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ゆさな日々

猫・本・歴史・アートなど、好きなものやその日考えたことをそこはかとなく書きつくります。つれづれに絵や写真もあり。


絶藝女流天下無、声名早已動三都。

  1. 2020/04/18(土) 23:51:00_
  2. 古典・歴史
  3. _ tb:0
  4. _ comment:2
※しばらくブログの更新をゆっくりにします。次回は25日に更新予定です。


小谷野敦『歌舞伎に女優がいた時代』を読みました。
出雲の阿国以降の、歌舞伎に出演してきた女性の役者たちについて書かれた本です。
書店でタイトルを見て「こういう本を待ってた!」と感激して即購入決定。
女性の歌舞伎役者というとわたしは市川九女八や三代目玉三郎くらいしか知らなくて
女性と歌舞伎の歴史についても江戸三座ほか各地の芝居小屋に出演していた女性たちが少なからずいたとか
漠然とした知識しかなかったので、
資料をもとにかつて実在した女性たちについて丁寧な記述を読んでやっと流れがつかめてきました。
名古屋で育った坪内逍遥が「少年時に見た歌舞伎の追想」で名古屋は東西演芸の貯水槽であると述べていて
東から西から役者が集まって劇場も賑やかで、愛知県出身の女性の役者がたくさんいたというのも
この本を読まないとわからなかったと思う。
(あと愛知は歴代の尾張のお殿様たちが文化好きだったのもあってそういう記録が残りやすく、
だから愛知県出身役者がほかと比べて多いように見える、ともいえる)

ていうかそもそも出雲の阿国が歌舞伎の始祖か?と突っ込むところから始まっていて
ああ、はい、言いたいことは何となくわかります…て気持ちになりました。
もともとこの国には中世以降、白拍子や傀儡女など様々な女性による芸能があって
阿国かぶきをその流れのひとつとして見るとさほど珍しいものではなく、
いわゆる社会の底辺にいた女性たちによるひとつの踊りのかたちというものだったと思う。
彼女たちが奇抜なファッションで踊る「かぶき踊り」と呼ばれた芸能は
たぶん漢字で書くと「傾き踊り」になるんですけど、
現在でいう「歌舞伎」(そもそもこれも後世の当て字だ)とはまったく別の物なんだよね。
かぶき踊りは歌舞伎が現在の形になるまでに存在したひとつのきっかけ、影響したものであって
阿国さんが今の歌舞伎を始めたわけじゃないよ…というのは確かにわかる気もします。
わたしも素人なのでどうにもうまく説明できませんが…うーん。

御狂言師と呼ばれた人々のことは初めて知りました。
大奥や大名屋敷の奥に参上して歌舞伎を見せていた女性たちのことだそうです。
そういう人たちがいつからいたのかはよくわかっていないようですが
幕末の役者の番付なども残っているので少なくとも江戸時代後期には各地にいたと考えられているみたい。
その頃に活躍していた坂東三津江という狂言師の事例が紹介されていまして、
彼女が出入りしていたのは加賀前田家、讃岐高松松平家、安芸浅野家だそうで
おもに「先代萩」「鏡山」「忠臣蔵」など武家がモデルの演目を上演したそうで
浪速鑑や四谷怪談みたいなものはやらなかったらしい。
お芝居をするのはお屋敷の能舞台、あるいはそれに準じた拵えをした場所で
(女性の芝居は幕府が禁止していたのでバレたときに能をやっていましたと言い訳するためとか)、
様々な演目を用意して1日かけて上演したのだそうな。
すごいのはお殿様がときどき衣装を用意してくれることで
当時、三津江の一座にいた市川九女八の証言によると
「師匠は道成寺の衣装だけで7組くらい持っていた」とのこと。ヒョエ~。
とにかくどこまでも上品に遊ぶということなので、女中さんの前で役者の話をしてはいけないとか
食事が提供されてもその場では食べられなくて持ち物に入れて持って帰ったとか
特別贔屓のおうちに呼ばれるときはお屋敷中の部屋を夜通し回って踊りを披露したとか
色んなことがあったみたい。
あとこれは坂東三津江という人の事例なので、
各地のお屋敷に訪問していた他の御狂言師の人々にも様々な事例があったのだろうと思う。
(ちなみに三津江さんの衣装は東博に9点所蔵されていたりします。→こちらなど。
娘の高木鏡さんが寄贈したのだそうです。わたしも過去に何点か見たことがあります)

三代目坂東玉三郎が女性だったというのはあまり知られていない気もする、
わたしも数年前に何かの折にふと知って「そうだったんだー!」ってなりました。
十二代目守田勘弥の子で6歳の時に玉三郎を襲名、
勘弥が亡くなったあとは九代目團十郎に引き取られて九女八らとともに活躍して
九代目の死後に姉とともにニューヨークに渡り踊りの修行をしていたけれど
22歳の若さで病気になり客死しています。
お墓は多磨霊園にあるそうですが、多磨霊園、いつだったか行きましたが見つけそびれてしまったなあ。
九代目團十郎には息子がいなくて、娘2人は役者になっていて歌舞伎座の舞台にも立っています。
九代目は長女の実子さんに團十郎を継がせるつもりもあったと書いてあってびっくりした、
えええーーーーーっそれじゃもしかしたら女性の團十郎がいたかもしれないのか…!
結局のところ十代目團十郎は実子の夫・稲庭福三郎に追贈されるので
彼女はなりそびれてしまったわけですが…そうかあ…九代目…!
(実子さんはのちに翠扇と改名して明治座でヴェニスの商人に出演したりしています)
他にも、十一代目片岡仁左衛門の娘は片岡峰子と名乗り歌舞伎座に出ていたり
二代目坂東秀調の娘ののしほが本郷座で鶴亀や鏡獅子に出演したり
市川権十郎の弟子の市川笑燕という人が三崎座の専属として女芝居(歌舞伎)に出ていたりと
近代社会にも女性の歌舞伎役者は一定数いて、男性とともに舞台に立っていたのだよね。
各地にも○○座という芝居小屋がまだまだあって、そこで活躍していた女性たちの記録もあって
男性よりは少ないけど女性たちは確かにそこにいたわけで。

市川九女八は歌舞伎の歴史にうといわたしでも知っているくらい有名ですな。
九代目團十郎の弟子であり最初は芸風も似ていたことから「女團洲」と呼ばれたらしくて
(岡本綺堂が『ランプの下にて』の「男女合併興行の許可」の項でそのことを書いてる→こちら
ああやっぱり世間は男性役者を基準に見るのだなと思ったし、
同時代の女性役者に彼女と比べる対象がいなかったことも当時の女性の地位の低さを物語っているなと。
当時の役者には等級制度があって、九代目團十郎は一等、九女八は五等俳優だったらしい。
(九女八は各地の舞台に立ったけど歌舞伎座の芝居に出たのは九代目の三回忌の一度きりで
序幕の「岩戸のだんまり」のみに出ているのですが
長谷川時雨はそれについてちょっと嘆くような文章を書いてます→こちら
赤坂牛込に生まれて、御狂言師だった二代目坂東三津江のもとで修業しながら演技を磨いて
岩井粂治の名前から粂八と名乗り、やがて團十郎門下に入り各地の芝居小屋で大活躍。
大薩摩吉右衛門の薩摩座にいた頃は川越に来たこともあるそうですよ~知らなかった。そうだったのか。
(ドサ廻りだったので疲れと冷えで舞台で腰が抜けたりして大変だったみたいですが)
守随憲治の記録によると二代目三津江さんは晩年に九女八の舞台を見にきたことがあるそうで
そのとき九女八はしばられ弁慶と女鳴神を出していたようですが
「うまくなったね」「私の目に狂いはなかった」「油断は禁物、精進しなさい」と言われたそうです。
当時、三津江さんは90歳くらいで九女八は65歳。うれしかったろうなあ。
あと、1890年に依田学海が九女八に「月華」という名前と漢詩を贈っていまして
(九女八が新派に出るとき本名とあわせて守住月華と名乗ったそうな)、
今回の記事タイトルにはその一部を使わせてもらいました。
絶えて藝女流天下に無し
声名は早くも三都を動かす
結城宰相今いずくに在る
誰か当年の玉念珠を贈らむ

あと、九女八の弟子の佐藤濱子が
「ある画家がフランスでサラ・ベルナールに川上貞奴が日本一の女優であると紹介すると
サラは「自分の聞いた話では九女八という人が一番の女優だそうですが、違うのか」と聞き返された」
という話を伝聞として聴いたと証言しているらしくて、ものすごくびっくりした。
サラ・ベルナールといえば!ベル・エポックやアールヌーヴォーの真っただ中に活躍して
あのアルフォンス・ミュシャにポスターを描かせていたフランスの大女優さんではないですか。
いやそりゃ、河鍋暁斎が亡くなったときはパリの新聞にまで訃報が載るような時代ですから
フランスの演劇人が日本の役者を知っていても何らおかしくはないんだけど、
それでもまったく接点を想像すらしていなかった人同士に思わぬ繋がりがあったりすると
やっぱりテンションがあがってしまう^^
九女八は三代目玉三郎や中村仲吉みたいな海外公演の経験はなく、日本の舞台だけに立っていた人ですが
彼女の活躍と努力、彼女の演技を評価した人々、
また近代社会のグローバル化の進展に思いを馳せてしまうわけです。楽しいね。
というか貞奴と同時代を生きた人だったのか…。
他にも九代目團十郎、五代目菊五郎、八代目幸四郎、初代猿之助、岡本綺堂、長谷川時雨などがいた時代を
九女八は生きたのだなあと思うと体中がむずむずしてきます。
歴史上の人なのだよなあ…。
(あと松貫四の子孫である初代吉右衛門の娘が八代目幸四郎と結婚して松正子を名乗ったので
松たか子さんの芸名の松はそこからきているとか、
猿之助の屋号が澤瀉屋なのは初代の妻が吉原で「澤瀉屋」という見世を経営していたからというのも
この本を読んで初めて知りました。そうだったのかあ。
澤瀉屋の人々の名字が喜熨斗なのも初代の妻の名字からっぽい)


同時代人といえば。
先頃、講談社学術文庫から出た『市川團十郎代々』(服部幸雄)も読んだのですが
代々の團十郎たちのそばにいた人々がすごすぎて。。
二代目團十郎は生島新五郎(絵島生島事件で処罰された人)に芝居を習っているし
名古屋山三郎と競演しているし、英一蝶と晋其角に手を引かれて吉原に行っている。
五代目は大田南畝と狂歌を楽しんでいるし、山東京山は楽屋に訪ねてくることもあったらしいし
烏亭焉馬は五代目を気に入って彼に関する本を次々に出版している。
七代目は荒事にこだわらず鶴屋南北の四谷怪談もやっているし
九代目は演劇改良運動の中で文化人だけでなく井上馨、松方正義、伊藤博文とも交流しています。
歴史上の人々なのだなあ…。
あと彼らの名字が堀越なのは初代團十郎の父親が堀越重蔵という名前だったことからきているそうですね。
屋号の成田屋は新勝寺との関わりからつけられているのは知ってたけど…。
堀越の名字の歴史も古そうですね。
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