fc2ブログ
2022_09
10
(Sat)23:50

汽笛一声新橋を。

大宮のてっぱくに行ってまいりました。
企画展と大宮・名古屋・京都のシンカリオンZ新幹線超進化研究所3支部連結ラリーが目的です。
こんな状況じゃなかったらすぐにでもやってましたけど、名古屋と京都は行けるかわかりませんので
せめて大宮は行きたいなあ…と思って様子を伺いつつ行きました。
平日だったのであまり人はいませんでしたが、レストランなどでの食事はしませんでした。

omiyaeki30.jpg
電車内に掲示されていた鉄道博物館の企画展の広告。

omiyaeki29_2022090923430419f.jpg
隣には鉄道開業150年記念ポスターの広告。
情報は知っていたので見つけられてラッキーでした☆

omiyaeki31.jpg
こちらは大宮駅まめの木付近にあった上記ポスターの一部分ですが
どう見てもあおのゆかさんのタッチだよね…てシンカリオン界隈でざわざわしていたのですが
後日、ご本人から担当されたというお知らせがありました。→こちら
ちなみに背景とALFA-Xは同じくシンカリオンのメカニックデザインを担当されている服部さんですぞ!
キャラデザの人とロボデザの人が一緒にお仕事されてるのがたまりませんし
シンカリオンというコンテンツの大きさと影響力をまざまざと感じました。
んああーーっ、このポスター欲しい!!

omiyaeki32.jpg
ニューシャトルの改札に向かう途中の床にも
鉄道150年&鉄道博物館15年の広告がありました。

omiyaeki33.jpg
こちらにも鉄道150年の広告。

あと、現在大宮駅のコンコースで鉄道150年に関するアナウンスも流れていますけど
始まりと終わりにオルゴールの鉄道唱歌が流れるんです!
やめてけれ…前作18話のちっちゃいリュウジさんを思い出してしまうからやめてけれ…!(訳:もっとやって)
駅で鉄道唱歌のオルゴール聴けるの最高じゃないすか!!ありがとうございました。

omiyaeki34.jpg
そういえばニューシャトルの車両はちゃんと写真撮ったことないかも…とふと思いまして
今回は撮ってみました。
こちらの2000系2107は2014年の導入らしい。

2022teppaku_1.jpg
着きました~~!D51前でみんなで記念撮影。
去年の10月以来だから1年ぶりですが、もっと長いこと来てないような気持ち。

2022teppaku_2.jpg
企画展と、てっぱくと鉄道150年のコラボポスター。

以下、長くなりますのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ。
 
 
2022teppaku_4.jpg
エントランスの壁にあった大宮・名古屋・京都の3館連携プロジェクトのお知らせ。
リ鉄と京都てっぱくの情報が紹介されてます。
あーーーっ、名古屋と京都に行きたい!!

2022teppaku_3.jpg
ここはかつて4年前にシンカリオンE5が展示されていた場所なのですが(もう4年前!)、
今年に入ってから何やら工事をしているという目撃情報がちらほらあって
そのうち何かが展示される予定なのかな。楽しみですね。

2022teppaku_5.jpg
南館ー!
ここでもみんなでパチリします。人数が増えたな。

2022teppaku_6.jpg
南館2階の奥にスタンプラリーの設置場所があります。
わたしのラリーはここで終わりになっちゃうかもしれないけど、まあ、記念に。

2022teppaku_7.jpg
E5とE5とE5!感無量です。
ハヤトくんはしょっちゅう通ってるだろうし
シンくんはZ14話でハナビくんたちと一緒にここでゲンブさんから説明受けたりしましたね。

2022teppaku_8.jpg
とっても大好きな、超進化速度に突入しそうな角度。

2022teppaku_9.jpg
400系L3編成の扉、開いてたんですけど感染症対策で今は中に入ることはできなくて
しょぼんとしたんですけど、
ふと隣の窓を見て、そういえばあっちは覗いたことなかったかも、と思って。

2022teppaku_10.jpg
扉のとロゴの間にあるこの窓です。

2022teppaku_11.jpg
覗いたらこんな機械と一人用の椅子が。

2022teppaku_13.jpg
扉を見たら「乗務」ってシールが貼ってあったのでたぶん車掌さんとか乗務員の人がいたんだと思う!
なるほど~ここにあるんだ。

2022teppaku_12.jpg
電話機の下にこんな付箋が貼ってあった。
L3が定期運用を終える頃(2010年4月)に貼られたものとすると12年前ですね。
引退前に社員の誰かが貼ってからずっとこのままなのかなあ、素敵です^^

2022teppaku_14.jpg
本館に戻って車両ステーション2階。
鉄道車両年表の一部に新幹線YEARの展示ブースがありました。
開業日順に展示替えをしていくそうで、わたしが行った日は山形新幹線の展示でした。

2022teppaku_15.jpg
さっき見た400系の模型と、1992年の開業当時のポスター2枚。
「時速130kmで踏切を通過します」とあって、それが見たいんだよなあ…。
踏切を通過する山形新幹線と秋田新幹線をいつか見たい。

2022teppaku_16.jpg
開業当時のグッズやパンフレットなど。

2022teppaku_17.jpg
オレンジカード。
わたしは一度も使わないうちに廃止されてしまったけどまだどこかで使えるんですかね。

2022teppaku_19.jpg
パノラマデッキへ~!
シンカリオンにおいて数々の名シーンに出てきますが
最近ですとZ41話Cパートでシンくんがアブトくんを探しに階段を登ってくるシーンが印象的。

2022teppaku_18.jpg
入口近くのベンチはZだと29話で横川組とシマカゼくんがヤマカサくんとお電話してたところですね。
シマカゼくん大宮にしれっといましたけどあれほんと何のご用だったのかな…超Z合体の訓練かな。

2022teppaku_20.jpg
本館2階スペシャルギャラリー。
企画展「鉄道開業150年記念 鉄道の作った日本の旅150年」を鑑賞します。

最初にあったのは国鉄クロ151形の区分室(1960年頃)の再現。
定員4人で、向かい合わせのソファ2つと中央にテーブル、マガジンラック、大窓にカーテン、
電話器をジャックに接続すれば通話が可能という、
まるでリビングで列車の中とは思えませんが、特急つばめの置き換えで実際に走っていた車両なんですね。
出入口に初の自動扉を付けたことでも有名らしい。
2022teppaku30.jpg
これはてっぱく車両ステーションにある181形で、151形の改良型です。
たぶんこのお顔でこの区分室のある車両を引っ張って走っていたんではないかな。

そもそも「旅」とは、ということで歴史をさかのぼりまして
奈良時代の防人が東国から九州へ旅をした事例をパネルで紹介。
旅という言葉の語源はいくつかあって、
そのひとつに「給べ(たべ)」(他人に食料を求めること)の転化という説があるそうです。
時代はとんで江戸時代、この頃には五街道が整備され宿場町もできて、
参勤交代やお伊勢参りなどで人々の旅行がさかんに行われています。
江戸時代の旅行は関所を通過するために手形が必要だったことや
成人男性なら1日10里ほど歩いたこと、橋が少ないので川の増水で足止めされることが多かったことなどの解説があり、
旅の行程を記した道中日記控(1888年)や携帯用の旅枕などが重用されたと。
旅行用心集(1810年)は「道中用心六十一カ条」のページが開かれていて
初日は静かに歩いて草鞋の加減を調整すること、などなどびっしり書かれていて
「気を付けることそんなにあるんだな…」ってちょっと絶句してしまった。
おなじみの東海道五十三次一覧(1863年)は日本橋~京都の名所が折本で紹介されていました。

やがて近代化が始まり1872年10月14日に新橋~横浜を53分で結ぶ鉄道が開通。
鉄道の国有化とともに全国に線路が敷かれ、各駅から快速、急行列車が始まり寝台車や食堂車が登場、
月刊の時刻表や駅弁やおみやげなども販売されるようになっていきます。
江戸時代までは十二辰刻で2時間程度のズレがありましたが
鉄道は時間になると列車が発車してしまうのでそれまでに駅に行かねばならず、
人々は決められた時刻を守って行動するようになっていきます。
1872年9月12日の横浜駅の開業式入場証(9月9日鉄道寮発行)には
「横濱ステーション内へ入ルヲ許ス」という一文が書いてありました。
汽車時刻乃賃金表(1972年)によると、朝8時から夕方6時まで1時間おきに計8本の列車があり、
上・中・下等列車があり上等車は下等車の3倍のお値段だったもよう。
東京~横浜の片道切符で上等だと金1両2朱もしたそうな。今だと新幹線に乗れるね。。
開業の頃の新橋・横浜・大阪・京都の停車場の写真や上野駅、横川駅の写真、
通運便覧(1892年)(時刻・運賃・貨物運賃が記されたもの)もありました。
1889年に東海道本線が全通すると、
1894年10月に初の月刊時刻表である汽車汽船旅行案内が創刊され、創刊号の展示もありました。
また1925年に日本旅行文化協会(ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在のJTB))が発行した
汽車時間表は、現在もJTB時刻表として刊行を続けています。
2022teppaku_21.jpg
こちらはそんな時代にイギリスからやってきた1号機関車(1871年製造)。車両ステーションで見られます。

この時代から始まった文化のひとつに初詣がある、というのが
最近の研究で言われるようになってますね。
成田山詣列車時刻表(1934年)によると大晦日の21時~元旦3時に12本の列車があったことがわかり、
品川からの直通列車で成田山詣のNo.1乗車券(1932年12月31日)もありました。
あとこの頃発売された東海道鉄道線双六(1890年)は振り出しが京都→あがりが東京、
東海道汽車進行双六(1902年)は振り出しが神戸→あがりが東京になっています。
江戸時代は京都が上りでしたが、近代では東京が上りになっていますね。

鉄道唱歌の誕生!
1900年5月に「地理教育 鉄道唱歌」第一集東海道編が発売され、続編も爆発的なヒットに。
鉄道唱歌かるた(1900年)は文字札と絵札がいくつか並べてあって、
文字札に「(五)窓ヨリ近ク品川ノ」とあったら五と書かれた絵札を取る、みたいな遊び方かな。

私鉄の時代。
高島嘉右衛門が岩倉具視らを説得して設立された日本鉄道が1883年に上野~熊谷を開通(1891年に青森へ)、
その後北海道炭礦鉄道、関西鉄道、山陽鉄道、九州鉄道などが設立され五大私鉄と呼ばれます。
日本鉄道案内記(1902年)や日本鉄道と官鉄との連携乗車券(1930年代)、
関西鉄道時刻表(1989年)などの展示がありました。
つづいて1899年に初の食堂車が(京都~三田尻の急行列車)、1900年に初の寝台車が連結されます。
山陽鉄道案内(1901年)には食堂車の写真が掲載されていて
車内には大きな長テーブルがひとつあって基本的に相席だったようですが、
官設鉄道が食堂車を作ってからは4人席になり、これが標準になっていったようです。
食堂車については過去の企画展でも見まして、改めて少し復習できました。
官鉄最初期の頃の京都~新橋間の寝台券(1900年)にはSleeping car ticket YEN, 4.00と書かれていて
1昼夜で4円かかったようです。
毛布や枕などの貸出もあったようですが、3等寝台車だとただ横に眠れるだけだったそうで
参考としてスハネ30100形(1932年)の模型がありました。
さらにそれらを付けた特急列車が始まり、名前の一般公募などを経て富士・桜・燕・鷗などと名付けられていきます。
食堂車のご案内(1936年)や富士のシャワールームを使うための浴券(1935年)、
鷗の初列車の食堂車(精養軒が担当)によるグッズ(1937年)などがありました。
観梅、観月、海水浴、松茸狩りなどを目的とする団体旅行用の回遊列車も始まりましたが
利用者は商人や会社員、官吏、学生などが中心で女性客は少なかったとか。
ちなみに1912年3月には初の旅行会社である日本旅行文化協会(現在のJTB)が発足しています。
2022teppaku_22.jpg
車両ステーションにあるマイテ39型客車(1930年製造)。特急富士に使われました。
1等利用者用の展望室、展望デッキを備えて列車の最後尾に連結されたそうです。

ちなみに特急列車の登場は日露戦争の軍事輸送がきっかけだったそうな。
1912年6月に新橋~下関に初の特急列車が組まれ、
関釜航路、朝鮮半島、中国東北部、シベリアを経由しヨーロッパへ向かうルートが完成。
利用したのは政治家や軍人や実業家など限られた人々だったようです。
1912年8月の汽車汽船旅行案内には新橋を朝8時半に出発~翌日の夜9時に釜山着となっていたそう。
遊覧地案内(1912年6月)は朝鮮、満州、台湾の遊覧地を紹介しています。
日本旅行協会の旅程と費用概算(1923年)は、初版は100ページだったのが300ページになり、
最終的には1000ページを超える内容になっていきます。
1910年の第5回シベリア経由旅客運送会議(そんな会議があったんだ…)で
日本と清の参加が認められると
日本~朝鮮~シベリアのルート、敦賀~ウラジオストク~シベリアのルートが敷かれたそうです。
(ロシア革命で中断し、第二次世界大戦で途絶)
当時発行されたシベリア経由国際交通各列車乗車船券はロシア語・英語・ローマ字で書かれていて
大人料金で408円20銭かかったようです。
旅行案内も発行されるようになり、日本案内記(1929-37年)、汽車の窓から(1918年)、
鉄道旅行案内(1924年)、神まうで(1919年)、京王電車沿線名所図絵(1928年)などが展示されていました。
鉄道作業局線路案内(1905年)の出版が旅行案内の形式の基本を確立したらしい。
また乗車・船・宿泊・旅行傷害保険がセットになった遊覧券が登場、
家族遊覧券(1932年)やクーポンのしおり(1939年・JTB)などが展示されていました。
駅スタンプも始まり、大宮や仙臺、小田原、沼津、岡山などのものがありました。
(駅スタンプが1931年に福井駅から始まったというのは誤りで実際のところはまだ判明していないようです)
日本八景は毎日新聞と鉄道省のタイアップで1927年に始まり、
「日本八景十六大家執筆」(1928年)は幸田露伴・田山花袋・北原白秋・泉鏡花などの作家らの短編と
横山大観や堂本印象や竹内栖鳳らによる挿絵が入っている豪華な出版。
インバウンド招致も行われ、外国人観光客を誘致するために
官営ホテル列車の食堂車のメニューに洋食を出したり、英語のパンフレットを出したりもしたらしい。
車両もおしゃれになっていき、流線形のデザインを多用するブームがあったようで
代表的なものにキハ43000形(1937年)の模型やキハ42000形、C53、C55、モハ52形、EF55など。
2022teppaku_23.jpg
車両ステーションにあるEF55 1号車(1936年)
鉄道ファンから「ムーミン」と呼ばれているそうですが、確かに流れるような印象的なデザイン。

戦争と植民地主義の時代。
1906年に南満州鉄道ができていますが、朝鮮鉄道線路案内(1911年)や日朝満周遊券、
満州汽車時刻表(1937年6月)、大連地方案内(1929年)などから
大陸への植民地旅行が行われていたことがわかります。
満鉄映画製作所では「あじあに乗りて」(1943年)なる映画も制作されたと。
朝鮮総督府鉄道の駅スタンプが日本語でデザインされていたのがゾッとしたし
台湾鉄道旅行案内(1923年)や駅スタンプ集(1937年)も日本語なので読めます。やばい。
樺太庁鉄道の旅行案内(1928年)もあり、下関条約で日本領になったサハリン(樺太)への旅行もあったようです。

戦争が始まると列車は旅行ではなく輸送を優先するようになって
2人掛けのシートに3人で座るようになど窮屈になっていきます。
1944年には100km以上の鉄道利用客には居住地の警察の旅行証明書がないと切符が買えなくなるなど
旅行は少なくなり出征や疎開など強制的な移動の手段として鉄道が使われるようになります。
それでも旅行ができた年はあり、1940年には紀元2600年ということで
戦意高揚のためのキャンペーンが国を挙げて行われているのですが
(この年の伊勢神宮への参拝客は800万人ともいわれている)、
その旅行のための記念乗車券(1940年)や聖地参拝のしおり、廣島駅の臨時列車の運転、
式典参列乗車証(1940年11月11日)などが展示されていました。
宮崎駅には周辺の駅で自由に乗り降りできる切符なども発売されたそうな。
ハイキングやスキーなどの旅行は銃後のために体を鍛える目的ということで容認され、
割引乗車券などもありましたが、それも太平洋戦争が始まると廃止されています。
1937年の品川駅入場証は大陸へ向かう軍用列車に乗る第一師団の軍人の家族が
見送りのために求めた入場券。
1944年発売の月刊時刻表の表紙には「国民全て戦闘配置、
この一年旅行はやめ増産に、防空につとめよう」と、でかでかと書かれていて引いたし
不要不急とされた路線の廃止や休止の告知も載っていたそうです。
運輸通信省の決戦輸送図絵(1944年)には「輸送力の強化こそ戦力の増強」とか書いてあって
鉄道業界もこんな風に戦争に加担していたんだな…。
戦時標語の垂れ幕を出した名古屋駅の写真とか、高松駅前の出征兵士見送りや児童の疎開車内の写真とか
原爆で破壊された広島駅内部の写真とか、もう、しんどい。
2022teppaku_24.jpg
さっきのEF55の天井部分。
車内に入れないので外から見るしかないんですけど、外からだとわかりにくいですけど
戦時中に高崎線を走っていたとき機銃掃射を受けた痕跡があるそうです。
直さずそのまま保存しているとか。

1945年8月15日、その日も電車は走っていました。
数年前に発見され今回初公開された、8月15日の東北本線(一ノ関~尻内)の列車運行図表と
8月14日~16日の整理ダイヤグラム(実際に運行された列車の記録)の展示。
その日も朝から走る予定だった青森行き103列車は午前中が運休となり、
盛岡に午後1時28分到着予定のはずが大幅に遅れて5時35分着。
そのまま尻内行き113列車となり5時47分着のはずがこちらも遅れて夜の8時24分着。
この日も国鉄が列車を走らせていたことは宮脇俊三『時刻表昭和史』(1999年)などからわかるようで
該当の文章がパネルで紹介されていましたが
(著者が今泉駅前で玉音放送を聞いた後、米坂線に坂町行き109列車が入ってきたことを書いてます)、
ダイヤグラムが見つかることは非常に珍しいそうです。
ちなみに『時刻表昭和史』のパネルには列車の到着を女性の駅員が知らせてきたと書かれていました。
男性がほとんど出征しているから女性や学生や定年退職者まで動員していたんだよね。

復員と引揚。
1945年8月の時点で軍隊関係者が353万人、民間人が660万人ほど国外におり、
10月から引揚船や臨時列車の運行が始まりますが飢餓や感染症で多くの犠牲が出ています。
舞鶴の最終引揚船は1958年9月だったと。13年もかかった…。
国内では都市から地方への食料の買い出しで列車が大混雑、
上野や川越や東北方面への移動がかなりあったとかで
窓から乗るのは当たり前、デッキにぶら下がりながらなどの危険な乗車で移動した人もいたようです。
みんな生きるために必死だったんだな…そりゃそうよな。
物資不足は鉄道にも影響があり、破れた領収書に新聞を貼って補修したりとか
用紙欠乏で切符の大きさを半分にしたりとか(長方形の切符が正方形になっててかなり衝撃だった)、
インフレで1949年まで5回の旅客運賃値上げが実施されていますが
紙不足で券面を作り替えられないため金額が旧料金で表記されたまま
「運賃変更」のゴム印が押された急行券(1945年)とか、物資不足の影響がひしひしと。。
復員列車の輸送時刻表(1948年)はナホトカ→1500人を定期・臨時列車で運んだときのもの。
GHQ専用列車というのもあったそうで、御料車を接収したThe OctagonianとかDixie Limitedとか
(Octagonianのヘッドマークが展示されていました)、
連合軍専用切符(1950年)には「to Shinagawa」って書いてあって上り列車の乗車券だったのかな。

最後に各地の駅弁の掛け紙やお茶の瓶などがズラッと並んでいて
おみやげの発展についてのパネルもありました。
あと今回は会場の一部で、重要文化財など普段あまり展示されることのない資料を
3週間ごとに展示するという企画もありまして、
わたしが訪れた時のテーマは「駅」。
東京駅・上野駅・高崎駅の、それぞれ開業時の設計図がどーんと並んでいました。紙が分厚くて大きいんだなあ。
新橋停車場の構内平面図(1897年)、線路や車庫はもちろんですが馬車鉄道会社や厩舎があったり
扇形の機関車庫や石炭庫があるなど、鉄道黎明期の様子もわかるので歴史的資料なのですね。
本当に、末永く保存されていってほしいです。

2022teppaku_25.jpg
館内の色んなところに鉄道150年のロゴがあります。

2022teppaku_26.jpg
エントランスに掲示されているてっぱくと世界の鉄道系ミュージアムとの姉妹館連携のプレート。
こちらはヨークのNational Railway Museumとの連携。
ハヤトくんは今この博物館の近くに住んでるんですよね。0系先輩に毎日会いにいってそうです。

2022teppaku_27.jpg
こちらはメリーランド州ボルティモアにあるBaltimore & Ohio Railroad Museumとの連携。

2022teppaku_28.jpg
カリフォルニアにあるCalifornia State Railroad Museumとの連携。

omiyaeki36.jpg
ニューシャトルは先頭車両と最後尾車両の窓が開いているので
だいたいどっちかに乗るんですけど、
最後尾に乗ると遠ざかっていくてっぱくの建物が見えてちょっとしみじみします。
様子を見つつまた来るね。

omiyaeki35.jpg
大宮駅に着いたときに帰りの車両も撮影。
おととしデビューしたばかりの2020系25編成ちゃんです!

2022teppaku_29.jpg
今回のおみやげ。
OJICOのマイドクターのTシャツを見つけてゲットしてしまった…!
いや、販売されてるのは知ってたけど前に来たときは子ども用サイズしかなくて
でも今回見たら大人用サイズもご用意いただいてたので…買うしかなかった。
イエロー先生がおむねにちょこんといるのかわいいね。かわいいね。
Newdeysの鉄道150周年記念ハンドタオル(200系&E2系200系カラー)も買ってきました。

あと、この日は大宮マルイで開催されたシンカリオンシリーズのPOP UP SHOPにも行ってきたのですが
他にも書きたいことなどございますので次回記事で書きます☆
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント

トラックバック