
埼玉歴博の特別展「青天を衝け~渋沢栄一のまなざし~」に行ってきました。
放送中の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一について、資料からたどる展覧会です。
歴博所蔵品をはじめかなりの点数が展示されていてとても勉強になりましたが、
これでも彼の仕事のうちのほんの一部なんですよね…。
91年の生涯であらゆる業種を支援しまくり関わった数は500を超えるともいわれますが
もはや正確な数はわからないとか…この人の人生いつ見ても何なんだろうってなります。いやはや。
行くか行かないか、行くならいつか、迷って考えて、できる対策をとって行きました。
博物館の感染症対策は
過去記事に書いたこととほぼ変わっていなかったので割愛。
平日だったせいか人もほとんどいませんでしたが距離をとることは心がけて鑑賞しました。

大河ドラマのキャストさんたちのパネルがありました。撮影スポットですね~。
展示会場にはタイトルの元になった「勢衝青天攘臂躋」の一節がある
「内山峡之詩」の拓本を大きく引き伸ばしたものも展示されていました。
まずは、渋沢栄一という人について。
展示室に入って目の前にあったのが力石(103kg)。
藍をたたく道具なのですが、栄一が行商先の紺屋で持ち上げてみせたというエピソードがあるそうな。
103kgって米俵より重いよ!?Σ(゚Д゚) 若い頃の話でしょうね。
武州自慢鑑藍玉力競は、1862年11月に22歳の栄一が作った藍玉職人たちのランキングで
行司に栄一と渋沢喜作、勧進元に市郎右衛門(栄一の父親)の名前がありました。
市郎右衛門は農家を経営する教養人だったので、
彼が所蔵していた往来物や詠んだ俳句は栄一が『晩香遺薫』という書物にまとめて1930年に出版しています。
そんな父や従兄の尾高惇忠から漢籍や学問を学んでいるので
「百尋桜郭」(78歳で真田親子を詠んだ詩)と「楽亭壁書」(90歳で松平定信を詠んだ詩)からはその影響が見られました。
渋沢栄一書簡(江戸時代)には、上田で再会した紺屋の老女が
かつて若い頃に取引をした人だったとわかったという内容で、藍商売の裏付けですね。
有爵者大礼服(男爵になったときの礼服)やシルクハット、杖などの遺品もあり、
子爵陞爵位記や勲一等瑞宝章(民間人初の受賞)なども展示されていました。
男爵になった際に深谷の血洗島諏訪神社社で撮影された写真(1914年10月10日)もありまして
展示されていた大礼服と勲章を身に付けていました。こういうの見ると「ほんとに着たんだなあ」って思う☆
遺品のトランクには「B・E・S」(バロン・エイイチ・シブサワ)とあったので男爵になったときのものかな。
栄一の妻兼子さんの着物の展示もありまして、
袖と裾に蓬莱山が表現され渋沢家の家紋も染められていて、透けていたので夏用かな?
定家文庫やオペラバッグ、金銀でできた化粧道具なども展示されていて
おしゃれな人だったことがわかります。
幕末の栄一について。
尾高惇忠書「神託」(1863年)。これこのまえドラマで見たやつだ!ってテンションあがりました(笑)。
栄一たちが計画をやめた後燃やされてたね…ちゃんと小道具スタッフさんが作ってらっしゃるんですね。
その後、平岡円四郎をたよって京都に行き一橋慶喜に仕えることになりますが
徳川慶喜書「博施於民」は栄一が慶喜からもらった書で、信頼関係が見て取れます。
京都で栄一が身に付けていたであろう陣笠や脇差(銘備前国住)や、
袴を着た20代の栄一の写真も展示されていました。
剣の流派は無念流や北辰一刀流を学んでいたらしい…本当に幕末を生きていたんだなあ…。
京都での主な仕事は兵力を調達するため領内を回って農民を集めることで
「渋沢篤太夫歩兵人選廻村につき御達」(1865年)には徴募に成功したことが書かれていました。
また事務的な仕事もしていて「硝石製造御用につき廻状」(1865年)には勘定組頭としての仕事が、
「一橋領知備中国荏原産物会所銀札」(1865年)では一橋家の所領で手形を発行したことがわかります。
備中って岡山じゃん!なんでもやったんですね…。
(ちなみに備中には興譲館という郷校があったのですが、館長の阪谷素という学者と仲良くなって
のちに栄一の娘琴子と阪谷素の息子の芳郎が結婚した縁で
芳郎が手紙(1911年)を出して興譲館の扁額を依頼されて作成している(1912年)。)
慶喜の将軍就任にともない幕臣となった後は、慶喜の弟の徳川昭武がパリ万博に出席するため
昭武に随行してパリにわたりますが、
この頃に妻の千代さんに手紙(1867年)を送って千代さんの弟の平九郎を見立養子にしています。
平九郎は江戸にいましたが上野戦争で彰義隊に参加し、飯能戦争で戦死しています。
彼が兄の成一郎とともに参加した振武軍の廻文と軍旗や、
彼が越生で自刃したときに所持していた陣笠と刀が展示されていました。
栄一は彼の死を帰国後に知って、お墓を作ったり自刃の地を詣でたりしたそうです。
近代の栄一。
将軍を退いた慶喜が静岡に引っ越したので栄一もしばらくは静岡にいたようですが、
新政府からの招状が届いて民部省に就職(1869年)し、
のちに大蔵省にて『官版立会略則』(1971年。会社や銀行設立のマニュアル)などを作成しますが
予算編成をめぐって大久保利通や大隈重信らと意見が合わず、1873年に退職しています。
ちょうどこの頃、富岡製糸場が稼働し始めていまして(館長は尾高惇忠)事務主任の仕事を始めています。
尾高惇忠による「富岡製糸場落成詩」(1873年)や深谷で作られたレンガの展示もありました。
大蔵省を退職してからはひたすら会社や施設をつくりまくります☆
まずは設立に参加した第一国立銀行(現・みずほ銀行)の総監役になりました。
(前島密にあてた手紙は中央に「第一国立銀行」と書かれた原稿用紙を使っている)
二代歌川国輝「東京府下海運橋兜町第一国立銀行五階造真図」に第一銀行も描かれていて
(看板に「バンク」と書かれている)、
井上探景「憲法発布式大祭之図 江戸橋ヨリ鎧橋遠景」にも銀行と海運橋が描かれていました。
銀行が20周年の営業満期を迎えたときの記念朱塗盃(1896年)は今もみずほ銀行に所蔵されてるんですね…!
五代友厚にあてた手紙(1872年)で「三井と小野の協力がないと大変だけど大隈(重信)も忙しいしなあ」などと綴っていて
銀行の経営についてや2人の親しい仲も想像されます。
1878年に出した手紙には五代が関わった大阪株式取引所のオープンをお祝いしていて、
1879年の五代からの手紙には取引所が順調であるという返事がきていました。
次に抄紙会社(王子製紙)。
『創立記事』(1873年)からはアメリカから輸入する抄紙器械の交渉にあたったことがわかり、
『回議録』(1874年)からはイギリスに発注した器械や製紙技師の到着までを専決していたことがわかり、
『抄紙会社記事』第二(1875年)からは東京日日新聞(現・毎日新聞)に洋紙を納入する相談をしていたことがわかります。
新聞が発行される世の中になったので洋紙が必要なんですね~。
(ちなみに『取締役会議事録』第貳(1898年)からは経営が三井に移ったため辞任していることがわかる)
鉄斉菅真郷筆「武陽王子飛鳥山真景」(1888年)には抄紙会社や大蔵省印刷局抄紙部の建物や
飛鳥山の渋沢栄一別邸が描かれていました。
あ、抄紙会社や第一銀行の建物は清水建設が建てているそうです。
第一銀行の鋳造模型(1930年)や王子製紙会社新工場写真(1889年)などがありました。
(清水建設は他にも、日本女子大学校図書館(1909年)や澁澤倉庫(1915年)なども担当している)
また栄一は生涯で家を6軒建てていますが、うち4軒を清水建設が建てていて
王子や深川の自邸などの設計図もありました。
(ちなみに王子の渋沢邸は現存します!史料館になっているよ)
次に、日本煉瓦製造株式会社。
会社の設立願(1887年)を東京府知事あてに出して本社を東京に置き、
煉瓦製造所設立願(1887年)を埼玉県知事あてに出して深谷に工場を建設しています。
ここで作られたレンガを使って東京駅や万世橋高架橋、日本銀行、赤坂離宮、東京大学、
信越本線碓氷峠の鉄道施設などが建設されたのは有名な話☆
さらにそのレンガを運搬するために鉄道が必要ということで
深谷(現在の高崎線深谷駅)から利根川近くの上敷免までの鉄道布設願(1894年)を出して
専用鉄道もつくります。
鉄道に使われていた蹄鉄やレール、犬釘などの展示があり、
当時の工場で作られた上敷免刻の印入りレンガやたたき板の展示がありました。
渡米実業団。
1909年に経済外交として日本各地の実業家や若手たちがアメリカの主要都市を回ることになり、
栄一が団長を務めています。
(エジソン電気会社への訪問とエジソン夫妻との交流もこのとき行われたそうな)
「渡米実業団記章」(1909年)はそのとき団員が身に付けていたものです。
帰国後に栄一が「渡米実業団感謝文草稿」(1910年)を書いて
それをもとに実際に作られた渡米実業団西陣織感謝状(1910年)は高島屋に依頼したそうで
西陣織で囲み額装されている豪華なものでした。
実業団に参加した51人の名前も添えられていまして、
たぶん実業界では有名になっている人たちばかりなのだろうと思いますが
わたしにわかったのは巌谷小波と根津嘉一郎、松方幸次郎だけであった…勉強不足…。
外交といえばアメリカ大統領だったユリシーズ・グラントが来日した際に
栄一が総代のひとりとして新橋駅まで迎えに行くのですが
グラントを迎えるにあたり栄一が書いた指示書(1879年)が展示されていました。
また、大久保作治郎による聖徳記念絵画館壁画下図「グラント将軍と御対話」(1930年)の制作時に
栄一は当時陪席した唯一の生き残りとして参加しています。
社会事業について。
成瀬仁蔵が日本女子大学校を設立するにあたり、栄一は5000円の寄付をしていて
寄付金名簿(1914年)には大隈重信や西園寺公望らとともに名前が並んでいました。
日本女子大学校創立事務所日誌(1899年)には栄一が大学創立計画の講演をしていたこともわかります。
また松平定信を尊敬していた栄一は、
定信が江戸時代に行っていた七分積金制度で養育院が運営されていたことに倣って
当時菅谷村(現・嵐山町)にあった埼玉育児院(現・川越市)に支援をしています。
埼玉育児院感謝状(1925年)を見ると名誉顧問にもなっていたみたい。
また埼玉県出身の学生を援助するため、本多静六とともに発起人になって埼玉学生誘掖会をつくります。
出資依頼の書状と出資引受證(1903年)が並んで展示されていました☆
清水良雄筆「渋沢栄一肖像」(1930年)は会員の学生たちの寄付で描かれた作品だそうです。
また埼玉出身の塙保己一を顕彰するために、保己一のひ孫の塙忠雄とともに温故学会をつくったことが
設立登記申請書・定款(1922年)からわかります。
活動としては学会のために温故知新の額(1927年)を書いたり、
保己一の徳育教育について依頼する文書(1928年)を出していたりします。
この頃建てられた温故学会の建物は関東大震災で倒壊していますが、
震災後に鉄筋コンクリートで再建されたことが(清水建設だよ)1925年の図面の展示でわかりました。
あとわたし知らなかったんですが旧埼玉会館の銘板の元字も栄一が書いてたんですね!
本物(1926年)が展示されていました。彼が中心になって寄付を募ったんですね。
旧会館がオープンしたときの記念式典(1926年11月6日)のニュース映像が上映されていまして、
礼服を着た栄一もちょっとだけ映っていました。映像が残ってるんだなあ…!
そして、友好人形交流事業。
横浜人形の家の記事にも少し書きましたが、
1924年の排日移民法のために日米関係が悪化した際に
アメリカの宣教師シドニー・ギューリック氏が全米から人形を集めて日本に送るプロジェクトを実行。
このとき人形の受け取りの事務を行ったのが渋沢栄一が会長を務める日本国際児童親善会で
雛祭りに間に合うよう贈られた人形は文部省を通して日本各地の小学校や幼稚園に寄贈されたことが
各県別・各船舶別人形配布割当表(1927年)からわかります。
さらにお礼としてクリスマスまでにアメリカに答礼人形を贈るプロジェクトが計画され、
日本各地の地名を名字にもつ市松人形58体が11月に日本を出発、アメリカに贈られています。
(人形交流は太平洋戦争でいったん途絶えましたが、戦後に復活しまして
現在もギューリック氏の子孫の方が続けていらっしゃるそうです)
今回は渋沢栄一の展覧会ということもあり、出身地である埼玉県内に現存する12体の青い目の人形が
すべて展示されていました。
当時、埼玉県にやってきた人形は合計178体だそうですが
現存するのは秩父や横瀬、本庄、熊谷、長瀞、東秩父、越谷、所沢、杉戸、久喜で
戦争中に行方がわからなくなっていたのが学校の倉庫から発見されるなどして保存されているとか。
お人形だけが保存されている場合が多いようですが、
旧大滝村(秩父)や杉戸町など、人形が届けられた際の歓迎式典や写真が残っている地域もあります。
田宮尋常高等小学校日誌(1927年)には人形歓迎会の記述があったり
大滝小学校青い目の人形関係資料(1927年)は式典案内状や式次第、人形を迎える歌(!)などもあったそうです。
青い目の人形を抱く少女写真(1927年)には久喜の江面小学校の女の子が人形を抱く姿が写っていました。
(彼女は写真を撮ることが決まったとき校長先生に言われてお昼休みにいったん家に戻り、
袴姿に着替えてまた学校に来たそうです。えらいこっちゃ)
また、クリスマスにアメリカに贈られた58体の答礼市松人形ですが
アメリカのチャールストン博物館をはじめ数体が現存しているそうです。
答礼人形ノ名称(1927年)には1体1体に名前がつけられたことがわかっています。
日本代表の倭日出子をはじめ新潟雪子、山梨富士子、沖縄球子などご当地が連想されるお名前が並んでました。
埼玉県代表は秩父嶺玉子といい、栄一が名付け親です。
彼女の現存先はわかっていないらしく(チャールストン博物館で名前の台座が取り違えられてしまったそうな)、
去年、人形師さんにより身長80cmの姿が復元されました。→
こちらえ~~~~っかわいい~~~~~っ!!!+゚+。:.゚(*゚Д゚*).:。+゚ +゚
緑色の着物の袖には蝶が、裾には御所車と花が染められて真っ赤な帯がすごく似合ってる!
いやはや…大事業だったんだなあ…!
晩年。
NHKの大正15年度昭和元年度事業報告(1926年)には栄一がNHK顧問としてラジオ講演をしたことが書いてあり、
講演「道徳経済合一説」レコード(1923年)や373型ダブルボタンマイクなども展示されていました。
映像も残ってて肉声も残っている…近代人だ…!本当に最近の人なんだなあと改めて思いました。
最晩年の資料としてはNHKで書いたという「順理則裕 従慾惟危」(1930年)。
91歳のときの書で揮毫したときの写真も残っているものです。ずっとお仕事してたんですねえ。
1926年に86歳で自筆した論語も残っていて展示されてましたし。
大宮に住んでいた漫画家の北沢楽天による「渋沢栄一肖像」(1928年)では
色紙の中で88歳の栄一おじいちゃんがニコニコと笑っていました。
また、常設展示室には栄一旧蔵の美術品が数点、展示されていました。
和田英作「渋沢栄一肖像」(1914年)は礼服を着た栄一を描いた油絵。
第一銀行が創立五十周年を迎えた時の記念扇子(1923年)。
松平定信書「水鏡集」(江戸時代)は定信が日本各地の名水で墨をといて歌を詠んだもの。
下村観山「富士」「城外の雨」(1914年)、栄一は観山を支援するために観山会をつくっているのですが
頒布会や旅行などの活動があったそうです。
橋本雅邦「松下郭子儀梅竹鶴図」「江楼圍棋」(1900年)は飛鳥山にあった栄一の自邸で
実際に掛軸や襖絵として飾られていたそうです。(写真もありました)
また、松平定信を顕彰するために福島の白河に南湖神社(1922年鎮座)を建てようと奔走し、
橋本永邦に「桜図」を、下村観山に「楓図」を依頼していて、今回はそれも展示されていました。
(普段は神社の宝物館にあるそうですが、神社外で展示されるのは初めてだそうです)
推しのために神社を建てるファン…!(ちょっと違うか)
あと定信の没後100年だった1929年の6月に楽翁公百年展を開催し、
そのとき展示されたという楽翁公銅像などがありました。手で持てるくらいの小さい像だった。

展示の最後にあった、青年期と壮年期の渋沢栄一さん等身大パネル。
思ったより小さかったですね…身長150cmくらいかな?

こちらは撮影可コーナーにあったものです。渋沢栄一編纂『徳川慶喜公伝』(1918年)
慶喜の存命中は刊行しないという約束をしていて、没後に刊行されたもの。

渋沢栄一編纂『楽翁公伝』(1931年)
楽翁公遺徳顕彰会の事業の一環で編纂したもの。松平定信の伝記ですね。

渋沢青淵(栄一)筆『大学』および『前赤壁賦』(1929年)。
湯島聖堂を維持管理する斯文会が栄一の米寿を祝して詩を贈ったところ、
その返礼として栄一から会に贈られたもの。
あと、写真を撮ったつもりで帰宅したらちゃんと撮れてなかったんですが
渋沢栄一伝記資料(全68巻)もこちらのコーナーにありました。
栄一の孫の渋沢敬三が中心になって編纂されたものです。
敬三さんについては
過去記事にもちょこちょこ書いていますけど
正直わたしは栄一おじいちゃんより彼の方が好きだったりします(笑)。
必ずしもおじいちゃん子じゃなかったところとかアチック作ってた頃の準備室の話とかおもしろいのですよ~。
わたしが好きな敬三さんの言葉はこれ↓
「如何なる微細な事でも、又一見つまらぬ様な事でも、ありのまゝに出来得る限り集めて置かねばならぬ。
そして後に伝記を書く人に自由に使用させねばならぬと斯様考へて居ります」
(『渋沢栄一伝記資料』第57巻p.708)
アーカイブとオープンアクセスですよ皆さん!!(゚Д゚)クワッ(落ち着け)←職業病

あと、これも。
年明けに開催予定だった「銘仙」展の図録です。
緊急事態宣言のため博物館が休館となりましたので、開催されずに終了しました。
本当に本当に見たかった展覧会だったので、せめて図録だけでもと思ってゲット。
また何らかの形で開催されますように…。