのか…どれにせよ美しいです。
現代のイヤリングみたいにてっきり輪っかを耳たぶに挟むのかと思っていたら
耳たぶに穴をあけて耳飾りをまるまる嵌めこむらしい!
イメージ図が描いてあったけどあれ痛くないのかな…ものすごく耳たぶ膨らませてますけども…
お釈迦様や聖徳太子レベルの耳たぶが必要と思われ。。

千葉県松戸市で出土した関山式土器(いっぱいあった)は
どれも表面に縄の文様がびっしりついていて、まさに縄文土器でした。
そもそもなぜ縄文の人々が土器に縄の模様をつけたのかは色んな説があるみたいですけども
ここまで縄だらけだと本当になぜ?って改めて疑問に思えてくる…どんな意味があったのかな。
新潟県十日町市で出土した火焔型土器がわーっと並んでいるのは迫力ありました!
土をけずるというよりも粘土で形をつくって焼く工程らしいですが
改めてよく見ると本当に複雑な形をしていて、どうやってこのデザイン思いついたんだろ…
見た目が派手だし結構な大きさですからすごく見栄えがしてかっこいい!
(…ええと、あまり同志がいないので口にする機会が少ないんですけど
わたし火焔型土器を見るといつもソフトクリームのコーンを思い出してしまうんです…。
上部が広くて下部が狭いのと、模様がついてるのと、何より茶色っていう点がコーンっぽくないですか…?
なので今回もでっかいソフトクリームがドサッと乗っかっている様を妄想しておりました。ごくり
こんなコーンでソフトクリーム売ったら絶対人気出ると思うけどな。どこかぜひ)
火焔型は群馬から新潟にかけての地域に出土していると聞いて
てっきり現地の流行なのかと思ったのですが、
そもそも縄文土器や土偶のデザインはかなり地域性があることがわかっていて
様式の囲い込みがあったのではないかと考えられているようです。
当時は既に各地域間の交流や移動がありますから、それで全国的に普及しなかったということは
やっぱりそういうことなのかな。

世界の土器との比較コーナーではインダス、メソポタミア、エジプト、中国、キプロスなど
各国の文明社会においてどんな土器が作られたかを見比べられるんですけど
(主に紀元前3000~2000年前前後を中心に比較していた)、
どこの国も弥生土器みたくつるりとして実用性重視だったり、表面に赤や白などの色が少し残っていたり
キプロスでは石灰で白の文様を入れたり、中国ではお皿の中心に魚の模様を描いていたり
イラクでは既に大量生産が始まっていたり(展示されていた無文杯には糸切りの跡があるらしい)
エジプトでは自分の土器に魚のようなマークを刻んでいたり(ヒエログリフの前の文字といわれる)
生活用品の形や用途の情報を世界中で交換していたのでは…などと思わせる共通性と非共通性。
そんな中に日本の火焔型土器が展示されているとデザイン性や装飾性が高すぎて異様でさえある。
大阪で出土した弥生土器の甕もあったけど、縄文時代よりもずっとシンプルになっていて
煤やお焦げがついていて生活感がありましたね。
まあ確かにこの形の方が料理には使いやすいかも…洗うのも楽そうだし^^;
あと、どこもこの時代はあまり色を使ってなくて茶色か白か黒が多いんですが
ここから数千年後には世界中でカラフルな食器を作り出すわけで、
それを思うと文明社会の進歩とカラフルを導入した人々の革新性が際立ちますなァ…。
色彩感覚やデザイン性は国ごと民族ごとに異なりますが、カラフルに進んでいく点は共通する人類。
そしてルネサンスや革新を繰り返してカラフルやシンプルが共存する現代に続いている。ロマン。

国宝に指定されている縄文史料コーナー☆
新潟県十日町市出土の火焔型土器はピン展示されてました!
十日町市の火焔型はさっきもいくつか展示されていたけどこの国宝指定の形は群を抜いてすばらしく、
やっばいこれでソフトクリームたべたい…とか、もう何度目かわかりませんが思ってしまった。
去年の国宝展にいたNo.1と一緒に出土したNo.6ちゃん…!かっこいい。
去年はどうやって作ったのか知らなかったけど、今回は土器の特徴などもさっき見てきたから
粘土を貼りつけてこういう複雑な形を作っていったこともわかっているので少し冷静に鑑賞できました。
細かい部分は欠けてしまったみたいですがそんなのまったく気にならないレベルの造形美だし
そもそもこんな形を作って焼いて、しかもほとんど無傷で土の中から出されて保存されて…。
ものすごい幸運と努力が重なって今この土器はこの場所にいるんだなとしみじみ。
土偶コーナーでは合掌土偶ちゃんにも久々に再会、4年前の国宝展以来ですな。
縄文のビーナスと仮面の女神がいらっしゃらなくて、スケジュールを見たら来週から展示されるとのことで
タイミングが合わなかったぐぬぬ、去年の国宝展で会えておいてよかった。
そしてそして!国宝展で会えなかった縄文の女神と初公開の中空土偶に会えたのうれしかった~!
女神のくびれとつるりとした背中、中空の欠けた部分から内部がチラ見できるのドキドキします。

後半は怒涛の土偶ラッシュ。
全身を細部まで細かく作ったものからデフォルメされたりシンプルなデザインだったりと
年代によって様々な形があるようです。
草創期の土偶はとても小さくて、頭や手足がなくて胴体のみというトルソーみたいな物なんですけど
やがて板の形をした板上土偶が作られ頭と胴体になり、筒型やポーズ土偶など手がつくようになり
最終的に遮光器やハート型やみみずくみたいな五体の形になっていったみたいです。
他にも頭のみとか三角形(膣?)とか、部分的な土偶も出土しているらしい。
線刻礫(草創期)は石に線を刻んで女性像をあらわしたものですが
石に絵を描くという表現方法がこの頃からあったとわかるし、
同時代にはミロのヴィーナスを始めヨーロッパでヴィーナス像がさかんに制作されていたこともあって
それらとの比較研究も行われているらしい。
多摩ニュータウン出土の土偶は手足がつけられ始めた頃のもので
ボディは板状、頬に石灰で白いラインが入れられているのが特徴だそうで
お化粧のようなイメージなのかな。
(ちなみに彼女は大英博物館へ出張したこともあるそうだ)
山梨県出土のポーズ土偶(胸に手を当てたポーズをとってる)が細い目に細い口で猫みたいな顔してるんですが
頭にも猫耳みたいな突起があって!もう猫にしか見えなくなった。
そして土偶といえば!な遮光器土偶が、見慣れているせいかやっぱり一番おもしろかった!
特につがる市出土の遮光器さんは教科書にも載っている有名人ですし
造形や文様の細かさも群を抜いてレベルが高いと思います。相当腕のたつ職人が作ったのではないかと。
何よりあの顔が味わい深いですよな…ずーっと眺めていても飽きません。
(わたしこの土偶がモデルのシャコちゃんがすごく好きでつがる市に見に行ったこともあります)
あと去年に本館で見たハート型土偶ちゃんにも再会。
何度見ても不思議な造形で、視線の先が気になります。何を眺めているのかな…。
みみずく土偶は3点展示されていましたがすべて埼玉県内の出土品だった!うおお。
特に鴻巣市出土の土偶が中空で自立もできて完成度が高いみたい。
横浜市出土の筒形土偶は2年前の考古室のリニューアル時に見ましたが
このお顔は太陽の塔のあの顔のモデルだそうです(岡本太郎が見たらしい)。
結髪土偶は、見た目が髪を高く結った姿に見えることから名付けられたみたいですが
これ髪型としては室町時代後期~江戸時代あたりに存在しても違和感ないぞきっと…!
全身に針でさしたような穴があいている刺突文土偶の凄まじさ、
これデザインした人何考えてたんだろう…呪いか何かかと推しはかりたくなるレベルの狂気を感じる。
(いや、まったく意味はなくてただの模様という可能性もあるけど)
相模原市の土偶装飾付深鉢型土器は容器の縁に小さなポーズ土偶がくっついていて
うっかり「コップのフチ子か!」とか突っ込むところだった、
コップならぬ土器のフチ子…ちょっと、見たい。
山梨県の顔面把手付深鉢型土器は縁に顔がついて、さらに胴から顔が突き出ているので
把手の顔は母親で胴の顔は子ども、つまり出産ではないかと考えられているそう。
顔面付石製品が…パッと見シーマンを思い出してしまって…いやはや。。

土製品コーナー。こちらは人型だけではなく動物の形も多く作られたようです。
土面は顔につけて祭礼などに使われたのかもしれませんが
これ目も口も穴がふさがっているので装着したら完全に前が見えない!どうするんだろう。。
羽生市出土の土面は茶色の表面にうっすらと赤と黒が残っていて
隈取のような化粧が施されていた可能性があるそうです。
動物の土製品で最もよく作られたとされるのは猪で(逆に鹿は作らなかったらしい)、
会場には弘前市から出土したという猪が展示されていまして、かなり写実性が高い作品でした。
隣には小さな猪像があって(ウリ坊かな?)こちらはだいぶデフォルメされていましたね。
蛇形装飾付きの壺や鉢形の土器は大きなギョロ目で口をくわっと開けた蛇の把手がついているけど
割と単純化されていて古代エジプトやローマの壁画にもいそうなデザイン。
とぐろを巻いた状態でくっつけられているのとかあって結構、迫力がすごかったです。
さらに海獣型土製品も作られていた!
確かに水中哺乳類はこの時代には既に今と似たような姿形になってますけど
まさか当時の人々がここまで作っていたなんてまったく知らなくてびっくり。
出土したのは函館市とキャプションにあったので、確かにそれなら人々は海の近くに住んでいたろうし
漁で海へ出ることもあったろうし、海獣を目撃することも、こうして形にすることもあったろう。なるほどなあ。
海獣といえばクリの木に彫刻をほどこした彫刻木柱(2.5m)は大量のイルカの骨と一緒に発掘されたので
イルカを神として祀る人々のものではないかと考えられているそう。
(そして今のところそれらは能登など北陸でしか見つかっていないらしい)
植物の土製品もありましたがこれがまたすごかった。。
キノコの形をした土製品があったんですが今までの土製品は何だったのっていうくらいリアルで写実性が高くて
えっこのキノコ食べられるんじゃないの…とか一瞬思ってしまったよ。
同じく隣にあった巻貝土製品はそれ以上のクオリティで本当に海から拾ってきたかのような作品で…!
なんなの、これを作った人は何と戦っていたの、自分自身か。そうなのか。(落ち着け)
あと、リアルとはちょっと異なりますが
手形・足形付き土製品は手のひらサイズの平べったい粘土に手形や足形が押してあるもので
だいぶ薄くなっていたけど5本の指の形ははっきりわかったし、
何より人が作ったものということが体温をもって感じられたよね…。
サイズが小さいので子どもの手足ではないかと考えられているようです。親御さんが作ったのかな。
他にも子どもを抱いた姿の土偶(首がなかった)とか、土偶の形をした容器なども展示されていて
容器には乳児の歯や骨が納められている状態で発掘された事例もあるみたいです。
これらがどういう目的で作られたのかは不明ですが、こういうの見ると
縄文時代の乳児死亡率の高さや平均寿命30歳前後というのを思い出すし
つまりわたしはあの時代なら既にいなくなってるってことだし
決してユートピアではない、とても困難な環境に生きていた人々がいたことを出土品は教えてくれるわけで
今後も共有財産として文化財としてずっとずっと残してゆかねばならないなァとぼんやり考えたのでした。
土偶はやっぱりかわいいしおもしろいと思ってしまうんですけどね…時代背景を考えるとやっぱり祈りのためかな。

あと、土製品の展示ケースの間にちょこちょこ柱が建っているのですが
柱の真ん中の部分はガラスケースになっていて、
縄文時代の人々の服装や生活を復元したフィギュアが展示されていました。
「大きな槍を携える旅の狩人」は精霊の守り人のジグロみたいでかっこいし
「獲物を待ちぶせる少年と愛犬」は弓をかまえる少年がかっこいいし
「秋の森の恵みをムラへ」は縄文ポシェットに目がいっちゃったし
「ヒスイの首飾りが似合うムラのリーダー」は足元のウリ坊がかわいいし
「母から子へ伝える土器づくり」は粘土こねこねする親子が微笑ましいし
「神への祈り。土偶をかざす青年」は神々しくさえあるし
何より展示されていた土偶や土器などを当時を生きた人々が手にしていたという当たり前を
リアルに想像できてとても楽しかったです☆
写真撮れたらよかったのにな~~撮りたかった…あらゆる角度から…!
作者は藤森英二さんと書いてあってどんな人かなぁとぐぐったら
長野県の現役学芸員さんで考古学者でもあられる方とのこと!
ご本人のブログによると土器づくりと土偶をかざす青年は新作らしいです。素敵。

芸術家と縄文土偶。
柳宗悦が持っていた岩偶は岩をけずって作られたもので
マスクマンのような顔とパフスリーブみたいな腕をもつ大変個性的な形をしています。
柳は相当気に入っていたらしく自作の箱に納めていて、その箱も隣に展示されていました。
柳の弟子だった芹沢銈介も土偶をいくつか所持していて
特に気に入っていた遮光器土偶はツインテールで滑らかな体格。
濱田庄司が持っていた遮光器土偶はカネゴンみたいな顔をした愛敬あるデザインで
ちょっと首をかしげたような、とぼけた表情も味があってよいです。
(ちなみに濱田氏は縄文愛が炸裂して模造品も作っています)
川端康成がハート土偶と一緒に写っている写真はユーサフ・カーシュが撮影したものですね。→こちら

この後は楽しい撮影コーナー☆
岡本太郎が愛した東博所蔵土器の一部が撮影できます。
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岡本は1951年に東博で縄文土器と出会い衝撃を受け、美術手帖に論文を発表し、
その論文を含め自分で撮影した土器や土偶について書いた『日本の伝統』という本も出版しています。

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岡本が東博で見た顔面把手。どんな土器に付いていたのかな…。

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同じく岡本が東博で見た3つの深鉢型土器。すべて縄文時代中期のものです。
「爛熟した中期の土器の凄まじさは言語を絶する」と語っているそうで
あの岡本太郎が言葉をなくすとか、もうそれだけで彼が受けた衝撃が伝わってきますね。
身振り手振りでものすごく言葉を尽くして自論を語る人というイメージがあるので…そんな彼も黙ると。
「ガンジーでも助走つけて殴るレベル」と同じ用法で「岡本太郎も全力で黙るレベル」なるスラングができそう。


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平成館入口にあった「びじゅチューン!なりきり日本美術館」関連展示の、火焔型土器レプリカ。
レプリカなのでさわれます!(持ち上げるのは×)
表面はざらざらゴツゴツしていて、これたぶん触感までリアルに再現されてるんだろうな…!
目の見えない人にもさわって形を確かめてもらえるし、
何より普段は絶対にさわれない本物の代わりにレプリカで体験して
「これがもし本物だったら…!」などと妄想たくましく遊べるのも楽しい。レプリカばんざい。
(なりきり美術館については次回記事でレポします)

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割と低い位置に置かれていたので上からも撮影できた。
夏休みでお子様がたくさんいらっしゃってるので、おさわりしやすいようにの配慮かもしれない。
(願わくばいつかひっくり返して裏底を見てみたいものです)

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考古室にも行ったよ~。
縄文展を鑑賞した後だと土器の変遷や模様の流行がよくわかります。
装身具や生活用品などの展示もあってコンパクトにまとまっていてわかりやすいので
こちらを見てから縄文展で当時にどっぷり浸るのもよいかも。

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みみずく土偶のレプリカもあって、これは手に取って持ち上げられます。
(本物は縄文展に出張中)
結構ずっしりしていましたが、これ重さも忠実に再現されてるんだろうか。

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本館にも行きました。2階にある火焔型土器(伝新潟県長岡市出土)。
縄文展にあったのと同じように鶏冠状の把手がついています。やっぱりかっこいいなあ。
この土器の隣にもレプリカが置いてあってさわることができますよ~。

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うちにある遮光器土偶ストラップ。
東博所蔵の遮光器土偶(つがる市出土)がモデルで、6年前の博物館に初もうでの先着プレゼントです。
いつ見ても最高ランクのクオリティに感動する。
この子を連れて行って考古室で写真撮ろうと思ってたのに持って出るの忘れてしまった~~アホ~~~!
展覧会に出張中のシャコちゃんが考古室に戻って来たらまた連れて行ってツーショット写真撮ろうと思います。


で、さっきも少し言いましたがこの後は東博本館にて
「トーハク×びじゅチューン!なりきり日本美術館」も鑑賞してきました。
長くなりますので次回記事にてレポします☆
2018_02
15
(Thu)23:53

少しのことにも先達はあらまほしき事なり。

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東博の「仁和寺と御室派のみほとけ-天平と真言密教の名宝」に行ってきました。
そんなに混んでないと聞いていて2時間で足りるかなあと思ったら結構混雑していたし
(たぶんみんなこの日から展示される葛井寺の千手観音像を見に来たんだよな…わたしもだ)、
書に絵巻に仏画に宸翰、そして仏像の群れというラインナップで3時間でも足りなかった。。
写真はラウンジに展示されていた御室流のいけばなです。毎週変わるらしいよ!綺麗。

仁和寺は平安時代初期に光孝天皇が発願し、子の宇多天皇が完成させ初代をつとめたお寺です。
真言宗のお寺なのは宇多天皇が真言宗の僧を戒師として出家したからで、
さらに法皇が住んだ僧坊が御室と呼ばれたので真言宗御室派というようになったのですね。
室町時代に描かれたとされる宇多法皇像は袈裟をまとった立派な姿、
法皇所蔵とされる刺繍袈裟の断片も近くに展示されていました。
宇多法皇以後も主に親王が門跡をつとめておりまして、
6世守覚法親王(後白河天皇の子)が自ら行った祈祷や法要を記録した密要鈔から
孔雀経法則と開白次第が展示されていました。
孔雀経は安産祈願や厄払いの際に唱えられるもので、平徳子の出産の御修法にも使われたそう。
また、歴代天皇の書も仁和寺にはたくさん残されていて
だいたいは門跡に宛てて天皇が書いた手紙や色紙のようです。
(わたしが行ったのは後期なので見られなかったけど、
前期展示には平徳子の出産の際に祈祷を行ったことへの高倉天皇からのお礼の手紙と
兄である守覚法親王の返事の手紙が並んで展示されていたそうな)
どの天皇の書にも龍に囲まれた「仁和寺」の印がでかでかと押されていて
これは高倉天皇の宸翰に押されている印だそうで、
他の宸翰にもいくつかその印が押されている例がみられました。蔵書印みたいな使い方なのかな。
後水尾天皇と後西天皇の和歌懐紙はさすが親子で書体がむちゃくちゃ似てて微笑ましかったし
19歳の霊元天皇が書いたむちゃくちゃ真面目な字もすてき。
光格天皇の薬師経は紺紙に金字で書かれていて、
天皇は制作の途中で亡くなったので後は子の親王が書いて完成させたそうです。
天皇本人によるお経の最初の部分が展示されていて、フォントのような厳格な筆跡に舌を巻いた。

真言密教のお寺のため空海に関する文化財も。
10cmほどの薬師如来坐像は秘仏で、過去にほとんど御開帳されたことがなく(直近は1986年)、
歴代門跡の持念仏であり元々は空海の持ち帰り物と伝えられていたそうですが
平安時代後期の制作で円勢・長円という仏師によるものと今はみられているそうです。
衣に金色が少しだけ残っていてキラキラしていた☆
光背と台座には薬師如来が7人、台座には日光・月光菩薩、十二神将が浮彫で見事に表現されていました。
国宝「三十帖冊子」は空海が遣唐使として唐に渡った際にあらゆる経典を写して持ち帰ったもので
ノートとか手帳サイズなので空海が常に持っていたとされるもの。
展示されていたのは30冊のうち20帖と26帖で、「空」と「海」の字も見つけました。
(後でミュージアムショップを覗いたらその2文字がTシャツやトートバッグなどにあしらわれていました)
唐の写経生の人たちにも書いてもらったらしく、丁寧な楷書が並んでいまして
空海は行書で書いているので印象が全然違っておもしろい。
不空(空海の師である恵果の師)筆と伝わる「尊勝陀羅尼梵字経」の堂々とした梵字もかっこよかった。

修法のためのお経や仏具。
掛軸の孔雀明王像は孔雀経修法の際に掛けて使われたものなのかしら、
羽の1枚1枚まで細かく描かれていて、何より江戸時代の絵だから色がきれいに残ってる!
孔雀明王同経壇具等相承起請文は覚法法親王(白河天皇の子)によるもので
修法に使う画像や仏具をみだりに持ち出してはいけないという戒めを書いていて
でっかい手形も赤く押してあったんだけどこれ親王の手なんだろうか…。
また覚法法親王は消息にて修法の秘伝を安易に伝授する者を批判したりしていて
なかなか厳しい人だったようです。
国宝の両界曼荼羅は一条天皇から仁和寺へ贈られたもので
紺地に金色の白描で描かれた、壁いっぱいに広がる巨大な曼荼羅であった。
童子経曼荼羅は子どもを守る修法の際に使われるもので
中央に不動明王がいて、乾闥婆・梵天が子どもを守り、
周囲には犬・猫・獅子・牛など子どもに害をなすという15の動物が描かれていました。
こんなこと言ってもしょうがないけど猫は子どもには害じゃないよー!(アレルギーとかは別です)
白描の薬師十二神将画像は干支の神々がそれぞれの動物に乗った姿で描かれているんだけど
寅神が乗っている首長の虎は鳥獣人物戯画の乙巻にいる虎に似ているので
模写されたのではないかという説があるとか。
そうそう、仁和寺には鳥獣戯画もあります!
甲巻のうさぎの弓矢の場面と、丙巻の人間たちの場面が展示されていまして
何らかのタイミングで写されたものが伝わっているのではないかとのこと。高山寺印のない戯画は新鮮です。
古筆手鑑は紀貫之の如意宝集切・小野道風の写経断簡、
藤原行成・源俊頼の和歌断簡のページが開かれていて
貫之が仮名文、道風が漢文、行成と俊頼は仮名交じり文で何だか時代の流れを感じて楽しかった。
後深心院関白記は1375年10月のページが開かれていて
著者の近衛道嗣が後円融天皇に付き添って仁和寺所蔵の御禊行幸絵巻7巻を見たことを記録しています。
蓮華王院宝蔵の絵で云々とのことですが…時代を考えると応仁の乱で焼けてしまった可能性が。。
現存最古とされる日本図は、現代では日本地図ってだいたい東が右で西が左側ですけど
これは近畿が右で遠江が中央で陸奥国が左向きに描かれていました。
文字が縦向きだったのでたぶんこれが正位置だと思うんだけど、びっくりする。

応仁の乱で荒廃した仁和寺を、江戸時代に復興した21世覚深法親王(後陽成天皇の子)の展示も。
徳川家光に許可をもらい伽藍を再興した人だそうです。
このとき御所から移築した清涼殿や紫宸殿、常御殿などが現在の仁和寺の伽藍を形づくっているとか。
(現在の金堂は元紫宸殿だそうだ)
狩野孝信による牡丹図襖や唐人物図屏風はたいへん美しく、
これらは実際に建物の中に配置されていたそうです。

そしてこの頃建てられたのが仁和寺観音堂なのですが
この展覧会ではその堂内が会場に再現されています!
観音堂は修業の道場であるため通常は非公開ですが現在は解体修理中のため、
安置されている仏様たちを東博にお連れしてくださったようです。
しかも展覧会場で唯一写真撮影が許可されているポイントなのだ!最高。
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キエエエエェェェェェエエエエエ( ゚Д゚)
ご本尊の千手観音菩薩立像、脇侍の不動明王立像・降三世明王立像、
さらに二十八部衆像と風神・雷神像!全部で33体が勢揃い!!
なんじゃああなんなのじゃああああああスゲエエェェェエエエエ(゚Д゚;≡;゚Д゚)

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降三世明王側。

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不動明王側。
SNS映えとか言ってる場合じゃない、ひたすら拝んでは撮らせていただきます。
千手観音様も他の仏様もレプリカじゃない全部本物、それがこんなに並んでいるド迫力☆

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風神。
なんかハーフパンツ穿いてるみたいでかわいい…。

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雷神。
三十三間堂こと蓮華王院でも千手観音軍団の両脇を風神雷神が守っていますけども
あの2柱もだいたいこんなポーズしてるんですよね。
俵屋宗達が風神雷神図を描くとき参考にしたのは三十三間堂や北野天神絵巻だけじゃなくて
仁和寺観音堂のお像もなんだろうか…
でも修行場なら当時も非公開だったかもしれないし、さすがに見られなかったかな。
あるいは風神雷神といえばこのポーズ!みたいなのが当時すでにある程度確立されていたとか、かなあ。

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観音堂再現の周囲をぐるりと囲んでいる壁画は
同じく仁和寺観音堂の壁画を高精細デジタルスキャナで取得したものだそうです。
(京都大学の研究室によるデジタル化→保存するプロジェクトだそう)
オリジナルは木村徳応という絵師による作品で上部に仏画、下部に六道絵という
仏教の世界観を表現した内容になっています。
(木村徳応は江戸時代前期に活躍した絵師で、主に寺社の仏画や肖像画を手掛けていたそうな)

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上から仏様に見下ろされてひたすら恐縮し、下の地獄絵を眺めて楽しくなる時間。
観音堂は長い年月の間に雨漏りとかもあったらしくそういう傷みの痕も見受けられますが
これだけ色が残っているというのは普段から非公開であることも理由のひとつだろうな…
光に当てなければ絵は傷みにくいのでね。
建物が修復されれば雨漏りの心配もなくなるし、これからも大切に保存されていってほしい。

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六道絵の一部、畜生道。
たぶん犬追物をした人が死後に落ちて犬になった様子なのかなと思います。
(ちなみに隣に描かれていたのは修羅道)
江戸時代に描かれた絵だからか、モチーフや世界観がほぼ完成された地獄絵のような気もします。
室町以前の地獄絵によくある「これなんだろう?」っていうのが、あまりない。

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風神雷神がいます!正面には龍神。

後半は怒涛の御室派仏像ラッシュ。
ほとんどの仏様が360度、お背中まで見せていただけるのがすごくうれしかったです。
平安時代の制作のものが多く、蓮光院の大日如来坐像とか屋島寺の千手観音菩薩像とか
一木造が多いのもこの時代の特徴だなと思った。
仁和寺創建時の本尊である阿弥陀如来坐像および両脇侍坐像(国宝)は
光孝天皇の一周忌、つまり仁和寺創建供養に制作されたもので
そんなに大きくはないけどふくよかでゆったりしたお姿が優美。
平安時代の吉祥天像は唐風のお姿というか、和様のお姿を見慣れているので新鮮でした。
帽子にリボンついてるみたいな飾りがかわいい。
悉達太子像(釈迦の王子時代)は少年の姿に小さな角髪を結ってかわいらしい。
金剛寺の五智如来坐像は密教で5つの知恵を仏にあてはめたもので
大日如来を中心に金剛界の五人の仏様が鎮座していらっしゃいました。
平安末期の優美なお姿だけど玉眼が入ってるんだよね。時代の移り変わり。
明通寺の降三世明王立像・深沙大将立像はおふたりとも2.5mもの阿吽像で
ものすごい迫力ですが筋肉はすっきりした一木造で、鎌倉時代との差を感じます。
深沙大将は磐座に乗っておられて、降三世明王はシヴァとパールヴァティを踏んでいました。
中山寺の馬頭観音菩薩坐像は33年に一度しか御開帳されない有難い仏様、
3面8臂の勇ましいお姿は慶派仏師によるものだそうです。
長勝寺の八幡神本地仏坐像は頭部がそれぞれ如来・菩薩・僧で体は神像という3体。
八幡神は阿弥陀如来や釈迦牟尼仏を本地仏としますが(八幡大菩薩というやつ)、
僧はなんだろ、空海かな。香川のお寺なのでね。
雲辺寺の千手観音菩薩坐像・毘沙門天像・不動明王像は秘仏だそうです!
42本手の千手観音像はぴったり合掌しておられて
目を閉じているのかと思いきやよく見るとうっすら開けておられた。
像内の胸のあたりに「目アヘラカニナシタマエ」という墨書があるそうで眼病に効く仏様とのこと、
施主は「女大施主中原氏」という女性と伝わっているそうですが目がお悪かったのかな…。
神呪寺の如意輪観音菩薩坐像はひとつの頭に6本腕、足を降ろさず組んでいる珍しいお姿ですが
ゆったりした雰囲気が伝わってくるのは他の如意輪観音にも通じるなあと思います。
お寺が兵庫県の甲山山麓にあるため「100万ドルの夜景を見下ろす仏像」とキャッチコピーがあって笑った。
大聖院の不動明王像は宮島に行ったとき階段の途中にあった霊宝館にいらした不動様だー!
かつて仁和寺真乗院にいらしたのを宮島の弥山に移されたんですよね。
巻髪ではなく総髪のお不動様は真言宗御室派の特徴だそうです。
道明寺の十一面観音菩薩立像は秘仏で、
道明寺は菅原氏の先祖にあたる土師氏の氏寺であることから菅原道真の制作と伝わるそうです。
(どうでもいいけど道明寺と聞くと桜餅を思い出してしまう)
中山寺の馬頭観音菩薩坐像も33年に1度の秘仏で
くわっと口を開けたお姿がとてもかっこよかった。

そしてこの日からお出ましの葛井寺の千手観音菩薩坐像が!すごかった!!
この展覧会、本当は混まないうちに来たかったけどこのお像が展示されるのは会期半ばからで
どうしても会いたくて展示初日まで我慢して、当日は案の定混雑してたわけですが
ご本人はかなり大きな仏様だったのでどこからでもよく見えたのがよかったです。
通常、千手観音像は手が40~42本で制作されることが多いのですが
この観音菩薩様の手は両方で1043本あります!
そもそも千手観音の「千手」は「多い」的な比喩であることがほとんどなのに
ガチで1000本以上の手をつけてしまった注文主と職人の狂気を感じる。
物理的に1000本の手を持つ千手観音像は現在このお像しか確認されていないそうです。
無数の脇手は左右4つのパーツに分けられ支持柱や環に釘止めされており、
飛び出している大手は38本ありすべてに持ち物が持たされています。(後世に付けられたらしい)
持ち物をひとつひとつ眺めながらお像の周囲をグルグル回っていたら
向かって右の何も持たれていない大手に目が描かれていてびっくりした。
さらに他の脇手にも目が描かれた手がちらほら…どれも細いけど少しずつ開き方が違っておもしろい。
改めて正面から見ると羽を広げた孔雀のような仏様で、でもどこかで見たことある造形だなと思っていたら
どこからか「宝塚の背負い羽根みたい…」と聞こえてそれなー!って思いました。
この千手観音像はリアルに手が千本ある、まさにトップスターなのだ。すごい。

葛井寺は過去に一度訪れていますが、ご本尊の御開帳日ではなかったので(毎月18日だそう)
今回はお会いできて本当によかったです。
合掌しておられる手が少しだけずれているのが興福寺阿修羅像を思い出しました。
そういえばあの阿修羅もこの千手観音も奈良時代の乾漆造だ。

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会場の特設ショップで限定御朱印がいただけると聞いて!
とても雅なパッケージに書き置きの御朱印を入れていただけました。
ただこの御朱印、日付が入っていないのであれー?と思っていたところ、、

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決まった時間になると仁和寺のお坊様がラウンジで日付を入れてくださるというので駆けつけました!
ちょっと並んだけど無事に書いていただけました。よかった!

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「仁和寺」の印は例の高倉天皇宸翰の印を復元しているそうです。
普段仁和寺でいただける御朱印には押されないそうなので、気になる方はこの機会にぜひ。


そうそう、仁和寺は徒然草の「仁和寺にある法師」や「これも仁和寺の法師」などが有名ですが
(仁和寺近くの双ヶ丘長泉寺に兼好法師舊跡の碑があるよね)
わたしにとって仁和寺といえば野々村仁清だったりします。
江戸時代前期に仁和寺の門前に御室窯を開き、弟子に尾形乾山がいたことでも有名。
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本館に展示されていましたよ~仁清の「色絵牡丹図水指」。
唐風の形の器に和様の牡丹が丁寧に描かれた作品です。きれいだ。

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こちらも仁清、「色絵梅花文茶碗」。
金と赤のきれいな梅の絵。

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東博のレストラン「ゆりの木」のフォンダンショコラ。自分へのバレンタインです。
ここ、デザートのお皿がハート型なんですよね^^
2018_02
03
(Sat)23:28

福は内鬼も内その2。

kijinsetsubun_1.jpg
節分ですね!!というわけで鬼鎮神社に行ってきました。
過去記事にちらっと節分祭の様子を書きましたけども、
最近は足が遠のいてしまってたけど久し振りに行きたくなりまして。
鬼を追い出さないお祭が好きなので選択肢は限られているのですが(氷川神社とか)
そのひとつが県内に存在するのがとてもうれしいです^^

朝からバタバタしていたせいで出かけるのが遅くなってしまって、
神社に着いたときには写真のように境内が人だらけでごった返しておりました。
この日は1年で一番、この神社に人が集まる日なのに出遅れたー!自業自得。
(しかし…前回訪れたのは7~8年前ですが何だか人が倍以上に増えている気がする…
先週のぶらり途中下車の旅で紹介されたからかな)

kijinsetsubun_2.jpg
お祭の日には社殿の脇に特別に紅白幕が用意されまして、
時間になると赤鬼さん青鬼さん、宮司さんなど神社の人たちが続々とご登場。
参拝者の皆さんも豆まきはまだかとそわそわした雰囲気。わたしも久しぶりなのでどきどき。

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青鬼さんスタンバイ。

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赤鬼さんスタンバイ。福枡にも鬼さんたちが描かれてるんだよね。

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午後3時、豆まき開始!
「ふくはーうち!おにもーうち!あくまーそと!」という威勢のいい掛け声とともに
豆やみかん、お菓子、お守の入った袋などが一斉に撒かれます。もはや食べ物のシャワー!
参拝者の皆さんは慣れてらっしゃるので
帽子や紙袋などを高々と掲げて飛んでくるものをひたすらキャッチしまくる!
ていうか豆って、あれ飛んできたのが当たると結構痛いよね!
周りでも「痛い」「痛い」って言ってる人たちたくさんいました。笑いながらだったけど。
(節分で鬼役をつとめている人たちは毎回こんな痛い思いをしているのかと思うと申し訳ない…
そして豆をぶつけられるのは至近距離からが多いだろうからもっと痛いに違いない、
改めて誰かに豆を投げるのはやめようと心に誓った時間でした)

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豆まきって勢いのあるイベントなので撒いたり投げたりする人はだいたい遠くへ飛ばしますが
赤鬼さんが時々手近なところへ撒いていたのがちょっとホッコリ。
彼の後ろではテレビ局のカメラがばっちりそのお姿をとらえていました。
ここの鬼さんはやさしいんですよ!記録しておいて!(笑)

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豆まき終了~。お疲れさまでした!
ちょっとくたびれたご様子の赤鬼さん、金棒を手に(これ結構重いのだ)出ていらっしゃいました。
(中の人は毎年同じ人がやられてるみたいですけど、お疲れ様です)

しかし休む間もなく、鬼さんたちは参拝客に囲まれてしまって
ツーショット写真をせがまれたり子どもたちから「豆ください」とかわいらしく両手を出されたりして大人気☆
世間の節分祭では豆で追い出される鬼さんが多い中、
その豆を要求される鬼さんはちょっと、シュールですね^^

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おやあ和楽器を持った人たちだ!
わたしは間に合いませんでしたが、どうやら豆まきの前、
鬼さんたちが神社の社殿に入って行くときに和楽器の演奏が随行したらしいのが
夕方のニュースで流れて初めて知りました。
いいなーいいなー見たかった!

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お祭の後は参拝です。
社殿の中には鬼の形をした神像や燈台鬼が奉納されていたり絵馬や鬼瓦も見られます。
あと社殿内を神社の人がほうきで掃いていて、何でだろうと思ったら豆を塵取りに集めてらしたのでした。
中も豆まきしたんだねえ。

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説明をすっかり忘れておりましたけど、
鬼鎮神社は畠山重忠が菅谷館を建立した際に鬼門除けの守護神として祀ったとか
不眠不休で刀を作り続けた男が鬼になり100本目を制作中に力尽き倒れたのを供養したとか
色々な縁起が伝わっておりますが、
歴史としては鎌倉時代あたりからこの地に鎮座しているようです。
写真の金棒はお願い事が成就した人々がお礼参りとして奉納したもの。
大きさは大小様々で、近隣だけではなく県外からも奉納する人がいるそうです。

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いつから奉納されるようになったのかわからないけど、外にある物で一番古いのはたぶんこれ。
当時は"鬼神社"と呼ばれていたのかな…。
鉄製が多いために戦前には供出された時期もあったみたいです。

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屋根の鬼瓦も鬼かっこいいんだよ。

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撒かれた豆やみかんを手でキャッチはできなかったけど、
バッグや髪にいくつか豆がついていたことに豆まき終了後に気づきました。
写真撮るのに夢中だったからなあ。
福豆もいただいてきたよ~ご利益ありますように。


そんなこんなで家に帰ってから、録画しておいた「いまドキッ!埼玉」を見たら
節分の日特集ということで鬼鎮神社、定峰峠の鬼うどん、小鹿野町は観音茶屋の鬼ころり、
深谷市の鬼瓦工房鬼義が紹介されていました。
氏子総代長の方がおっしゃっていた「鬼は本当にすばらしいものです。
やさしくて、力持ちで、鬼によって世の中が真っすぐすすんでいる。
そういう鬼さんであることをいつも信じています」とか
職人さんの「鬼瓦職人にとって鬼は神のような存在」などのお言葉に泣いた。
鬼をリスペクトしている人のお話ってなかなか聞けないので…みんなもっと鬼のこと語っていいのよ…!

鬼を祭神とする神社は全国各地にありますけども、
そういう場所でも節分祭は行われるみたいですけど
基本的には鬼を追い出さなかったり「鬼は外」と言わないとか、色んなパターンがあるみたいですね。
たとえば鬼子母神を祀る神社やお寺では「鬼は外」と言わないらしくて
そういうところのお祭だったら行ってみたい気もします。
鬼には何の罪もないから…単に厄払いや病払いだったらやりたいんだ…。
あとこれずっと言ってるけど節分に鬼がお祓いをやる長田神社に!いつか行きたいーー!!
2018_01
09
(Tue)23:57

文化の祭典その2。

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東京国際フォーラムのJ-CULTURE FESTに行ってきました。
去年に引き続き入場料無料で開催されていたお正月イベントです。
写真はイベント会場で販売されていた、鎌倉にある手毬さんの和菓子だよ~☆
戌年のワンコにリンゴに水引のついた菊、それぞれとってもかわいい!

今年もEホールのロビーギャラリーは京都の井筒さんによる力の入った展示がたくさんあって
「宮廷文化・今昔物語」として内容も数もパワーアップしておりまして
去年も思ったけどほんとに無料で見ていいのかと!
写真撮影OKだったのでたくさん撮ってしまいました。勉強にもなるし目がしあわせ^^
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かさねの色目コーナー。
グラデーションが美しい…!と見とれると同時に、この枚数を重ね着していた当時の女性たちのパワフルさにも
もう何百回目かわからないけど思いをはせました。
当時は現代に比べて着物の生地が軽かったというけど、
これに唐衣と裳と長い髪が加わるわけで…いやはやすごい。しかし綺麗。
染料に使われる植物やそれで染めた糸玉なども展示されていて、和色好きなのでテンション上がった☆

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平安時代のお食事を再現したコーナー。
1137年9月に崇徳天皇が仁和寺の法金剛院御所に行幸して競べ馬を見た際の酒肴と御膳を
江戸時代の書物『類聚雑要抄指図巻』から再現したそうです。
天皇や皇太子の食事は再現されている事例を時々見かけるけど
大臣やその他公卿たちの膳があったのがワクワクしました。
天皇は御膳が4つもあるけど公卿さんたちは1つでコンパクトにまとまっているのよね。

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牛車もきてた~たぶん去年と同じものかな?
近くで写真を撮っているのは2日と3日にだけ行われていた装束体験の人たちです。
事前申し込みで平安~鎌倉時代の男女の装束を無料で楽しめたそうで(わたしは申込みそびれました)、
大人だけではなく子どもサイズもあったので十二単&壺装束とか、パパ烏帽子さんと少年烏帽子さんとか
平安親子や鎌倉親子がそこら中に溢れていました。目の保養。

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中から素敵な袖がチラリと。こういうのを出車というそうです。
乗っている人の顔が見えそうで見えないのが御簾のロマンだよね。

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「十二単の変遷」と題して宮廷女性たちの装束の移り変わりを等身大のお人形で紹介するコーナー。
手前が飛鳥時代、つまり天武・持統朝の女官朝服で
高松塚古墳壁画に描かれた女性の装束を参考に再現されたそうです。
さらに奥には奈良時代、平安時代…と、だんだん時代が新しくなっていきます。

以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ☆

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