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ゆさな日々

猫・本・歴史・アートなど、好きなものやその日考えたことをそこはかとなく書きつくります。つれづれに絵や写真もあり。


Lequio grande(大琉球)。

  1. 2022/06/26(日) 23:44:38_
  2. 歴史
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ryukyuten_1.jpg
東博の沖縄復帰50年記念特別展「琉球」に行ってきました。
(チケットは予約制ではありませんが、入館にあたっては検温と消毒とマスク必須で
会話を控えることと90分以内での鑑賞を推奨されていました)

沖縄の歴史や文化について縄文時代~現代までを紹介する展覧会です。
琉球王国時代にアジアやヨーロッパとの貿易や留学でもたらされたものや
薩摩藩や大和朝廷との間で交わされたもの、王朝の調度品や衣裳などの文化、
廃藩置県や沖縄戦で失われたり欠けたりした数知れない品々など様々見ることができました。

そう、縄文時代からなんです!
沖縄の遺跡や貝塚の出土品から、沖縄の古代が垣間見えました。
曽畑式土器や船元式土器など様々な土器が出土していて
なかでも浦添貝塚から出土した市来式土器は南九州を中心に見つかっているもので
1970年に沖縄で初めて確認され、当時の九州との交流を裏付けた貴重なものだそうです。
伊礼原遺跡から出土した黒曜石製剝片・ヒスイ製垂飾は糸魚川や九州が原産地のようだし
アンチの上貝塚からは大量の貯蔵イモガイが出土していて
こちらも九州や大和との交流を裏付けるもの。
摩文仁ハンタ原遺跡からはイノシシやサメの歯、タカラガイが見つかっていたり
貝交易の拠点だった宇堅貝塚からは貝殻がたくさん見つかっていたりと
古代の生活品や貿易の様子もわかります。
ジュゴンの骨をアクセサリーに加工したものもありました。昔から沖縄の海にいたんだなあ。

時代は下る。
浦添ようどれ出土の蓮華文軒丸瓦や癸酉年高麗瓦匠造銘平瓦はグスク時代のもので
琉球で瓦の生産が始まった頃のものということです。
今帰仁城跡出土の陶磁器は青磁、景徳鎮、タイやベトナムの陶器で
鴨の形をした緑色の三彩鴨形水注は首里城跡から発掘されています。
また首里城京の内二階殿跡(国王の生活空間)からは天目茶碗と茶入が見つかっていて
喫茶文化の影響がわかるし、
元青花の優品(日本では沖縄以外では見られない)も出土していたり、
旧波上宮の朝鮮鐘龍頭残欠(956年)は沖縄唯一の高麗鐘の鐘龍頭とされています。
(鐘の胴部分と所蔵していた波上宮は沖縄戦で焼失してしまっています)
シャム南蛮と呼ばれた褐釉四耳壺はタイの蒸留酒を輸入する際に使われたもので
大きくて胴の部分がふっくらしていました。
王世子の邸宅である中城御殿跡から見つかったヨーロッパのもの?とされるガラス片や
円覚寺跡から出土したクリス(インドネシアの短剣)もありました。
具志頭城北東崖下洞窟からは五銖銭(燕の貨幣)も見つかっていてアジアとの交流もうかがえますし
勝連城跡から見つかった中国銭(開元通宝・天聖元宝・大観通宝・洪武通宝)や
ローマ帝国とオスマン帝国の貨幣は日本では沖縄以外に出土例がないそうです。

1244年の漂到流球国記(慶政筆)には、松浦から南宋に渡ろうとして琉球に漂着した一行から
慶政が聞き取りをした記録が残っていて
当時の琉球は食人風習があるという認識が本土の人々にはあったらしい。なんじゃそりゃ。
(この頃は流球と表記されていて、琉球となるのは明が命名した14世紀頃からだそうです)
申叔舟編『海東諸国紀』(1471年編)は朝鮮で作られた日本と琉球に関する研究書で
琉球国海図のページが開かれて琉球国都などの文字が見られるので都があったとわかるし
(1453年に博多商人が朝鮮の皇帝に献上したものだそうな)、
コルネリス・ドッツゾーン「南洋鍼路図」(1598年)は1600年に豊後に漂着したリーフデ号がもたらした
オランダの海図で、「Lequio grande(大琉球)」と記されているので
この頃はヨーロッパにも知られていたとわかりますね。
旧首里城正殿鐘(万国津梁の鐘)は1458年に大工の藤原国善が制作したものですが
銘文(漢文)を琉球相国寺住持の渓隠安潜が担当していて
内容に韓・明・日の文字が見られることから韓国・中国・日本との外交を行っていたことと
この鐘が梵鐘であることから仏教の影響も伝わってきます。
(造らせた当時の国王尚泰久は臨済宗に帰依して南禅寺の僧とも交流がありました)
何より琉球に相国寺があったことにびっくりしてしまったよね…!(今は廃寺)
対馬宗家関係資料の木印「徳有鄰」は室町幕府将軍が使用していた印を対馬宗家が偽造したもので
本物は失われているそうなのですが偽物があることで本物の存在証明ができるってことか…
相国寺の「蔭涼軒日録」に足利義政が琉球の文書にこの印を押したという記録があって
(1459年12月24日のことだそうです)室町幕府と琉球の交流もわかるんですね。
1500年発行の朝鮮国書は1497年に朝鮮に漂着した琉球人を対馬州人に託して送り返すという内容で
当時の朝鮮国王李隆から琉球国王尚真宛てに出されています。
6人死んじゃったけど4人は生きてるから返すね!みたいな内容でした…ひいぃ。

鎌倉時代~室町時代あたりの琉球は山北・中山・山南の三山時代(統一王朝ではありません)。
やがて山北と山南を中山が統一し国王となった尚思紹王を始祖とする第一尚氏と
クーデターにより第一尚氏を倒して即位した尚円王を始祖とする第二尚氏についての紹介。
時代も近づきますのでここがやっぱり一番展示物が多かったですね。
当時の貿易の様子をうかがう資料として、19世紀のものですが琉球進貢船図屛風や琉球交易港図があり、
唐船や冠船、薩摩の商船、琉球のハーリー船などが描かれていて
那覇港がインターナショナルな場だったとわかります。
冊封使船送迎之図(冠船および進貢船図)は清が琉球に冊封使を派遣する様子を描いたもので
(新しい琉球国王の即位を任命するために使節を送る慣例がありました)、
王冠や勅書を運んでくるために冠船と呼ばれたようです。
船体は真っ黒で、まあるい目のような模様があって何だかこいのぼりみたいに見えました。
唐船(進貢船 )図は中国に派遣された琉球使節の様子を描いたもので
記入された寸法によると船身34.8m、船幅9.7m、帆柱30.3mだそうです。
朱漆牡丹唐草箔絵茶弁当は中国と琉球を往来する役人が使っていたものだとか。
朱黒漆三巴紋漆絵盤には琉球王家の紋章である左巴がついていました。
歴代宝案は1424~1867年に琉球国が東南アジアの諸国と交わした4300件もの文書を
1933年に写本として制作したもの。
おもろさうしは第二尚氏時代に出版された古歌謡「おもろ」の歌謡集で
ひらがなで書かれていたので「きや(京)」「かまくら(鎌倉)」「たう(唐)」などの文字が読み取れました。

球陽は第二尚氏時代に編纂された正史で1745~1876年までの出来事が書かれた歴史書。
公文書もいくつかあって、1500年代の辞令書にはでかでかと首里城之印が押されて
貿易担当の辞令や土地の総付についてひらがなで書いてありました。
ちなみに17世紀以降の公文書は漢文で書かれることになっていったそうで
1780年の辞令書(漢文)は尚穆王が瑞慶覧按司を聞得大君に任命したもの。
聞得大君を任じた文書はこれしか残っていないそうで、現存唯一です。貴重だ。
聞得大君御殿雲龍黄金簪はドーム型の頭から柄が伸びていて
すべてが金色でキラキラ輝いていて美しかった…!
雲の中を行く龍が生き生きと表現されていて、柄にも唐草などの模様があしらわれていました。
この簪をつけて儀式を行う聞得大君を想像するとめちゃくちゃ神々しくないですか。かっこいい。
御絵図帳(1835年)は聞得大君御殿のための発注デザイン帳で、
周囲の島々に貢布を発注して織らせて納品させていたそうです。
仲宗根豊見親家に下賜された金頭銀茎簪は金色の獅子と鴛鴦があしらわれて綺麗。
三御飾御規式之時御座御飾之図は笙・琴・二線が置かれていて、
冬至元日十五日唐玻豊出御之時御備之図は
冬至やお正月の儀式の際に国王が出御するときの配備や調度についての図。
御書院並南風御殿御床飾は儀式で薩摩の在奉行を招くときの書院と屏風の床飾りについての図で
南風御殿は書院造の影響で床の間があったのだそう。

大和との外交。
喜安日記は喜安入道(堺から渡沖した茶人)による日記で
島津の琉球出兵(1609年)の頃から降伏して捕虜にされた尚寧王に付いて薩摩や江戸へ行き、
やがて琉球に帰るまでの約2年半にわたる記録です。
展示されていたページには当時の将軍徳川秀忠と対面した様子などが見られました。
1710年の琉球国王尚益書状は徳川家宣の将軍就任と尚益の国王就任について
謝恩使を派遣するという内容で、島津吉貴が許可を出しています。
さらに同年の老中連署書状は尚益宛てに謝恩使派遣のお礼が記されており、
このときの取次によって島津吉貴は官位が上がったそうです。
琉球使節の派遣は薩摩にとって政治的アピールになっていたようです。
琉球使節が江戸にやってくる様子を描いた椎名文囿の琉球来聘使登営図(1843年)には
徳川家慶の就任祝いのためにラッパや太鼓を鳴らしながら賑やかに歩いてくる行列が描かれていました。
島津家を通して尾張徳川家へ贈られた琉球楽器の鼓と小銅鑼(御座楽に使うもの)もありました。
大和朝廷でアジアとの交流を行っていたのが博多なら、琉球との交流は鹿児島が窓口だったみたい。

神女と斎場(聞得大君の就任儀式を行う場所)について。
聞得大君は琉球各地の神女をまとめる組織の頂点に立つ存在で、男性国王の親族女性が任命されることが多く、
初代聞得大君は第二尚氏最初の国王・尚円の娘の月清だったそうです。
南城市の斎場御嶽からは勾玉、青磁、貨幣などが出土し、
首里城京の内跡から厭勝銭(護符)やチョウセンサザエ製埋納容器が出土しています。
聞得大君の儀式の際に献上されたり使われたりしたと考えられています。
ノロは各地の祭祀を執り行う女性たちで、
羽地間切の屋我のろへの辞令書(1625年)は神女職であるノロに
羽地間切屋我ノロの孫の「おとう」を任命するとひらがなで書かれた文書で
ノロが祖母から孫へ受け継がれていた事例として考えられます。
朱漆花鳥沈金丸櫃はノロの祭祀道具を入れるもので
神女が身に着けたアクセサリーとして玉ハベル、玉ダスキ、玉ガーラが展示されていました。
玉ガーラはノロへの任命の辞令とともに贈られるアクセサリー。
黒地香袋桜牡丹文様描絵芭蕉衣裳や紺地雲龍文様錦衣はノロが着用した衣装で
上着とスカートのような形をしていました。

陶器や詩、絵画を通した大和や海外との文化交流。
黒漆雲龍螺鈿大盆には宝珠と、皇帝の象徴である五本爪の龍が描かれていました。
朱漆山水楼閣人物箔絵足付盆および丸重は琉球から薩摩の正龍寺を通して京都へ贈られたもの。
褐釉天目には天界寺(尚泰久が創建した寺で沖縄戦で焼失)の墨書きがされていました。
徳化窯の白磁藍彩牡丹文茗碗は琉球に煎茶文化があったことがわかるもの。
灰釉竹形筒花入は立花、隣に並んでいた呉須絵擬宝珠形丁子風炉は香を楽しむためのもので
どちらも琉球士族にとって必須教養だったそうで、
その花入と風炉が描かれた篆書「立雪堂」の掛け軸は名護親方寵文(号:雪堂)宛に徐葆光が贈ったもの。
楷書物外楼記巻は名護親方(名護間切の総地頭)と呼ばれた寵文が江戸に行った帰りに寄った京都で
近衛家21代当主の近衛家熙から鴨川にある別荘・物外楼について詩文を書くように依頼されたもの。
孔林楷杯(孔林は孔子一族の墓のある竹林のこと)は寵文から家熙に贈られた盃で
お酒の飲めない家熙はこれを伏せて置いて木暇山と呼んだそうです。
(楷杯は1706年の進貢使節で北京に向かう途中、曲阜に立ち寄り手に入れたものとのこと)
琉球から留学した絵師たちを指導したという福建省の孫億による鳳凰牡丹図、
贈答用ということで鳳凰も牡丹の色もド派手です。
琉球王府の絵師だった山口宗季(呉師虔)の花鳥図(1706年)は
福建省への留学中に教わった孫師昌の花鳥図を忠実に写したもの。
山口宗季「関羽像」(1727年)には「琉球呉師虔手をあらいて謹んで写す」と記入してありました。
さらに山口宗季に教わった殷元良(座間味庸昌)の枯柳水禽図や
趙雲と阿斗が船の上に立つ姿を描いた船上武人図もありました。
趙雲がかっこいいのはいつものことですが、阿斗様も趙雲の隣にしっかり立って前を向いてかっこよかった。
御書院御物帳は王族が所蔵した書画の目録で、琉球王府の芸術家たちの作品リストです。

王族の調度品や衣裳。
朱漆花鳥螺鈿箔絵密陀絵机は長方形で牡丹・菊・尾長鳥・カワセミなどが描かれています。
伊藤忠太旧蔵の朱漆巴紋牡丹沈金御供飯、大型の足高盆でこんもりとした蓋がついていまして
現存が確認されているのはこれを含む3作のみという貴重なもの。
朱漆桐鳳凰螺鈿七弦琴は螺鈿で囲まれた真っ赤な胴に螺鈿で鳳凰と植物が描かれています。
黒漆牡丹唐草螺鈿卓は猫足で真っ黒、きれい。
黒漆司馬温公家訓螺鈿掛板は司馬光の家訓を螺鈿で、縁取りがブドウと栗鼠文様でかわいい。
御玉貫は泡盛の瓶にかぶせる覆いで、色とりどりのビーズを麻糸でつないで模様をデザインしています。
浅葱地手縞織絹衣裳は士族女性の普段着で、水色の地に格子模様が染められていました。
白地縞絣苧麻着物は大和の着物の仕立てになっているので輸入品か、職人が現地で制作したのかな。
浅葱地団扇流水沢瀉河骨桜菊文様木綿紅型袷衣裳は冬用の衣装。
染分地遠山松竹梅文様紅型木綿衣裳は単衣でプルシャンブルーが使われています。
団扇流水沢瀉河骨桜牡丹菊文様白地型紙。紅型の型紙は奉書紙で作られているそうで(丈夫だからね)、
紙を切り抜いて散らして模様を作るので、崩れないように絹糸でパーツを結んでありました。
藍地霞梅枝垂桜鳥流水蛇籠葵菖蒲文様藍型木綿袷衣裳は藍型(えーがた)というそうで
そうか紅型があるなら藍で染めるのは藍型か…!
久米島紬裂地は黄色い地に御絵図柄(王朝が使う模様)がデザインされていました。
紺地御絵図柄絣苧麻衣裳は宮古島の布で、首里城に献上していたこともあるそうです。
紺地格子に緯絣芭蕉桐板衣裳は八重山産で貴族女性が着用したもの。
沖縄諸島の染色について全然知らないのでパネルなどでも説明いただいて助かりました。

八重山島蔵元公事帳(原本1857年)は八重山の行政の指針文書で
王族が八重山を治めていた頃のものとのこと。
八重山風俗図(1889~91年頃)は旧正月の綱引き行事の様子を描いたもので
近代の制作なので日の丸や鉄砲を持った軍人のような人も描かれていました。
石垣四箇村の登野城・大川・石垣・新川各地の旗頭本は綱引き行事に使う幟のデザイン画帳で
さっき尚氏の展示のところで見た冬至元日十五日の儀式でどう掲げるかの方法なども描かれていました。
この幟は復元されて、現在も現地のお祭で使われているそうです。
紺地手花芭蕉木綿手巾は読谷でウミナイティサージ(祈りの手巾)と呼ばれるもので
五色の糸を使って織られていてカラフルでした。

近代の琉球(沖縄)。
フランシス・リスター・ホークス編「ペリー提督日本遠征記」(1856年)。
ペリーは日本への来航時に5回ほど琉球に行っているそうで、
挿絵には黒船やペリーを物珍しそうに見る琉球の群衆が描かれていました。
琉球風俗図は琉球の儀式について書かれた巻物で、婚礼のページが開かれていまして
制作年は不明ですが「沖縄県琉球国城図」と記述があるので
いわゆる琉球処分の後(1879年~)ではないかとのこと。
伊波普猷著『古琉球』(1911年)や「南島談話」(1931年)(柳田国男の南島談話会機関紙)など
沖縄県となった琉球を研究する本土の人々の紹介もありました。
鎌倉芳太郎の「琉球芸術調査記録」は沖縄の文化研究の資料で
奄美やミントングスク、入墨などについて研究したもの。
百浦添御普請絵図帳(1846年)は首里城正殿の修理の際に制作されたもので
挿図には彩色もされているので近代の首里城研究にも使われたとか。
仲宗根真補「沖縄県琉球国首里旧城之図」(1894年)は19世紀の首里城を鳥観図のように描いた絵図で
歓会門には廃藩置県の後に沖縄に置かれた沖縄分遣歩兵隊の看板がかかっていました。
大龍柱はかつて首里城正殿前にあった柱の一部で、かつては3mもあったそうですが
首から下は沖縄戦で失われてしまい現在は頭部のみが残ります。
よく見たら角とか鬣とか、他にもあちこち欠けていて痛々しかった。。
扁額「高牖延薫」は首里城北殿にかかっていた扁額で
尚穆王を冊封するため1756年に来琉した全魁が書いたものです。
沖縄県設置以降に行方不明になり来沖地理学者の志賀重昂に寄贈され、
数年前に志賀の出身地である岡崎で発見されています。
首里城並諸方絵図間付差図帳(1934年)は近世の絵図の写しですが
記述されている区画の間口を見ると1709年頃の琉球の地図ではないかとのこと。

最後に、沖縄県が進めている琉球王国文化遺産集積・再興事業の紹介。
琉球文化の復興と継承ということで王朝時代の手わざの復元が試みられています。
さっき展示室で見てきた聞得大君の簪や御玉貫や金杯などがピカピカに再現され展示されていました。
できたての頃はみんな輝いていたよな…そうだよなあ。
沖縄戦で破壊された旧円覚寺仁王像の残欠から6年かけて復元したという阿吽の仁王像は
でっかいやらかっこいいやら、院派の影響もあるそうでムキムキです。迫力満点。
仁王像を見るといつも「張っ倒されてぇ…」などと考えてしまうのですが
別にイケメンならおKとか暴力振るわれたいとかじゃなくて、こう、
仏敵を防ぐ力ってどういうもんなんかしらとか張っ倒されたらどんな感じがするんかしらとかの、ただの気持ち。


ryukyuten_2.jpg
国宝・尚家宝物コーナーのみ撮影可でした。
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