2017_05
03
(Wed)23:45

遣唐使と仏教アートの旅その2。

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奈良&京都旅行2日目です。1日目はこちら
今日もいっぱい歩くので、朝ごはんをしっかり食べてレッツゴー!

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奈良公園を抜けて東大寺に歩いてきたら
南大門手前の駐輪場に自転車ではなく鹿さんたちが駐輪していた件。
地面の上で朝日も当たってポカポカするのでしょうか、おはようございます☆
園内では早起きの鹿さんがすでにお客さんから鹿せんべいをもらってもりもり食べたりしていた。

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ナンダイモーン!
今日は奈良国立博物館に快慶展を見に行くのですが、
その前に慶派の人々が手がけた金剛力士像を見に来ました。つまり第2会場です。

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快慶とその工房が手掛けたという阿形さま。

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吽形さま。
ここには何度も訪れていますが、
このおふたりの間に立って双方から睨まれるともう感極まって言葉なんか出てこないですね、
今回も無事にお会いできてうれしいです本当にありがとうございます!
慶派の技術と800年の歴史と圧倒的感謝と感動。やばし。

東大寺金剛力士像は近年に調査された像内納入文書によると
制作の総指揮を運慶がとり、快慶や湛慶を始め慶派の仏師たちがおよそ2ヶ月で仕上げたもの。
ノミを入れてからわずか2週間で台座と基本的な体格を作ってあとは補正・修正と彩色だったそうで
(できた当時は赤い肌に緑や青の裳をつけていたらしい)
ものすごいスピード仕事だったのよな…。
みんなちゃんと寝てごはん食べてたかしら、本当にお疲れさまでした。

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東大寺に行くといつも会う猫さまに今回も会えました!
近づくと逃げられてしまうので遠くからこっそり観察。癒されますありがとうございます。

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というわけで奈良博の快慶展に向かいますよ~第1会場!
南大門が第2会場なら昨日の安倍文殊院は第3会場かな、そしてやっと第1会場(笑)。

以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ☆
 
 
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展覧会の垂れ幕には東大寺と遣迎院の阿弥陀如来像がいらっしゃいます。優美なお姿。
快慶は一時期、自らのサインを「巧匠 アン(梵字)阿弥陀仏」としていて
熱心な阿弥陀仏信者だったといわれています。

展示は金剛院(京都)の金剛力士立像から始まります。
寺伝に快慶作と伝わるおふたりはムッキムキ~のわっくわく!
東大寺金剛力士像を思わせ、よく言われる快慶=優美の図式を見事にぶち壊してくれてからの
醍醐寺・弥勒菩薩像ですよ!
注文が後白河法皇追善ためというロイヤル案件だからかもしれないけど
被り物も衣も瓔珞も光背のゆらめきも、隅々まで緻密さが行き届いているのを見て
あっもしかしたら快慶ってオールマイティじゃね?と気づくまでがセット。
この弥勒菩薩は制作年がはっきりしていて、快慶がアン阿弥陀仏と名乗り始めた初期の頃といわれていて
やっぱり若い頃だから手の抜き加減がわからずに全力で作ってる感じ。
(醍醐寺には他にも琰魔堂の本尊である炎魔像(現物なし)を快慶が作ったみたいな文書が残ってる)
向かいに展示されていたボストン美術館所蔵の弥勒菩薩立像も(5年振りの再会でした)、
衣の彫り方とか手の形とか見ると後年の作品に比べてどことなく緊張感があって、
快慶にもこんな時期があったのね~そりゃそうよねって勝手にしみじみしました。

現存資料で快慶の名を確認できる最も古い資料が、国宝にもなっている法華経(運慶願経)です。
運慶が願主になって写経したもので8巻に結縁者48人の名が記され、「快慶」の名前もあります。
このとき運慶は、平家による南都焼討ちで燃えた東大寺大仏殿の焼け残った柱を
お経の軸木に使ったそうです。
これが奈良時代の柱の一部かあ…と思いつつ、これも供養だよなあと思ったし
運慶たちの強い思いも伝わってくるようでドキドキしてしまいました。
他にも『転法輪鈔』に「人間巧匠に課して霊像を模す」とか
京都・如意寺の地蔵菩薩立像納入品に「アン阿弥陀仏」とか
兵庫・浄土寺の縁起に「大仏師丹波法眼快慶」って書いてあったり(「紀中納言長谷雄」もあった)、
二月堂修中過去帳の中に将軍頼朝右大将・栄西僧正・右大臣実朝に混じって「快慶法眼」とあったり
当たり前ですけど快慶がかつてこの世に存在したというのを目の前の資料が示してくれていることが
すごくうれしくてたまりませんでした。
教科書とかでいるってわかっててもね…本物の力ですな。

金剛峯寺の執金剛神立像広目天像や孔雀明王像は3年振りの再会で、
執金剛神の躍動感や広目天の文武両道っぷり、孔雀明王の美しさと華やかさに
もはやため息しか出てきません。
このあたりは快慶が東大寺大仏殿の復興に関わっていた頃の作品で
経験を積んでだんだん余裕が出て来ている感じがする。
他にも、浄土寺の菩薩面27面や阿弥陀如来像を作ったり
(来迎会のための制作で菩薩に扮した人々を従え、台車に乗せて町中を回った仏様らしい)、
神護寺の僧形八幡神像を参考にして彫刻を作って東大寺に奉納したり
あれこれ忙しくしていたみたいです。
三重県の新大仏寺の如来坐像も快慶だそうですが
こちらは制作当時は阿弥陀仏だったけど江戸時代に胴体が壊れてしまって作り直した際に
なぜか毘盧遮那仏の体にされてしまったというもの。
それで名前がはっきりしないわけですな…何か理由があったんだろうけど、こういうこともあるんだね。

また、運慶は鎌倉を始め関東においてもかなりの仏像を制作していますが
快慶はそれほどでもないようです。
現在、広島の耕三寺にいらっしゃる阿弥陀如来像はかつて伊豆に伝来したもので
伊豆山浜生協会が所蔵する2つの小さな菩薩坐像と一緒に展示されていて
出身地が近かった可能性のある仏様たちの再会なのかな?
栃木の真教寺の阿弥陀如来立像は木面が活かされた小さな像で
伊豆山にいた朗安という僧が鑁阿寺(足利市)の開祖だった縁で作られたものではないかということ。
石山寺の大日如来像と東京藝術大学が所蔵する大日如来像は
きょうだいかと思うくらいに形も身長もそっくり同じだった。
京都・遣迎院の小さな阿弥陀如来立像の胎内からは願文と結縁交名が見つかっており、
これは鎌倉時代の結縁造仏の勧進だそうです。
鎌倉時代になると貴族だけではなく庶民が協力して仏像を作り始めますけど
快慶もその走りの中にいたんですな。

快慶は東大寺だけでなく各地の寺院の復興にも携わっています。
醍醐寺の不動明王座像(弘法大師様)やメットが所蔵する地蔵菩薩立像はアン阿弥陀仏時代、
随心院の金剛薩埵坐像は法眼時代とされています。
長谷寺の本尊を再興したのも、長谷寺再興縁起によると法眼だった頃の快慶だそうで
縁起は快慶を「当世殆無肩之人」と絶賛しています。
廃仏毀釈で廃寺となった内山永久寺の置文には弥勒菩薩を作ったのが快慶とありまして
現在そのご本尊は行方不明だそうですが、
東大寺が所蔵する聖観音立像では?と言われているけど確定はできないみたい。
色々あって記録が失われてしまったのかもしれない…。

最後に「安阿弥様」と呼ばれる、快慶による三尺阿弥陀がズラリ。
若い頃は衣の襟を丸くして、左手に衣の末端をからませるように彫っていたのが
老年期に至るとややたるんでゆったりしてきて作風の変化が見てとれました。
快慶の弟子・行快の阿弥陀如来立像もありまして
襟の部分がややたるんでいて、老年期の快慶の影響が見てとれました。
像内からは過去帳や訪名帳や印仏などが見つかっていて
訪名帳の8/12の項に「過去法眼快慶」と書かれていることからこの頃には亡くなっていたみたいです。
行快は何を思いながらこの仏像を彫ったのかな…。

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南大門の金剛力士像の原寸大パネルもありました。
無料で見られる第2会場にみんな睨まれに行こうず。
そして秋には東博で運慶展が開催されますよ~楽しみ!みんな行こうず。

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展示室の出口に安倍文殊院の割引券チラシが置いてありました~昨日行っちゃったよ!
展覧会で快慶に興味持った人はぜひ行ってみてください、
奈良から電車30分乗れば文殊菩薩ご一行に会えますよ!

特別展の後は奈良博の常設展を鑑賞するため、なら仏像館へ移動。
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奈良博は仏教美術の第一線を走っているだけあって仏像の展示がすごいです。
如来や菩薩はもちろん、明王や天、仏手や仏が乗る動物まで総合的に揃えられた豪華ラインナップ。
三十三間堂の千手観音立像(湛慶作)があってちょっとびっくりしました、出張中だったのかな。
神像もいくつかあって、薬師寺の大津皇子坐像と龍神像が素敵でした。
特に龍神像のあの躍動感はなんなのだ~今にも空へ飛び立とうとするかのようだった。すごい。

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仏像館を出たところに藤棚があって咲き始めていました。新緑の季節ももうすぐですね。


というわけで名残惜しいですが奈良を去ります。うわーん。
ホテルへ荷物を取りに行ってお土産も買って、近鉄に乗って京都へ移動しました。
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目的は海北友松展ですが、その前に色々寄り道します。
まずは現在放送中のアニメ「有頂天家族2」のスタンプラリーをしに京都伊勢丹5階へ!
エスカレーターの近くに弁天さまがいらっしゃいました☆大胆なお洋服とってもお似合いです。

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バスで四条河原町へ移動して高島屋の地下で矢三郎のしっぽを購入。
プレーンとココア味でやさしい味のお饅頭でした☆

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錦市場へ移動。
伊藤若冲生誕300年の垂れ幕もまだ掛かっていました。

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去年オープンしたばかりのスヌーピー茶屋に来たよ!
1階がグッズ売り場で2階がカフェになっています。

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案内されたお席の障子にこんな影絵が。

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こちらはウッドストックと一緒に飛んでる!
市松や雪輪など和の文様もかわいいです。

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京みぶなと鮭のぶぶ漬けパスタ。
京都でぶぶ漬けというと時間がかかりそうな気もしますが(「帰れ」の意味なので)、
あっという間に出してくださって有難い(笑)。
壬生菜とお茶でさっぱりした薄味、おいしかったです。

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パスタの卵にスヌーピー。

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大根の小鉢にもにんじんスヌーピー!隅々まで遊び心に満ちていて楽しい。

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ショップでスヌーピー薯蕷饅頭とチャーリーブラウンチョコ大福を買ってしまった。
スヌーピーも和菓子になる時代がやってきたよ!すばらしいです。

お腹もいっぱいになったので移動開始、河原町から歩いて六道さんに向かいます。
南座の脇道に入って建仁寺さんを通り抜けていきましたら、
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法堂の周りに牡丹の花がたくさん咲いてました。
ちょうど見頃だったのか、たくさんの人が見にきていた。

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ひときわ立派だと思ったピンク色。
牡丹はひとつひとつの花が本当に大きくて、花の王と呼ばれるのも頷けます。

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六道珍皇寺に着いたよ~。
今回の目的は御朱印ではなく、有頂天家族2スタンプラリーです。
本堂の前にあった矢二郎にいさんのスタンディを見てからスタンプ押しました。

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最近は特別拝観の時にばかり来ているので、
閉まってる時期に小窓から井戸を拝観するのも久しぶりで新鮮な感じ。
お庭をお掃除してる方がいらっしゃって、新緑もきれいでした。

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初めて知ったけど六道さんの向かいに藤が咲いてるんですね!
ちょうど満開できれいだった。

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バスに乗って京都国立博物館へ。海北友松展を鑑賞します。
建仁寺展で龍図を始め襖絵をいくつか見て以来ですから大変楽しみ。

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着いたらちょうどトラりんが出てくる時間でした!相変わらず元気で何より。
肉球こっちに向けて手を振ってくれたり、

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ごめん寝したりしてくれます~かわいい(*´︶`*)。

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ショップの商品を宣伝するトラりん。
団扇であおいだり片目隠して伊達政宗ごっこしたり、ほんとにかわいい☆
はあぁ今回も癒しをありがとうトラりん。

海北友松は戦国時代に浅井氏の軍奉行だった海北綱親の子で、
子どもの頃に東福寺に出されて狩野派を学んだようです。
当時の狩野派は元信~永徳の全盛期なので彼らから直接学んだかもしれないし、
彼らの絵を見て勉強していたのかもしれない^^
菊慈童図屏風や柏に猿図とかは、確かに植物の細かさや岩のタッチとか見てると
当時の狩野派や長谷川派みたいな印象を受けました。
西王母・東王父図屏風の人物の描き方や色遣いとかも「狩野派のお手本を見て描くとこうなる」みたいな感じ。
あと、絵は失われてしまったみたいだけど中院通勝筆の源氏物語絵詞は
友松が60歳のとき(1593年)に絵を描いたと奥付から判明しているそうです。
どんな絵だったのかな…後年の絵から考えるとそろそろ狩野派の影響から離れようとしていた時期だと思うけど
お公家さん相手のお仕事だからきっちり大和絵風に描いた可能性もあるかな。

友松の息子・海北友雪による「海北友松夫妻像」の掛軸には
友松と妻の妙貞が水墨画を真剣なまなざしで見つめる様子が描かれていて、
賛には孫の友竹による友松の人生や言葉が書き記されています。
友松が40代のとき、信長に浅井氏が滅ぼされ海北家もなくなってしまったので
「自分がやらなきゃ」と家の再興のため還俗したけど
色々あって再興できなくて「近江源氏の流れなのに誤って芸家になっちゃった」とか嘆いたり、
仲良しだった斎藤利三が本能寺の変で殺されたときには
6/20に槍を持って真如堂塔頭の東陽坊長盛とともにズッ友の首をぶんどって手厚く葬ったり
(話の真偽はともかく真如堂には利三と友松のお墓が仲良く並んでいるそうな)、
利三の娘である春日局から感謝されて三葉葵の紋付を贈られたり
(夫妻像の妙貞はその紋付を着た姿で描かれている)、
バイタリティや人情にあふれた人生だったみたい。
その後秀吉に認められて墨をもらったり、家康からも謝礼をもらったり
天皇の琵琶の撥に麒麟の絵とか描いたこともあるとか。
友竹による海北家由緒記にも「古田織部に茶を習った」
「施薬院の茶会で秀吉から凡筆ならぬ画とほめられた」「斎藤利三の娘(春日局)の面倒をみた」とか
すごい名前がどんどん出てくるし、
7代目の友徳がまとめた家系図にもかなりの文章量が割かれている。
また吉田兼見の日記にも「細川幽斎の依頼で絵師遊松に注文した襖絵と扇が見事だった」とか、
兼如筑紫道中記(石田三成の九州行き記事)に「絵かく筆にたへなる友松といふ人」が一緒に行って
須磨や明石で源氏物語の聖地巡礼して宮島で平家納経を見て太宰府にも寄ったとか、
上杉景勝の年譜に「秀吉のお土産に友松(当時62歳)の濃彩松島画や吉光や藤四郎があった」とか
色んな人に記録されているみたいです。

そんなあれこれを経て60代になった頃、友松の画業は花開いてゆきます。
1599年に安国寺恵瓊の依頼で建仁寺大方丈の襖絵として描いた阿吽の雲龍図、
黒雲からこんにちはする龍の表情は迫力も凄みがありますが
ニヒルな笑みからは大らかさと包容力が伝わってくるようで、清濁併せもつ雰囲気はまさに龍神。
というか、建仁寺展でこの龍図だけ見たときは気づかなかったけど
さっきの基礎教養ガッチガチな絵の後でこの龍を見るとまるで吹っ切れたように狩野派っぽさがなくなってて
ちょっと待ってこの数年で何があったの???って聞きたくなってくる。
特に太線を使うわけじゃなくても迫力って出せるもんなんですな…勉強になります。
同じく建仁寺の襖だった花鳥図や山水図も最小限の表現で大胆に空白を残していて
狩野派も空間使った絵あるけどああいう使い方はしないような…。
竹林七賢図の人物も衣服が風をはらんだようなゆったりした着こなしで(袋人物と呼ばれるそう)、
なんだか開放的に見えました。
琴棋書画図は童子の読書で書を、童子がかつぐ琴で琴をあらわしているとかで
書いて弾くという直接的な表現ではなく婉曲的にするあたり教養を試されている気もします。
北野天満宮や霊洞院、勧修寺に奉納した雲龍図の展示室(通称:ドラゴンルーム)は
照明がぐっと落とされてほぼ真っ暗、行燈のあかりのような暗闇での鑑賞。
(キャプションも、室内ではとても読めない光量なので展示室の手前で照らされていました)
薄暗い照明の効果はてきめんで、遠くから見ると仄暗い水墨の迫力がものすごいですが
近づいてまじまじ見ると龍の眉も髭もボーボーしてギョロ目で角も髭も垂れてました。
あれ、これはちょっと、かわいいぞ(笑)。
立て掛け描きの墨は雨にも見えるし、龍の体と雲の形がほぼ一致というかモクモクしてるし
なんかこう、あらゆるスタンダードを無視してる気がする。
そんな友松の龍図はあるとき朝鮮にも贈られたらしいのですが
その絵を見た朴大根という人が「これぞ神龍」「もっと欲しい」と絶賛しまくった手紙が残っていて
このことを友松は知らされたのかはわからないけど、知ったてら喜んだろうなあ。

友松は武家の出ということもあって禅寺の人との交流が多く、水墨画をいっぱい残しています。
南化玄興をはじめ禅僧が賛を入れた瀟湘八景図とか亀井茲矩に贈った飲中八仙図屏風、
智仁親王のために描かれた山水図は70歳のときの作品とか。
舞い上がるのと急降下してくる2羽の鷹図、シンプルなタッチの馬が走り回る放馬図屏風、
もともと同じ屏風だったという白鷺図(鷺が正面向いてる!)や鶴図など、動物の絵も自由な雰囲気。
達磨図は一部に墨が垂れてるけど全然気にならないのすごい。
群仙図屏風は一見、ざっくりしていますが陰影で表現した部分がたくさんあって
曽我蕭白の群仙図と全然違いますね…。
カラフルな婦女琴棋書画図屏風は女性たちが楽しそうに本や手紙を読んでますが
琴は童子が担いでるし、碁盤や書物や果物は屏風の端っこにひっそり置かれている。
狩野山楽とともに手掛けた妙心寺の屏風、花卉図の牡丹は写実的で花園を思わせる一方で
寒山拾得・三酸図屏風は寒山拾得が楽しそうに話す声が聞こえてくるようだし
三酸は3人が梅干し食べたみたいに心底から酸っぱそうな顔してる(笑)。
(そういえば狩野山楽も浅井家の家臣の子ですね)
琴棋書画図屏風に至っては道士が碁盤の上に琴を乗せて居眠りしちゃってるし
そばにいる道士も童子もみんな寝てて、これ琴棋書画図だよな??と笑ってしまいました^^
そんな好き勝手に描いた屏風はいくらかかったかと言いますと
妙心寺御納所宛ての画料請取状(領収書)が残っていて、この時は銀子一貫+銀二十貫だったそうで
現代換算すると約236万円ですから一双80万くらいかな?
お寺の仕事とはいえしっかりもらってて安心しました。お金がないと生活できませんからね~。

70歳を過ぎた頃から、友松は八条宮智仁親王(桂離宮の人)や関白を勤めた近衛信尹と親しくなって
彼らからの仕事を受けるようになります。
展示室に入ってびっくりしましたよ、さっきまで禅寺の渋い水墨画をいっぱい見てきたのに
いきなり金色や濃い緑色を惜しげもなく使ったきらびやかな金碧屏風の数々がバーンと並んでいて
目がくらみそうになった。
檜図も浜松図も網干し図も、これぞ公家の風格といわんばかりのかっこよさと美しさで
注文主が違うとここまで変わるものかと思いました。
ちなみにさっき、友松が天皇の琵琶の撥に麒麟の絵を描いたとご紹介しましたが
その天皇というのは智仁親王の兄である後陽成天皇だったりします。
琵琶は残念ながら失われたそうですが、その際に天皇の女房と中院通勝が書いた手紙が残っていて
女房が「ゆうせう方へくれぐれもよきにつたへ候へく候」と通勝に宛てて友松への感謝を述べ、
通勝は友松に「琵琶に麒麟という名がついたよ。比類のない名誉だしわが身にも本望です」などと
8/15付でホッとしたように書き送っています。
友松もうれしかったと思うし、通勝にどんな返事を書いたのか気になるなあ。
あと近衛信尹の手紙もあって、早く友松への御礼を注文主に伝えてくれとせっつかれて
「必ず夜に行くか、誰かに代わりに行ってもらいますから」と書いています。仲介役も大変だ。

最後の最後にあった月下渓流図屏風はアメリカから60年振りの里帰りで
友松の最晩年の作品と伝わっています。
空に朧月、深い森から開けた場所にたっぷりと流れてくる川、ぽつぽつ生える土筆などの草花、
相変わらず大胆すぎるほどの空間…ただひたすらに静謐な世界がそこにありました。
それまで学んだ技術やずっと描きたかったものを全部つぎこんだような、強さとも美しさとも違う、
そこにそれがあるのは当たり前みたいな境地というか。
レオ・レオニとかやなせたかしさんみたいな、人生の後半に作家性が花開く人はどの時代にもいるけど
友松も含めてそういう人たちはそこに至るまで基礎をしっかり身につけて経験も積んでるから
浮上したときもそれ以降の活躍でも揺るがないんだなと思いました…つよい。

特別展の後は常設展を鑑賞。
仏像の展示室のみでしたが、湛慶作の三十三間堂の千手観音立像がこちらにもありました。
あと行快作の不動明王像(大阪・金剛寺)もあって快慶展の続きのような感じもした。

時計を見たらちょうど博物館の閉まる時間が迫っておりましたので
バスに乗って京都駅へ戻り、新幹線に乗りました。
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今月のnikinikiは蜂とハチミツ。
壺からあふれ出るハチミツがマジでハチミツに見えてくるクオリティ。すごい。
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