星にかかる橋。

かささぎの橋と壬生忠岑。
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以前にこの記事で忠岑の武勇伝について少し触れましたが
あの内容のことが、実際に『大和物語』という平安初期の歌物語集に
125番目のお話として載っていたりします。
当時忠岑が仕えていた藤原定国という人がある晩、
酔ったついでに藤原時平の邸をアポなしで訪ねたらしく
時平の邸では「おい何のついでだ」と、急な来客に邸の人々が一時騒然となったのですが
そのとき忠岑がとっさに
「かささぎのわたせる橋の霜の上を 夜半にふみわけことさらにこそ」
(お邸の階の霜の上をふみ分けて伺っただけで、よそへいったついでではございませんよ)
とか、しゃあしゃあと言ってその場を取りなしたのだそうです。
で、時平は「いとあはれ」と忠岑の機転をほめて、定国と忠岑を邸にあげて
一晩中飲めや歌えの大宴会を催してお土産をどっさり持たせてくれたとか何とか。
このかささぎの歌の出だしは、百人一首の大伴家持の歌「かささぎの渡せる橋に~」であり、
天の川にかささぎが翼を広げて橋をかけ牽牛と織女が会えるようにしたという伝説を
踏まえています。
これが平安時代の中頃になるとかささぎの橋=遠くにある=宮中とみなされるようになり、
忠岑は時平邸の階段を讃えるためにああいう言い回しをしたことになります。
「ついでじゃないんですよ~わざわざ遠くからやって来たんですよお」みたいな。
この歌は忠岑の私家集にも勅撰集にも残っていないので、
この話が史実か説話かはわからないのですが、こういう話が残るということは
忠岑は官位こそ低いけれどセンスのある人だったんじゃないかなぁと思うわけで。
彼の他の歌の詞書をみても、恋人を訪ねたときにふと詠んだ歌とか
後ろにあった屏風に何の気なしにさらりと書き付けたりとか
わりと即興で作歌していることがあるので、切れ者だったんだろうなぁとか。
たぶん定国さんも忠岑の歌才を愛して側においていたんだろう。
余談ですが鳥の橋というと『猫の恩返し』のラストを思い出します。トトさんがイケメン。
で、そんなわけで七夕ですがゆさは風邪をひきました。どういうことなの。
熱は下がったのですが喉の痛みが引かないのでのど飴三昧です。声が出ーなーいー。
明日は仕事に行きますけど、黙っててもできる仕事ですけど電話に出られるかどうか。
業務連絡:明日わたしが電話に出なかったら
「ああ今日ここの人は風邪で電話に出られないんですね」って思ってください。(いやここで言っても)
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