鷲がサボテンの上で蛇を食らう土地に都を。

東博の特別展「古代メキシコ —マヤ、アステカ、テオティワカン」に行きました。
日本メキシコ外交樹立135年を記念して古代メキシコの三大都市国家である
マヤ文明、テオティワカン文明、アステカ文明について主に出土品から迫る展覧会です。
東博でメキシコ展をやるのは60年ぶりとのことです。わあ。
メキシコの歴史や文化については概要しか知らないので一から学ぶつもりで行きました。

全作品撮影OK、商標利用でなければSNS投稿もOK!ありがとうございます。
平日に行きましたので、あまり混雑してなくて撮りやすかったですね。

入口からもう圧がすごい、楽しみです。

入口には導入としてメソアメリカ文化のルーツであるオルメカ文明(紀元前1500年頃メキシコ湾岸部)の
半人半ジャガーの幼児像がありました。
頭が人間で体がジャガー、翡翠でできています。
オルメカはメソアメリカ最古の文明で、このような半人半獣の石彫の文化があったそうです。
赤ちゃんが泣いてるみたいな顔だな…と思って見ていたんですが
実際に現地でも「Bebé llorando(泣いてる赤ちゃん)」と呼ばれているらしい。

マヤ文明の貴人の土偶。
大きな帽子をかぶって、青い色のコートを着ています。
青は色落ちすることが多いですがこれは割としっかり残っていて綺麗ですね。
(現地で「El charro」(メキシコ版ロデオ)と呼ばれているそうですがマヤ文明にカウボーイはいません)

テオティワカン文明のマスク。香炉の台を飾っていたそうです。
鼻飾りと円形の耳飾りをつけた神官か戦士をあらわしたもの。

アステカ文明の装飾髑髏。死者の国にいるミクトランテクトリ神だそうです。
目に貝殻と黄鉄鉱をさしこみ、頭部には髪をさしていたと思われます。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。 ジャンル : 学問・文化・芸術
長瀞は地質の宝庫岩だたみ。

埼玉県立自然の博物館に行ってきました。
小学校の時に遠足か何かで訪れて以来ですからン十年ぶり…!
入口にぶら下がってたカルカロドンメガロドンくらいしか記憶にないのでほぼ初めての気持ちです。
(あと昔は確か自然史博物館だったと思うのですが、名称も変わったんですね)

日本地質学発祥の地碑。
近代にハインリッヒ・ナウマンが地質調査に訪れて以来、長瀞は地質学の研究拠点となり
多くの地質学者が訪れ研究がさかんに行われたことから記念碑が建っています。

さすが自然の博物館だけあって記念碑の岩石についても解説がある。。
赤鉄石英片岩といって長瀞地域で広く分布しているものが使われているそうです。

さすが自然の博物館だけあって敷地内に様々な石が展示してある。。

パレオパラドキシアの復元模型。
1500万年前に生息していた哺乳類束柱目です。
化石は世界中で発見されていますが、この博物館では秩父地域で発掘された化石が展示されています。

入口。入館料は大人200円です。

入ってすぐの吹き抜けにカルカロドンメガロドンの復元模型がぶら下がっています。
やあ久しぶり!きみも元気そうで何よりです。

企画展示室のある2階にあがるとさらにお顔がよく見えます。
わたしは企画展示室に用がありますので、また後でね。

企画展「自然の色と模様」を鑑賞します。
自然界に存在する動植物の色や模様について紹介するもので
地元の図書館でチラシを見かけて「これは見たい」と思って来たのでした。
写真撮影OK、アップOK!ありがとうございます。
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月待の宮。

ず~~っと行こうと思っててなかなかタイミングがなくて行けなかった調(つき)神社に
やっと行ってきました!
浦和駅から徒歩10分ほど、旧中山道沿いにあります。
地元では調宮様(つきのみやさま)と呼ばれることもあるとか。
過去にはTVアニメ「浦和の調ちゃん」にもちょこっと出てましたね☆
縁起によると開化天皇または崇神天皇の時代の創建で
伊勢神宮の斎主だった倭姫命が参向してきて土地を定めたそうな。
祭神は天照大神・豊受姫命・素戔嗚尊の3柱です。
調神社の調は租・庸・調の「調」でつまり古代の貢ぎ物であり、
お伊勢さんへ納める調(布や反物)の初穂を納める倉があったのがこのあたりだとされ
その倉に造営されたのが調神社の起源といわれます。
(のちに貢ぎ物の運搬ルートが東海道に変更されたので倉から神社になったそうな)
ちなみに↑の写真の入口に鳥居がないのは、貢ぎ物を運び出す際の妨げになるからと伝わります。
鳥居の代わりに建つのは石柱で、注連縄が張られています。

向かって右の狛兎。
神社の調(つき)が月に通じることからここの神使はウサギとなり、狛犬ではなく狛兎がいます。
子どもを連れててかわいい。

向かって左の狛兎。こちらも子連れです。
狛犬といえば阿吽ですが、ここの狛兎は左右ともに口を閉じて吽形なんですね。

社号碑。「縣社 延喜式内 調神社」とあります。
927年の延喜式神名帳の式内社の一覧表のなかに調神社があるそうで、
つまり平安時代には官社として存在していたわけですな。
江戸時代には月読神社と呼ばれた時期もあるそうで
近代に郷社になりましたが、1898年に県社に昇格したそうです。

神輿庫。
例大祭に使われる御神輿が収められています。

手水舎。
個人的に一番楽しみだったのここです(笑)。

吐水口がロップイヤーの狛兎なんです!かわいい!!!
ウサギの口から水が出てるだけなんですがそれが何だか最高にかわいらしくて
しばらくじ~~~っと眺めてしまった…かわいい…永遠に見てられる…。

後ろ姿もキュート。

裏側に回ると、かつて表参道に置かれていた狛兎が保存されていました。
1861年の奉納のようです。
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文化の祭典その5。

東京国際フォーラムでやっていた
J-CULTURE FEST 2023「正月に出会う五節供の日本」に行ってきました。
京都の井筒企画さんと国際フォーラムが主催で、平安時代以降の日本文化の展示会です。
五節供についての等身大の衣裳や当時の貴重な資料、1/4スケールのジオラマ展示があって
装束の体験プログラム(要予約)などもありました。

入口はこちら。
チケットをあらかじめ購入しておいて、検温と消毒をしてから中に入ります。マスクも必須。

会場内すべて撮影可!!太っ腹です。
まっっっっっったく混んでなくてゆっくり見られました☆
真ん中にどーんとジオラマがあってまず目をひかれましたけど、後でゆっくり見ることにします。

まずは五節供についての学びから。
人日(1月7日)の節供についての展示から順番に見ていきます。
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重忠の面影残す館跡。

嵐山史跡の博物館に行ってきました。
鎌倉時代に畠山重忠が住んでいたといわれる菅谷館跡(国指定史跡)に建っている博物館です。
自動ドアを入ったとたんにこの垂れ幕がバーンと下がっていて「撮影スポット!!」て書いてあったので
「おお、そうなんですね」という流れで撮りました。
歌川豊国が歌舞伎の壇浦兜軍記の場面を三枚組で描いたもので、中央の人物が畠山重忠。
(たぶんこの演目は重忠よりも主役の景清よりも左の女性の方が有名ですよな…阿古屋。
琴・三味線・胡弓の3つの楽器を演奏できなくてはならないという難役で、
今この役ができるのは坂東玉三郎さんくらいしかいないといわれてる)

大河ドラマのパネルもありました~。

博物館は比企郡嵐山町にあるので武蔵武士の畠山重忠や比企氏の人々、
源義仲と義高親子、足立遠元など武蔵にゆかりのある人々が紹介されていました。
畠山重忠…中川大志くんかっこよかったですね。
青木さんの義仲も染五郎くんの義高もかっこよかった。ありがとうございました。
比企氏は色々たくらみまくってましたが草笛光子さまの尼様が最強すぎたので良し。

企画展「武蔵武士と源氏」を鑑賞します。
鎌倉時代の比企地域について人物と出土品から紹介する展覧会です。

入口にいる畠山重忠ロボット。
このロボ、何年か前に来たときはおじさんの声で動いてしゃべってくれたのですが
最近は壊れてしまったらしく動いてはくれないのですが、、、

企画展の間は嵐山町出身の声優・杉田智和氏の声でしゃべります!しゅごいよー!!
せっかくだしもう通年でしゃべってもらったらいいのに。。
(代表作の紹介に銀魂、ハチクロ、ワンピなどは書いてあったけど
シンカリオンのホクトさんは書かれてなかったですね…割と最近のビッグタイトルだと思うんだけどな^^;)

正面に立つと「我こそは!姓は畠山、名を重忠と申す!」っていきなり自己紹介してくれます。
結構、大きな声でビビリます。。
展覧会の紹介や武蔵武士についてのお話や、現在開催中のスタンプラリーのお話などしてくれました。
武士っぽい渋いお声が聴けますのでファンの人よかったら聞きにいってみてねー!
(録音は禁止だよ)
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運ぶこと運ばれること。

太田記念美術館の「はこぶ浮世絵-クルマ・船・鉄道」に行ってきました。
江戸後期~近代にかけての輸送方法に着目して浮世絵に描かれた船、駕籠、飛脚、馬車、蒸気機関車、
仲居が運ぶ台の物から大原女が頭に乗せて運ぶ荷物まで
あらゆる「運ぶ」姿を見ることができました。
まずは人による輸送。
歌川国貞・歌川広重合作の「双筆五十三次」から「府中 あへ川歩行渡し」「平塚 馬入川舟渡」は
天秤棒を担いだ子どもと籠を持った女性、膳をはこぶ女性。
鈴木春信「路考娘」は、扇形の箱を運ぶ扇売り(地紙売り)。
菊川英山「江戸花美人合」は、雪の日に芸者の三味線を箱に入れて風呂敷に包んで運ぶ女性。
芸者さん本人ではなく送りの女性が運ぶんだなあと思いました。
月岡芳年「風俗三十二相 おもたさう 天保年間深川かるこ風ぞく」は片手で膳を担いで運ぶ軽子(仲居)の女性。
吉原では男性の仕事ですが深川では女性が担っていたようです。
歌川国貞「遊廓の賑わい」は、台の物(一分:約25000円)を2人がかりで運ぶ女性。
お座敷に出される料理は店からの注文を受けて仕出し屋が用意したそうです。ケータリング的な。
溪斎英泉「木曽街道続ノ壱 日本橋雪之曙」は、男性たちが坂道で押す大八車。
葛飾北斎「冨嶽三十六景 武州千住」は、馬に乗せられた駄付もっこ。
人々も色んなものを運んでいますね。仕事によって運ぶ方法も道具も色々あっておもしろいです。
船。
歌川広重「名所江戸百景」シリーズから「小奈木川五本まつ」に描かれているのは行徳船。
江戸~行徳は行徳産の塩を江戸へ運ぶための航路で、家康の入府後すぐ開削されたそうです。
「四ツ木通用水引ふね」は飲料水を供給するための輸送用の水路が描かれています。
「浅草川首尾の松御厩河岸」は幕府の米蔵や馬小屋があった松御厩河岸を描いていて
吉原を出た人々がここの屋形船で首尾を語りあうことがあったとかなかったとか。
「綾瀬川鐘か淵」は筏師、「京橋竹がし」は竹を水に浮かべて運ぶ商人、
「鉄炮洲稲荷橋湊神社」は八丁堀の弁才船(大型船)の帆柱が中央にどーんと。
弁才船は溪斎英泉「江戸八景 芝浦の帰帆」にも描かれていて千石船とも呼ばれ、
約18万リットルの荷物を運べたそうです(想像がつかないな…)。
そんな弁才船などの物資の集積地を描いたのが歌川広重「日本湊尽 大坂安治川口」で
大型船から小舟まで様々な船が集まっていました。
葛飾北斎 『北斎漫画』初編は筏や渡し船、樽廻船、弁才船など船が描かれたページが開いてありました。
歌川広重「東都名所図会 隅田川渡しの図」は人を乗せて運ぶ小舟で、渡し賃はひとり16文だったそう。
歌川広重「東海道五拾三次之内 川崎 六郷渡舟」は六郷川と呼ばれた多摩川の「六郷の渡し」で
大きな橋を架けても洪水で流されてしまうために渡し舟になったそうです。
街道の輸送。
葛飾北斎「江之島」は、東海道を牛が客を乗せて運ぶ様子。
歌川広重「東海道五拾三次之内」から「平塚 縄手道」は東街道をゆく飛脚が描かれていて
並便で銀三分(約500円)、幸便の六日限で銀二匁(約3600円)ほどかかったそうです。
「平塚 馬入川舟渡しの図」は渡し舟を待つ人々、
「沼津 黄昏図」は大きな天狗面を背負って運ぶ行者と伊勢への抜参り比丘尼、
「藤枝 人馬継立」は荷物を宿場から宿場へリレーする仕事(問屋ごとに交代)の様子。
「草津 名物立場」は5人の男性による早駕籠で、かなり揺れるのか客も駕籠の紐に必死にしがみついていました。
百川子興「阿部川かわ越の図」は旅行者が人足を利用して川を渡る様子で
駕籠を使う場合は追加料金が取られたそうです。
葛飾北斎「東海道五十三次」から「藤澤」は大山詣の月参りをする人々を描いていて
阿夫利神社に奉納する太刀(奉納という文字が刀身に書いてある)を運んでいましたが
人々の身長の倍はある長さで、あれ本当にああいう大きさなのかな…というか重たくないのかな…。
歌川広重「大井川歩行渡」は東海道の難所の大井川で働く川越人足たちを描いた3枚組で、
輦台に乗せてもらうのですが台の大きさや手すりの有無で料金が変わるそうです(肩車で渡ると安い)。
歌川国貞・歌川広重「双筆五十三次 浜松」は馬に明荷を乗せて布団を敷いて座る客が描かれていて
乗懸といって馬の体の左右に荷物を下げてバランスを取ったそうです。
(余談ですがこの絵、「彫 竹」と彫師の署名があって横川竹二郎の仕事なのですな)
喜多川菊麿「三宝荒神の母子」は馬に箱を乗せて枠で3つに区切って
親子3人が乗れるようにしている様子が描かれています。
歌川広重「五十三次名所図会 四十三 桑名 七里の渡舩」は東海道の唯一の海路、七里の渡しで
当時は船で片道4時間かかったそうです。
かつて青函連絡船が青森~函館を約4時間で結んでいたからそんな感じなのかな…。
歌川国貞「東海道五十三次之内 京三條大橋」は頭に荷物を乗せて運ぶ大原女が描かれていました。
鉄道。
歌川芳員「亜墨利加国蒸気車往来」はThe illustrated london news(1860年6月16日号)に
載っている機関車の写真を参考にした可能性があるそうです。
歌川芳虎「亜墨利加国」は横浜開港間もない頃の作品で
馬車がいたり海に帆船がいたり空に気球が飛んでいたりするのですが
説明書きに「合衆の大国」とか「ヨーロッパの人が来て開拓して共和政治をやっている」とかあって
ちゃんとアメリカの歴史を調べて制作されているなあと。
歌川貞秀「横浜交易西洋人荷物運送之図」には横浜港に入る各国の船が描かれていて
国旗を見るとロシア、イタリア、オランダ、アメリカ、フランスなど様々。
歌川芳虎「東都八景之内 日本橋夕照」は日本橋を往来する馬車と人力車が描かれていて
東京~横浜間で乗合馬車が開業したのは1869年、人力車の開業は1870年らしい。
三代歌川広重「東海名所改正道中記一 日本橋伝信局 新橋迄十六町」は
すでに車道と歩道が分離されている伝信局前の様子。
小林清親「本町通夜雪」は夜間にガス灯に照らされる雪道を疾走する馬車が描かれていて
なんかあまりに急いでるっぽい描写だったので頭の中でクシコス・ポストが流れました。
歌川芳虎「東京蒸気車鉄道一覧之図」は1871年の出版なので新橋~横浜間開業の前年ですな、
新橋~横浜の鉄道の駅一覧を俯瞰で描いています。
三代歌川広重「東京名勝高縄鉄道之図」は海上に築いた2.7kmの高輪築堤の上を通行する機関車が描かれていて
ローマ字でタイトルが書かれていたり、機関車は想像図なので箱型をしていたりおもしろい。
昇斎一景「高輪鉄道蒸気車之全図」に描かれた機関車は車輪が小さかったり客車に屋根がなかったり。
歌川芳虎「東京蒸気車之図」には2両の機関車が描かれていますが
線路が単線なうえに画面の左右から中心に向かって走ってきていて、あのままだと衝突すると思う。
月岡芳年「高輪鉄道之図」は築堤の上を走る機関車にカウキャッチャーがついていて
たぶんアメリカ製なのではないかと。
三代歌川広重「六郷川蒸気車往返之全図」は渡し舟に乗る人力車(!)を描いています。
三代歌川広重「横浜新地蒸気車鉄道之真景」は1.4kmの堰堤の情景ですが
真景というタイトルにも関わらず機関車が客車に挟まれて走っていたりする想像図でおもしろい。
二代歌川国貞「東京高縄品川口蒸気車往来之図」は1872年9月、つまり開業の前後に出版されていて
機関車がだいぶ写実的になったり客車に上等中等下等とあったり
待合場の様子や石炭小屋まで描かれていたりします。
三代歌川広重「蒸気車出発時刻賃金附」は新橋駅舎を描いていますが
時刻表と運賃の一覧表がついているのが実用性がありますね。
朝8時から夕方6時まで計9本の列車が、徒歩で1日かかっていた新橋~横浜間を53分でつなぎ、
4歳まで無料で12歳までは大人の半額料金、上等1両2朱というのもこの頃設定されています。
三代歌川広重「横浜往返鉄道蒸気車ヨリ海上之図」の機関車はとても写実的で
おそらく160形機関車が参考にされているのではとのこと。
絵師たちが実際に機関車を目にして描く機会が増えてきたのでしょうな。
三代歌川広重「東海名所改正道中記四 川崎 六郷川鉄道 神奈川迄二り半」に描かれた橋は
西洋式で架けられた方丈型木橋とのこと。
あと機関車につながっていた客車が全部下等だったんですがそういう列車もあったんだろうか。
小林清親「高輪牛町朧月景」は夕景を行くカウキャッチャーつき機関車で
アメリカの石版画を参考にしている可能性があるとのこと。
小林清親「新橋ステンション」は今の汐留駅になる前の新橋駅の様子で
雨の夜に街灯が水にぬれた路石に反射する表現が美しい。
盛政「流行車つくし」は人力車や馬車、三声車、蒸気機関車などが描かれていますが
車夫や御者の顔がすべてウサギになっていておもしろかった。なぜだ。

表参道はいつも賑やかですが、太田さんはいつも静かです。
道1本入るだけで嘘みたいな静けさ、人も少なくて有難かった。

原宿駅さん!!(ハヤトくんの声で)
いやあ様変わりしましたね…逆光でわかりにくくなっちゃったけど。
前の木造駅舎は既に解体済みですが木材などを再利用して現在の駅舎の隣に再現する予定だそうで
それも楽しみです。
この後は新橋に移動して旧新橋停車場などを見てきたのですが
長くなりますので次回記事に書きます。
クリックで拍手お返事。↓
皆様いつもありがとうございます(^-^)/☆
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Lequio grande(大琉球)。

東博の沖縄復帰50年記念特別展「琉球」に行ってきました。
(チケットは予約制ではありませんが、入館にあたっては検温と消毒とマスク必須で
会話を控えることと90分以内での鑑賞を推奨されていました)
沖縄の歴史や文化について縄文時代~現代までを紹介する展覧会です。
琉球王国時代にアジアやヨーロッパとの貿易や留学でもたらされたものや
薩摩藩や大和朝廷との間で交わされたもの、王朝の調度品や衣裳などの文化、
廃藩置県や沖縄戦で失われたり欠けたりした数知れない品々など様々見ることができました。
そう、縄文時代からなんです!
沖縄の遺跡や貝塚の出土品から、沖縄の古代が垣間見えました。
曽畑式土器や船元式土器など様々な土器が出土していて
なかでも浦添貝塚から出土した市来式土器は南九州を中心に見つかっているもので
1970年に沖縄で初めて確認され、当時の九州との交流を裏付けた貴重なものだそうです。
伊礼原遺跡から出土した黒曜石製剝片・ヒスイ製垂飾は糸魚川や九州が原産地のようだし
アンチの上貝塚からは大量の貯蔵イモガイが出土していて
こちらも九州や大和との交流を裏付けるもの。
摩文仁ハンタ原遺跡からはイノシシやサメの歯、タカラガイが見つかっていたり
貝交易の拠点だった宇堅貝塚からは貝殻がたくさん見つかっていたりと
古代の生活品や貿易の様子もわかります。
ジュゴンの骨をアクセサリーに加工したものもありました。昔から沖縄の海にいたんだなあ。
時代は下る。
浦添ようどれ出土の蓮華文軒丸瓦や癸酉年高麗瓦匠造銘平瓦はグスク時代のもので
琉球で瓦の生産が始まった頃のものということです。
今帰仁城跡出土の陶磁器は青磁、景徳鎮、タイやベトナムの陶器で
鴨の形をした緑色の三彩鴨形水注は首里城跡から発掘されています。
また首里城京の内二階殿跡(国王の生活空間)からは天目茶碗と茶入が見つかっていて
喫茶文化の影響がわかるし、
元青花の優品(日本では沖縄以外では見られない)も出土していたり、
旧波上宮の朝鮮鐘龍頭残欠(956年)は沖縄唯一の高麗鐘の鐘龍頭とされています。
(鐘の胴部分と所蔵していた波上宮は沖縄戦で焼失してしまっています)
シャム南蛮と呼ばれた褐釉四耳壺はタイの蒸留酒を輸入する際に使われたもので
大きくて胴の部分がふっくらしていました。
王世子の邸宅である中城御殿跡から見つかったヨーロッパのもの?とされるガラス片や
円覚寺跡から出土したクリス(インドネシアの短剣)もありました。
具志頭城北東崖下洞窟からは五銖銭(燕の貨幣)も見つかっていてアジアとの交流もうかがえますし
勝連城跡から見つかった中国銭(開元通宝・天聖元宝・大観通宝・洪武通宝)や
ローマ帝国とオスマン帝国の貨幣は日本では沖縄以外に出土例がないそうです。
1244年の漂到流球国記(慶政筆)には、松浦から南宋に渡ろうとして琉球に漂着した一行から
慶政が聞き取りをした記録が残っていて
当時の琉球は食人風習があるという認識が本土の人々にはあったらしい。なんじゃそりゃ。
(この頃は流球と表記されていて、琉球となるのは明が命名した14世紀頃からだそうです)
申叔舟編『海東諸国紀』(1471年編)は朝鮮で作られた日本と琉球に関する研究書で
琉球国海図のページが開かれて琉球国都などの文字が見られるので都があったとわかるし
(1453年に博多商人が朝鮮の皇帝に献上したものだそうな)、
コルネリス・ドッツゾーン「南洋鍼路図」(1598年)は1600年に豊後に漂着したリーフデ号がもたらした
オランダの海図で、「Lequio grande(大琉球)」と記されているので
この頃はヨーロッパにも知られていたとわかりますね。
旧首里城正殿鐘(万国津梁の鐘)は1458年に大工の藤原国善が制作したものですが
銘文(漢文)を琉球相国寺住持の渓隠安潜が担当していて
内容に韓・明・日の文字が見られることから韓国・中国・日本との外交を行っていたことと
この鐘が梵鐘であることから仏教の影響も伝わってきます。
(造らせた当時の国王尚泰久は臨済宗に帰依して南禅寺の僧とも交流がありました)
何より琉球に相国寺があったことにびっくりしてしまったよね…!(今は廃寺)
対馬宗家関係資料の木印「徳有鄰」は室町幕府将軍が使用していた印を対馬宗家が偽造したもので
本物は失われているそうなのですが偽物があることで本物の存在証明ができるってことか…
相国寺の「蔭涼軒日録」に足利義政が琉球の文書にこの印を押したという記録があって
(1459年12月24日のことだそうです)室町幕府と琉球の交流もわかるんですね。
1500年発行の朝鮮国書は1497年に朝鮮に漂着した琉球人を対馬州人に託して送り返すという内容で
当時の朝鮮国王李隆から琉球国王尚真宛てに出されています。
6人死んじゃったけど4人は生きてるから返すね!みたいな内容でした…ひいぃ。
鎌倉時代~室町時代あたりの琉球は山北・中山・山南の三山時代(統一王朝ではありません)。
やがて山北と山南を中山が統一し国王となった尚思紹王を始祖とする第一尚氏と
クーデターにより第一尚氏を倒して即位した尚円王を始祖とする第二尚氏についての紹介。
時代も近づきますのでここがやっぱり一番展示物が多かったですね。
当時の貿易の様子をうかがう資料として、19世紀のものですが琉球進貢船図屛風や琉球交易港図があり、
唐船や冠船、薩摩の商船、琉球のハーリー船などが描かれていて
那覇港がインターナショナルな場だったとわかります。
冊封使船送迎之図(冠船および進貢船図)は清が琉球に冊封使を派遣する様子を描いたもので
(新しい琉球国王の即位を任命するために使節を送る慣例がありました)、
王冠や勅書を運んでくるために冠船と呼ばれたようです。
船体は真っ黒で、まあるい目のような模様があって何だかこいのぼりみたいに見えました。
唐船(進貢船 )図は中国に派遣された琉球使節の様子を描いたもので
記入された寸法によると船身34.8m、船幅9.7m、帆柱30.3mだそうです。
朱漆牡丹唐草箔絵茶弁当は中国と琉球を往来する役人が使っていたものだとか。
朱黒漆三巴紋漆絵盤には琉球王家の紋章である左巴がついていました。
歴代宝案は1424~1867年に琉球国が東南アジアの諸国と交わした4300件もの文書を
1933年に写本として制作したもの。
おもろさうしは第二尚氏時代に出版された古歌謡「おもろ」の歌謡集で
ひらがなで書かれていたので「きや(京)」「かまくら(鎌倉)」「たう(唐)」などの文字が読み取れました。
球陽は第二尚氏時代に編纂された正史で1745~1876年までの出来事が書かれた歴史書。
公文書もいくつかあって、1500年代の辞令書にはでかでかと首里城之印が押されて
貿易担当の辞令や土地の総付についてひらがなで書いてありました。
ちなみに17世紀以降の公文書は漢文で書かれることになっていったそうで
1780年の辞令書(漢文)は尚穆王が瑞慶覧按司を聞得大君に任命したもの。
聞得大君を任じた文書はこれしか残っていないそうで、現存唯一です。貴重だ。
聞得大君御殿雲龍黄金簪はドーム型の頭から柄が伸びていて
すべてが金色でキラキラ輝いていて美しかった…!
雲の中を行く龍が生き生きと表現されていて、柄にも唐草などの模様があしらわれていました。
この簪をつけて儀式を行う聞得大君を想像するとめちゃくちゃ神々しくないですか。かっこいい。
御絵図帳(1835年)は聞得大君御殿のための発注デザイン帳で、
周囲の島々に貢布を発注して織らせて納品させていたそうです。
仲宗根豊見親家に下賜された金頭銀茎簪は金色の獅子と鴛鴦があしらわれて綺麗。
三御飾御規式之時御座御飾之図は笙・琴・二線が置かれていて、
冬至元日十五日唐玻豊出御之時御備之図は
冬至やお正月の儀式の際に国王が出御するときの配備や調度についての図。
御書院並南風御殿御床飾は儀式で薩摩の在奉行を招くときの書院と屏風の床飾りについての図で
南風御殿は書院造の影響で床の間があったのだそう。
大和との外交。
喜安日記は喜安入道(堺から渡沖した茶人)による日記で
島津の琉球出兵(1609年)の頃から降伏して捕虜にされた尚寧王に付いて薩摩や江戸へ行き、
やがて琉球に帰るまでの約2年半にわたる記録です。
展示されていたページには当時の将軍徳川秀忠と対面した様子などが見られました。
1710年の琉球国王尚益書状は徳川家宣の将軍就任と尚益の国王就任について
謝恩使を派遣するという内容で、島津吉貴が許可を出しています。
さらに同年の老中連署書状は尚益宛てに謝恩使派遣のお礼が記されており、
このときの取次によって島津吉貴は官位が上がったそうです。
琉球使節の派遣は薩摩にとって政治的アピールになっていたようです。
琉球使節が江戸にやってくる様子を描いた椎名文囿の琉球来聘使登営図(1843年)には
徳川家慶の就任祝いのためにラッパや太鼓を鳴らしながら賑やかに歩いてくる行列が描かれていました。
島津家を通して尾張徳川家へ贈られた琉球楽器の鼓と小銅鑼(御座楽に使うもの)もありました。
大和朝廷でアジアとの交流を行っていたのが博多なら、琉球との交流は鹿児島が窓口だったみたい。
神女と斎場(聞得大君の就任儀式を行う場所)について。
聞得大君は琉球各地の神女をまとめる組織の頂点に立つ存在で、男性国王の親族女性が任命されることが多く、
初代聞得大君は第二尚氏最初の国王・尚円の娘の月清だったそうです。
南城市の斎場御嶽からは勾玉、青磁、貨幣などが出土し、
首里城京の内跡から厭勝銭(護符)やチョウセンサザエ製埋納容器が出土しています。
聞得大君の儀式の際に献上されたり使われたりしたと考えられています。
ノロは各地の祭祀を執り行う女性たちで、
羽地間切の屋我のろへの辞令書(1625年)は神女職であるノロに
羽地間切屋我ノロの孫の「おとう」を任命するとひらがなで書かれた文書で
ノロが祖母から孫へ受け継がれていた事例として考えられます。
朱漆花鳥沈金丸櫃はノロの祭祀道具を入れるもので
神女が身に着けたアクセサリーとして玉ハベル、玉ダスキ、玉ガーラが展示されていました。
玉ガーラはノロへの任命の辞令とともに贈られるアクセサリー。
黒地香袋桜牡丹文様描絵芭蕉衣裳や紺地雲龍文様錦衣はノロが着用した衣装で
上着とスカートのような形をしていました。
陶器や詩、絵画を通した大和や海外との文化交流。
黒漆雲龍螺鈿大盆には宝珠と、皇帝の象徴である五本爪の龍が描かれていました。
朱漆山水楼閣人物箔絵足付盆および丸重は琉球から薩摩の正龍寺を通して京都へ贈られたもの。
褐釉天目には天界寺(尚泰久が創建した寺で沖縄戦で焼失)の墨書きがされていました。
徳化窯の白磁藍彩牡丹文茗碗は琉球に煎茶文化があったことがわかるもの。
灰釉竹形筒花入は立花、隣に並んでいた呉須絵擬宝珠形丁子風炉は香を楽しむためのもので
どちらも琉球士族にとって必須教養だったそうで、
その花入と風炉が描かれた篆書「立雪堂」の掛け軸は名護親方寵文(号:雪堂)宛に徐葆光が贈ったもの。
楷書物外楼記巻は名護親方(名護間切の総地頭)と呼ばれた寵文が江戸に行った帰りに寄った京都で
近衛家21代当主の近衛家熙から鴨川にある別荘・物外楼について詩文を書くように依頼されたもの。
孔林楷杯(孔林は孔子一族の墓のある竹林のこと)は寵文から家熙に贈られた盃で
お酒の飲めない家熙はこれを伏せて置いて木暇山と呼んだそうです。
(楷杯は1706年の進貢使節で北京に向かう途中、曲阜に立ち寄り手に入れたものとのこと)
琉球から留学した絵師たちを指導したという福建省の孫億による鳳凰牡丹図、
贈答用ということで鳳凰も牡丹の色もド派手です。
琉球王府の絵師だった山口宗季(呉師虔)の花鳥図(1706年)は
福建省への留学中に教わった孫師昌の花鳥図を忠実に写したもの。
山口宗季「関羽像」(1727年)には「琉球呉師虔手をあらいて謹んで写す」と記入してありました。
さらに山口宗季に教わった殷元良(座間味庸昌)の枯柳水禽図や
趙雲と阿斗が船の上に立つ姿を描いた船上武人図もありました。
趙雲がかっこいいのはいつものことですが、阿斗様も趙雲の隣にしっかり立って前を向いてかっこよかった。
御書院御物帳は王族が所蔵した書画の目録で、琉球王府の芸術家たちの作品リストです。
王族の調度品や衣裳。
朱漆花鳥螺鈿箔絵密陀絵机は長方形で牡丹・菊・尾長鳥・カワセミなどが描かれています。
伊藤忠太旧蔵の朱漆巴紋牡丹沈金御供飯、大型の足高盆でこんもりとした蓋がついていまして
現存が確認されているのはこれを含む3作のみという貴重なもの。
朱漆桐鳳凰螺鈿七弦琴は螺鈿で囲まれた真っ赤な胴に螺鈿で鳳凰と植物が描かれています。
黒漆牡丹唐草螺鈿卓は猫足で真っ黒、きれい。
黒漆司馬温公家訓螺鈿掛板は司馬光の家訓を螺鈿で、縁取りがブドウと栗鼠文様でかわいい。
御玉貫は泡盛の瓶にかぶせる覆いで、色とりどりのビーズを麻糸でつないで模様をデザインしています。
浅葱地手縞織絹衣裳は士族女性の普段着で、水色の地に格子模様が染められていました。
白地縞絣苧麻着物は大和の着物の仕立てになっているので輸入品か、職人が現地で制作したのかな。
浅葱地団扇流水沢瀉河骨桜菊文様木綿紅型袷衣裳は冬用の衣装。
染分地遠山松竹梅文様紅型木綿衣裳は単衣でプルシャンブルーが使われています。
団扇流水沢瀉河骨桜牡丹菊文様白地型紙。紅型の型紙は奉書紙で作られているそうで(丈夫だからね)、
紙を切り抜いて散らして模様を作るので、崩れないように絹糸でパーツを結んでありました。
藍地霞梅枝垂桜鳥流水蛇籠葵菖蒲文様藍型木綿袷衣裳は藍型(えーがた)というそうで
そうか紅型があるなら藍で染めるのは藍型か…!
久米島紬裂地は黄色い地に御絵図柄(王朝が使う模様)がデザインされていました。
紺地御絵図柄絣苧麻衣裳は宮古島の布で、首里城に献上していたこともあるそうです。
紺地格子に緯絣芭蕉桐板衣裳は八重山産で貴族女性が着用したもの。
沖縄諸島の染色について全然知らないのでパネルなどでも説明いただいて助かりました。
八重山島蔵元公事帳(原本1857年)は八重山の行政の指針文書で
王族が八重山を治めていた頃のものとのこと。
八重山風俗図(1889~91年頃)は旧正月の綱引き行事の様子を描いたもので
近代の制作なので日の丸や鉄砲を持った軍人のような人も描かれていました。
石垣四箇村の登野城・大川・石垣・新川各地の旗頭本は綱引き行事に使う幟のデザイン画帳で
さっき尚氏の展示のところで見た冬至元日十五日の儀式でどう掲げるかの方法なども描かれていました。
この幟は復元されて、現在も現地のお祭で使われているそうです。
紺地手花芭蕉木綿手巾は読谷でウミナイティサージ(祈りの手巾)と呼ばれるもので
五色の糸を使って織られていてカラフルでした。
近代の琉球(沖縄)。
フランシス・リスター・ホークス編「ペリー提督日本遠征記」(1856年)。
ペリーは日本への来航時に5回ほど琉球に行っているそうで、
挿絵には黒船やペリーを物珍しそうに見る琉球の群衆が描かれていました。
琉球風俗図は琉球の儀式について書かれた巻物で、婚礼のページが開かれていまして
制作年は不明ですが「沖縄県琉球国城図」と記述があるので
いわゆる琉球処分の後(1879年~)ではないかとのこと。
伊波普猷著『古琉球』(1911年)や「南島談話」(1931年)(柳田国男の南島談話会機関紙)など
沖縄県となった琉球を研究する本土の人々の紹介もありました。
鎌倉芳太郎の「琉球芸術調査記録」は沖縄の文化研究の資料で
奄美やミントングスク、入墨などについて研究したもの。
百浦添御普請絵図帳(1846年)は首里城正殿の修理の際に制作されたもので
挿図には彩色もされているので近代の首里城研究にも使われたとか。
仲宗根真補「沖縄県琉球国首里旧城之図」(1894年)は19世紀の首里城を鳥観図のように描いた絵図で
歓会門には廃藩置県の後に沖縄に置かれた沖縄分遣歩兵隊の看板がかかっていました。
大龍柱はかつて首里城正殿前にあった柱の一部で、かつては3mもあったそうですが
首から下は沖縄戦で失われてしまい現在は頭部のみが残ります。
よく見たら角とか鬣とか、他にもあちこち欠けていて痛々しかった。。
扁額「高牖延薫」は首里城北殿にかかっていた扁額で
尚穆王を冊封するため1756年に来琉した全魁が書いたものです。
沖縄県設置以降に行方不明になり来沖地理学者の志賀重昂に寄贈され、
数年前に志賀の出身地である岡崎で発見されています。
首里城並諸方絵図間付差図帳(1934年)は近世の絵図の写しですが
記述されている区画の間口を見ると1709年頃の琉球の地図ではないかとのこと。
最後に、沖縄県が進めている琉球王国文化遺産集積・再興事業の紹介。
琉球文化の復興と継承ということで王朝時代の手わざの復元が試みられています。
さっき展示室で見てきた聞得大君の簪や御玉貫や金杯などがピカピカに再現され展示されていました。
できたての頃はみんな輝いていたよな…そうだよなあ。
沖縄戦で破壊された旧円覚寺仁王像の残欠から6年かけて復元したという阿吽の仁王像は
でっかいやらかっこいいやら、院派の影響もあるそうでムキムキです。迫力満点。
仁王像を見るといつも「張っ倒されてぇ…」などと考えてしまうのですが
別にイケメンならおKとか暴力振るわれたいとかじゃなくて、こう、
仏敵を防ぐ力ってどういうもんなんかしらとか張っ倒されたらどんな感じがするんかしらとかの、ただの気持ち。

国宝・尚家宝物コーナーのみ撮影可でした。
以下に写真を載せています。クリックで開きますのでどうぞ☆
テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。 ジャンル : 学問・文化・芸術
頭と肩と背と腰と手。

武蔵野美術大学に行ってきました。
入口が!入口がブルーピリオドで見たあれだ!(アニメブルピリについてはまた後日感想を書きます)
正門ゲートの守衛さんがイギリスの兵隊さんみたいなエレガントな制服を着てらっしゃって見とれた、
美術大学の守衛さんはファッションも一味違うぜ。

研究室や工房のなどの建物の通路をいくつか通り抜けて13号館へ。
目的はここにある民俗資料室の展示です。
(工房があるキャンパスいいですね…トンテンカンとかチュィ~~~ンとか色んな音が聴こえてたし
作業着に軍手つけた学生さんたちが動き回っていました。
コンクリートに絵の具や木くずが散らばっている大学あんまないよね?美大って感じ。
あと落ち葉を■の形に集めてあったところがありましたがあれ誰がやったんだろう)

階段を登ったら壺がいっぱい並んでた。
作品なのか置いてあるだけなのかわかりませんが、何だか不思議で強烈な場所。
座っていいのかな、とか一瞬考えたんですがたぶんダメなやつ。

民俗資料室に来ました~。企画展示「運ぶ—文化とかたち」展を鑑賞します。
(感染症対策のため学校関係者以外は完全予約・入れ替え制です)

展示室はこちらの一部屋。
武蔵美には民俗学者で武蔵美の教授だった宮本常一氏が世界中から集めた民俗資料が所蔵されていて
民俗資料室では定期的にテーマを決めてそれらを紹介しているそうです。
今回の展示は29回目にあたり、機械以前の時代に使われていた「運ぶ」道具がテーマで
収集先は主に日本やアジア、アフリカなど。
仕事内容はもちろん性別、気候、地域、移動距離などによっても道具の形は様々ですし
運搬方法や道具の製法なども現物を見ながら感じ取れておもしろかったです。
道具の形って普段あまり意識しないから、こういう形をしているんだなあと改めてちゃんと見られたような。

展示品は一部を除いて写真撮影可。
展示も無料で見られるうえにパンフレットも無料でいただけます。ありがとうございます。

まずは「頭で運ぶ」展示。
頭の上に籠を乗せて野菜や果物を運ぶ様子は国内外を問わず見かける気がする。
ちょこんと展示されているのは釜山で収集されたという頭上運搬台。
これをクッションとして頭に置いて、籠などを乗せていたのですね。

頭で運ぶ道具あれこれ。
幅を広めに作った帯ひもを額に引っ掛けて籠をつけて背負って運ぶ道具は
女性や子どもでも大きな荷物を運べるという利点があったようです。(軽いときは胸に下ろして運んだ)
頭に乗せる籠も大きさや素材が様々で、取っ手がついているものもありましたね。

きれいな模様だなあと思ったアイヌの頭かけ背負い道具、ライクルタラ(死者用の物入れ)。
亡くなった人のために生前使用していた道具を一緒に入れて埋葬するときの袋です。
こういう、ちょっとした部分に装飾性のある道具に弱い。キュンとする。

「背負う」展示。
リュックサックのように背負って運ぶための道具を紹介。
手前にあるのは佐渡島で収集された子ども用の背中当て。

真ん中の大きいものは八王子で使われていた背負い梯子。
(十返舎一九『諸国道中金草鞋』の八王子の項にもこのデザインの梯子が描かれているそうな)
奥に吊られているのは背中当てで、人間の背中と荷物の間でクッションの役割を果たし、
荷物との摩擦を防いでずり落ちなどを防ぐ目的があったようです。
一番奥のカラフルなものは麻布を編んだもので、デザインセンスもあるなあと思う。

「担ぐ」展示の天秤籠。天秤棒の両脇に下げて肩に担いで運ぶためのものですね。
籠の形によって魚、苗、蜜柑、水など運ぶものが異なるようです。知らなかった。
天秤棒は柔軟性も求められるので椋や樫の木で作られていたそう。
あと時代劇とかでよく「えっさほいさ」って掛け声をかけて運ぶ表現がありますけど
あれ実際に行われていたようで、声を出すことで肩への負担を軽減させる効果を狙っているとか。

「腰に下げる」展示。
鉈や砥石、山菜や魚などが腰に下げた道具で運ばれますね。
鉈入れは装飾性が高く糸が織り込まれていたり編み方も様々で、素材も木の皮やヤマブドウなど。

魚籠はくびれがあることで中身が飛び出すのを防ぐ形になっていますが
片方は平らになっていて、腰につけたときに落ちにくい工夫がされています。
写真は鳥取県でどじょうすくいなどに使われていた魚籠。

風呂敷。
広げるとやっぱり大きいですね…大は小を兼ねるって風呂敷のためにある言葉だと思う。(唐突)
結び方・運び方としては手さげのほかに背中掛け、斜め肩掛けなど。
最近はエコバッグみたいに使われることもありますね。(わたしも持ち歩いてるよ)

「手で運ぶ」展示。水筒や酒入れ、豆腐籠や魚を運ぶ籠など。
孟宗竹などから作られる水筒はそのデザイン性から、花入れにすることもあるそうな。
一升瓶入れは底が抜けないようにアケビの蔓で作られているとか。
手さげは最もポピュラーな運搬方法で、ほとんどの道具に取っ手がついていますね。
奥に並んでいるナップサックのようなものは台湾の麻袋(シカウ)で
口に紐が通されていて背負うと締まるようになっています。
木の皮をつかった背負い籠は使い込むとツヤが出てくるそうです。アンティークみたいだ。

あとこの日は収蔵庫の見学ができるらしくて、本当は事前に申込みをしないといけないんですけど
「今どなたもいらっしゃらないので」ということで特別に入らせていただけました!
学芸員さんが概要を説明してくださったのですが、収蔵庫には約9万点のコレクションがありまして
宮本さんが集めたものと、彼と親しかった写真家の薗部澄氏からの寄贈資料なのだそう。
着物や台所用品や仕事道具など生活用品が中心で、おもちゃや神社資料のような信仰資料もあって
焼き物や金物、竹製品、布など素材も様々。
中性紙箱とかで蓋をされているものもありましたが、
ほとんどの現物は棚からすぐ取り出しやすいように箱の蓋が開いて通路側を向いて中が見えるようになっていて
着物や刃物資料とかもあるんですがあれ蓋しないで置いといたら傷んだり錆びたりしないかな…などと
余計な心配をしたりしました。
(資料保存の天敵は火と虫と湿気なので…空調は動いていたので大丈夫だろうけど)
資料はひとつひとつに番号札がついていて、データベース登録されて検索できるようになっています。
どれも一つ二つとかじゃなく一定の数が集められていて、比較研究もしやすいのではないかなと思いました。
(絵馬や菓子型のコレクションが膨大でこれだけで展覧会できそう…と思ったら既に過去に何度か開催しているらしい)
宮本さんはこれらを少しずつ集めて研究したり武蔵美の学生の制作に役立てようとしたのだろうと思いますが
ちゃんと保存される施設があって本当によかったな…。
(過去記事にも少し書きましたけど宮本さんてそこらじゅうを歩き回って現物を収集してきた人で
コレクションが膨大なので整理も研究もものすごく大変だと思う、学芸員さんお疲れさまです)
薗部さんの郷土玩具コレクションもおもしろかったです。
こけしやダルマ、お面、張子、人形、土鈴などなど現在も旅行先で見かける玩具がありました。
天満宮の鷽とか今と昔じゃデザイン全然違うのね…地域によっても髪がくるくるしてたり目つきが鋭かったりする。
赤く塗ったばかりのダルマを乾かすための竹串と、串を刺すための藁の束があったのびっくりした。。
そりゃそうだ、玩具だけじゃなくて道具も保存しておかないと制作方法もわからなくなってしまうよな…。

武蔵美は鷹の台駅から徒歩20分ほどの距離にあるのですが
玉川上水に沿って歩いていると紅葉が綺麗でした。
周囲は他にも学校や幼稚園や公園があって静かな雰囲気でした。いいところだ。
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國寶何物、照千一隅。

東博の「最澄と天台宗のすべて」に行ってきました。
今年が最澄の1200年大遠忌記念にあたるということで開催されている展覧会です。
最澄が学んだ唐の天台宗から江戸時代までの流れがわかる内容になっていて
歴史上の人物も色々出てきて、テーマは仏教なんだけど歴史の教科書を見ているような気分でした。
音声ガイドは市川猿之助氏でしたが感染症もあるので借りませんでした。ごめんね。
(写真撮り忘れたけど感染症対策のパネルにはいつもの検温・消毒・マスク着用・距離の確保と
90分以内で鑑賞すること、と書いてありました。
あとチケットは日時指定の予約制で、当日券は残っていれば取れます)
比叡山には6年前と3年前にそれぞれ訪れていて基礎知識はありますが
今回も色々見られそうだな~と楽しみに行きました。
最初にあったのは鎌倉時代の「天台大師(智顗)像」(延暦寺蔵)。
最澄が唐で天台宗を学んだ師で、椅子に座って瞑想する姿が描かれています。
805年に最澄が帰国する際に贈られた原本の写しだそうです。
「伝教大師度縁案並僧綱牒」は最澄の履歴書のようなもので
戸籍が宝亀11年11月10日近江国生まれ、父親の名前や俗名、
15歳で出家を認められ20歳で受戒し僧侶になったことなどが書かれています。
沙門最澄、年十八、延暦2年1月20日…ここから始まったんだな~と、しみじみしました。
「伝教大師(最澄)坐像」は鎌倉時代の作で、本来は彩色されていましたが色落ちしてしまったようです。
現存する最古の最澄像で、内部には「近隣の僧侶がお金を出して制作」という内容の墨書きがあるらしい。
目を閉じて瞑想する姿で、さっきの智顗像と似ていました。
「伝教大師求法書等」は最澄が空海・円澄・泰範に当てた書状の写しで、起請文や遺言など。
遺言には老僧最澄とか比叡山老僧最澄敬白など署名があって、年齢を感じさせます。
「天台法華宗年分縁起」や「尺牘(久隔帖)」は現存する最澄直筆の文書。
縁起のほうは延暦寺の国宝殿でも見たな~~天台法華宗年分学生式ともいって
嵯峨天皇に提出した文書で延暦寺で行う修行について書かれたもの。
例の「国宝とは何物ぞ」に始まり「道心ある人を名付けて国宝となす」の文章があります。
末尾に弘仁9(818)年5月13日前入唐求法沙門最澄と署名がありました。
尺牘は弟子の泰範に当てた手紙で、813年に書かれていて現存最古の直筆文書。
当時、空海のもとで修業していた泰範に、空海から贈られた詩の序の中に知らない書物があって
返詩を作りたいから空海にどんなものか聞いてほしい、という内容だそうです。
最澄の真面目さと、2人の交流を示す貴重な史料のひとつですな。
「光定戒牒」は最長の弟子光定が延暦寺で大乗菩薩戒を受けた際の証明書で、嵯峨天皇の直筆。
これが書かれた823年4月14日は最澄の死(822年6月4日)からもうすぐ1年という時期で
最澄が生前に望んでいた延暦寺での授戒がようやく叶った日でもあります。
(当時、僧侶になるための戒律を受ける儀式は奈良で行っていたのですが
最澄はそれを延暦寺で行えるようにしたかったんだよね)
大乗戒壇設立の勅許が降りたのは死の前日、それからも弟子たちが色々がんばって
翌年3月17日に最初の得度、4月14日に光定らの受戒。
末尾に藤原朝臣三守と大伴宿祢国道の名前がありました。初代別当、彼らもがんばった。
内部に最澄自刻の薬師如来像(根本中堂のゆかり)を納めていたと言われる
京都の法界寺の秘仏本尊「薬師如来立像」は寺外初公開だそうです。
子どもくらいの大きさで、360度ぐるぐる回って鑑賞できました。
衣に細かい截金文様がついているのですが、お顔などの正面は色落ちして背中は綺麗に残っていました。
聖徳太子及び天台高僧像(平安時代)。
インド・中国・日本における天台宗の僧侶を描いた10幅の掛軸で、
メンバーは聖徳太子、龍樹、善無畏、慧文、慧思、智顗、灌頂、湛然、最澄、円仁です。
(太子は僧侶ではないけど慧思の生まれ変わりと信じられていたためラインナップに入っている)
太子は童子姿、龍樹は蓮台に乗った姿、善無畏は経典を持ち隣に毘沙門天、
慧文は柄香炉を持った立姿、慧思は本を持った立姿、智顗はやはり瞑想する姿、
灌頂は両手を組んで立つ姿、湛然は合掌して座った姿、最澄は手を組んで瞑想する姿、
円仁も手を組んで瞑想する姿でした。
次はそんな円仁(延暦寺第3世座主)についての展示。
岩手の黒石寺所蔵の「僧形坐像」(平安時代)は慈覚大師(円仁)として信仰されてきたそうで
心なしか耳と口が大きく見えました。
「慈覚大師伝」(平安時代)は円仁の伝記で、最澄と出会ったときに円仁が抱いた印象は
「色白で背は6~7尺」だったそうです。身長180cmくらい?大きいですね最澄さん。。
「円仁入唐請来書目録」(慈覚大師在唐送進録)は円仁が唐で入手した物のリストの写しで
延暦寺で現物を1つ1つ確認しながら作成されたそうです。
僧侶なので経典が多かったかな。〇〇経〇十巻とか、こんな大量によく持ち帰ってきたなと。
また、円仁は天台密教を大成した人でもありますが
関係資料として「両界曼荼羅図」(平安~鎌倉時代)がありました。
仏の配置など、真言宗の曼荼羅とは異なる部分がある台密のための曼荼羅だそうです。
続いて、円珍(延暦寺第5世座主)。
円珍が再興した三井寺所蔵の「智証大師(円珍)坐像」は
円珍の遺骨を納めたとされているので御骨大師と呼ばれているとか。
「智証大師伝」は弟子たちが集めた資料を俗弟子の三善清行がまとめて朝廷に提出したもの。
紙背に参考文献がびっしり書かれていてすごかった…ほとんど散逸してしまってそうだけど。
「五部心観」(前欠本)は円珍が唐から持ち帰った仏や諸尊を白描で描いた画像集を
日本で模写して再現したものらしい。
「福州温州台州求法目録」(854年)は458巻の典籍の目録で、わずか1年で集めたというから驚き。
続いて、回峰行を始めたとされる相応。
「相応和尚像」(鎌倉時代)は数珠を持って座った姿でした。
「不動明王坐像」(平安時代)は相応が創建したという、滋賀の伊崎寺の本尊。
唇をかむ表現や結んだ髪の先が丸いのは、相応が修行中に感得したという姿らしい。
「護法童子立像及び像内納入品」(鎌倉時代)は慶派の仏師によるもの?だそう。
回峰行の守り神である護法童子像、杖に手と顎を乗せたおもしろい姿で衣に着色も残っていますが
2018年の調査で内部に小さな不動明王像と仏舎利、木札、印仏が見つかったそうで
それらも展示されていました。
金色のお不動さまってなかなか事例ないよね!?じーーっと見てしまった。
首飾りまでビーズ?みたいなものできちんと作ってあって、注文主は誰だろうと思いました。
滋賀の明王院の「千手観音菩薩及び両脇侍立像」、千手観音の両脇にいるのは不動明王と毘沙門天で
これは延暦寺の尊像構成と同じだそうです。
続いて天台密教を大成した安然。
初めて聞く名前だったのでぐぐったらどうも研究に没頭した人生を送った人らしい。
「諸阿闍梨真言密教部類惣録及び八家秘録」は勝豪(法性寺座主)による書写で
入唐八家(最澄、空海、円仁、円行、恵雲、常暁、円珍、宗叡)がもたらした品々と
安然がまとめて分類、整理した『諸真言目録』とを合わせたもの。
「悉曇蔵」巻第三・第八は安然によるサンスクリット語の書体や音韻についての研究書。
滋賀の恵光院の「不動明王二童子像」(鎌倉時代)は
安然が規定した不動明王の19個の特徴を備えているそうです。
お不動さんに19個の特徴があるのは知ってたけど決めたのって天台宗の人だったのか…!
続いて、延暦寺系統の美術。まずは恵心(源信)と六道絵。
滋賀の聖衆来迎寺の「恵心僧都(源信)像」は現存する最古の源信画像。
京都の青蓮院の「往生要集」上巻(1171年)は完存する最古の写本。
「霊山院釈迦堂毎日作法」(1007年)は横川に建てられた釈迦堂で源信が行う作法を定めたもので
正月一日:〇〇する、みたいな、1日ごとの作業が記されていました。
現在の横川に釈迦堂はありませんが(西塔にもあるけどあれとは別の建物らしい)、
そこに所蔵されていた六道絵の一部(現在は聖衆来迎寺が所蔵)が展示されていました。
人道不浄相と人道苦相2幅の計3幅でした。久し振りに見たな~~!!(たぶん奈良博の源信展以来)
人間のからだが朽ち果てて骨になる九相図のような不浄図と、生まれてから死ぬまでの苦相図。
「真如堂縁起」は京都・真如堂の創建を描いた絵巻で後柏原天皇などが詞書を書いています。
展示されていたのは上巻で、円仁が唐から帰って来る船に小さな阿弥陀仏が飛来した場面が開かれていて
帰国した円仁はその姿を彫刻して常行三昧堂に安置したと伝わるそうです。
「紺紙金銀交書法華経」巻第七は金色と銀色のインクで交互に書写された法華経で
見返しの部分には釈迦が菩薩の頭を撫でて悟りを約束し、
それを多くの人々や仏が見守る様子が金色の白描で絵に描かれていました。
金箔を散らした浅草寺の「法華経(浅草寺経)」巻第二や
分担して共同で供養することで功徳を積む慈光寺の「法華一品経(慈光寺経)」なども。
平安~鎌倉時代はきらびやかなお経を作るのが流行し始める時期ですね。
法華経を信仰する人を守るという「普賢菩薩像」(鳥取・豊乗寺)は合掌して白象に乗るいつもの姿。
天台宗の思想による文章など。
4度も天台座主になった慈円の消息は、仮名混じり文で繊細な筆致。
「門葉記のうち 七仏薬師 五」は青蓮院の所領や修法の際に座る位置などについて書かれていて
密教の修法に関する記録もあり、蒙古襲来のときの異国降伏法(!)も記録されているらしい。
「熾盛光」(阿娑縛抄のうち)は円仁が伝授した密教の修法のひとつで
国家安寧、天変地異を鎮める効果などがあると信じられていたそうな。
「日吉山王本地仏曼荼羅図」は神を仏で表現した神仏習合に関する絵で
八王子が最上部に描かれ、一番下の階段のところにサル(日吉神社の御遣い)がいました。
「日吉山王曼荼羅図」は中世の山王神道に関する掛軸で、比叡山の神を仏の姿で描いたもの。
「天狗草紙 延暦寺巻」は法師と稚児の天狗が描かれていました。
「山門再興文書のうち徳川家康請文」は織田信長による比叡山焼き打ちの後に
朝廷が各地の大名に援助を呼びかけて比叡山に届けられた返事のうちの一部。
天正13(1585)年9月12日の日付で別当宛てと公守宛ての2通、家康の名前が花押とともに署名されていました。
栃木の輪王寺の「慈眼大師(天海)坐像」(1640年)は天海が亡くなる3年前に制作された像で
すみずみまでリアルに再現されたような雰囲気、表情も厳しかったです。
寛永寺所蔵の「慈眼大師縁起絵巻」(1680年)は家康と天海が駿府で対面する場面が開かれていました。
「東叡山之図」は19世紀頃の寛永寺の境内を描いた図で、境内を散策する人々が細かくびっしり描かれて
黒門、山王社、清水観音堂、文珠楼、大仏殿、にない堂、根本中堂などが堂々と描いてありました。
そうそう、広かったんだよなあ…今は建物も減って、大仏は首だけになってしまったけど…。
木村了琢「東照大権現像」はよく教科書とかで見る絵で、背景に東照宮があり賛は天海。
(木村さんは東照宮や輪王寺の絵画制作に携わった人ですな)
「摩多羅神二童子像」(1617年)、摩多羅神は天海により東照宮三所権現の一柱になった神で
ものすごい笑った顔で描かれていました。頭上に北斗七星がいた。
「熾盛光曼荼羅図」は家康の17回忌に制作されたもの。保存状態がよく綺麗でした。
「浅草寺縁起絵巻(慶安縁起)」(1652年)。浅草寺は円仁が中興の祖でしたね。
1642年、火災のために本尊が飛んで逃げたというエピソードも描かれていました。

根本中堂内陣、不滅の法灯の再現展示。ここだけ写真撮影が可能です。
ちょっと暗いですが手前に3つの燈台があり、
奥の厨子扉の両脇に梵天・帝釈天・十二神将のうち子神・丑神がいます。
実際の内陣はもっと暗くて内部が見えにくいのでこれはかなりわかりやすくしてくれていると思う。
十二神将は根本中堂にはちゃんと12人いますが今回は子と丑さんが出張してきてくれたんですね。
最後は怒濤の仏像展示!
福島の法用寺の「金剛力士立像」は身長2m、体重100kg以上もあるケヤキの一木造で
頭や手足をよ~く見ると血管が浮き出ている表現があってびっくりします。でかい。
強そうでかっこよくてこんな仏様なら張っ倒されてもいいと思いました。張っ倒されたい。(2回言った)
瀧山寺の十二神将立像2、4、6、9号像)は普段はご本尊の薬師如来を囲むように安置されているそうで
十二神将にしては珍しく鎧をつけずに衣だけで武器を持っている人たちでした。
表情がみんなファンシーでしたが昔はこれが恐ろしい顔の表現だったのかも。
「薬師如来及び両脇侍立像」は、元々は石津寺にいた薬師如来(最澄自刻?)と
立石寺にいた日光・月光菩薩が一緒に並んでいるそうです。彼らは現在は寛永寺の秘仏本尊になっています。
滋賀の善水寺の「梵天・帝釈天立像」は延暦寺根本中堂の安置仏を再現していて、
しわのあるおじいちゃん顔の「聖僧文殊菩薩坐像」は文殊菩薩の化身として信仰されていて、
寄木造の「薬師如来坐像」は最澄作とされていて、今は岐阜の願興寺にいるけど
もともとは善水寺から伝わったらしいので梵天・帝釈天や聖僧文殊とは久し振りに再会されたのですね。
展覧会という場はこういうことがたまに実現しますね~。
比叡山の僧が創建したと伝わる長野の瑠璃寺の「薬師如来坐像及び両脇侍立像」は
定朝様の古い表現。
深大寺の「釈迦如来倚像」はインドのグプタ彫刻に影響を受けた飛鳥時代の彫刻で
身体にぺったりと衣が密着している表現がおもしろい。
同じく深大寺の「慈恵大師良源坐像(元三大師像)」は秘仏で、上野への出開帳は205年ぶりだとか。
2mもの高さは僧形彫刻としては日本最大級でとにかく顔がでかいしカッと見開いた目がこわい、
厄除け大師として信仰されてきたというのもわかります。
(良源は不動明王の化身とされ信仰された逸話もあるそうな)
真如堂の秘仏「阿弥陀如来立像」は今回が寺外初公開。
円仁作といわれていて、現存する最古の立像形式の阿弥陀如来像だそうです。
大人くらいの背丈ですが展示台の上にいらっしゃるのでちょっと大きく見えた。

平成館入口にあったおかざき真里氏『阿・吽』とのコラボパネル。
最澄・空海の若かりし頃を描いたマンガですが確か最近完結したはず、
そろそろ読んでみようかなあ。

ミュージアムショップで展覧会限定の御朱印が買えて、
1階ラウンジにいらっしゃる天台宗のお坊様に日付を入れていただきました。
いただいたのは薬師如来。根本中堂のご本尊です。
他に大日、釈迦、不動、阿弥陀、観世音の御朱印もいただけます。

ラウンジには最澄ゆかりの地として滋賀県大津市が紹介されています。
大津や坂本にある寺院の御朱印の紹介もありました。

展覧会の期間限定オープンの梵字カフェ。
延暦寺会館にある喫茶「れいほう」のメニューである梵字ラテが提供されています。
比叡山に行かないと飲めないラテが上野で飲める!

メニューは梵字ラテと抹茶梵字ラテがあって、
「あの…これ両方ともコーヒーですか…?」とお店のかたに伺ったら
「抹茶はコーヒーじゃなくてミルク入りですよ~」と教えてくださったので抹茶梵字ラテを注文。
コーヒー苦手なんですがこれなら飲めます!有難い。
注文時に干支の梵字を伝えて粉末で入れていただけます。わたしはキリーク。
根本中堂ご本尊の薬師如来のお札もつけてくださいました。

カフェの隣にあった織物の茶室・霞庵。
梵字ラテを買った人は中に入っていいそうです。(内部での飲食は禁止)
建築家の橋口新一郎氏のデザインで、
糸の一部に延暦寺総本堂の護摩の灰で染めた糸が使われているとのこと。

というわけで、中に入って座ってみました。
外からは中が見えにくいけど、中から見るとそうでもない。

東博本館の隣にあるレストランゆりの木では、いつも特別展にあわせて限定メニューを出すので
今回もあるかな~と思って行ってみたら、ありました。茶餅。
最澄が茶の種を唐から持ち帰って坂本に植えたことにちなんで
近江ほうじ茶を練り込んだお菓子が提供されています。
餡子が入っててもちもちしておいしかったです。紅葉が添えられて秋のよそおい。
この後はいつものように東博本館に行って展示を見てきましたが
長くなりますので次回記事にて書きます~。
テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。 ジャンル : 学問・文化・芸術
初雁の飛来する城。

川越城本丸御殿に行ってきました。
川越には何度も遊びに来ているし、美術館も博物館も寺社もいっぱい行ってますが
なぜかここは行きそびれていまして。。
たぶん混んでないだろうなと思って行きましたが全然混んでませんでした。有難し。
川越城は扇谷上杉持朝が太田道真・道灌親子に命じて1457年に築城させたお城で
領地の北の拠点にしていたようです。
(川越市役所前に太田道灌の銅像が建っていますよね)
1639年に城主の松平信綱が拡張工事を行い、
一時期は現在の川越市役所の辺りまで曲輪が広がるほど広大な敷地があって
家康や秀忠、家光などの将軍も何度か宿泊したことがあるそうな。
現在の建物は1846年に焼失した後1848年に再建されたもの。
江戸時代には川越藩主が住んでいましたが、近代になり藩主が出ていくと
建物は御殿の一部を残してほとんど取り壊されてしまいました。
その後は修練場や中学校の校舎として使われたこともあったようですが
戦後に埼玉県の指定文化財になり、一般に公開されるようになりました。
江戸時代の本丸御殿が残っているのは国内ではここと高知城だけだそうです。貴重。

感染症対策で入口で検温があったのですが、
この日は気温がめちゃくちゃ高い日で何度測っても入場できない結果が出てしまって、
スタッフの方が案内してくれた別の体温計で測ったら問題なかった。ホッ。

受付を通ると廊下があり、右側にお部屋がいくつか並んでいます。
順番に見ていくよ。

使者之間。
御殿を訪れた来客の家臣のための部屋です。

使番詰所。
当直で勤務する人が使っていた雑用部屋です。

番跋・老体詰所。
非番の人や定年を迎えた人が使っていた部屋です。

物頭詰所。
足軽など警備を担当する人が使っていた部屋です。

振り返ってみます。
ここだけでもずいぶん広くて格式を感じる。天井も高いしなあ。

廊下は鴬張り。歩くとキュッキュッと音がします。
鴬張りの廊下を歩くのも久し振りで楽しくて、何度も往復してしまった^^
以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ☆
勢ひは青天を衝き臂を攘ひて躋る。

埼玉歴博の特別展「青天を衝け~渋沢栄一のまなざし~」に行ってきました。
放送中の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一について、資料からたどる展覧会です。
歴博所蔵品をはじめかなりの点数が展示されていてとても勉強になりましたが、
これでも彼の仕事のうちのほんの一部なんですよね…。
91年の生涯であらゆる業種を支援しまくり関わった数は500を超えるともいわれますが
もはや正確な数はわからないとか…この人の人生いつ見ても何なんだろうってなります。いやはや。
行くか行かないか、行くならいつか、迷って考えて、できる対策をとって行きました。
博物館の感染症対策は過去記事に書いたこととほぼ変わっていなかったので割愛。
平日だったせいか人もほとんどいませんでしたが距離をとることは心がけて鑑賞しました。

大河ドラマのキャストさんたちのパネルがありました。撮影スポットですね~。
展示会場にはタイトルの元になった「勢衝青天攘臂躋」の一節がある
「内山峡之詩」の拓本を大きく引き伸ばしたものも展示されていました。
まずは、渋沢栄一という人について。
展示室に入って目の前にあったのが力石(103kg)。
藍をたたく道具なのですが、栄一が行商先の紺屋で持ち上げてみせたというエピソードがあるそうな。
103kgって米俵より重いよ!?Σ(゚Д゚) 若い頃の話でしょうね。
武州自慢鑑藍玉力競は、1862年11月に22歳の栄一が作った藍玉職人たちのランキングで
行司に栄一と渋沢喜作、勧進元に市郎右衛門(栄一の父親)の名前がありました。
市郎右衛門は農家を経営する教養人だったので、
彼が所蔵していた往来物や詠んだ俳句は栄一が『晩香遺薫』という書物にまとめて1930年に出版しています。
そんな父や従兄の尾高惇忠から漢籍や学問を学んでいるので
「百尋桜郭」(78歳で真田親子を詠んだ詩)と「楽亭壁書」(90歳で松平定信を詠んだ詩)からはその影響が見られました。
渋沢栄一書簡(江戸時代)には、上田で再会した紺屋の老女が
かつて若い頃に取引をした人だったとわかったという内容で、藍商売の裏付けですね。
有爵者大礼服(男爵になったときの礼服)やシルクハット、杖などの遺品もあり、
子爵陞爵位記や勲一等瑞宝章(民間人初の受賞)なども展示されていました。
男爵になった際に深谷の血洗島諏訪神社社で撮影された写真(1914年10月10日)もありまして
展示されていた大礼服と勲章を身に付けていました。こういうの見ると「ほんとに着たんだなあ」って思う☆
遺品のトランクには「B・E・S」(バロン・エイイチ・シブサワ)とあったので男爵になったときのものかな。
栄一の妻兼子さんの着物の展示もありまして、
袖と裾に蓬莱山が表現され渋沢家の家紋も染められていて、透けていたので夏用かな?
定家文庫やオペラバッグ、金銀でできた化粧道具なども展示されていて
おしゃれな人だったことがわかります。
幕末の栄一について。
尾高惇忠書「神託」(1863年)。これこのまえドラマで見たやつだ!ってテンションあがりました(笑)。
栄一たちが計画をやめた後燃やされてたね…ちゃんと小道具スタッフさんが作ってらっしゃるんですね。
その後、平岡円四郎をたよって京都に行き一橋慶喜に仕えることになりますが
徳川慶喜書「博施於民」は栄一が慶喜からもらった書で、信頼関係が見て取れます。
京都で栄一が身に付けていたであろう陣笠や脇差(銘備前国住)や、
袴を着た20代の栄一の写真も展示されていました。
剣の流派は無念流や北辰一刀流を学んでいたらしい…本当に幕末を生きていたんだなあ…。
京都での主な仕事は兵力を調達するため領内を回って農民を集めることで
「渋沢篤太夫歩兵人選廻村につき御達」(1865年)には徴募に成功したことが書かれていました。
また事務的な仕事もしていて「硝石製造御用につき廻状」(1865年)には勘定組頭としての仕事が、
「一橋領知備中国荏原産物会所銀札」(1865年)では一橋家の所領で手形を発行したことがわかります。
備中って岡山じゃん!なんでもやったんですね…。
(ちなみに備中には興譲館という郷校があったのですが、館長の阪谷素という学者と仲良くなって
のちに栄一の娘琴子と阪谷素の息子の芳郎が結婚した縁で
芳郎が手紙(1911年)を出して興譲館の扁額を依頼されて作成している(1912年)。)
慶喜の将軍就任にともない幕臣となった後は、慶喜の弟の徳川昭武がパリ万博に出席するため
昭武に随行してパリにわたりますが、
この頃に妻の千代さんに手紙(1867年)を送って千代さんの弟の平九郎を見立養子にしています。
平九郎は江戸にいましたが上野戦争で彰義隊に参加し、飯能戦争で戦死しています。
彼が兄の成一郎とともに参加した振武軍の廻文と軍旗や、
彼が越生で自刃したときに所持していた陣笠と刀が展示されていました。
栄一は彼の死を帰国後に知って、お墓を作ったり自刃の地を詣でたりしたそうです。
近代の栄一。
将軍を退いた慶喜が静岡に引っ越したので栄一もしばらくは静岡にいたようですが、
新政府からの招状が届いて民部省に就職(1869年)し、
のちに大蔵省にて『官版立会略則』(1971年。会社や銀行設立のマニュアル)などを作成しますが
予算編成をめぐって大久保利通や大隈重信らと意見が合わず、1873年に退職しています。
ちょうどこの頃、富岡製糸場が稼働し始めていまして(館長は尾高惇忠)事務主任の仕事を始めています。
尾高惇忠による「富岡製糸場落成詩」(1873年)や深谷で作られたレンガの展示もありました。
大蔵省を退職してからはひたすら会社や施設をつくりまくります☆
まずは設立に参加した第一国立銀行(現・みずほ銀行)の総監役になりました。
(前島密にあてた手紙は中央に「第一国立銀行」と書かれた原稿用紙を使っている)
二代歌川国輝「東京府下海運橋兜町第一国立銀行五階造真図」に第一銀行も描かれていて
(看板に「バンク」と書かれている)、
井上探景「憲法発布式大祭之図 江戸橋ヨリ鎧橋遠景」にも銀行と海運橋が描かれていました。
銀行が20周年の営業満期を迎えたときの記念朱塗盃(1896年)は今もみずほ銀行に所蔵されてるんですね…!
五代友厚にあてた手紙(1872年)で「三井と小野の協力がないと大変だけど大隈(重信)も忙しいしなあ」などと綴っていて
銀行の経営についてや2人の親しい仲も想像されます。
1878年に出した手紙には五代が関わった大阪株式取引所のオープンをお祝いしていて、
1879年の五代からの手紙には取引所が順調であるという返事がきていました。
次に抄紙会社(王子製紙)。
『創立記事』(1873年)からはアメリカから輸入する抄紙器械の交渉にあたったことがわかり、
『回議録』(1874年)からはイギリスに発注した器械や製紙技師の到着までを専決していたことがわかり、
『抄紙会社記事』第二(1875年)からは東京日日新聞(現・毎日新聞)に洋紙を納入する相談をしていたことがわかります。
新聞が発行される世の中になったので洋紙が必要なんですね~。
(ちなみに『取締役会議事録』第貳(1898年)からは経営が三井に移ったため辞任していることがわかる)
鉄斉菅真郷筆「武陽王子飛鳥山真景」(1888年)には抄紙会社や大蔵省印刷局抄紙部の建物や
飛鳥山の渋沢栄一別邸が描かれていました。
あ、抄紙会社や第一銀行の建物は清水建設が建てているそうです。
第一銀行の鋳造模型(1930年)や王子製紙会社新工場写真(1889年)などがありました。
(清水建設は他にも、日本女子大学校図書館(1909年)や澁澤倉庫(1915年)なども担当している)
また栄一は生涯で家を6軒建てていますが、うち4軒を清水建設が建てていて
王子や深川の自邸などの設計図もありました。
(ちなみに王子の渋沢邸は現存します!史料館になっているよ)
次に、日本煉瓦製造株式会社。
会社の設立願(1887年)を東京府知事あてに出して本社を東京に置き、
煉瓦製造所設立願(1887年)を埼玉県知事あてに出して深谷に工場を建設しています。
ここで作られたレンガを使って東京駅や万世橋高架橋、日本銀行、赤坂離宮、東京大学、
信越本線碓氷峠の鉄道施設などが建設されたのは有名な話☆
さらにそのレンガを運搬するために鉄道が必要ということで
深谷(現在の高崎線深谷駅)から利根川近くの上敷免までの鉄道布設願(1894年)を出して
専用鉄道もつくります。
鉄道に使われていた蹄鉄やレール、犬釘などの展示があり、
当時の工場で作られた上敷免刻の印入りレンガやたたき板の展示がありました。
渡米実業団。
1909年に経済外交として日本各地の実業家や若手たちがアメリカの主要都市を回ることになり、
栄一が団長を務めています。
(エジソン電気会社への訪問とエジソン夫妻との交流もこのとき行われたそうな)
「渡米実業団記章」(1909年)はそのとき団員が身に付けていたものです。
帰国後に栄一が「渡米実業団感謝文草稿」(1910年)を書いて
それをもとに実際に作られた渡米実業団西陣織感謝状(1910年)は高島屋に依頼したそうで
西陣織で囲み額装されている豪華なものでした。
実業団に参加した51人の名前も添えられていまして、
たぶん実業界では有名になっている人たちばかりなのだろうと思いますが
わたしにわかったのは巌谷小波と根津嘉一郎、松方幸次郎だけであった…勉強不足…。
外交といえばアメリカ大統領だったユリシーズ・グラントが来日した際に
栄一が総代のひとりとして新橋駅まで迎えに行くのですが
グラントを迎えるにあたり栄一が書いた指示書(1879年)が展示されていました。
また、大久保作治郎による聖徳記念絵画館壁画下図「グラント将軍と御対話」(1930年)の制作時に
栄一は当時陪席した唯一の生き残りとして参加しています。
社会事業について。
成瀬仁蔵が日本女子大学校を設立するにあたり、栄一は5000円の寄付をしていて
寄付金名簿(1914年)には大隈重信や西園寺公望らとともに名前が並んでいました。
日本女子大学校創立事務所日誌(1899年)には栄一が大学創立計画の講演をしていたこともわかります。
また松平定信を尊敬していた栄一は、
定信が江戸時代に行っていた七分積金制度で養育院が運営されていたことに倣って
当時菅谷村(現・嵐山町)にあった埼玉育児院(現・川越市)に支援をしています。
埼玉育児院感謝状(1925年)を見ると名誉顧問にもなっていたみたい。
また埼玉県出身の学生を援助するため、本多静六とともに発起人になって埼玉学生誘掖会をつくります。
出資依頼の書状と出資引受證(1903年)が並んで展示されていました☆
清水良雄筆「渋沢栄一肖像」(1930年)は会員の学生たちの寄付で描かれた作品だそうです。
また埼玉出身の塙保己一を顕彰するために、保己一のひ孫の塙忠雄とともに温故学会をつくったことが
設立登記申請書・定款(1922年)からわかります。
活動としては学会のために温故知新の額(1927年)を書いたり、
保己一の徳育教育について依頼する文書(1928年)を出していたりします。
この頃建てられた温故学会の建物は関東大震災で倒壊していますが、
震災後に鉄筋コンクリートで再建されたことが(清水建設だよ)1925年の図面の展示でわかりました。
あとわたし知らなかったんですが旧埼玉会館の銘板の元字も栄一が書いてたんですね!
本物(1926年)が展示されていました。彼が中心になって寄付を募ったんですね。
旧会館がオープンしたときの記念式典(1926年11月6日)のニュース映像が上映されていまして、
礼服を着た栄一もちょっとだけ映っていました。映像が残ってるんだなあ…!
そして、友好人形交流事業。
横浜人形の家の記事にも少し書きましたが、
1924年の排日移民法のために日米関係が悪化した際に
アメリカの宣教師シドニー・ギューリック氏が全米から人形を集めて日本に送るプロジェクトを実行。
このとき人形の受け取りの事務を行ったのが渋沢栄一が会長を務める日本国際児童親善会で
雛祭りに間に合うよう贈られた人形は文部省を通して日本各地の小学校や幼稚園に寄贈されたことが
各県別・各船舶別人形配布割当表(1927年)からわかります。
さらにお礼としてクリスマスまでにアメリカに答礼人形を贈るプロジェクトが計画され、
日本各地の地名を名字にもつ市松人形58体が11月に日本を出発、アメリカに贈られています。
(人形交流は太平洋戦争でいったん途絶えましたが、戦後に復活しまして
現在もギューリック氏の子孫の方が続けていらっしゃるそうです)
今回は渋沢栄一の展覧会ということもあり、出身地である埼玉県内に現存する12体の青い目の人形が
すべて展示されていました。
当時、埼玉県にやってきた人形は合計178体だそうですが
現存するのは秩父や横瀬、本庄、熊谷、長瀞、東秩父、越谷、所沢、杉戸、久喜で
戦争中に行方がわからなくなっていたのが学校の倉庫から発見されるなどして保存されているとか。
お人形だけが保存されている場合が多いようですが、
旧大滝村(秩父)や杉戸町など、人形が届けられた際の歓迎式典や写真が残っている地域もあります。
田宮尋常高等小学校日誌(1927年)には人形歓迎会の記述があったり
大滝小学校青い目の人形関係資料(1927年)は式典案内状や式次第、人形を迎える歌(!)などもあったそうです。
青い目の人形を抱く少女写真(1927年)には久喜の江面小学校の女の子が人形を抱く姿が写っていました。
(彼女は写真を撮ることが決まったとき校長先生に言われてお昼休みにいったん家に戻り、
袴姿に着替えてまた学校に来たそうです。えらいこっちゃ)
また、クリスマスにアメリカに贈られた58体の答礼市松人形ですが
アメリカのチャールストン博物館をはじめ数体が現存しているそうです。
答礼人形ノ名称(1927年)には1体1体に名前がつけられたことがわかっています。
日本代表の倭日出子をはじめ新潟雪子、山梨富士子、沖縄球子などご当地が連想されるお名前が並んでました。
埼玉県代表は秩父嶺玉子といい、栄一が名付け親です。
彼女の現存先はわかっていないらしく(チャールストン博物館で名前の台座が取り違えられてしまったそうな)、
去年、人形師さんにより身長80cmの姿が復元されました。→こちら
え~~~~っかわいい~~~~~っ!!!+゚+。:.゚(*゚Д゚*).:。+゚ +゚
緑色の着物の袖には蝶が、裾には御所車と花が染められて真っ赤な帯がすごく似合ってる!
いやはや…大事業だったんだなあ…!
晩年。
NHKの大正15年度昭和元年度事業報告(1926年)には栄一がNHK顧問としてラジオ講演をしたことが書いてあり、
講演「道徳経済合一説」レコード(1923年)や373型ダブルボタンマイクなども展示されていました。
映像も残ってて肉声も残っている…近代人だ…!本当に最近の人なんだなあと改めて思いました。
最晩年の資料としてはNHKで書いたという「順理則裕 従慾惟危」(1930年)。
91歳のときの書で揮毫したときの写真も残っているものです。ずっとお仕事してたんですねえ。
1926年に86歳で自筆した論語も残っていて展示されてましたし。
大宮に住んでいた漫画家の北沢楽天による「渋沢栄一肖像」(1928年)では
色紙の中で88歳の栄一おじいちゃんがニコニコと笑っていました。
また、常設展示室には栄一旧蔵の美術品が数点、展示されていました。
和田英作「渋沢栄一肖像」(1914年)は礼服を着た栄一を描いた油絵。
第一銀行が創立五十周年を迎えた時の記念扇子(1923年)。
松平定信書「水鏡集」(江戸時代)は定信が日本各地の名水で墨をといて歌を詠んだもの。
下村観山「富士」「城外の雨」(1914年)、栄一は観山を支援するために観山会をつくっているのですが
頒布会や旅行などの活動があったそうです。
橋本雅邦「松下郭子儀梅竹鶴図」「江楼圍棋」(1900年)は飛鳥山にあった栄一の自邸で
実際に掛軸や襖絵として飾られていたそうです。(写真もありました)
また、松平定信を顕彰するために福島の白河に南湖神社(1922年鎮座)を建てようと奔走し、
橋本永邦に「桜図」を、下村観山に「楓図」を依頼していて、今回はそれも展示されていました。
(普段は神社の宝物館にあるそうですが、神社外で展示されるのは初めてだそうです)
推しのために神社を建てるファン…!(ちょっと違うか)
あと定信の没後100年だった1929年の6月に楽翁公百年展を開催し、
そのとき展示されたという楽翁公銅像などがありました。手で持てるくらいの小さい像だった。

展示の最後にあった、青年期と壮年期の渋沢栄一さん等身大パネル。
思ったより小さかったですね…身長150cmくらいかな?

こちらは撮影可コーナーにあったものです。渋沢栄一編纂『徳川慶喜公伝』(1918年)
慶喜の存命中は刊行しないという約束をしていて、没後に刊行されたもの。

渋沢栄一編纂『楽翁公伝』(1931年)
楽翁公遺徳顕彰会の事業の一環で編纂したもの。松平定信の伝記ですね。

渋沢青淵(栄一)筆『大学』および『前赤壁賦』(1929年)。
湯島聖堂を維持管理する斯文会が栄一の米寿を祝して詩を贈ったところ、
その返礼として栄一から会に贈られたもの。
あと、写真を撮ったつもりで帰宅したらちゃんと撮れてなかったんですが
渋沢栄一伝記資料(全68巻)もこちらのコーナーにありました。
栄一の孫の渋沢敬三が中心になって編纂されたものです。
敬三さんについては過去記事にもちょこちょこ書いていますけど
正直わたしは栄一おじいちゃんより彼の方が好きだったりします(笑)。
必ずしもおじいちゃん子じゃなかったところとかアチック作ってた頃の準備室の話とかおもしろいのですよ~。
わたしが好きな敬三さんの言葉はこれ↓
「如何なる微細な事でも、又一見つまらぬ様な事でも、ありのまゝに出来得る限り集めて置かねばならぬ。
そして後に伝記を書く人に自由に使用させねばならぬと斯様考へて居ります」
(『渋沢栄一伝記資料』第57巻p.708)
アーカイブとオープンアクセスですよ皆さん!!(゚Д゚)クワッ(落ち着け)←職業病

あと、これも。
年明けに開催予定だった「銘仙」展の図録です。
緊急事態宣言のため博物館が休館となりましたので、開催されずに終了しました。
本当に本当に見たかった展覧会だったので、せめて図録だけでもと思ってゲット。
また何らかの形で開催されますように…。
テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。 ジャンル : 学問・文化・芸術
わたしはこんな顔ではない。
※しばらくブログの更新をゆっくりにします。次回は12日に更新予定です。

国立歴史民俗博物館に行ってきました。
かなり前に一度来たことがあって、その時は常設展示だけ見たんだっけな…。
もう記憶の彼方なので、博物館の前にものすごい登り坂があることもすっかり忘れていたよね…。
(歴博は過去に佐倉城のあった高台に建っています)

感染症対策としては入館時にサーモグラフィの検温があり、消毒液で手指の消毒をして入館。
入館者確認票という紙を渡されて氏名と連絡先を記入して提出します。
館内はマスク必須で、距離を取って会話を控えるようにとのこと。
館内の各所に消毒液が置いてありました。
総合展示(常設展)は自由に入れますが、混雑緩和のための入館制限を行う場合があるそうです。

企画展「性差(ジェンダー)の日本史」を鑑賞します。(日時指定の予約制です)
過去の資史料や美術の中で性がどのように記録・表現されてきたかを紹介しています。
展示は古代から現代までの歴史を全7章に分けて紹介しています。
まずは「古代社会の男女」。
古代社会の政治について、あると思ったけど、やっぱりありました魏志倭人伝(16世紀版本)。
三国志魏書東夷伝倭人条(3世紀)にある「共立一女子為名曰卑弥呼」の部分や
男女が参加する政治集会の「会同坐起父子男女無別」などのパネルが展示されていました。
熊本県宇土市にある向野田古墳(4世紀)では30歳代の女性の遺骨が見つかっていて
副葬品から首長であると考えられていますが、
骨に妊娠痕があることから妊娠or出産経験があることがわかっているそうです。
鏡・玉類・農耕具類などの副葬品は男性首長と同じですが甲冑が副葬されていないとか。
また京都の大谷古墳からは古墳時代中期頃の女性小首長(40代?)の骨が見つかっていて
(女性が埋葬される古墳の大きさは30mかそれ以下)、
古墳から出土した青銅鏡や勾玉、鉄剣が展示されていました。
奈良の宇陀・丹切古墳群からも青年期の女性首長の骨が見つかっているそうです。
5世紀になると棺内に武器が置かれるようになるらしく、
熊本県マロ塚遺跡(5世紀後半)からは横矧板鋲留短甲という甲冑が出土していて
他にも大きな武器や武具が副葬されていたことから被葬者は男性?と考えられているそうです。

展示室内は撮影禁止ですがこちらは可。復元された古代の原初腰機。
足と腰を使って布を織る古代の機織り技術の様子です。
この織り機を使って機織りをする女性坐像埴輪の3D画像が展示されていて、
その埴輪を含む栃木県甲塚古墳(6世紀)から出土した埴輪の群像が9体、
展示室の真ん中に並べられていました。
馬を引く男性・柄杓を持った女性・盾を持つ男性・腰に手を当てた女性・機織りをする女性などの埴輪があって
性別は髪型から推定されているとか。(男性はみづら、女性はまとめ髪など)
沖ノ島の神への奉納物と考えられる、島から出土した紡績具の雛型(10世紀)からは
それらが女神に捧げられるものとされたことから昔から機織りが女性の仕事だったということがわかりますが、
後々は税として徴収される錦は男性が織り、女性は麻などを織るといった分業制になっていったとか。
古代の地域社会であるムラやサトの様子について、
島根県の青木遺跡から当時の様子を再現したジオラマ展示がありましたが
令集解(17世紀写)の儀制令春時祭田条に「男女悉く集まり」「則ち歯(年齢)を以て坐に居し」とあるので
8世紀のムラの祭祀は男女がともに参加して直会などでは年齢順に座っていた事例があったということだな。
出土した捧げ物の木簡には「〇〇丸」や「〇〇女」など男女の名前がみられるそうです。
鳥取県で見つかった般若多心経(845年)は奉納した中心人物数名のうち女性は1人のみで、
この経典を奉納する行事で中心になったのは男性だったのかな?
福島県の荒田目条里遺跡(奈良~平安時代)には農業のひとつとして田植えをした人々の記録があり、
ある郡司の田植えで参加した36人のうち男性33人、女性3人という日があったそうな。
一方、栄花物語(平安時代中期)によると50~60人の女性たちが田植えをするという記述がみられるので
この辺りから田植えが女性たちの仕事になり、早乙女のイメージに繋がっていったのかもしれない。
鳥取県の青谷横木遺跡から出土した田植木簡(10世紀後半)にも
女性8人、男3人、子ども1人と書かれたものがあるそうです。
(記録を追っていくと田植えに女性が増えるのは9世紀以降だそうな)
律令国家の時代。
『古事記』敏達天皇の項では、天皇の子どもは出生順に記録され、名前も「〇〇王」と書かれますが
律令制の時代になると皇子や皇女、親王や内親王となっていきますね。
702年の御野国加毛郡半布里戸籍(正倉院宝物)では戸ごとに男女を分けて記載していて
女性の名前はすべて「〇〇売」という風に売(メ)をつけて書かれています。
当時の働く女性の姿として、青谷横木遺跡で見つかった7世紀の女子群像の板絵が紹介されていて
これらは高松塚古墳の女性群像との共通点が指摘されているというのは過去にニュースになりましたね~。
伊福吉部徳足比売臣骨蔵器は、因幡から飛鳥にやってきて働いていた女官の骨蔵器で
蓋に放射状に16行の銘文が108字で彫られていました。
竹波命婦木簡からは、常陸国筑波郡出身の竹波命婦(称德天皇に仕えた女官)が
御所の食料として小豆、醤(ひしお)、酢などを請求したことがわかります。
他にも、『続日本紀』721年の年末の大祓には官人およびその家族(女性や子ども)も呼ばれていたり
707年に大極殿で110人に位が授けられた際には男女が同じ日・同じ場所で授けられていたことがわかるとか。
続いて、「中世の政治と男女」。
奈良時代まで顔をさらして働いていた官人女性たちが顔を隠すようになっていく様子が
駒競行幸絵詞(藤原頼通の時代を描いた絵巻)や枕草子からわかります。
高山寺文書群は八条院(鳥羽法皇の娘)の院庁にあった文書を貼りつけて屏風に仕立てていて
彼女の所領だった荘園の運営や日々の事務などが記録されています。
トラブルがあったときの「女院の仰せのとおりに」と答えたらしい人の記録とか、生々しいやら微笑ましいやら。
八条院に仕えていた健御前(藤原定家の姉)の日記には
「侍所の人は朝来るのが遅くて夜には帰ってしまう」などという記述が見られるそうです。
定家の日記『明月記』1226年12月18日の項には長女が禁色勅許を許されたことが書いてあり、
前年に息子の為家が蔵人頭になったことと合わせて「男女の栄」としています。
(ちなみに定家の父俊成の娘たちは11人が禁色を許されています)
また、女院号を冠した美福門院庁下文(1160年11月2日付)は公文書のためか漢文で書かれていますが
後土御門天皇の書状(室町時代)は一位御局(日野富子)に宛てたもので
仮名ちらし書きになっていました。
男性も私的なものなら仮名まじり文で書いていますね。
次に「中世の家と宗教」。
源頼朝の妻北条政子について、『新編吾妻鏡』の関東将軍次第には「平政子治8年」とありまして
編者は政子の治世があったという認識みたいですね。
承久の乱に際し御家人たちを呼んで御簾の中から「頼朝の恩は山より高く海より深い」と檄を飛ばしたのは有名な話ですが
尼将軍と呼ばれるようになったのはいつ頃からだろうな…。
(あと「源頼朝」と「平政子」の夫妻なので夫婦別姓なのだよね)
今川氏親朱印状(1526年6月12日)および寿桂尼朱印状(1528年10月18日)は
どちらも寿桂尼が出した安堵状とされていて、仮名まじり文で書かれています。
像内納入品から1334年製とわかっている木造の地蔵菩薩立像は胎内に印仏や毛髪が納められていて
願文や印仏には僧俗男女の名前が規則性なく書かれており、女性の名前も多いという事例。
関東下知状(1302年12月23日付)は田代基綱の子どもたちへの相続について書かれていて
その中に「姫夜叉」という名前があり、息子だけではなく娘にも分別相続がされていたことがわかります。
尼しやうせう領地売券は仮名交じりで書かれた土地売券で
売主の尼しやうせう、連署の嫡女藤原氏女、買い主の清原氏女は全員女性なので
女性による土地の売買が行われていたことがわかるもの。
中世の女性が自分で土地、というか財産管理をしていたのはもうだいぶ知られるようになったけど
こうして資料で裏付けられているのを見るとワクワクします。
「仕事と暮らしのジェンダー:中世から近世へ」。
洛中洛外図屏風(歴博甲本)には、魚屋の女性や価格交渉する遊女や早乙女など様々な女性が描かれていて
歴博の人物データベースで検索すると283人の女性がヒットするとか。
清水寺の周辺を描いた東山名所図屏風(16世紀後半)にも茶屋や扇屋などで働く女性が描かれていて
青屋で働く女性は子どもをイズメに入れてあやしていました。
清水の舞台の中央には後家尼とその家族が参拝する様子や男女の神子の姿が描かれていました。
東寺鎮守八幡宮供僧評定引付(1422年9月)は、八幡宮に巫女による神楽が奉納されたときに
とても安い給料で行わせたため問題になったことが書かれている文書。
春日若宮拝殿巫女等申状案(1353年4月)には巫女たちが負担の減免を上層部に訴えて
最初は半分免除になりましたが、勝手に1/3にされそうになったので再度訴えたという文書。
当時は民主的な仕組みや保証がないから必死にそういうことをやっていたんだよなあ…。
職人風俗絵巻の扇屋のところに女性職人が描かれているように
中世では女性が経営者や職人として仕事をしているのですが
(室町時代後期には布袋屋玄了尼という人が洛中扇売りの営業権を独占し養女の鹿子女房に相続させたりしてる)、
官刻孝義録や近世職人尽絵詞(鍬形蕙斎画・19世紀)を見ると女性は「〇〇妻」「〇〇女」などと書かれたり
女性の職人の絵姿がまったく描かれなくなっています。
花容女職人鑑は、初版(1818年)には仕事や家事をする女性たちに狂歌や詞書が添えられていましたが
後刷り(1830年)になると文章が全部削られて、女性の絵のみになっています。
版元にお金がなかった可能性もあるし、女性が「花容」として眺め消費する対象とされていく流れでもありそう。
写真家のフェリーチェ・ベアトが1863年にスタジオ撮影した髪結(男性)と女髪結の写真がありまして
男性の髪結は客を訪ねて髪を結っていましたが(宇江佐真理さんの『髪結い伊佐次』で知った)、
女髪結も同じように営業していましたが非合法だったのよね(天保の改革時には手鎖・罰金の対象)。
「女は自分で髪を結って一人前」が江戸時代だったからね…。
また田植えをする早乙女を描いた版本やすごろくや教材の展示もありまして
これによって田植えは女性の仕事というイメージが世の中に広がりつつあったようですが
幕末や近代に撮影された写真では男女ともに田植えをする姿が写っていたりするそうです。あれ。
(何だか活版印刷の発明後に印刷で魔女の絵が流通して魔女狩りが広まった中世の西洋みたいな流れだ…)
(ちなみに中国の佩文耕織図(19世紀前半)には男性が田植えをする絵、女性が機織りをする絵がある)
東北地方やアイヌの女性たちの生活の様子もあって、
「どんじゃ」(19~20世紀)は青森県南部で使用されていた、麻布や木綿を縫いあわせた夜着で
使っていたのは家長、重さは14~15kgくらいあるらしい。
「ぼどこ」も同じく麻布や木綿ををつぎはぎした敷布で、出産にも使われたそうです。
こうした手仕事は主に女性たちの仕事だったと。
菅江真澄による百臼之図にはアイヌ女性の脱穀風景や紫臼をつく東北女性やブリコ採取をする女性、
箱館松前地志(19世紀)には和人とアイヌの農耕が描かれていて、女性たちも働いていました。
「分離から排除へ:近世・近代の政治空間とジェンダーの変容」。
主に将軍と大奥、武家の女性についての展示です。
松蔦獅子流水模様小袖(江戸時代後期)は将軍家伝来とされる礼装用の小袖で
大奥の女性たちもこういう着物を着たんだろうか。
幕末の大奥には32の職階があり1,000人ほどの女性が働いていたといわれます。
(大奥の男子禁制を定めたのは徳川秀忠ですが、
大奥の女中たちは表(将軍付)と奥(御台所付)に分かれていて
秀忠の子どもの乳母を務めた春日局も最初は「表の局」と呼ばれたとか)
西丸向惣絵図(1852年)は江戸城西ノ丸(大奥)の図で、家定が養育されていた頃のものですね。
お鈴の廊下の先(表)は描かれていませんでした。
本丸一二三四側大奥長局惣絵図(1860年)を見ると大奥は閉鎖的な設計になっていることがわかり、
広屋敷向の詰所を通らないと外に出られないため火事があると犠牲者が多く出たそうです。
伊達家の御老女中浜野他二名連署起請文(1741年)は
伊達家の江戸上屋敷にて当主の吉村と冬姫に仕えた老女たちの名前が末尾にあって
形式は男性たちと同じ書き方ですが、署名と血判は男性たちより小さかったです。
幕府の女中帳(1805年)は大奥の人事について書かれていて
伊達家が藩主の御城使に増野という女性を増員する伺いを出したところ
将軍付御年寄の浦尾を介して留守居から許可する指示があったことがわかります。
伊達重村の妻観心院の肖像もあって、彼女は夫の死後に財産を相続して家中を指揮するとともに
幼い後継ぎの後見をつとめていたそう。
生麦村に住んでいた関口家の当主が代々つけていた日記には
1828年3月に当主の娘の千恵が江戸城に勤めることになった頃の記録があって
彼女は32歳から11年ほど大奥に出仕して御中臈の部屋子として働いていたそうです。
奥奉公出世双六(1844年)は地域の女性が大奥をめざし昇進していく様子が
振り出しから上がりまで描かれていて、出世コースのモデルだったんだなと。
静寛院宮(和宮)による日記の1868年3月7日の項には「立退ぬ心得」と書かれ、
一人称に「予」が使われていたりと、当時の彼女の矜持が見え隠れしています。
1892年の皇居御造営下調図によると、女官の居住スペースは
旧西丸奥の外部(大奥より外側)に設置されたことがわかります。
1889年1月27日の枢密院決議(第三審会議)は、大日本帝国憲法が発布される前の記録で
第2条に「皇子孫之ヲ継承ス」とあったのを直前で「皇男子孫之ヲ継承ス」と修正したものでした。
さらに1888年4月に発行された官報1443号の市制町村制理由の項においても
外国人や女性に公民権がないことは「通例トス」と書かれています。
「性の売買と社会」。
白拍子や傀儡など芸能を売る女性たちから、幕府公認の遊郭について。
かつて芸能のプロだった遊女たちは、中世の頃は自分で職場をもち価格も決めていて
13世紀成立とされる「今様之濫觴」の傀儡女について書かれた項では
今様の大曲は母から娘へ伝えられる女系の相続だったといわれるそうです。
東大寺八幡宮神人解案(土代)(1332年8月)は遊君たちが幕府に訴えを起こしたときの文書で
兵庫の海辺で仕事をしていたところ海での不法行為が多発し船が来なくなったために
生活が成り立たなくなったという内容だとか。(この頃兵庫の遊女は1700名以上いたとされる)
信長公記の1579年5月の項では都での人身売買の噂を聞いた京都所司代が調べたところ、
80人の女性が売られたことが判明したとの記述があるそうです。
個人が経営していた遊女歌舞伎が「風紀を乱すから」と禁止されたり
戦国時代から江戸時代初期にかけて各地で次々に遊女町が置かれた流れも関係あるだろうなあ。
近世職人尽絵詞には新吉原の仲の町通り、お客や遊女や芸者らが描かれていますが
これらはお客さん目線の遊郭ですよね。
氷室御宮・仏光寺門跡貸付所の反古証文貼継ぎはいわゆる寺社名目金貸付についての資料で
新吉原のとある楼主が仏光寺門跡役人に借金の担保として遊女を提出したことが書かれていたり
受け人が新吉原の同業者だったりすることがわかるとか。
新吉原町浅草町御貸付金調帳は、信濃の豪農だった坂本源之助が
吉原の遊女屋58軒に貸し付けた4207両の未回収金の記録で
(寺社名目金なので「御」がついてる)、新吉原で働く遊女を搾取して得た収益は
見世・寺院・豪農・江戸町奉行所が山分けするなど
体制に深く組み込まれていたためにあちこちで黙認されていたらしい。
実際、信濃の豪農たちは公用人馬の負担の免除を歎願するために
吉原で幕府の役人を接待していたそうで、
稲本屋の遊女3代目小稲の書状(1863年)には接待の不備を詫びる内容のことが書いてあるそうな。
高橋由一「美人(花魁)」(1872年)は4代目小稲の肖像画ですが
モデルになった小稲はこの絵を見て「自分はこんな顔ではない」と怒ったと伝わります。
そんな小稲の揚げ代を記録した遊興費領収書(1863年)もありました。
木綿問屋だった長谷川家の「定」(1852年)には手代の遊女屋での遊ばせ方について書かれています。
長谷川家は主に引手茶屋の近江屋を利用して遊ばせていたらしく、
近江屋からは定を守るかわりにこれまで通り利用されることに感謝する一札之事(1853年)が出ています。
万字屋の手引札は現金掛け値なしで引手茶屋を通さずマージンを減らして価格を引き下げる引き札で
江戸時代後期に多く発行されたそうです。
蔦屋重三郎などが出した吉原細見では遊女の紹介のほかに大中小の見世など遊郭の家格も書かれていて、
小見世の梅本屋で働いていた小雛という遊女は毎日の食事を記録していて
だいたい茶漬けや香々、あさりのおしい汁がほとんどですが、食べなかった日もあるみたいで
引手茶屋だったら客と食事とかするだろうけど梅本は小見世だから介さないし出前を取る客もいなかったのかな。
梅本記は1849年に梅本屋の遊女16人が起こした火つけ事件の証言を記録したもので
彼女たちは2年以上かけて計画をたてて実行したのちに名主へ自首をしまして
(大火事にならないように火鉢で木を燃やして煙を出すとか考えたらしい)(吉原は火事が多かった)、
楼主の佐吉による折檻や経済的虐待などの非道を訴えています。
当時北町奉行だった遠山景元は佐吉と3人の遊女に遠島を、
12人の遊女に押込と屹度叱を命じています。(江戸では火つけは大罪です)
江戸時代後期の吉原では非道に耐えかねた遊女たちによる放火が多発しているし、
梅本屋の事件も有名ですが、資料の実物を見たのは初めてでとても実感がわいたな…。
日記に挟まれたおぼへ帳(証拠書類の綴り)には遊女・桜木による覚書きが仮名文字で記録されていて
彼女らが残したものの大きさと重さを考えました。
太政官布告第295号・司法省達第22号(1872年)を合わせて芸娼妓解放令と呼ぶんですね。
東京府の「芸娼妓解放人名」(1872年)には遊女たちの名前が記録されていますが(ものすごい分厚かった)、
親元や女衒のもとに戻っても再び強制的に働かされる事例が多かったようです。
近代は外国人居留地や宿場町、軍事基地などに遊廓が設置されて
滋賀県の八日市新地もそのひとつで鉄道や飛行場、航空第三隊などができた後に設置されたと。(1958年に解体)
八日市遊廓清定楼の娼妓の生活用具がいくつか展示されていまして
着物や鏡台や火鉢のほかにオトコサマ、しゃもじ、洗浄器、香炉や簾など。
見世では客が来るとお香を焚いて時間を計り料金を決めていた事例もあると初めて知りました。
また、新潟から長野へ遊女として売られていったイキという女性について
借金の借用書・遊女稼業の同意書・体の診断書・遊女の名簿登録申請書・父親による委任状が並んでいて
なんだか桂歌丸さんの自伝を思い出しましたね…。(歌丸さんのご実家は横浜の遊女屋です)
喜連川病院「検按書診断書控綴」(1913年)には遊女の診断書がまとめられていて
多くは子宮内膜炎と書かれているそうですが梅毒の可能性が高かったのではないかと。
楳毒検査場の看板や米沢市福田遊廓の娼妓健康診断簿(1915年)などもありました。
北新地五番町遊廓遊客帳(1934年)には客として見世を訪れた男性の個人情報や使った金額や
相手をした遊女の名前などが記録されています。(警察が名簿の作成を義務付けていたらしい)
1931年に松島遊郭で遊女たちがストライキを起こしたときの朝日新聞の記事や
吉原から逃げて柳原白蓮に助けを求めた森光子の記事なども紹介されていました。
(彼女が書いた春駒日記はだいぶ前に一度読もうとしてあまりの重さに半分も読めなかった覚えがあります)
「仕事と暮らしのジェンダー:近代から現代へ」。
雑誌「婦人画報」(1909年)には家庭の掃除をしたり、ピアノなどの楽器で合奏する女性たちの絵があって
女性たちのたしなみは屋外ではなく室内というイメージがあったことがわかります。
『文芸倶楽部』13巻1号(1907年)には鏑木清方「新案双六当世二筋道」という双六が付録でついていて
振り出しは女学生で、その後労働者(下級官吏など)として働き、結婚で上がりになるというもので
男性とは違った立身の道筋を可視化しています。
戦前の官僚試験は女性に受験資格がなかったので、女性たちは資格を必要としない一般職で採用されていて
そのひとりとして三木(清水)を美喜の事例を紹介。
彼女は逓信省で働き、珠算競技会で暗算の一等賞をとり、貯金局の静岡一班長にも任命されますが
女性の判任官は班長以上は出世できなかったそうです。
女性たちはいつの時代も働いていましたが社会的にはほとんど評価されることがなくて
職種にも待遇にも男性とは明確な差があったんですよね。今もありますが。
日清紡績女工応募者心得(1907年)は女工の求人情報で
職業教育や寄宿舎があることなどの福利厚生を推し出しています。
女工たちが使っていた月経帯(エンゼルバンド)の使用説明書やポスターもあり、
ミスコロナの月経帯はバンドではなくズロースの形をしていました。
山本作兵衛の炭坑記録画(1899年頃)では筑豊の女性坑夫の姿が描かれていて
展示されていたのは10歳未満の息子に赤ん坊を背負わせて坑道に入る母親の絵でした。
(坑道の天井が低いので、母親では赤ん坊の頭がぶつかるので背の低い子どもに背負わせたそうです)
子守りのために仕事をする子どもは学校を長期欠席したそうですが
その子たちその後どうなったんだろう、学習機会は…?
戦後に設置された労働省婦人少年局は女性の職員が多い職場で
初代局長の山川菊栄や局員の谷野せつらが婦人週間を開催したり賃金格差の調査をしたり生理休暇を導入したり
ポスター「男女同一労働同一賃金になれば」(1948年)などを制作して性差別の廃止につとめています。
マリア・ミード・カラス宛て谷野せつ書簡(1949年)には
紙芝居「おときさんと組合」やパンフレット「発言の手帳」を送付したことなどが書かれていて、
GHQのSCAP経済科学局にて婦人少年局の業務推進したカラスと婦人少年局職員たちとの交流が見られます。
同じくカラス宛て山川菊栄ら6名による書簡(1950年)にも
カラスからのクリスマスプレゼントへのお礼と婦人少年局の当時の活動の様子が書かれていました。
(婦人少年局の仕事は現在の厚生労働省雇用環境・均等局や子ども家庭局に繋がっています)
『学習コンピュータ』2巻6号(1971年)には情報処理技術者の国家試験の合格書を受け取る
木伏恵子さんの写真が掲載されていて、
大戦期の官庁や戦後の気象庁などで計算を担当する職員として女性が働いていたことも写真で紹介されています。
確か同時代のNASAでも、宇宙にロケットを飛ばす計画において表計算をしていた職員の多くは
女性でしたよね…そういう本とか映画とかありますよね。
企画展示室自体はそんなに広くなくて、展示されている点数もそんなに多くはなかったけど
文字資料が多くて色々読み込みながら鑑賞していたので気づいたら3時間近く経っていました。。
基本的には知っていることがほとんどでしたが初めて見る資料もあったのでちゃんと見たかったし。
あと性的マイノリティの人々に関する展示がなかったのが気になりました。
ジェンダーを研究するなら必ず出てくるトピックだと思うのですが
企画された横山百合子さんによると今回の展示はミュージアムにおけるジェンダー展示に関する
3年間の研究成果の発表ということらしいけど、セクマイの歴史や資史料はまだ研究されてないんだろうか。
(あと、わたしが遊郭の展示を鑑賞していたときに
お連れの方に熱心に展示物について説明していた方がいらっしゃったのだけど
後から考えるとあれたぶん横山さんだったと思う。
時間もなかったし、盗み聞きしてるみたいで申し訳なくて早々に離れてしまいましたが
かなり裏話的な会話をされていたのでもうちょっと聞いていたかったな)
そんなわけで時間がなくなってしまったので、総合展示(常設展)はとばして鑑賞。
歴博は今回の企画展と研究を機に総合展示の構成を多様性とジェンダーの視点で見直し始めていて
少しずつリニューアルしている途中だそうです。
(2019年3月に第1展示室「先史・古代」をリニューアルオープンしています)
歴史上の多様性を紹介するのはミュージアムの仕事のひとつだと思うし
現在の展示の形が正解とは限らないので、今後も研究を続けていってほしいな。

常設展示にいたゴジラ。東宝映像美術にいらした小林知己氏の遺作です。
1984年公開の映画「ゴジラ」をモデルに造られています。
ゴジラの映画制作に関わる女性キャストや女性スタッフは
1954年の第1作から最新作をざっと見比べると増えてはいるんですが、
登場人物に女性の研究者や博士はいるけど政府やGフォースの幹部には女性がいないし
スタッフも監督やプロデューサー、脚本、特技、音楽などのメインは男性で占められていて
まだまだ特撮は男性の世界だなァと思いました。
特撮というかテレビや映画業界が男性社会なので、
そこを何とかしない限りゴジラ映画を女性監督が撮る日は来ないと思う。
クリックで拍手お返事。↓
皆様いつもありがとうございます(^-^)/☆

国立歴史民俗博物館に行ってきました。
かなり前に一度来たことがあって、その時は常設展示だけ見たんだっけな…。
もう記憶の彼方なので、博物館の前にものすごい登り坂があることもすっかり忘れていたよね…。
(歴博は過去に佐倉城のあった高台に建っています)

感染症対策としては入館時にサーモグラフィの検温があり、消毒液で手指の消毒をして入館。
入館者確認票という紙を渡されて氏名と連絡先を記入して提出します。
館内はマスク必須で、距離を取って会話を控えるようにとのこと。
館内の各所に消毒液が置いてありました。
総合展示(常設展)は自由に入れますが、混雑緩和のための入館制限を行う場合があるそうです。

企画展「性差(ジェンダー)の日本史」を鑑賞します。(日時指定の予約制です)
過去の資史料や美術の中で性がどのように記録・表現されてきたかを紹介しています。
展示は古代から現代までの歴史を全7章に分けて紹介しています。
まずは「古代社会の男女」。
古代社会の政治について、あると思ったけど、やっぱりありました魏志倭人伝(16世紀版本)。
三国志魏書東夷伝倭人条(3世紀)にある「共立一女子為名曰卑弥呼」の部分や
男女が参加する政治集会の「会同坐起父子男女無別」などのパネルが展示されていました。
熊本県宇土市にある向野田古墳(4世紀)では30歳代の女性の遺骨が見つかっていて
副葬品から首長であると考えられていますが、
骨に妊娠痕があることから妊娠or出産経験があることがわかっているそうです。
鏡・玉類・農耕具類などの副葬品は男性首長と同じですが甲冑が副葬されていないとか。
また京都の大谷古墳からは古墳時代中期頃の女性小首長(40代?)の骨が見つかっていて
(女性が埋葬される古墳の大きさは30mかそれ以下)、
古墳から出土した青銅鏡や勾玉、鉄剣が展示されていました。
奈良の宇陀・丹切古墳群からも青年期の女性首長の骨が見つかっているそうです。
5世紀になると棺内に武器が置かれるようになるらしく、
熊本県マロ塚遺跡(5世紀後半)からは横矧板鋲留短甲という甲冑が出土していて
他にも大きな武器や武具が副葬されていたことから被葬者は男性?と考えられているそうです。

展示室内は撮影禁止ですがこちらは可。復元された古代の原初腰機。
足と腰を使って布を織る古代の機織り技術の様子です。
この織り機を使って機織りをする女性坐像埴輪の3D画像が展示されていて、
その埴輪を含む栃木県甲塚古墳(6世紀)から出土した埴輪の群像が9体、
展示室の真ん中に並べられていました。
馬を引く男性・柄杓を持った女性・盾を持つ男性・腰に手を当てた女性・機織りをする女性などの埴輪があって
性別は髪型から推定されているとか。(男性はみづら、女性はまとめ髪など)
沖ノ島の神への奉納物と考えられる、島から出土した紡績具の雛型(10世紀)からは
それらが女神に捧げられるものとされたことから昔から機織りが女性の仕事だったということがわかりますが、
後々は税として徴収される錦は男性が織り、女性は麻などを織るといった分業制になっていったとか。
古代の地域社会であるムラやサトの様子について、
島根県の青木遺跡から当時の様子を再現したジオラマ展示がありましたが
令集解(17世紀写)の儀制令春時祭田条に「男女悉く集まり」「則ち歯(年齢)を以て坐に居し」とあるので
8世紀のムラの祭祀は男女がともに参加して直会などでは年齢順に座っていた事例があったということだな。
出土した捧げ物の木簡には「〇〇丸」や「〇〇女」など男女の名前がみられるそうです。
鳥取県で見つかった般若多心経(845年)は奉納した中心人物数名のうち女性は1人のみで、
この経典を奉納する行事で中心になったのは男性だったのかな?
福島県の荒田目条里遺跡(奈良~平安時代)には農業のひとつとして田植えをした人々の記録があり、
ある郡司の田植えで参加した36人のうち男性33人、女性3人という日があったそうな。
一方、栄花物語(平安時代中期)によると50~60人の女性たちが田植えをするという記述がみられるので
この辺りから田植えが女性たちの仕事になり、早乙女のイメージに繋がっていったのかもしれない。
鳥取県の青谷横木遺跡から出土した田植木簡(10世紀後半)にも
女性8人、男3人、子ども1人と書かれたものがあるそうです。
(記録を追っていくと田植えに女性が増えるのは9世紀以降だそうな)
律令国家の時代。
『古事記』敏達天皇の項では、天皇の子どもは出生順に記録され、名前も「〇〇王」と書かれますが
律令制の時代になると皇子や皇女、親王や内親王となっていきますね。
702年の御野国加毛郡半布里戸籍(正倉院宝物)では戸ごとに男女を分けて記載していて
女性の名前はすべて「〇〇売」という風に売(メ)をつけて書かれています。
当時の働く女性の姿として、青谷横木遺跡で見つかった7世紀の女子群像の板絵が紹介されていて
これらは高松塚古墳の女性群像との共通点が指摘されているというのは過去にニュースになりましたね~。
伊福吉部徳足比売臣骨蔵器は、因幡から飛鳥にやってきて働いていた女官の骨蔵器で
蓋に放射状に16行の銘文が108字で彫られていました。
竹波命婦木簡からは、常陸国筑波郡出身の竹波命婦(称德天皇に仕えた女官)が
御所の食料として小豆、醤(ひしお)、酢などを請求したことがわかります。
他にも、『続日本紀』721年の年末の大祓には官人およびその家族(女性や子ども)も呼ばれていたり
707年に大極殿で110人に位が授けられた際には男女が同じ日・同じ場所で授けられていたことがわかるとか。
続いて、「中世の政治と男女」。
奈良時代まで顔をさらして働いていた官人女性たちが顔を隠すようになっていく様子が
駒競行幸絵詞(藤原頼通の時代を描いた絵巻)や枕草子からわかります。
高山寺文書群は八条院(鳥羽法皇の娘)の院庁にあった文書を貼りつけて屏風に仕立てていて
彼女の所領だった荘園の運営や日々の事務などが記録されています。
トラブルがあったときの「女院の仰せのとおりに」と答えたらしい人の記録とか、生々しいやら微笑ましいやら。
八条院に仕えていた健御前(藤原定家の姉)の日記には
「侍所の人は朝来るのが遅くて夜には帰ってしまう」などという記述が見られるそうです。
定家の日記『明月記』1226年12月18日の項には長女が禁色勅許を許されたことが書いてあり、
前年に息子の為家が蔵人頭になったことと合わせて「男女の栄」としています。
(ちなみに定家の父俊成の娘たちは11人が禁色を許されています)
また、女院号を冠した美福門院庁下文(1160年11月2日付)は公文書のためか漢文で書かれていますが
後土御門天皇の書状(室町時代)は一位御局(日野富子)に宛てたもので
仮名ちらし書きになっていました。
男性も私的なものなら仮名まじり文で書いていますね。
次に「中世の家と宗教」。
源頼朝の妻北条政子について、『新編吾妻鏡』の関東将軍次第には「平政子治8年」とありまして
編者は政子の治世があったという認識みたいですね。
承久の乱に際し御家人たちを呼んで御簾の中から「頼朝の恩は山より高く海より深い」と檄を飛ばしたのは有名な話ですが
尼将軍と呼ばれるようになったのはいつ頃からだろうな…。
(あと「源頼朝」と「平政子」の夫妻なので夫婦別姓なのだよね)
今川氏親朱印状(1526年6月12日)および寿桂尼朱印状(1528年10月18日)は
どちらも寿桂尼が出した安堵状とされていて、仮名まじり文で書かれています。
像内納入品から1334年製とわかっている木造の地蔵菩薩立像は胎内に印仏や毛髪が納められていて
願文や印仏には僧俗男女の名前が規則性なく書かれており、女性の名前も多いという事例。
関東下知状(1302年12月23日付)は田代基綱の子どもたちへの相続について書かれていて
その中に「姫夜叉」という名前があり、息子だけではなく娘にも分別相続がされていたことがわかります。
尼しやうせう領地売券は仮名交じりで書かれた土地売券で
売主の尼しやうせう、連署の嫡女藤原氏女、買い主の清原氏女は全員女性なので
女性による土地の売買が行われていたことがわかるもの。
中世の女性が自分で土地、というか財産管理をしていたのはもうだいぶ知られるようになったけど
こうして資料で裏付けられているのを見るとワクワクします。
「仕事と暮らしのジェンダー:中世から近世へ」。
洛中洛外図屏風(歴博甲本)には、魚屋の女性や価格交渉する遊女や早乙女など様々な女性が描かれていて
歴博の人物データベースで検索すると283人の女性がヒットするとか。
清水寺の周辺を描いた東山名所図屏風(16世紀後半)にも茶屋や扇屋などで働く女性が描かれていて
青屋で働く女性は子どもをイズメに入れてあやしていました。
清水の舞台の中央には後家尼とその家族が参拝する様子や男女の神子の姿が描かれていました。
東寺鎮守八幡宮供僧評定引付(1422年9月)は、八幡宮に巫女による神楽が奉納されたときに
とても安い給料で行わせたため問題になったことが書かれている文書。
春日若宮拝殿巫女等申状案(1353年4月)には巫女たちが負担の減免を上層部に訴えて
最初は半分免除になりましたが、勝手に1/3にされそうになったので再度訴えたという文書。
当時は民主的な仕組みや保証がないから必死にそういうことをやっていたんだよなあ…。
職人風俗絵巻の扇屋のところに女性職人が描かれているように
中世では女性が経営者や職人として仕事をしているのですが
(室町時代後期には布袋屋玄了尼という人が洛中扇売りの営業権を独占し養女の鹿子女房に相続させたりしてる)、
官刻孝義録や近世職人尽絵詞(鍬形蕙斎画・19世紀)を見ると女性は「〇〇妻」「〇〇女」などと書かれたり
女性の職人の絵姿がまったく描かれなくなっています。
花容女職人鑑は、初版(1818年)には仕事や家事をする女性たちに狂歌や詞書が添えられていましたが
後刷り(1830年)になると文章が全部削られて、女性の絵のみになっています。
版元にお金がなかった可能性もあるし、女性が「花容」として眺め消費する対象とされていく流れでもありそう。
写真家のフェリーチェ・ベアトが1863年にスタジオ撮影した髪結(男性)と女髪結の写真がありまして
男性の髪結は客を訪ねて髪を結っていましたが(宇江佐真理さんの『髪結い伊佐次』で知った)、
女髪結も同じように営業していましたが非合法だったのよね(天保の改革時には手鎖・罰金の対象)。
「女は自分で髪を結って一人前」が江戸時代だったからね…。
また田植えをする早乙女を描いた版本やすごろくや教材の展示もありまして
これによって田植えは女性の仕事というイメージが世の中に広がりつつあったようですが
幕末や近代に撮影された写真では男女ともに田植えをする姿が写っていたりするそうです。あれ。
(何だか活版印刷の発明後に印刷で魔女の絵が流通して魔女狩りが広まった中世の西洋みたいな流れだ…)
(ちなみに中国の佩文耕織図(19世紀前半)には男性が田植えをする絵、女性が機織りをする絵がある)
東北地方やアイヌの女性たちの生活の様子もあって、
「どんじゃ」(19~20世紀)は青森県南部で使用されていた、麻布や木綿を縫いあわせた夜着で
使っていたのは家長、重さは14~15kgくらいあるらしい。
「ぼどこ」も同じく麻布や木綿ををつぎはぎした敷布で、出産にも使われたそうです。
こうした手仕事は主に女性たちの仕事だったと。
菅江真澄による百臼之図にはアイヌ女性の脱穀風景や紫臼をつく東北女性やブリコ採取をする女性、
箱館松前地志(19世紀)には和人とアイヌの農耕が描かれていて、女性たちも働いていました。
「分離から排除へ:近世・近代の政治空間とジェンダーの変容」。
主に将軍と大奥、武家の女性についての展示です。
松蔦獅子流水模様小袖(江戸時代後期)は将軍家伝来とされる礼装用の小袖で
大奥の女性たちもこういう着物を着たんだろうか。
幕末の大奥には32の職階があり1,000人ほどの女性が働いていたといわれます。
(大奥の男子禁制を定めたのは徳川秀忠ですが、
大奥の女中たちは表(将軍付)と奥(御台所付)に分かれていて
秀忠の子どもの乳母を務めた春日局も最初は「表の局」と呼ばれたとか)
西丸向惣絵図(1852年)は江戸城西ノ丸(大奥)の図で、家定が養育されていた頃のものですね。
お鈴の廊下の先(表)は描かれていませんでした。
本丸一二三四側大奥長局惣絵図(1860年)を見ると大奥は閉鎖的な設計になっていることがわかり、
広屋敷向の詰所を通らないと外に出られないため火事があると犠牲者が多く出たそうです。
伊達家の御老女中浜野他二名連署起請文(1741年)は
伊達家の江戸上屋敷にて当主の吉村と冬姫に仕えた老女たちの名前が末尾にあって
形式は男性たちと同じ書き方ですが、署名と血判は男性たちより小さかったです。
幕府の女中帳(1805年)は大奥の人事について書かれていて
伊達家が藩主の御城使に増野という女性を増員する伺いを出したところ
将軍付御年寄の浦尾を介して留守居から許可する指示があったことがわかります。
伊達重村の妻観心院の肖像もあって、彼女は夫の死後に財産を相続して家中を指揮するとともに
幼い後継ぎの後見をつとめていたそう。
生麦村に住んでいた関口家の当主が代々つけていた日記には
1828年3月に当主の娘の千恵が江戸城に勤めることになった頃の記録があって
彼女は32歳から11年ほど大奥に出仕して御中臈の部屋子として働いていたそうです。
奥奉公出世双六(1844年)は地域の女性が大奥をめざし昇進していく様子が
振り出しから上がりまで描かれていて、出世コースのモデルだったんだなと。
静寛院宮(和宮)による日記の1868年3月7日の項には「立退ぬ心得」と書かれ、
一人称に「予」が使われていたりと、当時の彼女の矜持が見え隠れしています。
1892年の皇居御造営下調図によると、女官の居住スペースは
旧西丸奥の外部(大奥より外側)に設置されたことがわかります。
1889年1月27日の枢密院決議(第三審会議)は、大日本帝国憲法が発布される前の記録で
第2条に「皇子孫之ヲ継承ス」とあったのを直前で「皇男子孫之ヲ継承ス」と修正したものでした。
さらに1888年4月に発行された官報1443号の市制町村制理由の項においても
外国人や女性に公民権がないことは「通例トス」と書かれています。
「性の売買と社会」。
白拍子や傀儡など芸能を売る女性たちから、幕府公認の遊郭について。
かつて芸能のプロだった遊女たちは、中世の頃は自分で職場をもち価格も決めていて
13世紀成立とされる「今様之濫觴」の傀儡女について書かれた項では
今様の大曲は母から娘へ伝えられる女系の相続だったといわれるそうです。
東大寺八幡宮神人解案(土代)(1332年8月)は遊君たちが幕府に訴えを起こしたときの文書で
兵庫の海辺で仕事をしていたところ海での不法行為が多発し船が来なくなったために
生活が成り立たなくなったという内容だとか。(この頃兵庫の遊女は1700名以上いたとされる)
信長公記の1579年5月の項では都での人身売買の噂を聞いた京都所司代が調べたところ、
80人の女性が売られたことが判明したとの記述があるそうです。
個人が経営していた遊女歌舞伎が「風紀を乱すから」と禁止されたり
戦国時代から江戸時代初期にかけて各地で次々に遊女町が置かれた流れも関係あるだろうなあ。
近世職人尽絵詞には新吉原の仲の町通り、お客や遊女や芸者らが描かれていますが
これらはお客さん目線の遊郭ですよね。
氷室御宮・仏光寺門跡貸付所の反古証文貼継ぎはいわゆる寺社名目金貸付についての資料で
新吉原のとある楼主が仏光寺門跡役人に借金の担保として遊女を提出したことが書かれていたり
受け人が新吉原の同業者だったりすることがわかるとか。
新吉原町浅草町御貸付金調帳は、信濃の豪農だった坂本源之助が
吉原の遊女屋58軒に貸し付けた4207両の未回収金の記録で
(寺社名目金なので「御」がついてる)、新吉原で働く遊女を搾取して得た収益は
見世・寺院・豪農・江戸町奉行所が山分けするなど
体制に深く組み込まれていたためにあちこちで黙認されていたらしい。
実際、信濃の豪農たちは公用人馬の負担の免除を歎願するために
吉原で幕府の役人を接待していたそうで、
稲本屋の遊女3代目小稲の書状(1863年)には接待の不備を詫びる内容のことが書いてあるそうな。
高橋由一「美人(花魁)」(1872年)は4代目小稲の肖像画ですが
モデルになった小稲はこの絵を見て「自分はこんな顔ではない」と怒ったと伝わります。
そんな小稲の揚げ代を記録した遊興費領収書(1863年)もありました。
木綿問屋だった長谷川家の「定」(1852年)には手代の遊女屋での遊ばせ方について書かれています。
長谷川家は主に引手茶屋の近江屋を利用して遊ばせていたらしく、
近江屋からは定を守るかわりにこれまで通り利用されることに感謝する一札之事(1853年)が出ています。
万字屋の手引札は現金掛け値なしで引手茶屋を通さずマージンを減らして価格を引き下げる引き札で
江戸時代後期に多く発行されたそうです。
蔦屋重三郎などが出した吉原細見では遊女の紹介のほかに大中小の見世など遊郭の家格も書かれていて、
小見世の梅本屋で働いていた小雛という遊女は毎日の食事を記録していて
だいたい茶漬けや香々、あさりのおしい汁がほとんどですが、食べなかった日もあるみたいで
引手茶屋だったら客と食事とかするだろうけど梅本は小見世だから介さないし出前を取る客もいなかったのかな。
梅本記は1849年に梅本屋の遊女16人が起こした火つけ事件の証言を記録したもので
彼女たちは2年以上かけて計画をたてて実行したのちに名主へ自首をしまして
(大火事にならないように火鉢で木を燃やして煙を出すとか考えたらしい)(吉原は火事が多かった)、
楼主の佐吉による折檻や経済的虐待などの非道を訴えています。
当時北町奉行だった遠山景元は佐吉と3人の遊女に遠島を、
12人の遊女に押込と屹度叱を命じています。(江戸では火つけは大罪です)
江戸時代後期の吉原では非道に耐えかねた遊女たちによる放火が多発しているし、
梅本屋の事件も有名ですが、資料の実物を見たのは初めてでとても実感がわいたな…。
日記に挟まれたおぼへ帳(証拠書類の綴り)には遊女・桜木による覚書きが仮名文字で記録されていて
彼女らが残したものの大きさと重さを考えました。
太政官布告第295号・司法省達第22号(1872年)を合わせて芸娼妓解放令と呼ぶんですね。
東京府の「芸娼妓解放人名」(1872年)には遊女たちの名前が記録されていますが(ものすごい分厚かった)、
親元や女衒のもとに戻っても再び強制的に働かされる事例が多かったようです。
近代は外国人居留地や宿場町、軍事基地などに遊廓が設置されて
滋賀県の八日市新地もそのひとつで鉄道や飛行場、航空第三隊などができた後に設置されたと。(1958年に解体)
八日市遊廓清定楼の娼妓の生活用具がいくつか展示されていまして
着物や鏡台や火鉢のほかにオトコサマ、しゃもじ、洗浄器、香炉や簾など。
見世では客が来るとお香を焚いて時間を計り料金を決めていた事例もあると初めて知りました。
また、新潟から長野へ遊女として売られていったイキという女性について
借金の借用書・遊女稼業の同意書・体の診断書・遊女の名簿登録申請書・父親による委任状が並んでいて
なんだか桂歌丸さんの自伝を思い出しましたね…。(歌丸さんのご実家は横浜の遊女屋です)
喜連川病院「検按書診断書控綴」(1913年)には遊女の診断書がまとめられていて
多くは子宮内膜炎と書かれているそうですが梅毒の可能性が高かったのではないかと。
楳毒検査場の看板や米沢市福田遊廓の娼妓健康診断簿(1915年)などもありました。
北新地五番町遊廓遊客帳(1934年)には客として見世を訪れた男性の個人情報や使った金額や
相手をした遊女の名前などが記録されています。(警察が名簿の作成を義務付けていたらしい)
1931年に松島遊郭で遊女たちがストライキを起こしたときの朝日新聞の記事や
吉原から逃げて柳原白蓮に助けを求めた森光子の記事なども紹介されていました。
(彼女が書いた春駒日記はだいぶ前に一度読もうとしてあまりの重さに半分も読めなかった覚えがあります)
「仕事と暮らしのジェンダー:近代から現代へ」。
雑誌「婦人画報」(1909年)には家庭の掃除をしたり、ピアノなどの楽器で合奏する女性たちの絵があって
女性たちのたしなみは屋外ではなく室内というイメージがあったことがわかります。
『文芸倶楽部』13巻1号(1907年)には鏑木清方「新案双六当世二筋道」という双六が付録でついていて
振り出しは女学生で、その後労働者(下級官吏など)として働き、結婚で上がりになるというもので
男性とは違った立身の道筋を可視化しています。
戦前の官僚試験は女性に受験資格がなかったので、女性たちは資格を必要としない一般職で採用されていて
そのひとりとして三木(清水)を美喜の事例を紹介。
彼女は逓信省で働き、珠算競技会で暗算の一等賞をとり、貯金局の静岡一班長にも任命されますが
女性の判任官は班長以上は出世できなかったそうです。
女性たちはいつの時代も働いていましたが社会的にはほとんど評価されることがなくて
職種にも待遇にも男性とは明確な差があったんですよね。今もありますが。
日清紡績女工応募者心得(1907年)は女工の求人情報で
職業教育や寄宿舎があることなどの福利厚生を推し出しています。
女工たちが使っていた月経帯(エンゼルバンド)の使用説明書やポスターもあり、
ミスコロナの月経帯はバンドではなくズロースの形をしていました。
山本作兵衛の炭坑記録画(1899年頃)では筑豊の女性坑夫の姿が描かれていて
展示されていたのは10歳未満の息子に赤ん坊を背負わせて坑道に入る母親の絵でした。
(坑道の天井が低いので、母親では赤ん坊の頭がぶつかるので背の低い子どもに背負わせたそうです)
子守りのために仕事をする子どもは学校を長期欠席したそうですが
その子たちその後どうなったんだろう、学習機会は…?
戦後に設置された労働省婦人少年局は女性の職員が多い職場で
初代局長の山川菊栄や局員の谷野せつらが婦人週間を開催したり賃金格差の調査をしたり生理休暇を導入したり
ポスター「男女同一労働同一賃金になれば」(1948年)などを制作して性差別の廃止につとめています。
マリア・ミード・カラス宛て谷野せつ書簡(1949年)には
紙芝居「おときさんと組合」やパンフレット「発言の手帳」を送付したことなどが書かれていて、
GHQのSCAP経済科学局にて婦人少年局の業務推進したカラスと婦人少年局職員たちとの交流が見られます。
同じくカラス宛て山川菊栄ら6名による書簡(1950年)にも
カラスからのクリスマスプレゼントへのお礼と婦人少年局の当時の活動の様子が書かれていました。
(婦人少年局の仕事は現在の厚生労働省雇用環境・均等局や子ども家庭局に繋がっています)
『学習コンピュータ』2巻6号(1971年)には情報処理技術者の国家試験の合格書を受け取る
木伏恵子さんの写真が掲載されていて、
大戦期の官庁や戦後の気象庁などで計算を担当する職員として女性が働いていたことも写真で紹介されています。
確か同時代のNASAでも、宇宙にロケットを飛ばす計画において表計算をしていた職員の多くは
女性でしたよね…そういう本とか映画とかありますよね。
企画展示室自体はそんなに広くなくて、展示されている点数もそんなに多くはなかったけど
文字資料が多くて色々読み込みながら鑑賞していたので気づいたら3時間近く経っていました。。
基本的には知っていることがほとんどでしたが初めて見る資料もあったのでちゃんと見たかったし。
あと性的マイノリティの人々に関する展示がなかったのが気になりました。
ジェンダーを研究するなら必ず出てくるトピックだと思うのですが
企画された横山百合子さんによると今回の展示はミュージアムにおけるジェンダー展示に関する
3年間の研究成果の発表ということらしいけど、セクマイの歴史や資史料はまだ研究されてないんだろうか。
(あと、わたしが遊郭の展示を鑑賞していたときに
お連れの方に熱心に展示物について説明していた方がいらっしゃったのだけど
後から考えるとあれたぶん横山さんだったと思う。
時間もなかったし、盗み聞きしてるみたいで申し訳なくて早々に離れてしまいましたが
かなり裏話的な会話をされていたのでもうちょっと聞いていたかったな)
そんなわけで時間がなくなってしまったので、総合展示(常設展)はとばして鑑賞。
歴博は今回の企画展と研究を機に総合展示の構成を多様性とジェンダーの視点で見直し始めていて
少しずつリニューアルしている途中だそうです。
(2019年3月に第1展示室「先史・古代」をリニューアルオープンしています)
歴史上の多様性を紹介するのはミュージアムの仕事のひとつだと思うし
現在の展示の形が正解とは限らないので、今後も研究を続けていってほしいな。

常設展示にいたゴジラ。東宝映像美術にいらした小林知己氏の遺作です。
1984年公開の映画「ゴジラ」をモデルに造られています。
ゴジラの映画制作に関わる女性キャストや女性スタッフは
1954年の第1作から最新作をざっと見比べると増えてはいるんですが、
登場人物に女性の研究者や博士はいるけど政府やGフォースの幹部には女性がいないし
スタッフも監督やプロデューサー、脚本、特技、音楽などのメインは男性で占められていて
まだまだ特撮は男性の世界だなァと思いました。
特撮というかテレビや映画業界が男性社会なので、
そこを何とかしない限りゴジラ映画を女性監督が撮る日は来ないと思う。
クリックで拍手お返事。↓
皆様いつもありがとうございます(^-^)/☆
テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。 ジャンル : 学問・文化・芸術
お菓子な歴史。
※しばらくブログの更新をゆっくりにします。次回は24日に更新予定です。

とらや赤坂店に行ってきました。
お目当てのお菓子はこれ、きんとん製と求肥製の「イスパハン」です。
とらやはフランスのパリにもお店があるんですが、そのお店が1980年に開店してから40周年になるのを記念して
とらやと交流が続いているピエール・エルメ・パリとコラボして作られたものです。
エルメの代表作でもあるイスパハンをベースに、バラとライチ風味の求肥とそぼろ、フランボワーズの羊羹とジュレ。
口に入れたとたんにフワッと上品な香りがいたしまして「えっ!?」ってなった、
和菓子でこんな香りの強いものあまりいただく機会がないので…。
バラを口に入れたらこんな感じかなと思いました…想像ですけど。
日本とフランスの技術で作られたお菓子、たいへんおいしゅうございました☆
ピエール・エルメは池袋や新宿にもお店があるので名前は知っているし何度か見かけていますが
ケーキのイスパハンは店頭で見たことがありません…あっという間に売り切れてしまうらしい。。
一度食べてみたいんだけどな~予約すればいいのかな。
とらや赤坂店はリニューアルオープンしてから1階がエントランス、2階が販売とカフェ、
地下がギャラリー(展示室)になっているのですが
現在、ギャラリーではこんな企画展示を開催中でした。

「ようこそ!お菓子の国へ ―日本とフランス 甘い物語」。
とらやパリ店40周年を記念した企画展で、テーマは「日仏の菓子くらべ」。
日本とフランスのお菓子の歴史や、日本・フランスの年中行事のお菓子について、
お菓子を作るときの材料の違い、道具や型の紹介、和菓子職人さんやパティシェさんへのインタビューなど
和菓子・フランス菓子の魅力とともにそれぞれの文化を紹介する内容でした。
こういう比較文化研究のような展示は大好物です。とっても勉強になったし楽しかった☆

料金は無料、撮影も可。
特に予約などは必要ありませんが、入口に消毒液がありました。
注意書きなどはなかったけどマスクもして会話も控えた方がいいと思う。
展示室はときどき人が入ってくる程度で、鑑賞中はすいていたのでソーシャルディスタンスは取れました。
以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ。

とらや赤坂店に行ってきました。
お目当てのお菓子はこれ、きんとん製と求肥製の「イスパハン」です。
とらやはフランスのパリにもお店があるんですが、そのお店が1980年に開店してから40周年になるのを記念して
とらやと交流が続いているピエール・エルメ・パリとコラボして作られたものです。
エルメの代表作でもあるイスパハンをベースに、バラとライチ風味の求肥とそぼろ、フランボワーズの羊羹とジュレ。
口に入れたとたんにフワッと上品な香りがいたしまして「えっ!?」ってなった、
和菓子でこんな香りの強いものあまりいただく機会がないので…。
バラを口に入れたらこんな感じかなと思いました…想像ですけど。
日本とフランスの技術で作られたお菓子、たいへんおいしゅうございました☆
ピエール・エルメは池袋や新宿にもお店があるので名前は知っているし何度か見かけていますが
ケーキのイスパハンは店頭で見たことがありません…あっという間に売り切れてしまうらしい。。
一度食べてみたいんだけどな~予約すればいいのかな。
とらや赤坂店はリニューアルオープンしてから1階がエントランス、2階が販売とカフェ、
地下がギャラリー(展示室)になっているのですが
現在、ギャラリーではこんな企画展示を開催中でした。

「ようこそ!お菓子の国へ ―日本とフランス 甘い物語」。
とらやパリ店40周年を記念した企画展で、テーマは「日仏の菓子くらべ」。
日本とフランスのお菓子の歴史や、日本・フランスの年中行事のお菓子について、
お菓子を作るときの材料の違い、道具や型の紹介、和菓子職人さんやパティシェさんへのインタビューなど
和菓子・フランス菓子の魅力とともにそれぞれの文化を紹介する内容でした。
こういう比較文化研究のような展示は大好物です。とっても勉強になったし楽しかった☆

料金は無料、撮影も可。
特に予約などは必要ありませんが、入口に消毒液がありました。
注意書きなどはなかったけどマスクもして会話も控えた方がいいと思う。
展示室はときどき人が入ってくる程度で、鑑賞中はすいていたのでソーシャルディスタンスは取れました。
以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ。
テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。 ジャンル : 学問・文化・芸術
Once Upon a Time in 埼玉。
※しばらくブログの更新をゆっくりにします。次回は22日に更新予定です。
埼玉県立歴史と民俗の博物館に行ってきました。
密を避けるために(埼京線に乗る勇気がなかった)初めて大宮まで車で行きました…。
途中休憩しながらがんばれば行けるもんですね。
(あとナビに行きと帰りでぜんぜん違う道を案内されて帰り道にめっちゃ田舎道を通らされて
「わたし帰れる?帰れるの!?」ってすごい不安になった…帰れましたけど。
あれどういう仕組みなんだろう)

博物館の入口で消毒液で手の消毒を行い、サーモグラフィの検温をすませ、
博物館が用意した消毒済の鉛筆で氏名・連絡先を記入してから入館します。
館内はマスク必須、会話を控えて人と距離を取りながら鑑賞してくださいとのこと。
受付で国芳の鍾馗カードをもらいました。夏の特集展示の期間中、入館者に配布されるそうです。

館内に本物の展示もありましたよ。(撮影可スペース)
「ミニ展示 疫病退散」というコーナーで、他にも河鍋暁斎の鍾馗、永島春暁の源為朝、
鍾馗図が彫られた印籠、鬼鍾馗が象られた刀の鍔などが展示されていました。
春暁の為朝像は疫病に効果があると信じられていた赤色で摺られていた。

中止になった特別展「『武蔵国の旗本』を振り返る」と
規模を縮小して開催されることになった「太平記絵巻の修理を終えて」を鑑賞します。
旗本のほうは今年の3月~5月に開催予定でしたが感染症の影響で博物館が5月末まで休館になったため、
中止ということで幻の展覧会になってしまったもの。
各地の博物館や寺社から資料を借りて図録も制作して準備万端だったそうです…惜しい。なんて、惜しい。
借用資料は既に返却されていますが、歴博の所蔵資料を使って
展覧会の一部を振り返る機会を作ってくださっています。
展示室にはわたしを含め2~3人しか鑑賞者がいませんでしたが、距離を取ることは心がけて鑑賞。
水野氏の菩提寺である昌国寺に祀られている徳川家康(東照大権現)の掛軸、
旗本の菩提寺には家康の像がよく祀られていたそうです。
徳川秀忠が佐久間頼照(深谷の人。300石)にあてた知行宛行状は
関ケ原の合戦のときの恩賞だそうで(佐久間氏は徳川方)、
だいたいこの頃に与えられた土地が後々にわたってその一族の土地になっていたりするそうです。
江戸時代後期に制作された関ケ原合戦絵巻は大雑把なタッチでほのぼのしていて
石田三成や大谷刑部らも単純化して描かれていました。かわいい。
続いて武蔵の旗本稲生家と水野氏について、菩提寺とともに資料や遺品から紹介。
稲生家は現在の坂戸市やさいたま市あたりに知行があり、町奉行に勤めた人も輩出しています。
大名や幕府の名鑑である「安政武鑑」には当時の当主である稲生出羽守正興の名前があり、
留守居役として1500石の石高があったと書いてあった。
獅子や麒麟の紋付の母衣や萌黄色の二枚胴具足、獅子が彫られた刀装具、
小刀・目付・毛抜き・はさみ・耳かきの懐中物、竜田川の蒔絵櫛・簪、葵紋付御所人形などを見ると
男性たちの仕事や女性たちの生活、子育てなどの当時の光景が浮かびあがってきます。
縹色の葵紋付熨斗目小袖は礼装の下に着用したもので
将軍に献上されたものが大名家への下賜品になったのではないかとのこと。
こういう部分でも将軍家と旗本は上下関係を結んでいたんだな…。
水野氏は現在の寄居町・小川町あたりに800石(のちに2000石)の知行があった旗本。
寄居町に昌国寺というお寺がありますが、ここは家康のいとこだった水野長勝の屋敷跡で
家康から40石をもらったという朱印状も展示されていて、
さらにその取次ぎをして「OKで~す」と書いた内田正次(全阿弥)の書状もありました。
家中分限帳によると長勝の子である忠貞の時代には150石の大久保氏を始め51人の家臣団がいたらしい。
忠貞像の掛軸には本人の筆で「世のうきめ見えぬ山ぢへ入らむには 思ふ人こそほだしなりけれ」(物部吉名)と
古今和歌集の歌が書きこまれていました。直筆かあ…!
忠貞の子・忠顕の書状もあって、元禄10年の大火では水野家の江戸屋敷の近くまで燃えたとあって
江戸は火事の多い街でしたから旗本たちも色々と苦労したんだろうなあ、などと。
水野家が昌国寺へ寄進した物の一覧を記した納物帳もあって、
当主が亡くなった際には衣装や仏具、位牌などを奉納していたそうです。
(そうして昌国寺に集められた遺品や資料群が現在、歴博に寄託されていて、今回の展示もその資料の一部です)
歓祥院様御葬送御行列書には221人もの参列者の名前があり、
棺を川越街道から先に回して、などと注意書きもあるので当主のお葬式の様子がわかります。
水野貞利の表白文は初代長勝の200回忌に際して追善願文を出したというもので
「源貞利」という署名にドキドキしました。こういうときは本姓を書くんですね。
謙信流軍学伝授之書物(全24巻の皆伝目録)やシャコ貝の盃、
使用済みの長袴や鎧・鞍、子ども用の御召御麻裃、6代目政勝の薙刀(加州住藤原光国)など
生活がわかるものも展示されていました。
あと参考展示として、山岡鉄舟が「鴻澤霑民庶」(1880年9月)と揮毫した白鳥神社の幟(模造)があったのですが
巨大すぎて展示室の床から天井に折り曲げる形で張り付けてあったので見上げてきました。
首が痛いことになったけど、全長8m93cmもあったらこうなるよな…!
博物館の屋外の壁に張る予定だったそうです。展示風景を見たかった。

こちらは撮影可能スペース。
会場の順路や展示品の配置、展示物の一部がパネルで紹介されていました。
縮小展示でもとても勉強になりました。開催できていたらなあ…!本当に惜しいです。
展示の最後に使われなかった200枚以上のパネルの山があって心をえぐられた…。
160件220点余りの資料(うち借用資料125点)を展示予定で
200枚以上の解説キャプションやパネルを作成したものの日の目を見られず…。
今回の特集展示で一部が再利用されているとはいえ、学芸員さんの無念を思うと胸が苦しくなりました。
永楽通宝紋の鞍とか稲生正興出羽守宣旨とか、徳林寺の涅槃図(御絵所宗貞)とか見たかったよーー!!
(1688年に小笠原氏が奉納して1748年に狭山の甲田重蔵が修復したやつ)
そして、同じ展示室内に特集展示「太平記絵巻の修理を終えて」もありました。
太平記絵巻は海北友雪によって江戸時代に制作されたものと推定されていて、
後醍醐天皇の即位から南北朝時代を経て足利義満の時代に至るまでを全12巻で描いています。
1・2・5・6・10巻を歴博が所蔵しており埼玉県指定有形文化財になっています。
(ちなみに7・11・12巻は民博、3・8巻はニューヨーク公共図書館が所蔵。
4巻・9巻は行方不明ですがボストン美術館と東博に模造品があります)
2017~2018年にかけて6巻と10巻の修復を行い、
「太平記絵巻の世界」展として一挙公開の予定でしたが感染症の影響で縮小。
綺麗になった6巻と10巻が3期間に分けて展示されます。
わたしが行った日は、6巻は楠木正成の首が足利尊氏によって故郷へ返された場面から始まっていて
比叡山攻めで最澄の木が焼かれてしまわないように稚児に降りた日吉権現が猿に鐘を突かせて守る場面や
東寺合戦で高重茂が狂歌を詠んだり新田義貞が日吉大宮権現に鬼切を奉納したりする場面などを
見ることができました。
新田軍が越前の冬を越すところで弓矢を薪にしてあたたまっていたのちょっとかわいかった。
10巻は観応の擾乱の終わりの頃までが描かれていて、
新田軍に駆け入る佐々木秀綱の場面や石清水八幡宮で足利直冬が託宣を受ける場面などが開いてあった。
神南山の戦いにて那須与一の母衣(オレンジ色)をかけて戦う奈須五郎(与一の子孫)がかっこよかった…!
また10巻には笛吹峠の戦いの様子も描かれているそうですがわたしが見に行った日は別の場面でした。
友雪は人物描写がとにかく細かくて、鎧や着物だけでなく人々の表情まで全部描き分けていて
人物の顔の特徴や人格をきちんと考えて作っていると思う。
合戦の場面は広々と構図をとっていて、人間だけでなく馬も躍動感がありました。
あと、修復の様子も写真で紹介されていました。(業者さんは株式会社修美さん)
紙の汚れや折れ、シワ、顔料の剥落などが目立ち、なかなか大変な状態だったとのことで
一度すべてを解体したところ、6巻は過去に2度修復をしていたことが判明したり
紙の継ぎ目に数字(順番をあらわすもの?)が書かれていたこともわかったそうです。
裏打ち紙を取り換えて本紙を綺麗にして、記録を取って報告書にまとめ、保存用の桐箱を新調し、
修復後は状態を安定させるため1年間休ませたそうです。
こんなに大変な修復を終えて、特別展として紹介されるはずだった太平記絵巻…。
絵巻だけでも公開されてよかったです…見ることができてよかった。
特別展示室を見たあとは常設展示室にも行きました☆
写真撮影が一部を除いて可能になったということで、パチパチ撮ってきましたよ。
(鑑賞者はわたししかいなくて貸切状態でした)

コラム展示のスペースに「和菓子づくりの世界」として、かわいらしい和菓子の木型がたくさんありました。
祝儀の松竹梅や鯛やハマグリ、不祝儀の蓮や菊の花など、工芸品のような木型の素朴な美しさがたまらん。
家紋の木型や葬式まんじゅうの焼き印、木型の図案集などもありました。

いがまんじゅう!!
普段お店とかで販売されているものが博物史料として展示されているのびっくりしてしまうな…!
いやそれが博物館の役割ですけども。
(埼玉には「朝まんじゅうに昼うどん」という言葉があるほどに香川に次ぐうどんの消費量を誇り、
わたしの地元である北埼玉にはハレの日にうどんを、お葬式におまんじゅうを出す風習があったりします)

県内各地の古墳や遺跡から出土した土偶、土器など。
製作された時代や使用目的の違いもあると思いますが形も大きさも様々ですね。
みみずく土偶ちゃんもいくつか見つかっているんですな。

斎藤別当実盛の像。
埼玉、もとい武蔵国で中古・中世あたりの有名人といえば
だいたいこの人と平将門と熊谷直実と畠山重忠だと思う。

国友の鉄砲。
武州鉢形に住んでいた国友という職人が制作したものだそうです。
鉢形城下には鉄砲職人たちの生活圏があったそうで、そこに住んでいた人が作ったのかな…。
国友というとかつて長浜にあった国友村が鉄砲の生産地として有名ですが(鉄砲ミュージアムがあるとこ)、
寄居にも国友を名乗る人たちがいたということだろうか。

大宮氷川神社が和宮御立退御殿にあてられたときの看板。
和宮が徳川家茂と結婚するために江戸へやって来たときのルートが中山道だったのですが
万一の事態に備えて氷川神社が避難所にあてられたのだそうです。
中山道からすぐのところにあるからね。
(ちなみに彼女の持ち物は東海道を下ってきている)

蒸気機関車1290形式、通称「善光号」の模型です。かわいい!
1882年にイギリスからやって来て隅田川から川口の善光寺付近で陸揚げされたので「善光」号。
鉄道博物館で本物を見たなあ~懐かしいな。もう1年半前になるんですね。

東北新幹線が開業したときの写真。1982年に大宮~盛岡駅間が開通しています。
翌年に上越新幹線(大宮~新潟駅)も開業したんだよね。
とりあえず気になったものだけご紹介させていただきましたが、
常設展、ものすごく久し振りに見たので内容をほとんど忘れていて
土偶から新幹線までこんなに細かく埼玉の歴史がわかる展示になっているのだと改めて思えました。
また勉強しに行きたい。
この後は車で自宅まで帰ったのですが、
実は歴博のすぐ近くに大宮の鉄道博物館がありましてね…。
てっぱくは東北新幹線と高崎線の線路に挟まれて建っていますけども
その2つの線路とてっぱくの下を県道がくぐっていまして、その道路を通って大宮公園の歴博に向かうのですが
道路をくぐる直前に、本館~南館に屋外展示されているE1系と特急あずさ号が見えるんですよ…!
余所見運転になってしまうのでガン見はしませんでしたが、チラっとでも見られて本当に幸せでした。
てっぱくも今は予約制になっていますが…行こうと思えば行けますけど
でも他所のミュージアムよりお子さん多いと思うので今は我慢…!
次にわたしが行くまで待っててくれてっぱく、わたしもがんばるよ!
埼玉県立歴史と民俗の博物館に行ってきました。
密を避けるために(埼京線に乗る勇気がなかった)初めて大宮まで車で行きました…。
途中休憩しながらがんばれば行けるもんですね。
(あとナビに行きと帰りでぜんぜん違う道を案内されて帰り道にめっちゃ田舎道を通らされて
「わたし帰れる?帰れるの!?」ってすごい不安になった…帰れましたけど。
あれどういう仕組みなんだろう)

博物館の入口で消毒液で手の消毒を行い、サーモグラフィの検温をすませ、
博物館が用意した消毒済の鉛筆で氏名・連絡先を記入してから入館します。
館内はマスク必須、会話を控えて人と距離を取りながら鑑賞してくださいとのこと。
受付で国芳の鍾馗カードをもらいました。夏の特集展示の期間中、入館者に配布されるそうです。

館内に本物の展示もありましたよ。(撮影可スペース)
「ミニ展示 疫病退散」というコーナーで、他にも河鍋暁斎の鍾馗、永島春暁の源為朝、
鍾馗図が彫られた印籠、鬼鍾馗が象られた刀の鍔などが展示されていました。
春暁の為朝像は疫病に効果があると信じられていた赤色で摺られていた。

中止になった特別展「『武蔵国の旗本』を振り返る」と
規模を縮小して開催されることになった「太平記絵巻の修理を終えて」を鑑賞します。
旗本のほうは今年の3月~5月に開催予定でしたが感染症の影響で博物館が5月末まで休館になったため、
中止ということで幻の展覧会になってしまったもの。
各地の博物館や寺社から資料を借りて図録も制作して準備万端だったそうです…惜しい。なんて、惜しい。
借用資料は既に返却されていますが、歴博の所蔵資料を使って
展覧会の一部を振り返る機会を作ってくださっています。
展示室にはわたしを含め2~3人しか鑑賞者がいませんでしたが、距離を取ることは心がけて鑑賞。
水野氏の菩提寺である昌国寺に祀られている徳川家康(東照大権現)の掛軸、
旗本の菩提寺には家康の像がよく祀られていたそうです。
徳川秀忠が佐久間頼照(深谷の人。300石)にあてた知行宛行状は
関ケ原の合戦のときの恩賞だそうで(佐久間氏は徳川方)、
だいたいこの頃に与えられた土地が後々にわたってその一族の土地になっていたりするそうです。
江戸時代後期に制作された関ケ原合戦絵巻は大雑把なタッチでほのぼのしていて
石田三成や大谷刑部らも単純化して描かれていました。かわいい。
続いて武蔵の旗本稲生家と水野氏について、菩提寺とともに資料や遺品から紹介。
稲生家は現在の坂戸市やさいたま市あたりに知行があり、町奉行に勤めた人も輩出しています。
大名や幕府の名鑑である「安政武鑑」には当時の当主である稲生出羽守正興の名前があり、
留守居役として1500石の石高があったと書いてあった。
獅子や麒麟の紋付の母衣や萌黄色の二枚胴具足、獅子が彫られた刀装具、
小刀・目付・毛抜き・はさみ・耳かきの懐中物、竜田川の蒔絵櫛・簪、葵紋付御所人形などを見ると
男性たちの仕事や女性たちの生活、子育てなどの当時の光景が浮かびあがってきます。
縹色の葵紋付熨斗目小袖は礼装の下に着用したもので
将軍に献上されたものが大名家への下賜品になったのではないかとのこと。
こういう部分でも将軍家と旗本は上下関係を結んでいたんだな…。
水野氏は現在の寄居町・小川町あたりに800石(のちに2000石)の知行があった旗本。
寄居町に昌国寺というお寺がありますが、ここは家康のいとこだった水野長勝の屋敷跡で
家康から40石をもらったという朱印状も展示されていて、
さらにその取次ぎをして「OKで~す」と書いた内田正次(全阿弥)の書状もありました。
家中分限帳によると長勝の子である忠貞の時代には150石の大久保氏を始め51人の家臣団がいたらしい。
忠貞像の掛軸には本人の筆で「世のうきめ見えぬ山ぢへ入らむには 思ふ人こそほだしなりけれ」(物部吉名)と
古今和歌集の歌が書きこまれていました。直筆かあ…!
忠貞の子・忠顕の書状もあって、元禄10年の大火では水野家の江戸屋敷の近くまで燃えたとあって
江戸は火事の多い街でしたから旗本たちも色々と苦労したんだろうなあ、などと。
水野家が昌国寺へ寄進した物の一覧を記した納物帳もあって、
当主が亡くなった際には衣装や仏具、位牌などを奉納していたそうです。
(そうして昌国寺に集められた遺品や資料群が現在、歴博に寄託されていて、今回の展示もその資料の一部です)
歓祥院様御葬送御行列書には221人もの参列者の名前があり、
棺を川越街道から先に回して、などと注意書きもあるので当主のお葬式の様子がわかります。
水野貞利の表白文は初代長勝の200回忌に際して追善願文を出したというもので
「源貞利」という署名にドキドキしました。こういうときは本姓を書くんですね。
謙信流軍学伝授之書物(全24巻の皆伝目録)やシャコ貝の盃、
使用済みの長袴や鎧・鞍、子ども用の御召御麻裃、6代目政勝の薙刀(加州住藤原光国)など
生活がわかるものも展示されていました。
あと参考展示として、山岡鉄舟が「鴻澤霑民庶」(1880年9月)と揮毫した白鳥神社の幟(模造)があったのですが
巨大すぎて展示室の床から天井に折り曲げる形で張り付けてあったので見上げてきました。
首が痛いことになったけど、全長8m93cmもあったらこうなるよな…!
博物館の屋外の壁に張る予定だったそうです。展示風景を見たかった。

こちらは撮影可能スペース。
会場の順路や展示品の配置、展示物の一部がパネルで紹介されていました。
縮小展示でもとても勉強になりました。開催できていたらなあ…!本当に惜しいです。
展示の最後に使われなかった200枚以上のパネルの山があって心をえぐられた…。
160件220点余りの資料(うち借用資料125点)を展示予定で
200枚以上の解説キャプションやパネルを作成したものの日の目を見られず…。
今回の特集展示で一部が再利用されているとはいえ、学芸員さんの無念を思うと胸が苦しくなりました。
永楽通宝紋の鞍とか稲生正興出羽守宣旨とか、徳林寺の涅槃図(御絵所宗貞)とか見たかったよーー!!
(1688年に小笠原氏が奉納して1748年に狭山の甲田重蔵が修復したやつ)
そして、同じ展示室内に特集展示「太平記絵巻の修理を終えて」もありました。
太平記絵巻は海北友雪によって江戸時代に制作されたものと推定されていて、
後醍醐天皇の即位から南北朝時代を経て足利義満の時代に至るまでを全12巻で描いています。
1・2・5・6・10巻を歴博が所蔵しており埼玉県指定有形文化財になっています。
(ちなみに7・11・12巻は民博、3・8巻はニューヨーク公共図書館が所蔵。
4巻・9巻は行方不明ですがボストン美術館と東博に模造品があります)
2017~2018年にかけて6巻と10巻の修復を行い、
「太平記絵巻の世界」展として一挙公開の予定でしたが感染症の影響で縮小。
綺麗になった6巻と10巻が3期間に分けて展示されます。
わたしが行った日は、6巻は楠木正成の首が足利尊氏によって故郷へ返された場面から始まっていて
比叡山攻めで最澄の木が焼かれてしまわないように稚児に降りた日吉権現が猿に鐘を突かせて守る場面や
東寺合戦で高重茂が狂歌を詠んだり新田義貞が日吉大宮権現に鬼切を奉納したりする場面などを
見ることができました。
新田軍が越前の冬を越すところで弓矢を薪にしてあたたまっていたのちょっとかわいかった。
10巻は観応の擾乱の終わりの頃までが描かれていて、
新田軍に駆け入る佐々木秀綱の場面や石清水八幡宮で足利直冬が託宣を受ける場面などが開いてあった。
神南山の戦いにて那須与一の母衣(オレンジ色)をかけて戦う奈須五郎(与一の子孫)がかっこよかった…!
また10巻には笛吹峠の戦いの様子も描かれているそうですがわたしが見に行った日は別の場面でした。
友雪は人物描写がとにかく細かくて、鎧や着物だけでなく人々の表情まで全部描き分けていて
人物の顔の特徴や人格をきちんと考えて作っていると思う。
合戦の場面は広々と構図をとっていて、人間だけでなく馬も躍動感がありました。
あと、修復の様子も写真で紹介されていました。(業者さんは株式会社修美さん)
紙の汚れや折れ、シワ、顔料の剥落などが目立ち、なかなか大変な状態だったとのことで
一度すべてを解体したところ、6巻は過去に2度修復をしていたことが判明したり
紙の継ぎ目に数字(順番をあらわすもの?)が書かれていたこともわかったそうです。
裏打ち紙を取り換えて本紙を綺麗にして、記録を取って報告書にまとめ、保存用の桐箱を新調し、
修復後は状態を安定させるため1年間休ませたそうです。
こんなに大変な修復を終えて、特別展として紹介されるはずだった太平記絵巻…。
絵巻だけでも公開されてよかったです…見ることができてよかった。
特別展示室を見たあとは常設展示室にも行きました☆
写真撮影が一部を除いて可能になったということで、パチパチ撮ってきましたよ。
(鑑賞者はわたししかいなくて貸切状態でした)

コラム展示のスペースに「和菓子づくりの世界」として、かわいらしい和菓子の木型がたくさんありました。
祝儀の松竹梅や鯛やハマグリ、不祝儀の蓮や菊の花など、工芸品のような木型の素朴な美しさがたまらん。
家紋の木型や葬式まんじゅうの焼き印、木型の図案集などもありました。

いがまんじゅう!!
普段お店とかで販売されているものが博物史料として展示されているのびっくりしてしまうな…!
いやそれが博物館の役割ですけども。
(埼玉には「朝まんじゅうに昼うどん」という言葉があるほどに香川に次ぐうどんの消費量を誇り、
わたしの地元である北埼玉にはハレの日にうどんを、お葬式におまんじゅうを出す風習があったりします)

県内各地の古墳や遺跡から出土した土偶、土器など。
製作された時代や使用目的の違いもあると思いますが形も大きさも様々ですね。
みみずく土偶ちゃんもいくつか見つかっているんですな。

斎藤別当実盛の像。
埼玉、もとい武蔵国で中古・中世あたりの有名人といえば
だいたいこの人と平将門と熊谷直実と畠山重忠だと思う。

国友の鉄砲。
武州鉢形に住んでいた国友という職人が制作したものだそうです。
鉢形城下には鉄砲職人たちの生活圏があったそうで、そこに住んでいた人が作ったのかな…。
国友というとかつて長浜にあった国友村が鉄砲の生産地として有名ですが(鉄砲ミュージアムがあるとこ)、
寄居にも国友を名乗る人たちがいたということだろうか。

大宮氷川神社が和宮御立退御殿にあてられたときの看板。
和宮が徳川家茂と結婚するために江戸へやって来たときのルートが中山道だったのですが
万一の事態に備えて氷川神社が避難所にあてられたのだそうです。
中山道からすぐのところにあるからね。
(ちなみに彼女の持ち物は東海道を下ってきている)

蒸気機関車1290形式、通称「善光号」の模型です。かわいい!
1882年にイギリスからやって来て隅田川から川口の善光寺付近で陸揚げされたので「善光」号。
鉄道博物館で本物を見たなあ~懐かしいな。もう1年半前になるんですね。

東北新幹線が開業したときの写真。1982年に大宮~盛岡駅間が開通しています。
翌年に上越新幹線(大宮~新潟駅)も開業したんだよね。
とりあえず気になったものだけご紹介させていただきましたが、
常設展、ものすごく久し振りに見たので内容をほとんど忘れていて
土偶から新幹線までこんなに細かく埼玉の歴史がわかる展示になっているのだと改めて思えました。
また勉強しに行きたい。
この後は車で自宅まで帰ったのですが、
実は歴博のすぐ近くに大宮の鉄道博物館がありましてね…。
てっぱくは東北新幹線と高崎線の線路に挟まれて建っていますけども
その2つの線路とてっぱくの下を県道がくぐっていまして、その道路を通って大宮公園の歴博に向かうのですが
道路をくぐる直前に、本館~南館に屋外展示されているE1系と特急あずさ号が見えるんですよ…!
余所見運転になってしまうのでガン見はしませんでしたが、チラっとでも見られて本当に幸せでした。
てっぱくも今は予約制になっていますが…行こうと思えば行けますけど
でも他所のミュージアムよりお子さん多いと思うので今は我慢…!
次にわたしが行くまで待っててくれてっぱく、わたしもがんばるよ!
テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。 ジャンル : 学問・文化・芸術
あらぶる雨、めぐみの雨。

川の博物館に行ってきました。
企画展「雨展-あらぶる雨・めぐみの雨」の鑑賞が目当てです。
子どもの頃に来たことがあるはずなのですが記憶があるようなないような、ちょっと曖昧なのですが
館内を見てもほとんど覚えてなかったので、もう初めましてな気分で
一から勉強させていただく感じで行きました。

チケット売り場に行こうとしたら駐車場の一部と駐輪場が埋まっていて衝撃を受けた。
奥のベンチあれきっともう少し足が下に出ているはずですよね…。
かわはくは荒川のすぐそばにある施設なのですが、
去年の台風で荒川が増水したため大きな被害を受けています。→こちら
博物館の建物は無事だったそうですが、屋外の施設や展示物がかなり浸水したそうです。
その状況からわずか1ヶ月で再開してるからすごい…!→こちら

かわはくのシンボル、大水車。高さ24m、約1分ほどで一回転しています。
遠くから見ると観覧車のように見えます。
この水車は博物館の敷地の中でも高い場所にあるので、ここまでは水は来なかったようです。

水車小屋広場では水力で生み出されるエネルギーのシステムについて学習できます。
写真は、皆野町から移築復元されたコンニャク水車。
直径7.3m、60年ほど前までコンニャクのアラコ挽きに使われていたそうです。

中はこんな感じ。
寄木造りの木の部品が複雑に組み合わさってパッコンパッコンと動いていました。
実際に動いているのを見られるのはいいなあ!

杵の部分。ここでコンニャクをひいて粉にします。
内部は改良された跡もあって、使っていた人の工夫がみられるそうです。
お仕事道具だもんね…長く使っていたのかな。

東秩父村で使われていた精米水車。
1日1斗ほどを精米していたそうです。(麦とかだともっと時間がかかる)
こちらも内部で木の部品がパッコンパッコンと動いていました。

かわはくのマスコット「カワシロウ」。館内のあちこちにいます。
ミュージアムショップではぬいぐるみも販売されていた☆

本館にやってきました。企画展「雨展」を鑑賞します。
以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ。
テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。 ジャンル : 学問・文化・芸術
文化の祭典その4。

今年も東京国際フォーラムのJ-CULTURE FESTの展示を見てきました!
毎年恒例、入場料無料で開催されているイベントです。

去年と同じく、今年もEホールのロビーギャラリーにて京都の風俗博物館さんによる展示がありました。
いつもは雅な平安王朝絵巻の展示ですが、今回は「平安宮廷スポーツスタジアム」と題して
平安時代の人々の遊びやスポーツを紹介するアクティブな内容になっていました。

まずは蹴鞠!
『源氏物語』若菜上より、源氏41歳の3月に六條院春の御殿にて開催された蹴鞠のシーンの再現です。
蹴鞠は中国から伝わった球技で、
日本で行われた最古の蹴鞠の記録は本朝月令にある701年5月の蹴鞠会のものだそうです。
(中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠の会で出会ったというエピソードが有名ですが
あれは故事なので記録はないんですかね…史実だとしたら645年より前の話になります)
ルールとしては4~8人で円になり「アリ」「ヤア」「オウ」などの声をかけて蹴るというもの。
基本的に勝敗はつけず、より長くラリーを続けられることを良しとします。

源氏と蛍兵部卿宮が見守る中、ポーン!と高く高くあげられた鞠。
透明な棒で支えてあってちょっと笑ってしまった。浮いたままにしておけないから仕方ないよね^^

蹴鞠会からちょっと離れた場所にいる夕霧(左)と柏木(右)。
夕霧はもともと夏の御殿で別のグループと蹴鞠をしていたのですが、源氏に呼ばれてこっちに来て
さっきまで柏木と一緒に蹴鞠に参加していたという設定。

「柏木の視線の先にいる女三宮」みたいな写真を撮りたかったのですが、
どの角度から撮っても夕霧が真ん中にくるので夕霧メインみたいになってしまった。。
柏木なんだよ!このシーンの主役は柏木と三宮なんですよ!!(力説)

御簾がほんの少しめくれて三宮の姿がチラりと見える。
三宮は源氏の兄朱雀院の子で、そういう身分の人がこんなに御簾の近くにいることは普段ありえないのですが
この日は蹴鞠をする男性たちを見物するためにかなり近づいていたようでした。
そして、もともと三宮のことが気になっていた柏木が、このとき彼女の姿を見てしまって
気持ちが爆発してしまいとんでもない行動に出る…というのは、また別のお話ですね。

御簾があがった原因はこの猫たち。
親猫に追われた子猫が御簾の外に出て、紐がからまってしまったのでした。
(この時代、貴族が猫を飼うときは基本的に紐で結んでいました)

かわいい(=^ω^=)。
源氏物語に猫が出てくる描写は唯一この場面だけなのですが、
なんとも大変なきっかけを作るお役目を与えられてしまいましたなあ。

バックヤードでは女房たちが蹴鞠後の宴席のために椿餅や梨や柑子(塩漬け)を準備中。
同時刻に庭先で柏木が三宮を目撃したことを、まだ彼女たちは知りません。
これからあなたたち大変ですよ…などと、千年後の読者は呑気なことを思うわけで^^
以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ☆
テーマ : 展示会、イベントの情報 ジャンル : 学問・文化・芸術
羊羹礼賛。

とらや赤坂本店に行ってきました。
去年のリニューアルから早くも1年経ったそうで、そういえば全然行ってないなあと思ったのと。

虎屋文庫の展示が4年ぶりに再開したということなので!「虎屋文庫の羊羹・YOKAN展」。
タイトルの通り羊羹をテーマにその歴史と文化をひもとく内容です。

最近、新潮社から出版された『ようかん』の本。展示室にも閲覧用が置いてあって読めました。
文章と多数のカラー口絵で羊羹の歴史を紹介しています。
この本で紹介されている書物や道具、パッケージの実物などを展示室で見られるので
両方チェックするとおもしろいと思う。
羊羹がもともと中国の料理で「羊の羹(羊肉入りの汁物)」というのは
過去の展示でも紹介されていましたけど、今回もそこから始まっていました。
つまりご馳走だったんですね。
そんなご馳走を日本に伝えたのは中世に中国へ留学した禅僧たちだとされていて
『庭訓往来』(14世紀成立)によると法会の際に食べるものとして挙げられており、
小麦粉で作って羊肉に見立てた精進料理のようなものだったと想像されているとか。
そんな汁物だった羊羹ですが、室町時代後期の『食物服用之巻』では
「汁につけて食べる」と書いてあるので、この前後で汁と具が別々になり、
やがて独立した食物として食べられるようになっていった…ということみたいです。
ちなみに羊羹が「お菓子」として食べられたことを示す最古の記録は
茶会記『松屋会記』の1542年4月3日の記事のお菓子の項に
「菓子:
ヤウカン(羊羹)
ヤキクリ(焼き栗)
イモノコ(芋の子)」
と、書かれているものだそう。
そんな風に汁がなくなりお菓子として食べられるようになった羊羹、
戦国~江戸時代にかけて様々な製法で作られるようになっていきます。
・1500年代~形を作るタイプの羊羹
・1500年代末~蒸すだけタイプ
・1700年代~柔らかいタイプ、寒天の水羊羹
・1700年代後半~煉羊羹
ちなみにこれらの製法はとらやにも伝わっていて
林檎形(形タイプ)、栗蒸羊羹(蒸すタイプ)、水羊羹(柔らかいタイプ・寒天タイプ)、夜の梅(煉羊羹)として
現在も販売されているので買えます☆
夜の梅は毎年、干支のパッケージで発売されたりしますよね。
材料ですが主に小豆・小麦粉・葛粉・砂糖で、
現在、羊羹の主流となっている煉羊羹には寒天も混ぜて作られますね。
さらに芋羊羹や琥珀羹など小豆を使わないタイプの羊羹も開発されて
羊羹の定義も広がりつつあるような。
とらやでの製法の展示もありまして、材料を混ぜて煉って、型に流し入れて固めて切って
販売されるまでの流れが調理道具の写真や映像とともに紹介されていました。
煉羊羹を煉る際に使う大きなおしゃもじの名前を「エンマ」というそうですが
語源はわかってないみたいですが閻魔様の杓から名付けられたかも、とのこと。
煉羊羹について。
『北越雪譜』(1837年刊)には寛政年間に江戸日本橋の喜太郎が煉羊羹を創始したと書かれていて
これまではそれが通説だったらしいのですが、
最近、それ以前の茶会記などに煉羊羹の使用例が見つかってきたので今は疑問視されてるらしい。
たとえば『太梁公日記』(加賀藩11代目前田治脩の日記)の1773年10月12日の記事には
「ねりやうかん半分」を食べたと書いてあり、しかも「風味不宜(おいしくない)」だったらしくて
たぶん藩主のお好みの味ではなかったか、製法が確立されていなかったんでしょうね。
また『逾好日記』(播磨姫路藩2代目酒井忠以の日記)には
1787年11月26日の茶会のお菓子に「ねりやうかん」を出したとあるので
少なくとも江戸時代中期には「煉羊羹という食べ物」があったのではないかということみたい。
酒井抱一のお兄ちゃんが羊羹を食べていたならきっと抱一も食べていたはず…とか、
楽しい妄想もできました^^
今は無き羊羹の名店。
お江戸には羊羹のお店がたくさんあり、番付などもあったそうですが
常にその上位にいた4店舗の紹介でした。
船橋屋織江(深川)の『菓子話船橋』では1804年の開店には800~1000棹も売れたと書いてあったり
鈴木越後(日本橋)の羊羹を「天下に鳴る」と紹介している『江戸名物詩』(1836年刊)があったり
金沢丹後(日本橋ほか支店多数)の菓子見本帳には凝ったデザインの羊羹がたくさん書かれていたり
藤村(本郷)は加賀藩御用達で近代には森鷗外や夏目漱石なども食べて小説に紹介してたりと
強すぎるエピソードのお店ばかりですごい。
今はどこも閉店してしまっているそうで、時の流れを感じますなあ。
…ちなみに、とらや(京都)の羊羹ですが。
『院御所様行幸之御菓子通』の、明正天皇が後水尾天皇のもとに行幸した1635年9月16日~20日に
二口屋と分担して538棹もの羊羹を納めたというのが、とらやの羊羹についての最古の記録だそう。
とらやに残されている御菓子絵図(1824年)でも色んなデザインで作っていたことがわかっていて
近代では州浜台に羊羹を積んだりしてギフトみたいな商品もあったみたい。
ギフトといえば昔は羊羹切手というのもあって、商品券のようなもので贈答品に使われたそうです。
お店の名前とともに「一煉羊羹」「壱棹」などと書かれていて、羊羹と交換できたのかな。

近代の羊羹の商標・包み紙いろいろ。(ここだけ撮影可)
鉄道の発達などもあり各地へ旅行する人々が増えて、
地域の特産品を使った羊羹がお土産として販売されるようになり、そのパッケージを集めた展示です。

浮世絵みたいできれいだなと思った、山梨の葡萄羊羹のパッケージ。
そういえば羊羹は、近代以降は紙やアルミ箔に包まれて販売されますが
その前は缶詰だったそうです。
(エドワード・モースが凮月堂のブリキ缶入り羊羹をアメリカに持ち帰ったりしているそうだ)
さらにその前の江戸時代では竹の皮にくるんだりしていたらしい。
『諸方御用留帳』1702年3月10日の記事に「やうかん六棹かわにつつみ入」という記録があります。
竹皮で販売していた主な理由は大きなサイズでしか販売していなかったからなのですが
紙のパッケージが可能になったあたりから小さいサイズでの販売も始まり、
現代でも販売されているサイズがこの頃ほぼ決まったみたい。
小型羊羹のパッケージも色々展示されていて、南座限定やニューヨーク店限定パッケージなど
(言い忘れたけどとらやは1980年にパリ店、1993年にニューヨーク店を出している)、
日本語のみならず外国語でデザインされたものもありました。
パリ店の「エッフェル塔の夕暮れ」羊羹めっちゃきれいですな…!
ニューヨーク店のカフェで出されたらしい羊羹サンドイッチに思わずシベリアを連想しましたけど
あれはカステラでしたね…ちょっと違う…。
さっきチラッと書いた夜の梅の干支パッケージも展示されてましたよ~。
夜の梅はとらやの歴史でも古くから製造されていて、1776年には蒸羊羹、1862年には煉羊羹になって
現在も販売されていますね。
「夜の梅に鼠」と題した掛軸を金島桂華が制作していて
子年にちなんで羊羹の箱の上にちょこんと乗ったネズミを描いた絵がありました。
衛生面が心配になりますが、絵としてはとてもかわいい。
羊羹トリビア。
歌川広重の「太平喜餅酒多多買」という、お菓子と酒が戦うというトンデモモチーフの錦絵に
「船橋入道ようかん」という、顔が羊羹になっているキャラクターが描かれています。
絵が展示されていたけど確かに顔が羊羹で体は人間でした。
『名代干菓子山殿』(お菓子の擬人化ストーリー)という黄表紙には
「かす寺(カステラ)の羊羹和尚」という、頭に羊羹の切り身を乗せた和尚様が登場します。
たぶん羊羹が精進料理だった時代の名残でお寺の人がキャラクター化されたのかな…。
またアニメ「それいけ!アンパンマン」にはヨーカンマダムというキャラクターがいて
顔が四角い羊羹で礼儀作法に厳しい人らしい。
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』には「羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、
肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる」という記述がありますが
何とそれを再現したスペース(!)がありまして、
ぼうっと灯された行燈の隣にある机のお皿の上に羊羹が置かれていましたが暗くて全然見えなくて…
わたしはまだまだ文豪の境地には至れていないなと思いました。
秩父宮さんはとらやの缶詰羊羹(1.5kgもあるやつ)をリュックに入れてマッターホルンへ登頂し、
山頂で茶会を開いたというつわものだそうですが
そのときの1.5kg羊羹入りリュックのレプリカが置いてあって持ち上げられました。重たかったです。
戦争が始まって空襲が激しくなると、とらやの工場も焼けてしまったそうで
溶けて商品化できなくなった羊羹は人々に無料で配られたのだそうな。
(新田潤の妻もバケツで持ち帰ったという記録がある)
また戦争中に海軍に納めた「海の勲」という小型羊羹、実物が1本だけ残っているそうで
それが今回展示されていました。
第一次南極観測隊への寄付もしていたようで、
1957年の観測船船長の日記には「赤道を通過し極寒の地で開けても変質なし」と書かれていたそう。
最近では野口聡一さんが国際宇宙ステーションで開催した宇宙茶会で
クルーとともに山崎製パンの羊羹を食べたのだそうで、そのときの写真もありました。
(ちなみに宇宙食にするにあたり特に改良などはなく合格してそのまま持っていかれたそうな)
あと最近の羊羹の食べ方としてヨーグルトとのマリアージュとか
お酒と合わせてみるとか、羊羹パンなるローカルフードとか
色んな方法で食べてみる人たちがいるんだなァとおもしろく拝見。
作り手の想像を消費者が超えていくこともありますよね。これからも意外な食べ方が出てきそうです。

名代干菓子山殿には挿絵もあって、羊羹和尚も描かれているので
こんな撮影スポットが再現されていました(笑)。
羊羹和尚はかわいいな~。
テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。 ジャンル : 学問・文化・芸術
待て、あわてるな。これは孔明の罠だ。

東博の三国志展に行ってきました☆
「リアル三国志」を合言葉に、後漢から三国の時代について2~3世紀の出土品を中心に紹介する展覧会です。
三国の人々が実際に生きていた当時のものから伝説化・物語化されてゆく後世の創作品などに混じって
川本喜八郎氏の人形、横山光輝氏のマンガ原稿、三國無双の武器まであって
学術からエンタテイメントまで幅広く網羅されていて楽しい内容でした。
ゲームが展示される展覧会は近頃とみに増えていますが、東博もやっとやり始めましたね。

ちょっと(どころじゃなく)びっくりしたのが全展示品写真撮影OK!!
ついったで情報が流れてきたときマジか、東博が?東博の特別展が!??って3度見くらいしました。
色んな意味で特別な展覧会になってると思います…関係者の皆様に感謝。
わたしは全部じゃなく興味のある展示品だけ撮ってきたけどそれでも200枚以上にはなりましたよ、
以下でご紹介していきます。
展示はいくつかのコーナーに分かれていて、まずは「伝説のなかの三国志」。
記録され、記され、語られていく中で三国の歴史は伝説化されて現代まで伝わっていますが
その様々な文化の形を紹介。

横山光輝氏の『三国志』漫画原稿がいくつかありました。写真は桃園の誓いの場面。
15年かけて連載された長編漫画の始まりはここからなんですよね。
読んだのずいぶん前なのでほとんど忘れてしまっているな…読み返したい。

関帝廟壁画(18世紀)。
蜀の関羽はその生き方から、唐の時代には既に神様としての信仰があって
劉備のもとへ行く前には塩を売る仕事をしていたことから民衆には商売の神様としてあがめられ、
関帝廟が各地に作られていますね。(横浜中華街にもあるよね)
写真は関羽が兵書を読んでいる姿を絵にしたもの。

キービジュアルにもなっている関羽像(15~16世紀)。大きくてかっこいい!
美髭公とも称される関羽、お髭が強調される姿で表現される事例が多いですがこれは割と控えめだそうです。
充分たくわえた風に見えますが…これでお髭控えめなのか…^^;

孔明出山図(15世紀)。
三顧の礼ののち孔明が山を下りて劉備軍に加わるところを描いています。
基本は水墨で色もそんなになくて、文人画っぽい雰囲気。

関羽・張飛像(19世紀)。
曹操のもとから戻った関羽に一時は疑いの目を向けるも、その後きちんと謝る張飛。
演義の張飛は猪突猛進キャラですがかわいい部分もあるよね^^

趙雲像(17~18世紀)。
長坂坡で阿斗(後の劉禅)を抱えて単騎で走り切った故事の彫刻です。
お腹に阿斗様をがっちりホールドしています。風ではためくマントも馬のたてがみも生き生きしてる!

NHK人形劇三国志の人形があった!川本喜八郎氏の作品です。
写真は曹操・劉備・孫権の3人。こんなに綺麗に保存されているんですね…みんなかっこいいですね。
赤壁後に関羽を見逃す曹操の表情の動きとか、あの人形劇屈指の名シーンだと思ってるんですけど
あれももっかい見たいなあ…。
今回の会場には各人物ゆかりの品や関係品を紹介する冒頭で必ず主要人物の人形が展示されていました。
以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ。
(追記に紹介した展示品は特に注意書きがない限り1~3世紀の出土品です)
テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。 ジャンル : 学問・文化・芸術
小さな山がたくさんある街。

太田記念美術館の「江戸の凸凹-高低差を歩く」展に行ってきました。
江戸時代に描かれた浮世絵から坂道や川、山、丘などの風景に着目し、
お江戸の地形をたどる展覧会です。
ブラタモリでタモさんがさんざん高低差高低差って宣伝しまくっているせいか、
近頃は各地で地形をたどる体験ツアーなども見聞きするようになりましたが
とうとう美術界でも高低差を取り上げ始めましたよ。こういうの大好き!(笑)

会場では「東京の地形と江戸の名所MAP」なるものが配布されていました。(裏側は展示作品リスト)
御茶ノ水や上野、深川など、浮世絵によく描かれたエリアの地形と名所が書かれたマップです。
高低差がわかるように色分けされているので山も谷も川もわかりやすい。
まずは坂道から。
歌川広重「東都名所坂づくし」から神楽坂、御茶ノ水の昌平坂、九段坂などを描いた作品が展示されていました。
神楽坂は飯田橋方面から長くゆるい坂道になっているし
昌平坂は湯島聖堂や神田明神に行こうとすると必ず通る坂道だし
神保町から靖国神社へ至る道も確かに坂道になっていますね。
伊皿子坂(港区)や江戸見坂(ホテルオークラの前の坂)などからは江戸湾が一望でき、
湯島天神の男坂などからは不忍池が見えたみたい。
名所江戸百景からは八景坂の鎧掛松、赤坂見附の坂、湯島天神の男坂、神田明神の夜明けなど。
虎ノ門葵坂というところはかつて武家屋敷があり、
葛飾北斎「諸国瀧廻東都葵ヶ岡の滝」によると大きな滝もあって
水流の周りには葵の花が植えられていたそうです。
滝があるということはそれなりに高低差があったってことよな…(虎ノ門はあまり行かないので詳しくないです)。
広尾ふる川の絵もあって、そうだ恵比寿駅から山種美術館へ行くときは坂道を登って行くんだったとか
広尾から六本木方面へ行くとやたら登り下りが多かったな…などと思い出したり。
恵比寿のおとなりの目黒も、エリアマップを見るとたいそうな高低差で
目黒ってあまりウロウロしたことないのでわからないんですが目黒川の両脇は高台になっているんですね、
確かに目黒駅から雅叙園に行くときに通る行人坂はものすごい下り坂だよね…。
ちなみにキャプションによると江戸時代と近代の坂道を地図などで見比べるとほぼ変わっていないようです。
景色は武家屋敷やお茶屋がなくなりビルが建ったりしてかなりの変化があった東京ですが、
丘を割るような工事は江戸初期あたりにしかされなかったということだろうか…。
「お江戸の名所は高台にあり、必ずお寺か神社がある」の法則。
名所江戸百景の飛鳥山や湯島天神、王子稲荷の不動の滝、芝の愛宕山や増上寺などを見ていると
お参りや観光、お花見などで有名な場所はだいたい山道や階段を登った場所にありますね。
飛鳥山は武蔵野台地の際にあって江戸の街が一望できるし、湯島天神は言わずもがなだし
王子稲荷も愛宕神社も長い石段を登った先にあります。
増上寺は港区なのでそうでもないのかと思ったら、あそこも武蔵野台地の際で
場所によっては海抜20mのとことかあるみたいですね。
五重塔・新堀川・赤羽橋が描かれた絵を見てみると
新堀川の蛇行から谷状の地形になっていることがわかります。
あ。川で思い出したんですが、御茶ノ水のど真ん中を通る神田川とその両脇の渓谷って
山を掘削して神田川を通した人工渓谷なんですね!キャプションで初めて知りました。
昇亭北寿「東都御茶ノ水風景」や広重の「東都名所御茶ノ水之図」などには
どまんなかに流れる神田川と、両脇にそびえ立つ渓谷が描かれていて
この高さの山を割ったのかよ昔の人は、とんでもねぇなと思いました。
名所江戸百景の神田川も今まで何気なく見ていたけどまさか土木工事の景色とは知りませんでした…。
すごい、この展覧会勉強になるなあ。
昔はあって今はない景色の絵も。
名所江戸百景に描かれた目黒爺々が茶屋という、今はないお茶屋さんを描いた絵があって
淀橋高台の崖沿いにあったお茶屋さんらしいんですけど
その先にあった富士塚に向かうお客さんが立ち寄っていたそうな。(富士塚も今はありません)
あと目黒の駅付近にあった千代が池という池には10メートルほどの滝があったらしい。(今は両方ともない)
江戸名所道外尽からは妻恋こみ坂の絵がありまして
かつてここは厠(公衆トイレ)があったようで絵の中の人たちはみんな鼻をつまんでいました。
歌川豊春「浮絵和国景夕中洲新地納涼図」に描かれた中洲新地は
隅田川の新大橋の下流にかつてあった歓楽街で、
中洲にたくさんの船が集ってお店もいっぱいあって夜はとても賑やかだったようです。
北尾政美「浮絵東都中洲夕景之景」によると、夏には花火大会もあったみたいですが
広重の名所江戸百景に描かれる頃には取り壊されて浅瀬になっているんですね。
浮世絵からビフォーアフターがわかるっておもしろい!
時間を感じさせる作品は他にもあって、品川の御殿山を描いた浮世絵がいくつかあったのですが
花見の桜でにぎわう絵を見た後で名所江戸百景の御殿山を見るとびっくりします。
ペリー来航後、江戸では防衛のために土を海へ運びお台場が作られたのですが
その土は御殿山の一部を切り崩して運ばれたのですね。
広重が絵に描く3年前のことだそうです…崖がむき出しになった御殿山は痛々しく見えました。
上空から見た絵も。
名所江戸百景「深川洲崎十万坪」は鷲が大空から江戸を見下ろしている有名な絵ですが
鳥の眼下に広がる景色は3年かけて埋めたてられた洲崎だったんですね。
はるか遠くに見える山は富士ではなく筑波山とキャプションにあって、そうなのかあ!と驚き。
北尾政美「江戸名所の絵」は手前に隅田川、奥に富士山があって
その間の江戸の街を名所とともに高低差込みで描いたおもしろい絵です。
川や谷や山などの凸凹がしっかり表現されていて、これ余程地理に詳しくないと描けないと思う。
二代目広重の「江戸名所一覧双六」はお江戸各地の名所がコマになっている巨大な双六で
振り出しと上がりがともに日本橋でした。
展示されていた浮世絵が一部(北斎、政美、北寿など)を除いてほぼ歌川広重一色だったのも
すごいなと思いました。
名所江戸百景や東都名所坂づくし、江都名所など
お江戸の風景画を数多く残した広重の絵は当時を知る貴重な資料にもなっているのだなあと。
名所江戸百景も何度も見ている作品なのに、高低差に着目して見たことはなかったので
新しい視点をもらえてよかったです。
浮世絵から読み取れるものってたくさんあるんだなあ…これだから美術館通いはやめられない^^
テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。 ジャンル : 学問・文化・芸術
武蔵の地獄と仏教の歴史。

前回記事の続き。大宮公園でお花見をした後に
同公園内にある埼玉県立歴史と民俗の博物館の「東国の地獄極楽」展に行ってきました。
中世以降の東国(関東)の史料や美術品から地獄極楽についてたどる展覧会です。
桜ミクさんも歴博デビュー☆

いつもは装束体験で来ている歴博、展示を見るのは久々です。
関東の地獄や極楽の美術って全然知らないので楽しみであります。

ロビーにあった圓福寺の閻魔王宮八大地獄図(レプリカ)は撮影可。
本物(春日部市指定文化財)は出品されていませんが、由来を記した版木が展示室にありました。
江戸時代の住職だった生善光世が源信の『往生要集』を参考に
2年かけて彫り上げた幅6.6メートルものレリーフです。でかい!

中央に閻魔大王がいて、左右に八大地獄の様子が彫られています。
閻魔大王以下、登場人物(?)がみんなギョロ目で水木しげるっぽいデザインでおもしろい。
やってることは釜茹で、火の海、切り刻みなどエグいのにキャラクターじみた画面がすごくちぐはぐ、
本物はきっともっと迫力あるんだろうなあ。
展示はまず、地獄極楽は何ぞやということで源信から始まっています。
常光院(熊谷市)の恵心僧都坐像は県内に現存する数少ない源信の画像だそうで
数珠を持ち静かに座る源信がとてもきれいに描かれていました。
そして源信といえば往生要集です!江戸時代のゑ入往生要集(パネル展示)がありました。
極楽の表現として出品されている吉祥院(久喜市)の地蔵菩薩立像の掛軸は
踏割蓮台(台座が2つに分かれているもの)に乗っていました。
地蔵菩薩は地獄絵の隅によく描かれていますよね、地獄に仏というやつですね。
かつて長瀞の博物館に所蔵されていたという阿弥陀如来坐像は顔や体の破損がひどく、
火災に遭ったのではないかとキャプションにありました。おいたわしや。。
阿弥陀如来は極楽図の中心によく描かれる仏様でもあります。
次に、熊谷直実の人生について。
現熊谷市出身の直実は源平合戦の平敦盛とのエピソードが有名ですが
あの戦いの後出家して浄土宗信者となったことはあまり知られていないように思います。
宇治川・一の谷合戦図屏風や吾妻鏡など、当時の戦いを偲ばせる絵や資料がありました。
土佐光信の模写といわれる一の谷合戦絵巻は同じく敦盛と直実の対峙を描いていますが
彼らを描いた絵にしては珍しく海辺などの背景がありません。
未完成なのか想像で補うのか、鑑賞者に問われている気がする。
源平合戦の後、直実は法然に帰依して京都で出家し、蓮生と名乗ります。
信濃の善光寺にある蓮生法師坐像(南北朝時代)の彫刻は手が失われてしまっていますが
蓮生の彫刻は作例があまりないので貴重とのこと。
江戸時代の熊谷蓮生坊絵詞は京都の知恩院が所蔵する法然上人行状絵図を模写した絵巻で
蓮生が予告往生を遂げた様子がパネルで大きく引き伸ばされて展示されていました。
蓮生は上品上生を目指していたらしく、そのことを阿弥陀如来に誓う誓願状をしたためていまして
その誓願状(清凉寺所蔵)も出品されていました。これ自筆らしいですね!貴重だね。
1204年5月13日の日付と署名があり、極楽往生の立願の経緯が細かく書かれていて
ちょこちょこ二重線で消して書きなおしたり小さい文字で付け加えたりしている部分もありました。
蓮生が往生するとき隣に置いていたという迎接曼荼羅(清凉寺)も展示されていて、
中央に阿弥陀如来が坐し、左下に描かれた家屋の中にいる人物が蓮生本人のようです。
これさっきの蓮生坊絵詞の絵を見るとちゃんと蓮生の隣に飾っているのが描かれてるんですよね。
迎接曼荼羅由来はその曼荼羅が熊谷家にどのように伝来してきたかを記した書物で
法然が往生する姿を夢に見て蓮生に与えたということですが、
蓮生がこの曼荼羅を所持していたと思われる1195年ではまだ帰依して日が浅いことから
その辺りは後世の潤色と考えられているそうです。
曼荼羅を受け継ぐには何らかの説話が必要だったということなのかな…権威づけとかハクづけというか。
なんとかして残そう、伝えようとした人たちのご苦労がしのばれます。
続いて、関東における浄土宗信仰について。
法然の孫弟子にあたる第三祖良忠と、良忠の3人の弟子による関東三派の布教活動を通して
関東における浄土宗の始まりと教線の広がりを紹介しています。
キャプションでとても丁寧に、関東三派の詳細な説明がされていたのですが
なじみがないので正直言って難解でした。。
鎮西派として九州からやってきた良忠は鎌倉に光明寺を開山し、関東での布教活動を始めます。
江戸時代の良忠上人坐像は赤と金の美しい袈裟をまとったやさしそうなおじいちゃん像。
このお像は鴻巣の勝願寺が所蔵しているのですが
勝願寺は良忠が北条氏から土地を寄進され建てたお寺なのだそうです。ほお~。
同じく勝願寺の阿弥陀廿五菩薩来迎図は多くの菩薩が坐して迎えに来ているという珍しい作例でした。
良忠は89歳まで長生きした人で、観経疏伝通記など多くの仕事を残しているのですが
1272年に良忠が息子の良暁に宛てた譲状では鳩井(現川口市)の土地を譲るとしていて
その良暁が後継ぎに指名され奥義を伝授されています。
良暁は父の死後、相模国白旗郷に移って活動したので白旗派と呼ばれるようになり、
光明寺の所蔵する附法状には浄土法門の流れが良忠→良暁→良榮であると書いていたり
述聞制文には鎮西流の法門を相伝される経緯を記しているので
良忠に続く正統であるという強い自負があったように感じられました。
寂恵良暁坐像は椅子に座った状態の良暁の彫刻で
ふっくらとした顔に大きな目がつき、払子を持ち背筋をぴっと伸ばした力強い作品でした。
また、良忠の弟子にあたる性心も活動の幅を広げていて
武蔵の藤田(現寄居町)に居住していたことから彼の信者は藤田派と呼ばれるようになります。
東北の藤田派の拠点にあたる高厳寺(福島県)が所蔵していたという阿弥陀二十五菩薩来迎図や
善導寺開祖の良心が創建した蓮光寺(寄居町)の当麻曼荼羅図などが展示されていましたが、
江戸時代の幡随意上人行記(川越の蓮馨寺に学んだ僧)によると
その頃には多くの信者が白旗派に転派して藤田派は消滅してしまったとか。
さらに、同じく良忠の弟子である良弁も鎌倉の名越谷で布教したため
名越派と呼ばれるようになっています。
秘伝を集めた聖教を収めた箱「月形函」について書かれた重書宝函事(門外不可出と書いてある)や
浄土鎮西義名越派代々印璽脈譜(開祖良弁の赤い手形つき)などが展示されていました。
また名越派は善光寺と縁があったようで、善光寺式の仏像がズラリ☆
善光寺式は善光寺の本尊を模した一光三尊形式(阿弥陀(光背つき)・観音・勢至)で作られた仏像のことで
展示品はどれもさほど大きくはない仏像でしたが綺麗な良品ばかりでした。
良榮が持っていたという阿弥陀如来及両脇侍立像、
いわき市に草庵を結んだ真戒(尼僧)の阿弥陀如来及両脇侍立像は小さなサイズでした。
東博の阿弥陀如来及両脇侍立像が一番保存状態が良かったな…さすがです。
ほかにも関東で活躍した僧侶ということで法臺寺(新座市)の観智国師坐像が紹介されていて、
観智は法臺寺で受戒した後、浄土宗を学び増上寺12世となり徳川家康とも仲良しだったそうです。
圓福寺の阿弥陀如来立像及両脇侍像は中尊の体のみ鎌倉時代、ほかは江戸時代の補作だそうですが
観音は膝をかがめて合掌し、勢至は坐しているというやっぱり珍しいポーズでした。
後半は、関東の地獄極楽に関する仏教美術の紹介。
清浄院(越谷市)の閻魔王坐像は真っ赤な肌に口をかっと開け、たくましく髭を生やしていて
いかにもザ☆閻魔って感じ。
唐風の衣装にあぐらをかいて、沓の裏がチラリと見えていました。大きくてかっこいい像だった!
明光寺(狭山市)の地蔵十王図は全13面にそれぞれ十王と賽の河原と奪衣婆が描かれていて
リアルというよりもコミカルでちょっと親しみやすい表現でした。
江戸時代の作らしいのでそうだね、あの時代は美術もデザインもかわいくなっていくからね…。
三学院(蕨市)の地獄図は閻魔王と地獄の責め苦が画面いっぱいに描かれていますが
隅っこに阿弥陀如来がいて救いがある絵でした。
最勝寺(越生町)の十王地獄図もところどころに地蔵菩薩が描かれて救いがあるけど
阿鼻地獄に堕ちる人々をつつむ炎の描写は容赦のない赤ですさまじかったです。ダイナミック地獄堕ち。。
松山(現東松山市)出身の絵師江野楳雪による十界図と六道図は
ど真ん中に阿弥陀如来が、その下に閻魔が描かれる世界の絵で
十界図は曹源寺(江野家の菩提寺)が所蔵しているそうです。
観音寺(八潮市)が所蔵する阿弥陀如来立像は来迎形の姿で、厨子に入っているのですが
厨子の内側にカラフルな菩薩たちが描かれていました。
如来が三次元で菩薩が二次元!こんな来迎図もあるのだなあ。
小さいサイズの当麻曼荼羅も展示されていたのですが、
江戸時代になるとこうした持ち運びしやすい曼荼羅が多く作られるようになったとのことで
思想と流通の広がりについて考えるなどしました。ネットワークが広がるとこういうものが必要になってくるんですね。
最後に。
東善寺(熊谷市)の阿弥陀如来立像が展示されていたのですが
この仏像、最近の調査で快慶の作ではないかとニュースになったものですね。
丸顔で唇が小さく、衣の流れるような紋などに特徴がみられるそうです。
もし快慶作であれば関東で3例目、埼玉県内では初の発見になるとのことで
まあ確かに展示物の仲では垢抜けた作りだなあという印象でした。
大きさは70cmほどで、快慶がよく作っていた三尺阿弥陀より小さく、欠損も多く状態もあまりよくないけど
補修された形跡がないので造像当初の姿に近いのではないかと考えられているそうです。
習作だったのか制作途中だったのかどこかの阿弥陀如来のプロトタイプあるいは胎内仏なのか…
可能性は無限大なのでこれから研究が進んで色んなことが明らかになっていくでしょう。楽しみです。
それにしても埼玉にあんなに江戸時代の地獄絵の事例があったとは思いませんでした…!
だいたい過去に見た地獄絵と似たような表現が多かったけど、
江戸や京都と同じような内容で伝えられていたんだなと。
あと関東三派については本当に勉強になりました。
中世の武蔵における仏教ってほとんど知らなかったので…これを機に理解を深めてゆきたい。
展示で色々勉強した後は野田線で大宮駅に戻ったのですが。

ちがう、帰り道はそっちじゃない。
(埼京線が正しい帰り道なのですが最近大宮に来るとフラフラとこっちへ行きそうになります)
(今週はシンカリオンが運休なので悲しみ)

帰りに川越特急とニアミス。
3月から運行している特急列車で川越~池袋間は朝霞台のみ止まります。
残念ながらアートトレインではなかった~いつ走ってるんだろう。1回くらいは見たいなあ。
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