金刀比羅宮の書院公開と、相国寺承天閣美術館の展示が目的です。
ものすごく久々に夜行バスに乗って(常時窓開け換気のバスでしたがマスクはつけたまま寝た)、
早朝に高松に着いてホテルに荷物を置きに行きがてら片手でおにぎりをモグモグ食べ歩きつつ
埼玉ではできない海岸沿いの朝を堪能。
高松久しぶりだな~5年前に来たときとあまり変わってなくて和みました。
(まだ屋内での外食を解禁していないため食事は食べ歩きや買い食いしておりますので写真は載せてません、
でもちゃんと食べてるよ)

オハヨーオハヨースマイル駅ちゃん。
(ガラスが光って口の部分がわかりにくいですけど笑ってますよ)

高松築港駅の場所も覚えていたのでスムーズに到着。
琴電に乗ってこんぴらさんまで1時間ほど揺られていきます。

仏生山駅で回送列車の切り離しが行われました。
わ~~っ見たい!ってなって降りて見学しましたらものの10秒で手際よく切り離されて
「出発しま~す」てアナウンスが流れたので慌てて車内に戻るという。。
そりゃ駅員さんは毎日やってらっしゃるんだから作業も素早いよね。

終点の琴電琴平駅に到着!
(しかし琴電、相も変わらずよく揺れます…それがいいんですけどね)

琴電琴平駅と一の鳥居。
ここまでくるとこんぴらさんに来たなあ!って感じします。
以下、写真が多いのでたたんであります↓クリックで開きますのでどうぞ☆

一段目までも地図も見ないで到着。意外と覚えているもんです。
今回は奥社までは行かないけど、本宮まではひたすら登りますので
っしゃ~行くぜ!と気合いを入れて出発。

五人百姓の方々もお元気そうでよかったです。
傘が3つしかなくてあれっと思ったけど、帰りにはちゃんと5つになっていてホッとしました。

本宮に到着。785段を今回も登ってきましたよ。。汗だく。。。
お変わりなくて何よりです。

御朱印をいただいて絵馬殿を見に来てびっくり、え、え、建物がまるごとなくなってる…!Σ(゚Д゚)
通りかかった巫女さんにお尋ねしたら「建物の老朽化のため取り壊しになりまして、
奉納された絵馬は保存してありますが公開は未定です」とのことでした。何ということでしょう…!
去年に摩周丸を見てきたのでその写真とかもう一度見たかったけど、残念。
また再建してほしいなあ。

階段を少し降りて書院に来ました。
特別展「お待たせ!こんぴらさんの若冲展」を鑑賞します。
金刀比羅宮の表書院と奥書院(重要文化財)は大権現だった時代の1658~60年に建てられたとされ、
円山応挙ほか多くの絵師や職人の障壁画や襖絵、書画が奉納されていて
表書院は普段から一般公開されていて見学できますが奥書院は通常は非公開で
今回はその奥書院にある伊藤若冲の「百花図」を鑑賞できる機会なのです。
おととしから修復していた百花図のうち障壁画の一部と襖絵の4面の修復が終了した記念ということもあり
いつもは短期間ですが今回は3か月もの長期だったので
何とかして行こう行こうと予定をたててようやく来ることができました。
何よりここの若冲をいつか絶対見たいと思ってたので!関係者の方々に感謝します。

百花図は9年ぶりの公開とのこと。
本当にこの機会を逃したら次はいつになるかわからないので来られてよかった…!

玄関。
鑑賞は1時間ごとの入れ替え制でマスク必須。靴を脱いで上がります。
(事前予約をしていったら非売品のクリアファイルがもらえました☆)
入場前にお寺の方から書院の歴史や展示について説明をいただいてから入場。

応挙先生や若冲さんの名前があった。
まずは表書院から。
玄関を入ったところの真正面にあるのは森寛斎「檜樹鷲図」、
檜の枝に今まさに舞い降りて羽をたたもうとしている鷲の水墨画でした。
続いて鶴の間・虎の間・七賢の間・山水の間はすべて円山応挙の障壁画(重要文化財)で
それぞれ「遊鶴図」(1787年)「遊虎図」(1787年)「竹林七賢図」(1794年)「瀑布及山水図」(1794年)があります。
こんぴらさんの第10代別当の宥存という人が依頼して描いてもらったものだそう。
鶴は優雅で美しいし虎は猫ちゃんみたいでかわいいし竹林の7人は楽しそうだし山水の景色は雄大で
上段の間の瀑布図は縁側を経て庭の池に注いでいるかのような作風になっていて
さっすが応挙先生…!てなった。
お部屋には入れなくて外からの鑑賞だったのですができれば入って大の字になりたかった。。
また富士の間には邨田丹陵の「富士山図」「富士巻狩図」(1902年)があって画家本人が来訪して描いたようです。
一の間には富士山、二の間には源頼朝による巻狩の様子で
鎧を身に着けて馬に乗った武士たちは躍動感あふれる筆致でとてもかっこよかったし
誰を描いたかもわかっているみたいで頼朝や頼家親子、義時、義盛、義村、重忠親子、景時、仁田氏、海野氏ほか
去年の大河ドラマで見た人々がたくさんいてテンションあがりました☆
続いて奥書院へ。
狩野探幽・尚信・安信の「三十六歌仙額」(1648年)より斎宮女御、小野小町、在原業平がありました。
高松藩主松平頼重が奉納したそうです。
伝土佐光元の「源氏物語図屛風」は紅葉賀や胡蝶や絵合ほかいくつかの場面が描かれていました。
森寛斎「葡萄栗鼠図」(1883年)は垂れ下がる葡萄の蔦に2匹のリスが遊んでいる水墨画の掛け軸で
バックに三日月があるので夜なのでしょうね。
狩野安信「象頭山十二景図」(前池躍魚)はこんぴらさんの表書院と奥書院の春の景色が描かれて
上部に林學士による賛「前池躍魚~」が入れられていました。
司馬江漢「扇面旭日鶴亀図」(1782年1月)は江漢にしては珍しくやまと絵風の鶴亀と波が描かれていた。
岸岱「陵王図」(1844年)は衝立に陵王を舞う楽人がステップを踏んだ瞬間が描かれていて
動きが感じられてかっこいい。
近藤有芳「萩に鹿図」(1844年)は萩の野にたたずむ牡鹿と牝鹿が描かれていました。
そして伊藤若冲の「百花図」。
ボタン、シャクヤク、キク、アジサイ、バラ、ユリ、アオイ、ヒマワリ、ウメ、ハイビスカスなど
6畳の小さな書院の四方の壁と襖に201点もの花々が描かれている大作で
修復された襖絵と室内が公開されていました。
劣化して強度が落ちた紙を補強し、絵の具を補彩して固定したそうです。(京都の岡墨光堂さんのお仕事だそう)
修復の過程で行われた調査で竹紙(当時は輸入品)が使われていることが判明したり
動植綵絵の顔料と百花図の顔料を比較することで制作年代の裏付けが取れるかもしれなかったりと
意義もかなりあったみたい。
制作を依頼したのは表書院と同じく宥存さんのようで、彼が京都の生まれで若冲と交流があって
別当に就任した際に障壁画を依頼したという記録はあるそうですが
若冲がここへ来た記録は見つかっておらず署名も落款もありません。
動植綵絵と比較した研究でも同一人物によるものと鑑定されているらしいし
若冲は信行寺の天井画にもこれと似たような並べ方で花卉図を描いているし
素人目線ですが植物の筆致も近いように思いました。
花びらがヒラヒラして葉っぱがしっとりして枝がくねくねして…
ちゃんと植物を見て描いた人の絵だけど、見たままの写実ではなくデザインもしていますね。
見られてよかったです。
春の間には岸岱「春野稚松図」「水辺草花図」、菖蒲の間には「水辺花鳥図」「沢瀉図」「群蝶図」、
柳の間には「水辺柳樹白鷺図」「岩石図」がそれぞれありました。
(欄間が扇をデザインした透かし彫りになっていて素敵だった!)
奥書院はもともと、すべての部屋に若冲の障壁画があったそうですが、
「金光院日帳」には有栖川宮の代参として岸岱がこんぴらさんを訪れた記録が残っていて
その際に岸岱本人から障壁画を制作したいという申し出があって描いてもらったものが
現在も残っているようです。
すべて1844年の奉納で(わずか2カ月で描いたとか!)、花菖蒲も松もきれいだったし鳥たちはかわいいし
群蝶図の蝶は琴平の画家だった合葉文山が収集していた蝶の標本を見て描いたそうで
写実的でとても美しくてポストカード買ってしまった☆
(1883年に発見されたギフチョウが描かれていることでも有名だそう)
柳の間は襖だけでなく長押に至るまで柳の木が描かれているので
部屋の真ん中に立つと柳の木にぐるりと囲まれているようで気持ちよかったです。
また柳の間には狩野探幽の「虎図」もあって、牧谿の虎に基づく作風らしい。
出口に近い白書院の天井には冷泉為恭「天井龍図」(1860年?)がありました。
ほぼ晩年に描いたものらしく、黒々とした雲の中を舞う3本指の龍がかっこよかった☆

グッズ売り場でポストカードとマステを購入。本宮で若冲さんの御朱印もいただけました。
クリアファイルには百花図の花々がいっぱい☆

少し階段を下りたところにある高橋由一館では
NHKの8K文化財プロジェクトで百花図の詳細や文化財修理の映像が見られたり
8Kで撮影した百花図を拡大して見ることができるコーナーがありました。

厩舎へ。
5年前にもお会いした道産子の月琴さんは今年18歳になったそうです!おめでとうございます。

新しくルーチェさんという白馬がいらっしゃいました。14歳だそうです。
お食事に夢中でまったくお顔を見せていただけませんでした^^;
首だけ沈んでる姿を見てるとマグリットの絵みたいでおもしろかった。
さて目的も済んだし降りよう、としたところ
下から「行くぞ~~~!!」って甲高い声がいっぱい聞こえてきて
制服に帽子をかぶった地元の小学生?中学生?っぽい団体さんたちがだだだ~っと階段を登ってきて
あっという間に通り過ぎていきました。
すいすい登る子、学校より楽だし~って言いながら登る子、早々にギブアップして歩く子など色々いて
本宮までなのか奥社まで行くのかわかりませんががんばれ~って小声で応援しました。
若い人たち元気だなあ^^

金刀比羅宮を出て琴平駅に戻る途中で、橋の上から線路が見えるのですが
金色の電車が停まっていてウワ~~~!ってなって走りました。

しあわせさんこんぴらさん号だ!!
お正月や例大祭に合わせて運行される臨時列車の車両ですがなぜ平日にいたんだろう、
回送表示で乗ることはできませんでしたが会えてよかった!ありがとうございました。

改札前にあった旅する図書館。
琴平町には公立図書館がなく、ことひらまちじゅう図書館という地元の団体が
町の店舗や病院などに本棚を設置する活動を行っていて、この駅にもあるのですね。
選書を見るとこんぴらさんや町の歴史に関する本が多かったような。

琴電に揺られて高松駅に戻って、JR高徳線で志度に向かいます。
萌えのかたまりの1両編成!かわいい☆

30分ほどで志度駅に到着。

これはお店ではなく駅の改札外にあったディスプレイで、
源内さんがうなぎ屋さんのために書いた広告が貼ってありました。
もうほとんど否定されつつある平賀源内による土用の丑のうなぎ説ですがここはまだ推していくのね。

志度駅外観。
平賀源内生誕の地ってでかでかと垂れ幕があったので撮らねばと思った。

駅から徒歩2~3分でこんな標識に出会いました。
どっちに行こうかなあと思って、でも雨も降りそうだったので
先に源内さんのお墓のある志度寺に行くことにしました。

記念館を通り過ぎて歩いていくと、志度寺に到着。
開創は625年で本尊は十一面観音像、四国八十八箇所霊場の第86番札所でもあります。

源内さんのお墓は志度寺門前の塔頭寺院・常楽寺にあります。
平賀家はこのお寺の檀家で、お墓を建てたのは源内さんの妹の里与さんと彼女の夫である権太夫さん。

志度寺の仁王門にあるのは、運慶が制作したという阿吽の仁王像。
こちらは吽形さまです。かっこいいよ~~!

こちらは阿形さま。
網があってお顔がよく見えないけどでも絶対にかっこいいことだけはわかる、
かっこいいな~~!!

門をくぐるとまるで森のよう。花がたくさん咲いていて緑がきれいでした。

手前が大師堂、奥が本堂。
戦国時代に荒廃して1671年に高松藩主松平頼重の寄進により再興されたそうです。
堂内は暗くてご本尊はよく見えなかった。

大師堂の隣にある閻魔堂。
志度寺の縁起ではここの閻魔大王は本尊の十一面観音と同一とされて頭上に十一面の仏面を頂くお姿で
極楽往生・蘇生の閻魔といわれているそうで、「弥阿」という尼僧を蘇生させた伝説もあるとか。
柱にスイッチがあって「スイッチを押すと閻魔様がライトアップされます」と書いてあったのでやってみたら
内部に明かりがともって閻魔像が見えました。
確かに十一面観音みたいに頭に11のお顔があった…!こんな閻魔様がいらっしゃるんだ。

そういえば源内さんが風来山人のペンネームで書いた『根南志具佐』にも閻魔様が出てくるけど
志度寺に閻魔様がいらっしゃるからかなあ、などと考えつつお寺を出たら
門前にこんな看板がありました。入る前は気づかなかったので気づけてよかったです。
源内巡りと題して町内には源内さんにまつわる小話を記した看板がいくつか立っています。

お寺を出て平賀源内旧邸へ。大きな源内さんの銅像もありました。
足元にはエレキテルが置いてあって、像の下には杉田玄白による「あゝ非常の人~」の文が。

旧邸外観。国の登録有形文化財です。

入口には源内さんがオリーブと間違えて持ち帰ってきたというホルトの木がありました。

受付に声をかけるとスタッフの女性が薬草茶を出してくださって
旧邸についても説明してくださいました。
こちらは旧邸ということですが権太夫さんの孫にあたる松三郎さんが1862年に建て直しているので
厳密には源内さんが住んでいた家ではなく源内さんが住んでいた家があった場所、ということや
源内さんが薬草を研究していた人なので庭に薬草園があり今も研究を続けている人たちがいること、
今はドクダミが取れる季節なのでその薬効のお茶を出していること、
研究会の人たちも高齢なので少しずつしか採取できず数多くは作れなくてここでしか販売していないことなど。
薬草茶は源内健康茶というものでドクダミ・エビス草・ジュズダマ・アロエの茶葉が入っているそうで
飲んだ瞬間は濃い味!と思ったけどその後はすっきりして匂いもあまりなくて飲みやすかったです。

写真撮影もSNSアップも可だそうです!ハッシュタグも。

色んな薬草茶が売られていた。
目ぐすりのお茶を見てあの目ぐすりの木由来なのかな…などと。

土間。
天井付近に平賀源内顕彰会による絵伝が掛けられていました。

サトウキビから効率よく砂糖を取る製法の模型。『物類品隲』6巻に書かれているものですな。
牛さんに歯車を回してもらい歯車にサトウキビを挟んで絞りとるというもので
スイッチに手を触れると静電気で牛さんの模型がグルグル回ります。
静電気で模型を動かすっていうのがなんともおもしろい。

お座敷。
床の間には玄白の「あゝ非常の人~」の拓本の掛け軸がかかっていました。

薬草園。
源内が江戸で田村元雄らとともに薬品会を開催したことにちなんで1979年に作られたそうです。
栽培されている植物リストをいただきましたが約110種類もある!
薬草ってそんなに種類あるんだ…と思いましたがアロエ、大根、ハッカ、茗荷など知っているものもあれば
彼岸花や桔梗や蝋梅やローズマリーなど、普段は薬草として意識していないものもあって
どの部分にどんな薬効があるのかまったく想像がつかない…世の中知らないことばかりです。
(あ、でもローズマリーはハーブティーとかでいただいたことがあるかな)

薬草園の中にある源内焼の窯。
源内さんが残した二重窯の記録をもとに小ぶりな窯を制作して設置したそうです。

平賀源内記念館へ。
源内さんの生涯について、様々な展示物から紹介されています。
平賀家の家系図やお神酒天神(レプリカで体験できます)、高松藩での仕事や本草学、
蔵書(ほぼ洋書)、長崎遊学の様子や手紙、伊豆の芒消、秩父鉱山と火浣布、秋田蘭画、
国倫織、油彩画、薬品会と物類品隲、戯作、エレキテル、杉田玄白や大田南畝との交流、
近代にアメリカの雑誌に紹介された記事まで様々。
出発点は本草学なんだろうけどありとあらゆることに手を出しては途中でやめているので
何者って定義するのが難しい人だな~と常々思っているのですが
故郷への手紙などを見ると秩父で金を発見した際は「国益になる」とか書いてるので
国のために何かをやり遂げたかったのかなあと思う。
たぶん知れば知るほどどういう人なのかわからなくなる人じゃないかな…研究魂がたぎりそうな。
レプリカのお神酒天神の掛け軸、紐が2本下がっていて片方を引くと天神さんの顔が赤くなって
片方を引くと元に戻るという仕掛けですが、ずっと体験してみたかったので楽しかった^^
エレキテルの体験もあって、ハンドルを回して静電気を起こして蛍光灯をパチッとさせるもので
スタッフさんに教えていただきながらやってみましたら
手で持った蛍光灯にパチッと電気が通ると平手打ちされたような衝撃がバシッと手のひらに伝わってきて
これが発電の力か…と思いましたね。
パチってくるだけでもこうなんだからそりゃ感電したら人間吹っ飛んだり死んだりもするわな、とか。
源内さんは奇術として紹介しているのでエネルギーとして考えていたかどうかわかりませんが
自分がいなくなった100年後くらいの日本で電気がエネルギーとして使われるようになり
現代では欠かせないインフラのひとつになるところまで想像していたかどうか…。
早く生まれすぎたのか、遅く生まれたとしてもやっぱり非常の人扱いだったか、さて、さて。

高徳線に揺られて高松へ戻りながら、屋島でちょっと下りたくなった。
でもこのときかなりの土砂降りだったのでやめました…ぐぬぬ。

屋島駅に停車したとき車内からパチリ。
ウアァン行きたかったよう。
ホテルに着いたとたん疲れがどっと出て(たぶんこんぴらさんの昇り降りだと思う)、
次の日の準備だけして早々に寝てしまいました。
次回記事では京都で訪れた場所のレポをお届けします☆
スポンサーサイト