遣唐使と仏教アートの旅その1。
奈良と京都に行ってきました☆
今年は吉備真備・玄昉・阿倍仲麻呂・井真成ら第9次遣唐使が717年に海を渡ってから
1300年の節目の年にあたるため、
ちょっと思い立って彼らのゆかりの場所を巡ってまいりました。
あと奈良博でやってる快慶展と、京博でやってる海北友松展にも行きたかったし。
例によって夜行バスで移動、奈良のホテルに荷物を預けてからバスに乗りまして
まずは福智院へ。

バス停から道を1本入ってすぐ。
遣唐学問僧として唐に渡った玄昉が帰国後に建立した清水寺というお寺が
中世に福智院地蔵堂として再興されたそうです。
朝早かったためか境内は人が全然いなくて静かでした。

本堂。
お茶と飴の接待を受けながらご住職のお話を伺いました。
ご本尊の地蔵菩薩坐像(鎌倉時代)が内陣の中央にどーん!といらっしゃってかっこいい☆
めずらしく光背を背負ったお地蔵様で、
六地蔵と閻魔・太山王のほか560体もの小型化仏がびっしりと連なっていて
これは56億7千万年後に現れる弥勒菩薩の信仰が影響しているとか。

玄昉僧正顕彰之碑。没後1250年を記念して建立されたものです。
本堂には玄昉の小さな像もありまして、眉の太いイケメンさんだった。

いただいた御朱印。
ご本尊の地蔵菩薩さんは毎月27日が縁日で、見開きの御朱印はこの日だけいただけます。
あと玄昉の御朱印もあったので書いていただきました!
さりげなく「元清水寺」と入ってますが、これは玄昉が建立した際の寺名ですね。
彼がいた頃とお寺の名前は変わってしまったけど繋がっているような気がして
お寺のお心遣いに泣きそうになった。

境内の八重桜。ソメイヨシノよりも遅れて咲くそうです。
他にも牡丹や白菖蒲など花がたくさん咲いたお庭はとても賑やかでした。

福智院から歩いて5分。頭塔の見学に来ました。
頭塔はホテルウェルネス飛鳥路の敷地内にありまして、
ホテルのフロントに見学料300円を支払うとパンフレットをいただけて入口を教えてもらえます。
ではではいってみよー!
以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ☆

頭塔の周りは展望スペースになっていて、周囲をぐるりと見学できるようになっています。
方形七段、てっぺんには五輪塔があり20か所以上に石仏がはめこまれて
見れば見るほどなんじゃこりゃ~!と圧倒される存在感。
現在は奈良県による発掘・整備が行われていて、復元予想図などもあるみたい。
元々は東大寺の僧侶が築き、土塔(どとう)という呼び名が訛って頭塔になったということですが
この塔には玄昉に関する奇妙な伝説がありまして。
太宰府に左遷された玄昉が観世音寺の落慶法要の最中に空高くつかみあげられ、
空中で四肢をバラバラにされて奈良興福寺に首が飛んできたので
この塔に埋めたというものです。
(扶桑略記はその原因を、玄昉や真備の出世のため零落した藤原広嗣の怨霊のしわざとみている)
ちなみにその伝説も、最初は「頭を埋めた」だけだったのが
「玄昉に雷が落ちてその首が雲の中へ消えた」とか「虚空で首が笑い声をあげた」とか
「腕や眉や胴体が落ちた場所もある」とか、どんどん尾ひれ背びれがついて
物語がひとつ書けそうなところまで誇張されまくってるのがおもしろいと思います。
首飛んでる系男子というと平将門あたりが浮かびますけど実は玄昉の方が先輩なのだ( ˘ω˘ )。

てっぺん付近。五輪塔は江戸時代くらいのものらしい。
塔には登れませんのでこれ以上は確認できないけど
パンフレットの写真を見たら結構、ちゃんとした形のが乗ってるみたいです。

頭塔はあっちこっちに石仏がはめ込まれていまして
写真はそのひとつで、如来と脇侍。
だいぶ風化してしまってるけど何の目的で作られたのかな…ロマンは深まるばかりです。

頭塔から歩いて5分、奈良教育大学に来ました。

大学のキャンパス内にある吉備塚古墳。
吉備真備のお墓といわれていたそうですが、
最近の調査で古墳時代のものと思われる副葬品が発掘されたので現在は否定されています。
古墳の上には大きなクヌギがどっしりと根を張っていました。
真備は後年建てられたのはあるけど本人のお墓は見つかってないんでしたっけ…どこに眠っているのかな。
時計を見たらまだ少し時間があったので、地図を見たら
前々から行ってみたかった新薬師寺が近かったので行くことにしました。

歩いている途中で見つけた不空院。
空海の提案で建立されたと伝わり、ご本尊は不空羂索観音です。
かつて境内の鎮守社・弁財天には奈良町の芸妓たちが縁切り・縁結びのお参りに訪れたとかで
女人救済、つまり駆け込み寺の役割も果たしていたそうです。

新薬師寺に着いた~と思ったら他にも鳥居がぽつぽつ。
順番にお参りすることにします。

鏡神社。新薬師寺の鎮守社で祭神は天照大神・地主神・藤原広嗣です。
吉備真備が建立したとの説もあるらしいけど、仮にもしそうだとしたら
自分を批判した上奏文を出した相手を神社に祀ってあげたわけで、いい話だなあ…。
いや、たまたま神社建てたときに「祟らないで広嗣~」みたいなノリだったかもしれないけど。

舞台の後ろに本殿があります。
春日大社の江戸時代の式年造替のときに第3殿を移築したそうです。

鏡神社の摂社、比賣神社。
昔から高貴な女性を祀るという言い伝えがあり、現在は十市皇女(天武天皇の子)とされています。
この鏡神社と比賣神社のちょうど間に新薬師寺があります。

ではいってみよー。

新薬師寺は光明皇后が聖武天皇の病気平癒を願って発願・建立したお寺です。
元々はもっと広大なお寺だったようですが過去に落雷や災害で失われ、
唯一残った建物を今の本堂としたそう。
屋根瓦に焼きムラがあり遠目にはカラフルでおしゃれな柄に見えます。元興寺の古式瓦とかもそうだよね。
堂内は中央にご本尊の薬師如来坐像がどーんと鎮座していらっしゃり、
如来をぐるりと囲む形で十二神将像の皆さんがポーズ決めて立ってらっしゃいます。
ふくよかな体躯のお薬師さんは顔も体も丸くてかわいらしくて
目が半分くらい開いているのも特徴的だと思う。
十二神将は塑像で、かつては極彩色だったようですが
現在は色落ちして部分的に赤や緑や黄色が残るのみです。
皆さんおっかない顔で武器を手にこちらを「かっ」と見下ろしていてかっこいい!
あと身につけている鎧が、たぶん奈良時代の武人が着ていたものを参考にした可能性があって
当時の鎧を考証するうえでも貴重なんじゃないだろうか。

鎌倉時代の鐘楼。
中の梵鐘は奈良時代の作で、道場法師が鐘に取りついた鬼を退治したという話が『日本霊異記』に出てくるね。

新薬師寺を後にしてバス停に戻る途中で、志賀直哉の家の前を通りました。
生涯で23回も引っ越した志賀直哉、奈良に家族と住んだのは10年ほどですが
自分で設計したこの家で『暗夜行路』などを書いたそうです。
友人の作家たちもよく訪れて、いっときはサロンのようになったとか。
この後はバスに乗って海龍王寺に向かいます。

久し振りだ~。
前はいつ来たっけなと遡ったら7年前でした!そんなに経つのか。

この絵馬、前回はなかったぞ!遣唐使船と龍神。かっこいい。
木工職人の寺田昭雄さんが奉納されたものだそうです。お寺の絵馬も寺田さんによるものとか。
海龍王寺は玄昉が唐から帰る船旅の際に海龍王経を唱えて無事帰国できたことや
光明皇后の後押しもあって平城宮内道場として整備したお寺です。
現在も航海の安全祈願など海に関する法要が行われることがあります。

右が本堂、左が西金堂。
本堂にはご本尊の十一面観音菩薩像(鎌倉時代・慶派)をはじめ
快慶作と伝わる文殊菩薩像、愛染明王や不動明王像、
寺門勅額や境内から出土した古代瓦なども展示されていました。
特にご本尊は最近まで秘仏だったこともあってむちゃくちゃ美しかった…!
内陣に掛けられた布の隙間からお姿が見えるのですが
全身に金箔が貼られていて瓔珞も文様もぜんぶ最高の保存状態のまま残っていてすごい。
あと、先週お寺では「四海安穏祈願法要」という海運祈願・海難供養を行ったとかで
東北や熊本、沖縄など各地の海水を入れたガラス器もありました。
奈良時代に遣唐使の渡航安全を願って始まったとされる法要ですが
だいぶ前に途絶えてしまい再開されたのは最近だそうで、ご住職のご尽力に思いをはせました。

西金堂は奈良時代から残る建物で、
内部に展示されている五重小塔(国宝)も奈良時代のもの。
五重塔としては薬師寺に次ぐ古さとされていて、元興寺の五重塔と同時期くらいなのかな…
玄昉もこの塔を見たのかなあ。

本堂の屋根の鬼瓦が鬼かっこよかった。

境内に咲くユキヤナギ。

本堂の奥に玄昉僧正菩提が建ってた!前回はなかったぞこれ。
玄昉のお墓は太宰府なので本人が埋まってるわけじゃないけど
こういうの建ててくださるだけで泣けてきます。
誰もいなかったので心ゆくまで拝んできました…太宰府に届け。

バスで奈良駅へ戻ってランチにしました。
地元野菜のオードブルの後に棒々鶏とごはんとお味噌汁が出てきて、

スイーツまでセットになってて大変満足でありました。パンケーキもプリンもおいしかった~!
栄養・水分補給をした後は奈良駅から桜井線に揺られて桜井駅へ。
(普段の運動不足がたたってこのとき足がだいぶアレでしたけど
ランチと電車30分でかなり休憩できました…移動時間=休憩時間です。座れるの大事)

駅から歩いて15分、安倍文殊院に着きました。
大化の改新があった頃に、左大臣だった阿部倉梯麻呂が一族の氏寺として建立したお寺で
阿倍仲麻呂や安倍晴明もこの一族の出身といわれます。

駐車場を通り抜けると拝観入口。
拝観券は本堂のみ、本堂+金閣浮御堂(霊宝館)の2種類がありまして
せっかくなのでセット券を購入。

金閣浮御堂の近くに阿倍仲麻呂の歌碑があります。
百人一首にも採られている「天の原ふりさけみれば~」の歌。

池に浮かぶ金閣浮御堂。
ご本尊は開運弁才天で、方位災難除けの十二天御尊軸も安置され厄除けのご利益があります。

拝観券と一緒にいただいた厄除おさめ札。
これを使って、いわゆる七難に遭わないための厄除け・災難除けの「七まいり」をします。
願い事を1つ唱えながら金閣浮御堂の回廊を時計回りに1周してお札を1枚箱に入れるのを7回繰り返し、
終わったらお堂の中に入って弁財天にお参りします。
なお「○○しますように」ではなく「○○しませんように」という言い方でお願いする作法だそう。
せっかくなので体の心配なとことか健康面とか、ぐるぐる回ってお願いしてきました。

回りながら見ていた景色。
この日は風もなくて池はとても静かだったし、無数に下がる燈籠もぴかぴかできれいでした。
浮御堂の内部は宝物館になっていて、お寺の所蔵する文化財を鑑賞できます。
中央内陣に小さな八臂弁天像、脇に阿倍仲麻呂像と安倍晴明像がいらして
両脇のガラスケースにはお寺の出土品や奉納された品が展示されていました。
飛鳥時代の須恵器や瓦、平安時代の孔雀文磐、室町時代の境内古地図や鰐口ほか
原在敬「安倍晴明像」の掛軸や祭文を読む晴明の図、江戸時代に発行された霊符や版木、
土御門家た作った暦など晴明に関する品も多かったです。
榊莫山さんが書いた仲麻呂望郷の歌碑の書の直筆原稿とか
岡野玲子さんが奉納した「晴明と葛葉」図がめっちゃ美しかった~!
七曜・羅睺・計都の九曜星を仏像にした諸仏九像は細部まで精巧な作りでした…職人は誰だろ。

池の向かいにある西古墳は阿倍倉梯麻呂のお墓といわれています。
中はひんやりして結構広いけど入口が狭いので頭をぶつけそうになりまして(汗)、
内部に残っている石材は当時のものだそうです。

仲麻呂望郷しだれ桜。
さっきの歌碑を建てた際に一緒に植樹されたそうです。周りのパンジーもきれい。

まだ少し花が残っていた。

本堂。戦国時代の再建で能舞台がついています。
本坊には、快慶作の渡海文殊菩薩と獅子、脇侍4人の像があります。
善財童子像と須菩提像は3年前に上野で見まして、いつか5人揃ってるのを見るぞ!と思っていて
だいぶ時間がかかってしまったけど何とか来ることができて感動もひとしお☆
文殊菩薩さんは想像以上の大きさと美しさで、乗ってるお獅子の表情もおもしろくて
善財童子は相変わらずかわいらしいし須菩提のリアルすぎる姿形はぞくっとするし
優填王像と維摩居士像の存在感と迫力!
吐息が見えるというか今にも動き出しそうというのはこういう像をいうのだな…快慶すごい。
ちなみにここの文殊菩薩さんは日本三大文殊のひとつで、
あと2つは天橋立の智恩寺・山形の大聖寺にいらっしゃるそうです。
智恩寺は3年前に行ったのでいつか大聖寺に行けたらいいなあ。

屋根の龍瓦がめっちゃかっこいい。

お抹茶と落雁の接待を受けました。
五芒星が描いてあるのは晴明のお菓子ということなのかな。

本堂を後にして境内をうろうろします。
写真は白山堂といって文殊院の鎮守社です。

艸墓古墳(東古墳)は晴明が亡くなった後に追葬されたという言い伝えがあるそうです。
室町時代にはすでに開いていたそうですが、今でも当時の石棺が残っています。

石仏群。
四国八十八か所・西国三十三か所霊場の本尊仏として祀られています。
そういえばさっきわたしが本堂にお参りしようとしたとき、
ちょうど「四国八十八所霊場」と書かれた法被を着た団体さんが拝観を終えて出てきたところに出くわしたのですが
どちらから来た人々だったのかしら。

合格門は松でできていて、受験シーズンには学生さんたちが訪れて
合格発表より一足先にくぐり合格を「まつ」のだそうです。
くぐって坂を登っていきますと、

晴明堂がありました。魔除け方位除けのご利益があるそうです。

この辺りは晴明が天文観測を行った土地らしい。

下を見下ろすとパンジーで作られた巨大な花絵が!
毎年干支をテーマに地元の人たちと作っているそうで、今年は酉年なのでニワトリ。

駐車場から見上げた葛の葉稲荷。
葛の葉は安倍晴明の母である狐の名前です。(彼女と晴明の物語は歌舞伎にもなってるよね)

一通り回りましたので文殊院を後にします。
表門から道路へ出まして、

徒歩3分、安倍史跡公園に来ました。
かつて阿部氏の人々が住む屋敷があった場所とされています。
一時期は塔や金堂、講堂まである大規模なものだったとも。

阿倍倉梯麻呂建立の崇敬寺(安倍寺)跡。
詳細はよくわからないらしいですが、「東大寺要録」によると崇敬寺は鎌倉時代に焼失し、
移された先で現在の安倍文殊院になったのではないかと考えられています。
阿部氏の一族も嫡流や傍流などがあって仲麻呂は嫡流ではなさそうなので
どこに住んでいたかもよくわかっていないけど、
一族がこの辺りに住んでいたのなら仲麻呂も訪れたり思いをはせたりすることがあったかな…。
この後は桜井駅から電車で戻りました。

奈良に来たからには茶粥が食べたい!と思って駅の居酒屋さんにin。
焼き茶粥とだし巻き卵をいただきました~おいしかったです☆
お腹いっぱいになったのでホテルに戻ってパンフレットとか御朱印とか眺めつつ、
この日回った場所のデジカメ写真を整理しながら
遣唐使たちが当時の都に残したものについてしみじみ考えました。
お寺建てたりお経つくったり、弟子や親王を教育したり、唐に残って国と国の懸け橋になったり
そういう仕事をした人たちが1300年前にいたこととか
彼らの足跡や痕跡を引き継いで絶えさせないように、一度絶えても復興できるところは復興させたり
小規模になったとしてもせめて一部は残そうとか奮闘し続けてきた人々も
本当に本当によくがんばった。
そして今も守り続けている人たちがいることも忘れずに生きていきたい。
そのままの形で残ったもの、一部だったり形を変えて残ったもの、尾ひれ背びれがついたもの、
全全全部が人の歴史だ。
次回記事は快慶展と海北友松展+ちょこっと京都です。スヌーピーと狸です!(笑)
今年は吉備真備・玄昉・阿倍仲麻呂・井真成ら第9次遣唐使が717年に海を渡ってから
1300年の節目の年にあたるため、
ちょっと思い立って彼らのゆかりの場所を巡ってまいりました。
あと奈良博でやってる快慶展と、京博でやってる海北友松展にも行きたかったし。
例によって夜行バスで移動、奈良のホテルに荷物を預けてからバスに乗りまして
まずは福智院へ。

バス停から道を1本入ってすぐ。
遣唐学問僧として唐に渡った玄昉が帰国後に建立した清水寺というお寺が
中世に福智院地蔵堂として再興されたそうです。
朝早かったためか境内は人が全然いなくて静かでした。

本堂。
お茶と飴の接待を受けながらご住職のお話を伺いました。
ご本尊の地蔵菩薩坐像(鎌倉時代)が内陣の中央にどーん!といらっしゃってかっこいい☆
めずらしく光背を背負ったお地蔵様で、
六地蔵と閻魔・太山王のほか560体もの小型化仏がびっしりと連なっていて
これは56億7千万年後に現れる弥勒菩薩の信仰が影響しているとか。

玄昉僧正顕彰之碑。没後1250年を記念して建立されたものです。
本堂には玄昉の小さな像もありまして、眉の太いイケメンさんだった。

いただいた御朱印。
ご本尊の地蔵菩薩さんは毎月27日が縁日で、見開きの御朱印はこの日だけいただけます。
あと玄昉の御朱印もあったので書いていただきました!
さりげなく「元清水寺」と入ってますが、これは玄昉が建立した際の寺名ですね。
彼がいた頃とお寺の名前は変わってしまったけど繋がっているような気がして
お寺のお心遣いに泣きそうになった。

境内の八重桜。ソメイヨシノよりも遅れて咲くそうです。
他にも牡丹や白菖蒲など花がたくさん咲いたお庭はとても賑やかでした。

福智院から歩いて5分。頭塔の見学に来ました。
頭塔はホテルウェルネス飛鳥路の敷地内にありまして、
ホテルのフロントに見学料300円を支払うとパンフレットをいただけて入口を教えてもらえます。
ではではいってみよー!
以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ☆

頭塔の周りは展望スペースになっていて、周囲をぐるりと見学できるようになっています。
方形七段、てっぺんには五輪塔があり20か所以上に石仏がはめこまれて
見れば見るほどなんじゃこりゃ~!と圧倒される存在感。
現在は奈良県による発掘・整備が行われていて、復元予想図などもあるみたい。
元々は東大寺の僧侶が築き、土塔(どとう)という呼び名が訛って頭塔になったということですが
この塔には玄昉に関する奇妙な伝説がありまして。
太宰府に左遷された玄昉が観世音寺の落慶法要の最中に空高くつかみあげられ、
空中で四肢をバラバラにされて奈良興福寺に首が飛んできたので
この塔に埋めたというものです。
(扶桑略記はその原因を、玄昉や真備の出世のため零落した藤原広嗣の怨霊のしわざとみている)
ちなみにその伝説も、最初は「頭を埋めた」だけだったのが
「玄昉に雷が落ちてその首が雲の中へ消えた」とか「虚空で首が笑い声をあげた」とか
「腕や眉や胴体が落ちた場所もある」とか、どんどん尾ひれ背びれがついて
物語がひとつ書けそうなところまで誇張されまくってるのがおもしろいと思います。
首飛んでる系男子というと平将門あたりが浮かびますけど実は玄昉の方が先輩なのだ( ˘ω˘ )。

てっぺん付近。五輪塔は江戸時代くらいのものらしい。
塔には登れませんのでこれ以上は確認できないけど
パンフレットの写真を見たら結構、ちゃんとした形のが乗ってるみたいです。

頭塔はあっちこっちに石仏がはめ込まれていまして
写真はそのひとつで、如来と脇侍。
だいぶ風化してしまってるけど何の目的で作られたのかな…ロマンは深まるばかりです。

頭塔から歩いて5分、奈良教育大学に来ました。

大学のキャンパス内にある吉備塚古墳。
吉備真備のお墓といわれていたそうですが、
最近の調査で古墳時代のものと思われる副葬品が発掘されたので現在は否定されています。
古墳の上には大きなクヌギがどっしりと根を張っていました。
真備は後年建てられたのはあるけど本人のお墓は見つかってないんでしたっけ…どこに眠っているのかな。
時計を見たらまだ少し時間があったので、地図を見たら
前々から行ってみたかった新薬師寺が近かったので行くことにしました。

歩いている途中で見つけた不空院。
空海の提案で建立されたと伝わり、ご本尊は不空羂索観音です。
かつて境内の鎮守社・弁財天には奈良町の芸妓たちが縁切り・縁結びのお参りに訪れたとかで
女人救済、つまり駆け込み寺の役割も果たしていたそうです。

新薬師寺に着いた~と思ったら他にも鳥居がぽつぽつ。
順番にお参りすることにします。

鏡神社。新薬師寺の鎮守社で祭神は天照大神・地主神・藤原広嗣です。
吉備真備が建立したとの説もあるらしいけど、仮にもしそうだとしたら
自分を批判した上奏文を出した相手を神社に祀ってあげたわけで、いい話だなあ…。
いや、たまたま神社建てたときに「祟らないで広嗣~」みたいなノリだったかもしれないけど。

舞台の後ろに本殿があります。
春日大社の江戸時代の式年造替のときに第3殿を移築したそうです。

鏡神社の摂社、比賣神社。
昔から高貴な女性を祀るという言い伝えがあり、現在は十市皇女(天武天皇の子)とされています。
この鏡神社と比賣神社のちょうど間に新薬師寺があります。

ではいってみよー。

新薬師寺は光明皇后が聖武天皇の病気平癒を願って発願・建立したお寺です。
元々はもっと広大なお寺だったようですが過去に落雷や災害で失われ、
唯一残った建物を今の本堂としたそう。
屋根瓦に焼きムラがあり遠目にはカラフルでおしゃれな柄に見えます。元興寺の古式瓦とかもそうだよね。
堂内は中央にご本尊の薬師如来坐像がどーんと鎮座していらっしゃり、
如来をぐるりと囲む形で十二神将像の皆さんがポーズ決めて立ってらっしゃいます。
ふくよかな体躯のお薬師さんは顔も体も丸くてかわいらしくて
目が半分くらい開いているのも特徴的だと思う。
十二神将は塑像で、かつては極彩色だったようですが
現在は色落ちして部分的に赤や緑や黄色が残るのみです。
皆さんおっかない顔で武器を手にこちらを「かっ」と見下ろしていてかっこいい!
あと身につけている鎧が、たぶん奈良時代の武人が着ていたものを参考にした可能性があって
当時の鎧を考証するうえでも貴重なんじゃないだろうか。

鎌倉時代の鐘楼。
中の梵鐘は奈良時代の作で、道場法師が鐘に取りついた鬼を退治したという話が『日本霊異記』に出てくるね。

新薬師寺を後にしてバス停に戻る途中で、志賀直哉の家の前を通りました。
生涯で23回も引っ越した志賀直哉、奈良に家族と住んだのは10年ほどですが
自分で設計したこの家で『暗夜行路』などを書いたそうです。
友人の作家たちもよく訪れて、いっときはサロンのようになったとか。
この後はバスに乗って海龍王寺に向かいます。

久し振りだ~。
前はいつ来たっけなと遡ったら7年前でした!そんなに経つのか。

この絵馬、前回はなかったぞ!遣唐使船と龍神。かっこいい。
木工職人の寺田昭雄さんが奉納されたものだそうです。お寺の絵馬も寺田さんによるものとか。
海龍王寺は玄昉が唐から帰る船旅の際に海龍王経を唱えて無事帰国できたことや
光明皇后の後押しもあって平城宮内道場として整備したお寺です。
現在も航海の安全祈願など海に関する法要が行われることがあります。

右が本堂、左が西金堂。
本堂にはご本尊の十一面観音菩薩像(鎌倉時代・慶派)をはじめ
快慶作と伝わる文殊菩薩像、愛染明王や不動明王像、
寺門勅額や境内から出土した古代瓦なども展示されていました。
特にご本尊は最近まで秘仏だったこともあってむちゃくちゃ美しかった…!
内陣に掛けられた布の隙間からお姿が見えるのですが
全身に金箔が貼られていて瓔珞も文様もぜんぶ最高の保存状態のまま残っていてすごい。
あと、先週お寺では「四海安穏祈願法要」という海運祈願・海難供養を行ったとかで
東北や熊本、沖縄など各地の海水を入れたガラス器もありました。
奈良時代に遣唐使の渡航安全を願って始まったとされる法要ですが
だいぶ前に途絶えてしまい再開されたのは最近だそうで、ご住職のご尽力に思いをはせました。

西金堂は奈良時代から残る建物で、
内部に展示されている五重小塔(国宝)も奈良時代のもの。
五重塔としては薬師寺に次ぐ古さとされていて、元興寺の五重塔と同時期くらいなのかな…
玄昉もこの塔を見たのかなあ。

本堂の屋根の鬼瓦が鬼かっこよかった。

境内に咲くユキヤナギ。

本堂の奥に玄昉僧正菩提が建ってた!前回はなかったぞこれ。
玄昉のお墓は太宰府なので本人が埋まってるわけじゃないけど
こういうの建ててくださるだけで泣けてきます。
誰もいなかったので心ゆくまで拝んできました…太宰府に届け。

バスで奈良駅へ戻ってランチにしました。
地元野菜のオードブルの後に棒々鶏とごはんとお味噌汁が出てきて、

スイーツまでセットになってて大変満足でありました。パンケーキもプリンもおいしかった~!
栄養・水分補給をした後は奈良駅から桜井線に揺られて桜井駅へ。
(普段の運動不足がたたってこのとき足がだいぶアレでしたけど
ランチと電車30分でかなり休憩できました…移動時間=休憩時間です。座れるの大事)

駅から歩いて15分、安倍文殊院に着きました。
大化の改新があった頃に、左大臣だった阿部倉梯麻呂が一族の氏寺として建立したお寺で
阿倍仲麻呂や安倍晴明もこの一族の出身といわれます。

駐車場を通り抜けると拝観入口。
拝観券は本堂のみ、本堂+金閣浮御堂(霊宝館)の2種類がありまして
せっかくなのでセット券を購入。

金閣浮御堂の近くに阿倍仲麻呂の歌碑があります。
百人一首にも採られている「天の原ふりさけみれば~」の歌。

池に浮かぶ金閣浮御堂。
ご本尊は開運弁才天で、方位災難除けの十二天御尊軸も安置され厄除けのご利益があります。

拝観券と一緒にいただいた厄除おさめ札。
これを使って、いわゆる七難に遭わないための厄除け・災難除けの「七まいり」をします。
願い事を1つ唱えながら金閣浮御堂の回廊を時計回りに1周してお札を1枚箱に入れるのを7回繰り返し、
終わったらお堂の中に入って弁財天にお参りします。
なお「○○しますように」ではなく「○○しませんように」という言い方でお願いする作法だそう。
せっかくなので体の心配なとことか健康面とか、ぐるぐる回ってお願いしてきました。

回りながら見ていた景色。
この日は風もなくて池はとても静かだったし、無数に下がる燈籠もぴかぴかできれいでした。
浮御堂の内部は宝物館になっていて、お寺の所蔵する文化財を鑑賞できます。
中央内陣に小さな八臂弁天像、脇に阿倍仲麻呂像と安倍晴明像がいらして
両脇のガラスケースにはお寺の出土品や奉納された品が展示されていました。
飛鳥時代の須恵器や瓦、平安時代の孔雀文磐、室町時代の境内古地図や鰐口ほか
原在敬「安倍晴明像」の掛軸や祭文を読む晴明の図、江戸時代に発行された霊符や版木、
土御門家た作った暦など晴明に関する品も多かったです。
榊莫山さんが書いた仲麻呂望郷の歌碑の書の直筆原稿とか
岡野玲子さんが奉納した「晴明と葛葉」図がめっちゃ美しかった~!
七曜・羅睺・計都の九曜星を仏像にした諸仏九像は細部まで精巧な作りでした…職人は誰だろ。

池の向かいにある西古墳は阿倍倉梯麻呂のお墓といわれています。
中はひんやりして結構広いけど入口が狭いので頭をぶつけそうになりまして(汗)、
内部に残っている石材は当時のものだそうです。

仲麻呂望郷しだれ桜。
さっきの歌碑を建てた際に一緒に植樹されたそうです。周りのパンジーもきれい。

まだ少し花が残っていた。

本堂。戦国時代の再建で能舞台がついています。
本坊には、快慶作の渡海文殊菩薩と獅子、脇侍4人の像があります。
善財童子像と須菩提像は3年前に上野で見まして、いつか5人揃ってるのを見るぞ!と思っていて
だいぶ時間がかかってしまったけど何とか来ることができて感動もひとしお☆
文殊菩薩さんは想像以上の大きさと美しさで、乗ってるお獅子の表情もおもしろくて
善財童子は相変わらずかわいらしいし須菩提のリアルすぎる姿形はぞくっとするし
優填王像と維摩居士像の存在感と迫力!
吐息が見えるというか今にも動き出しそうというのはこういう像をいうのだな…快慶すごい。
ちなみにここの文殊菩薩さんは日本三大文殊のひとつで、
あと2つは天橋立の智恩寺・山形の大聖寺にいらっしゃるそうです。
智恩寺は3年前に行ったのでいつか大聖寺に行けたらいいなあ。

屋根の龍瓦がめっちゃかっこいい。

お抹茶と落雁の接待を受けました。
五芒星が描いてあるのは晴明のお菓子ということなのかな。

本堂を後にして境内をうろうろします。
写真は白山堂といって文殊院の鎮守社です。

艸墓古墳(東古墳)は晴明が亡くなった後に追葬されたという言い伝えがあるそうです。
室町時代にはすでに開いていたそうですが、今でも当時の石棺が残っています。

石仏群。
四国八十八か所・西国三十三か所霊場の本尊仏として祀られています。
そういえばさっきわたしが本堂にお参りしようとしたとき、
ちょうど「四国八十八所霊場」と書かれた法被を着た団体さんが拝観を終えて出てきたところに出くわしたのですが
どちらから来た人々だったのかしら。

合格門は松でできていて、受験シーズンには学生さんたちが訪れて
合格発表より一足先にくぐり合格を「まつ」のだそうです。
くぐって坂を登っていきますと、

晴明堂がありました。魔除け方位除けのご利益があるそうです。

この辺りは晴明が天文観測を行った土地らしい。

下を見下ろすとパンジーで作られた巨大な花絵が!
毎年干支をテーマに地元の人たちと作っているそうで、今年は酉年なのでニワトリ。

駐車場から見上げた葛の葉稲荷。
葛の葉は安倍晴明の母である狐の名前です。(彼女と晴明の物語は歌舞伎にもなってるよね)

一通り回りましたので文殊院を後にします。
表門から道路へ出まして、

徒歩3分、安倍史跡公園に来ました。
かつて阿部氏の人々が住む屋敷があった場所とされています。
一時期は塔や金堂、講堂まである大規模なものだったとも。

阿倍倉梯麻呂建立の崇敬寺(安倍寺)跡。
詳細はよくわからないらしいですが、「東大寺要録」によると崇敬寺は鎌倉時代に焼失し、
移された先で現在の安倍文殊院になったのではないかと考えられています。
阿部氏の一族も嫡流や傍流などがあって仲麻呂は嫡流ではなさそうなので
どこに住んでいたかもよくわかっていないけど、
一族がこの辺りに住んでいたのなら仲麻呂も訪れたり思いをはせたりすることがあったかな…。
この後は桜井駅から電車で戻りました。

奈良に来たからには茶粥が食べたい!と思って駅の居酒屋さんにin。
焼き茶粥とだし巻き卵をいただきました~おいしかったです☆
お腹いっぱいになったのでホテルに戻ってパンフレットとか御朱印とか眺めつつ、
この日回った場所のデジカメ写真を整理しながら
遣唐使たちが当時の都に残したものについてしみじみ考えました。
お寺建てたりお経つくったり、弟子や親王を教育したり、唐に残って国と国の懸け橋になったり
そういう仕事をした人たちが1300年前にいたこととか
彼らの足跡や痕跡を引き継いで絶えさせないように、一度絶えても復興できるところは復興させたり
小規模になったとしてもせめて一部は残そうとか奮闘し続けてきた人々も
本当に本当によくがんばった。
そして今も守り続けている人たちがいることも忘れずに生きていきたい。
そのままの形で残ったもの、一部だったり形を変えて残ったもの、尾ひれ背びれがついたもの、
全全全部が人の歴史だ。
次回記事は快慶展と海北友松展+ちょこっと京都です。スヌーピーと狸です!(笑)
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