平氏が拠点を置いていた京都の六波羅蜜寺と、小野篁ゆかりの六道珍皇寺が
位置的に結構なご近所さんだったことに今更のように気がつきまして
「え、てことは清盛は篁のこと知ってたか、もしくはこのあたりに昔そういう人がいたらしい的なことを
聞いてたりするんじゃないの」とか考えて脳みそが沸騰しかけたゆさです、こんばんわ。
いやーあれは不意打ちだった、機関車みたいに頭から蒸気出るかと…。ぷっしゅー。
清盛が六波羅という土地について言葉を残していないだけに気になります。
うおぉどうなんだろう。
日本史をざっと歩いてみるだけでも、小野篁を知っている人物に当たる確率はわりと高いです。
同時代人は言わずもがななので省きますけど
少し下った時代の有名人に限ってもいいですが、まずは菅原是善・道真親子ですか。
菅原是善は篁と同年代で、同じ文系人間で、詩も歌もやる人だったから
是善と篁は友達としても仕事の同僚としても付き合うことはあったんじゃないかと。
で、篁の没年が852年で、道真の生まれた年が845年だから
つまりその、
談笑する篁と是善の間に小学生くらいの道真がいたかもしれない。
落ち着こう。すーはー。
さらに下って、紀貫之は『古今和歌集』を編集する際に篁の歌をいくつか入れているし
紀淑望は真名序で篁の名前を出しているから(彼の評価だと篁は「風流のある人」とのこと)
2人とも知っていますな。
ただ、2人が生まれたのは篁がいなくなってから20年近く経った頃なので
道真みたいな親世代にあたる人たちから聞いたり
歌集を読んで「こんな人かなぁ」とか思いを馳せるくらいに留まるだろうけども。
貫之のいとこの友則は、生まれた年がはっきりしていないのですが
研究者によると道真とそう変わらない年代っぽいので
篁の顔を見たことはなくても、そういう人がいるらしいことは少年時代に聞いていたのでは。
壬生忠岑と凡河内躬恒も古今集の編纂に関わったから篁の歌と人物像は知っていると思う。
紫式部は篁より200年ほど後の人になりますが、
『源氏物語』の若菜巻に篁の名前をちらっと出しているから知っていたよね。
篁の物語を収録している『江談抄』や『今昔物語集』の編纂者も
篁の文章を収録している『本朝文粋』の撰者である藤原明衡も
篁の詩を収録している『和漢朗詠集』を編纂した藤原公任にも知られてる。
さらに下って藤原定家が『新古今和歌集』と『小倉百人一首』に
それぞれ篁の歌を入れているから、彼は間違いなく知ってる。篁の歌から本歌取りもしてるし。
あと、定家と同時代の人で明恵というお坊さんがいますが、
彼のお弟子さんが書き残した『明恵上人伝記』の中に
「詩を学ぶなら白楽天か小野篁を学びなさいと上人が仰った」という内容のことが書かれているから
明恵にも知られていたことになりますね。
『扶桑集』『今鏡』『河海抄』にも作品が収録されているから、その編者や作者たちも知ってるはず。
それから、後鳥羽天皇と後醍醐天皇も篁を知っていた可能性があります。
2人に共通する人生の事柄として隠岐島への流罪が挙げられますが
篁は後鳥羽よりも400年ほど前、後醍醐より500年ほど前に隠岐へ流されているので
2人が篁の噂を聞いたこととかあったらいいなと思っています。
自分よりずっと前に来た人ってどんなだったんだろう、みたいな。
(ちなみに後鳥羽たんは篁の例の歌から派生歌をいくつか作っていたりする)
13世紀成立の『宇治拾遺物語』は誰が編纂したのかはっきりわかってはいませんが、
「小野篁広才事」という一章が収録されているからきっとその作者も知ってるね。
他には…あ、いきなり時代すっとびますが、塙保己一。『群書類従』に小野氏の系図を入れています。
鈴木春信は篁や孫の道風の絵を描いていますし、
葛飾北斎も絵暦や絵解き百人一首の中で篁をちらほら描いてるし、
歌川国芳も篁と閻魔様の絵を描いているし。
あと、江戸時代の寺子屋の往来物に『小野篁歌字尽』や『合書童子訓』というのがあるから
寺子屋に通う子どもたちも、篁の人物像を知っていたかどうかはわからないけど
篁の歌をそらんじていた可能性はあるわけだ。
小倉百人一首のかるたが庶民に流行し始めたのもだいたいこの頃だったはず。
幕末以降から現代までで何らかの形で篁を知る人はたぶん歴史家か研究者か小説家か
わたしみたいなファンか、百人一首で歌を知っているか…。
あ。百人一首で思い出したけど
わたしは読んでないんですけど漫画『ちはやふる』の中で篁の歌は出たことあるのかな…
アニメイベントのかるた大会で詠まれたのは聞いたんですけど。確か声優さんが札を取っていたはず。
そういえば篁を神様として祀った小野照崎神社というお社が東京の入谷にあって
樋口一葉が『たけくらべ』に同社の名前を出しているのを最近知ったのですが
一葉もお参りとかしたことあるのかな…家が近所だったし。
他にも、京都に住んでいた上村松園が六道珍皇寺を訪ねたことがあるらしいし
澁澤龍彦も紀行に六道珍皇寺へ行ったこと書いてるから(さんざんな評価ですけど)知ってるよね。
歌人としても詩人としても評価されている人だし、地元の人やゆかりの地の関係者とかも考えると
今もそれなりに篁を知る人口は多いということだろうか。
歴史上の人物の周辺から小野篁の名前を見つけるたびに心臓がジャンプする癖があります。
良かった忘れられてないじゃん、すばらしい!めでたい!覚えていてくれてありがとう!!とか
どうしようもなく燃える。いや萌える。

歌人シリーズ24。23はこちら。
甲斐へ単身赴任する躬恒のために、こつこつ準備したお祝品を見せる貫之の図。
貫之「袷。一子が綿たっぷり入れてくれたから、あったかいぞ。それから反物と、薫物と、これは薬玉。あっち着く頃には端午の節句だろ」
躬恒「えー、いいの、こんなに」
貫之「持ってけって」
躬恒「ありがとー」
貫之「権少目だし、あっちじゃこきつかわれるだろうが、手紙よこせよ」
躬恒「もちろんだよ。毎日でも書くって。戻る時にはお土産持ってくるね」
貫之「待ってる」
躬恒「何がいい?甲斐ってお酒うまかったっけ?生物じゃ腐るし」
貫之「何でもいいさ、怨霊くっつけてこなきゃ」
躬恒「うわ、やめて!シャレになんない」